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クイーン・ファイル

MY BEST FRIEND(メンバーはこんな人)
ジョン・ディーコン
寡黙さを宿命づけられた男の雄弁なる沈黙

◆適任だったベーシスト(以下の小タイトルはすべて編集の方によるもの。恐縮です)
クイーンというバンドが4つの異なる個性の均等な(←これ重要)融合体であり、徹底した民主主義が根底にあることは、幾度となく語られ確認されてきた。しかしながら、現実にはメンバー間の知名度の差というものが顕著に存在し、必ずといってよいほど最後に位置付けられる男がいる。それがベーシストのジョン・ディーコンである。

フレディの生誕から遅れること5年(ちゃっかりフレさん基準)、1951年8月19日にイギリス北中部のレスター州に生まれたジョンの初めての楽器は、7歳の誕生日に買ってもらったプラスチック製のギターだったが、しばらくは彼の興味は音楽よりも父親の勧めた機械いじりにあり、無線装置で遊ぶ方を好んでいた。しかし11歳の時に最愛の父親が他界。物静かで内気な少年の心に開いた大きな穴を埋め、勇気づけたのが、ラジオから流れる音楽だった。やがて自ら演奏してみたいという欲望が生まれ、新聞配達で得た収入でアコースティック・ギターを買い、学友達と練習を始める。

14歳で参加したバンド(「結成」ではないと本人が強調している)、ジ・オポジションは、細かなメンバーチェンジと改名を繰り返しながら、流行のポップ、ソウル(「Dave Dee Dozy Beaky Mick and Titch」「Sam and Dave」「The Kinks」「The Yardbirds」など)、モータウン系の60年代ヒットチャートをレパートリーに、地方のユースクラブやパブ、学校のダンスホールを地道に回るローカル・バンドに成長する。リズム・ギタリストとして始めたジョンだが、初代ベーシストの腕前が余りにもお粗末だったことが原因でまもなくベースに転向することになり、18歳で地元オードビーを出て、ロンドン大学の分校であるチェルシー・カレッジに進学するまでバンド活動を続けていた。

大学初年時は電子工学科で勉学に励んでいたものの、やがてギグ通いの傍ら学友と再びプレイを楽しむようになり、広告を見て何度かオーディションを受けては不採用の通知を受け取っていた。そして1971年1月、友人と出かけたディスコで偶然ブライアンとロジャーに紹介され、ベーシスト募集の件を知る。オーディションを経て、数日後クイーンに正式加入。自己主張の激しいベーシストと決別を繰り返していた3人が欲しかったのは、ベースの腕前は当然のことながら、自分達と軋轢を生じない謙虚さを持つ人材であり、その意味で、堅実なベース・プレイに加えて温和な性格をも併せ持っていたジョンは、まさに適任だったといえる。穏やかであること、目立たないことは、初めから彼に求められていた資質であった。

ここで特筆したいのは、元来が控えめな性格とはいえ、ジョンは決しておとなしく他人に追従するだけの人物ではないということである。第一級名誉学位を取得することになる頭脳の切れと音響機材への明るさは、彼にそれだけの自尊心をもたらしていただろうし、少年時代、年上のメンバーが用意した衣装に猛反発し、「僕は着たいものだけを着るんだ!」とにべもなく拒絶したという逸話も残っている(『これじゃまるでホモの集団じゃないか。僕は着たいものしか着ない』 by "The Early Years" CHAP.1 [4]。そんな彼が、寡黙さを無条件に課せられたにも関わらずそれを受け入れたのは、バンドの示す壮大なビジョンと、民主主義を貫こうとする姿勢に惹かれたからではないかと思われる。後年「もし僕がただのベース・プレイヤーだったら、こんなに満足していないだろうな」と語るように、ジョンにとって幸いしたのは、独断的なエゴを持つかに見えた年上の3人が聞く耳を持ち、ごく初期の段階から、役割分担によってメンバー間の平等性を保つ方針を敷いたことだろう。作曲やステージ演奏等の目に見える部分だけではなく、全てを自分達で掌握しようとする貪欲な彼らの中にあって、後にジョンは財政面を任され、手腕を振るうことになる。

オードビー時代はカヴァー曲の演奏がほとんどであり、作曲経験が皆無だったジョンだが、修士号取得を諦めバンドに専念することに決めた時点から、作曲にも積極的に関わるようになってきた。第3作〈シアー・ハート・アタック〉でのポップで小気味良い(そしてスケベな)《ミスファイアー》を皮切りに、第4作〈オペラ座の夜〉に収められた《マイ・ベスト・フレンド》で自作2作目にして全英7位のシングル・ヒットを放ち、才能を開花させてゆく。ロック色の強い他のメンバーに比べて、少年時代にポップ・ソウルに夢中だった彼の作風は、クイーンの音楽的スタイルの発展に多くの影響を及ぼしたといえるだろう。コンポーザーとしてのジョンの頂点は、全英及び全米でトップの座に登りつめた第9作〈ザ・ゲーム〉の立役者にもなった、全米1位シングル《地獄へ道づれ》であるが、その他にもアルバム毎に《永遠の翼》《ブレイク・フリー(自由への旅立ち)》等の良品を寄せており、寡作ながらもシングル・ヒットを効率良く飛ばしている(効率と要領の良さは何かにつけて特出している)。ジョンの手による曲は、平易な言葉で素朴な優しさを感じさせてくれるものが多く、英語が堪能でなくとも心に伝わり易い。その辺りがクイーンの普遍性、エンターテイナーとしての姿勢をうまく具現化しているといってよいだろう。

クイーンのオーディションを受けた際にはリッケンバッカーを使用していたという話があり(彼のお気に入りのベーシストの一人はイエスのクリス・スクワイアである)(しかも「弾き語り」をしたという驚きの逸話もあり)、他にも使用ベースは何種類かあるが、ジョンが最も愛用していたのはフェンダーのプレシジョン・ベースだった。ベースを中心に捉えるのではなく、常に楽曲全体を把握して曲作りに関与すると言う彼のプレイには、目立つソロはほとんど存在しない。だがそのオールマイティなプレシジョンから奏でられる堅実なリフ、他の楽器と絶妙に絡み合うベースラインは奥が深い。

◆3人のソロへの協力者
ところで、ジョンの認識度が4番手に甘んじてしまう理由の一つに、ソロ活動が極端に少ない事実が挙げられる。唯一の大掛かりなものといえば、1986年、映画「Biggles」(悲しいことに日本未公開)のサントラ用のためだけに即席で作ったユニット、ジ・イモータルズのシングル《No Turning Back》(悲しいことに当然日本未発売)だけといえよう。おそらくこの本でもそれはメンバー毎のディスコグラフィーに現れてしまうのではないかと危惧するが、ある意味でバンドからの逃避と受け取れるソロ活動が少ない事で紙面を占める割合が減り、ひいてはクイーンの中での位置が低いと見なされる可能性があるのは、個人的にはいささか遺憾である。ジョンがソロ・アルバムを作らないのは歌が歌えないから、というのが通説だが(本人曰く「アルバムではバック・ヴォーカルも入れたことがない」そうである)、他にも言葉を拾ってみると、ソロ活動をバンド内で生じたストレスや未消化なものの発散の場として捉えていること、長らく財政やビジネス面を担当してきたせいで、ソロに係る大きな責任や労力が先に脳裏に浮かんで躊躇してしまうこと、彼自身はクイーンとしてやっていくことに一定の満足感を得ていること等も読み取れる(しかもインストゥルメンタル・アルバムは嫌でボーカルを入れたいらしい)。ジョンのソロ活動の少なさは、それだけクイーンの活動にのみ心血を注いできた証であると、ここで明言しておきたい。ただ、他の3人のソロ活動には誰よりも積極的に協力しており、ロジャーの〈ストレンジ・フロンティアー〉(1984年)、ブライアンの〈バック・トゥ・ザ・ライト−光に向かって−〉(1992年)にそれぞれ1曲づつ参加、そして他メンバーのソロ作品中、自ら「最も好きなアルバム」に掲げるフレディとモンセラ・カバリエのコラボレーション・アルバム〈バルセロナ〉(1988年)でも、《ハウ・キャン・アイ・ゴー・オン》でベースを演奏している。

◆クイーンを守る男
さて、ここ日本は、世界に先駆けてクイーンを見出したと自負する国である。だが一方で、ジョンが正当に評価されない原因の発端は、日本にあったのではないかと思える節がある。数多の雑誌で大々的に彼らの特集記事が組まれていた70年代、何の変哲もないバイオグラフィーでさえ、他の3人に比べてジョンだけがしばしば狭いスペースに追いやられていた。アイドル並の人気があった初期、バンドの末っ子的存在として売り出されるべき男が初来日時には既に妻帯者だったことも影響しているのだろうが、その事実が公になった後も対応の改善は余り見られなかった。彼が才能を開花させ、紛れも無い4分の1として君臨した80年代には、もはや日本は彼らに以前ほどの興味を持ってはいなかったことも痛い事実だ。初期の音、初期の彼らが定着してしまった故なのか、ジョンに「常に一歩下がった存在」「ひっそりと片隅で演奏するベーシスト」といったレッテルを貼り続けたままのこの国が「恩人」を名乗ることには、甚だ懐疑的である。(かといって「なんだかヘンなオヤジ」というイメージが定着しても困るのだが)

もっとも、評価の低さは日本に限った話ではない。特にアメリカでは《地獄へ道づれ》の大ヒットの栄誉が《ブレイク・フリー(自由への旅立ち)》の女装PVで相殺され(直接ジョンに非があるとは思えないのだが)、つい昨年も、アメリカ本国では名誉なこととされるロックの殿堂入り授賞式に、ブライアンやロジャー、それにフレディの母親まで出席したにも関わらず姿を見せなかったという理由で、ファンから非難が集中する有様だった。残念だが、これは故無きことではない。意見があれば明確に述べることが美徳とされる国において、特にフレディ他界後の彼の寡黙すぎる態度は、容認し難いものに映るのだろう。攻撃されるか、体よく無視されるか。内外の事情はそのどちらかである。

しかしながら先にも述べたように、ジョンの寡黙さは、バンドから課せられた役割といえる。その宿命を享受した瞬間から、沈黙が時として雄弁であることを、彼は誰よりも知っているのではないだろうか(そして自分がひとたび雄弁になると何かと騒動を巻き起こすということも知っているはずなのだが、これはたまに忘れるらしい)。フレディ亡き後のブライアンとロジャーが奥歯に物が挟まったような活動をせざるを得ない原因は、ジョンの沈黙にあるような気がしてならない。あるいは彼ら自身、何をしてもそれはソロ活動の一環であると、ジョンの沈黙こそが、クイーンとは何であるかが守られる防波堤だと、解釈しているのではないか。(要するに、ジョンがいないことで、2人は『クイーン』を「大っぴらに名乗れずもどかしい」のか「名乗らずに済んでほっとしている」のか、両極端なパターンを推測している) 「今何をしているんですか?」「なぜ出てこないのですか?」10年もの間進退が取り沙汰されるこの事態に、これ以上明快な理由はないのにとばかりに、彼は例のモナ・リザのような謎めいた笑みを浮かべているのかもしれない。そしてその雄弁なる沈黙を解読しようと躍起になるファンは、世界中に確実に存在している。


メンバー紹介用ということで、なるべく私情を交えずに書かせてもらったつもりだが、結構言いたい放題かもしれない。EMI内のオフィシャル・サイトのバイオがベースなので、似ている部分はご容赦のほどを。この文章が、それぞれの方が独自にジョンについて資料を漁ったり推測を巡らせたりするきっかけの一つになってくれるものであって欲しいと願っている(その上でサイトに来てツッコミを入れてもらえるとなお嬉しいっすね!)。


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