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ジョン・ディーコンの半世紀


(10)全米ナンバー1ヒット達成 〜時代への完全なシンクロ

クイーン・プロダクション設立に際し、マネージメントの中心的役割を担ったジョンは、「世界に捧ぐ」(77年)「ジャズ」(79年)では自作曲を2曲もアルバムに提供するようになるなど、作曲面でもバンド内での立場を徐々に確かなものにしてゆきました。

クイーンの特徴のひとつは、他のグループにありがちな、ボーカル&ギタリストという目立つ2人による巨頭体制を敷いているかにみえて、内実は4人それぞれがお互いの個性を尊重し、個々の趣味を生かして作曲に取り組める自由度があったことだと思います。ロジャーの場合はファースト・アルバムから、フレディやブライアンのテイストに拘らない曲を提供していましたし、ジョンも自分好みの分野で曲作りの腕を磨く場を与えられていました。無論その「自由度」の捉え方は、横一列にまで力を拮抗させたい向きと、趣の異なる曲はオマケとみる向きとでは、意識の面で微妙なズレがあったかもしれません。が、曲数やヒット数の上で差が歴然としていたからこそ、フレディやブライアンも度量の大きさをみせることができ、そしてそんな2人の余裕がリズム隊の作曲能力を育んだことで、最終的に全員がナンバー1ヒットを飛ばすまでに至ったような気がします。

79年、フレディ作の今までにない曲調(ロカビリー)の『愛という名の欲望』が全英2位、全米で1位に輝きます。この曲のヒットが、チャートの上でのクイーンの絶頂期のさきがけでした。80年6月に発売されたアルバム「ザ・ゲーム」は、全英だけでなく全米市場でもナンバー1ヒットを記録します。このアルバムが人気を博したのは、『愛という名の欲望』以外にも『セイヴ・ミー』『プレイ・ザ・ゲーム』といった収録曲が、アルバム発売前にシングル・カットされており(全英)、馴染みやすくなっていたこともひとつの要因でしょうが、特に今まで業績が今ひとつだったアメリカで息の長いヒットを収めた理由としては、39都市46回公演という、3ヶ月あまりを掛けたこまめなツアー活動が挙げられると思います(しかしながら翌年のホット・スペース・ツアーでは、しゃかりきにツアーをしまくったからといって大売れするものではないという事実を悟ることになるのですが)。

そして全米をくまなく行脚するツアーの最中に、全英では4曲目、全米では3曲目としてシングル・カットされたのが、ジョン作『地獄へ道づれ』でした。学生時代からソウルを好んで聴いていたジョンがブラ・コン(ブラック・コンテンポラリー:70年代後半〜80年代の黒人ポピュラー・ミュージック)に傾倒し、こっそり自分でも作ってみようとしたこの曲は賛否両論で、アルバムに収録してもらうだけでひと苦労したようです。満を持してシングル・カットされたわけでは無いことが、次の発言からも伺えます:「僕らのアメリカのカンパニーは、ブラック系のラジオ局に流すのに非常に効果的だと言って、すぐさまシングルにしたがった。ロジャーは猛反対していたよ。クイーンにとって、余りにもディスコすぎたし、ディスコ・ミュージックは今だに軽蔑の的になることが多かったし。グループのイメージに合わないから止めろって」(From Musikexpress&Sounds, 81年)

それでもアルバムからピック・アップされてラジオ局で流されるようになり、あのマイケル・ジャクソンがリリースを勧めもし、「売れ筋」であることが無視できなくなった結果に生み出されたこのシングルは、作曲者本人とバンドの予想を遥かに超える大ヒットとなります。手持ちのビルボード誌(80年10月18日号)によると、『道づれ』と「ザ・ゲーム」は、リリースされてから数ヶ月経っているというのにチャート1位を独走中でした(ちなみに2位はバーブラ・ストライサンド、3位はダイアナ・ロスといった面々のアルバム(曲)が入っています)。

長い目でバンドを見つめるファンと、その瞬間のみを切り取る大衆とでは、観点が違います。『地獄へ道づれ』は、クイーンの代表曲の「ひとつ」として数えられることはあっても、ファンすべてが、これがクイーン・サウンドだと満足する曲かどうかは疑問です。ですがチャートのトップに昇りつめるには、既存のファンだけでなく、時代を巻き込む力を有していなければなりません。しかも強引に時代を動かしたのではなく、味方につけ、時代と器用にシンクロしたという点で、『地獄へ道づれ』は異色であり、そこが作曲者ジョンの人となりを表しているようでもいて、なかなかに興味深い曲です。

『地獄へ道づれ』の成功は、バンドとジョンに非常に多くのものをもたらしました。栄光と自負心、そして軋轢。10年を経た中堅バンドの宿命なのか、今後さまざまな問題が表面化してくるのです。
(2004年12月11日)

続く

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