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ニュー・ルーディーズ・クラブ vol.28

笑顔の奥に隠されたもの ―私的ジョン・ディーコン論―

その人は見るからに奇妙だった。 ブダペストの街並みで、ちびた煙草を片手に同じ場所をふらふらと前後にさまよい、少女にちょっかいを出す無精髭の男。オーラのかけらもなく、無理がある笑みと何かに疲れ切ったような不安な瞳を泳がせる彼からは、正視しがたい雰囲気が漂っていた。(☆「辛くて」というより「恥ずかしくて」正視できないのかもしれないと最近思う。)

それが、クイーン一の常識家、温和な表情を崩さない家庭人、動じないこと岩のごとしと言われるベーシスト、ジョン・ディーコンを目にした最初だった。10年前のことである。

大学1年の夏、駅構内に売っていた500円相当のベストセレクションを入手した時から、クイーンの音楽は私の生活に入り込んで来た。(☆一緒に買ったのはCCRのベストだった。)上記の「マジック・ツアー・ライヴ」を買ったのもその頃だ。それまでに見たビデオと言えば、デビッド・ボウイの華麗なグラス・スパイダー・ツアーだけだったこともあって、運動靴の髭のおっさん・フレディが汗を飛ばしながらステージを闊歩する姿にまず仰天し、感動した。 (☆編集段階で「感動した」という言葉を挿入して頂いたことに後で気が付いた。しかし実際は、フレディの姿に仰天はしたものの感動はしていなかった。フレディごめん。) (両親は真夜中に独りでそれを見つめていた娘の姿に仰天したらしいが。)一風変わったギターを持ったのっぽさん・ブライアンのプレイも、これまたキマッていた。そして金髪ドラマー・ロジャーのロックンローラー振りに、面食いな私はすんなり惚れた。曲もツボなら、メンバーもツボ。なのに一人だけ、明るく健全な調和を乱している人物がいる。地味に隅にいるかと思えば、Tシャツ短パン、引きつった足さばきでうろうろ。一体何なんだこいつはと、頭の隅にこびりついたのが、ジョンその人である。

ドキュメンタリー「栄光の軌跡」でも、彼は奇妙だった。マジックツアーの後も肯定的、楽観的にバンドの将来について語る3人とは逆に、「私は人生で最も不安定な時期にいるんだ。音楽業界などという不確かなものに属しているからだろうね」などと、落ち着かない様子の独特の早口で囁くジョンを見て、この人はもうすぐ辞める。それでバンドも解散してしまう、なぜかそんな思いがよぎった。見たのは91年の秋のことだが、私はまだ彼らが当時直面していた事の重大さに全く気づいていなかった。それでも何か末期的な匂いを数年前の映像に感じた。

そしてまもなくフレディの死を知り、涙目で見た追悼コンサートにおける彼の様子が、私をジョン・ディーコン分析に駆り立てる原動力となる。主役といってよい立場なのに、カメラにほとんど映されていないことも原因だったかもしれないが、 (☆当時WOWOWで放映されたヴァージョンは市販の物とはかなり違っていて、ジョンはほんっとに映っていなかった。) 最初の一声だけで後は表に出てくることもなく、どこかそっけない態度のまま社交辞令のような笑顔を浮かべるジョンに、不謹慎な苛立ちを覚えた。

彼にとって、フレディって、クイーンって何なのだろう…何だったのだろう。

先に挙げたような彼に対する既存の人物評を知ったのはずいぶん後のことだった。つまるところ私は最も「らしくない」ジョンを先に見てしまったことになる。しかし、かえってそれが幸いしたかもしれない。一見分かりやすそうでいて、個性派揃いのクイーンの他の面々と比べても何ら遜色のない謎めいた複雑な人物に間違いはない訳で、固定観念はなるべく持たない方がよかった。(☆そこまでくどく弁明せんでも。)

疑問と、少しばかりの不信感、そして単純に好奇心を抱きながら、私はジョンの足跡を辿っていった。

1971年、オーディションで採用されたジョンにとって、クイーンはしばらくの間、自分のバンドといえるものではなかった。少年時代ポップ・ソウルに凝っていた彼と、初期のクイーンのハードロック路線とでは嗜好の面で多少隔たりもあったろうが、ジョンは若者らしい情熱を持って、クイーンの作品を、半ばファンとして愛していたようだ。ファースト・シングルとなる「炎のロックンロール」を、今まで見たこともないくらい興奮した様子で故郷の友人に吹聴してまわったというエピソードがある。また、当時のアンケートでは、セカンド・アルバムを一番のお気に入りに挙げてもいる。実際、最初の2枚で聴ける重厚なベース音も小気味よかった。

病続きで災難だった「シアー・ハート・アタック」がブライアンの転機なら、彼の不在が或いはきっかけとなって初の自作を提供したジョンにも、この3枚目は記念すべきアルバムといえる。「ミスファイアー」は2分足らずの小品だが、その軽くて明るい曲調は、壮大でハードでミステリアスな元来のクイーンの音とは一線を画するものだった。

ミュージシャンとして生きることに半信半疑だった彼もこのアルバムを機に仕事と私生活の双方に本腰を入れ始める。勢いを感じる後の2枚のアルバム「オペラ座の夜」「華麗なるレース」それぞれに収録された「マイ・ベスト・フレンド」や「ユー・アンド・アイ」はポップの王道を行くメロディで、初々しさと愛に満ちた歌詞が耳に優しい。

マネージメントに絡む圧轢を乗り越えて自分達だけで進もうと決めた時、ビジネス面の諸問題を引き受けたのはジョンだった。アイドル然とした長髪を切り、表情に余裕と鋭さが見えてくる頃である。「世界に捧ぐ」の中の「永遠の翼」は、彼の意志に呼応するように、今までの曲調とは少し違っていた。

バーで床掃除をするサミーはいつの日か今の自分を脱皮することを夢見ている。

「翼を広げて飛んでいくんだ 遠くまで 君は自由な人間なのだから」

それまで「君」と「僕」しかいなかった彼の歌詞の世界観が急に広くなるこの曲には、歌いやすいサビと併せて、何もない透き通った青空に真っ直ぐ響いていく壮快さがある。

今ではクイーンを代表する曲は「ボヘミアン・ラプソディ」で、「オペラ座の夜」が最も有名なアルバムだと言われることが多いが、全英そして全米でチャート1位を勝ち取った唯一のアルバムは「ザ・ゲーム」で、その人気の根源の一つは「地獄へ道づれ」、ジョンの曲だということも事実である。もっとも、当の本人は自作がこれほど流行するとは思っていなかったらしく、随分驚いていたようだ。シックの「グッド・タイムス」との類似を指摘されてかなり気分を害していたという(個人的には、あまり似ているとは思えない。むしろその後彼がマン・フライデー&ジャイブ・ジュニアというユニットで作った「ピッキン・アップ・サウンズ」の方が、「真似ってのはこういうのだよ」と開き直っているような音に聴こえる)。

「ジャズ」、「ザ・ゲーム」、「ライヴ・キラーズ」そして「フラッシュ・ゴードン」のサウンドトラック。ファンとしての好みはどうであれ、この時期はバンドにとってもジョンにとっても絶頂期といえるかもしれない。上半身を露わにした黒レザーパンツのフレディの後ろに立ち、さらに短くなった髪で、ネクタイ・スーツ姿でプレイすることもあった彼は、ミュージシャンというより闘うビジネスマンといった風情だ。

またこの頃には他のメンバーとも対等以上に渡り合うようになっていて、「ボクがいなければクイーンはまとまらないよ」と、インタビュー後のオフレコ時ではあったが、自信ありげに豪語してもいる。

しかしその自負が打ちのめされたのが、早すぎた異色作「ホット・スペース」だった。フレディと自分のブラック・ファンク好みを前面に押し出したアルバムは不評を買い、自作「バック・チャット」のシングルカットも不信で、おそらく、以前からくすぶり始めていたメンバー間の確執をも深める要因になったのだろう。ブライアンとロジャーは彼らを名指しで非難し、皆で納得して作ったはずなのに責められるのは心外だと考えていたらしいジョンも、このアルバムが失敗だったことを認めている。(やり手になってきても、基本的には事勿れ主義の弱気な人であるのかもしれない。)そしてそれは一貫してこのアルバムを擁護していたフレディを孤立させることに繋がり、バンドは1年の休養をとる。(☆実際は半年。)

休養後、恐ろしく大きなアフロヘアーを揺らせて(彼ほど髪型を変え続けたメンバーはいない)、「ザ・ワークス」を掲げて表舞台に出て来たジョンからは、力みとともに、貪欲な情熱も消えていた。

肩の力を抜いたメロディとは裏腹に「逃げ出したい」と切に訴える「ブレイクフリー」は、女装ビデオのイメージが強烈でとかくキワモノ扱いされがちだが、(特にアメリカでは「地獄へ道づれ」のヒットを帳消しにする曲ともいわれている)、私はとても好きだ。「嫌なことがあっても笑顔でいるように心がけている」というジョンの心の奥の叫びをふと感じたりする。逃げ出したい、自由になりたいと願っていても、人生はそのままの状態で続いてゆく。「永遠の翼」もそうだった。「翼を広げて飛んで行け」と彼はいう。しかし彼自身は、いつまでも地面に縛られたまま空を見ているだけなのかもしれない。そんな無常感を、どちらも素直なメロディが穏やかに包んでいる。

彼らを国民的バンドに位置付けたのはライヴ・エイドの成功と「カインド・オブ・マジック」だった。このアルバムでジョンは、フレディとの共作を含めて3曲続けて自作を披露している。実をいうと私は最初、その3曲がネックで退屈してしまっていた。それぞれは佳作揃いなのだが、続けて聴くと、クイーンが本来持っていた「闇」の部分(「毒気」ともいえる)の欠如に気づく。それが物足りなかった。(☆当時はB面ばっかり聞いていた。)実際、アルバム作成当時はメンバーはバラバラだったらしい。誰が手を抜いても、誰が突出してもそれはクイーンではないのだと実感した。しかし彼らは過去最大級のマジック・ツアーを敢行し、人気は不動のものになった。

そして、ツアー半ばのブダペストでのライヴ。私が初めて出会ったジョンは、ストレスで極限状態にいたのだという。愛妻ヴェロニカとの別居すら考えた、殺伐とした私生活の原因は定かではないが、長期に渡るクレイジーなツアーに伴うプレッシャー、家庭生活との深まるギャップが彼を追いつめたのかもしれない。反射的に笑顔を浮かべる彼はそれを途絶えさせはしないが、この時の貼り付いたような笑みは辛い。

だが、今だから思う。何事も見落とさなかったとされるジョンは、この時すでに「何か」を予感していたのではないか、と。「何か」とは、フレディを襲う、バンドの運命を急転回させる悲劇である。

「たとえどんな運命が待っていようと 残された日々を精一杯生きるんだ」と、人生の悲哀を優しいメロディで仕上げた「喜びへの道」や、「希望がなくて もう駄目だと思ったときは 手を差し出すんだ 友達はいつだって友達だよ」と歌う「心の絆」のような曲をフレディと共作したのは、偶然だったのか。更に、時期はほんの少し先になるが、フレディとモンセラート・カバリエの壮麗なアルバム「バルセロナ」で、「How Can I Go On」という、ポップでいて切なく心に染みる曲でベースを担当したのは、偶然だったのだろうか。(☆妄想モード全開の書き方で申し訳ない。)

公式には、メンバーの誰もがフレディの病に最後まで気づかなかったとされている。しかし私のような一ファンでも、「ザ・ミラクル」収録曲のビデオクリップには胸を衝かれる。

初めてリアルタイムで買えたアルバムは「イニュエンドウ」で、その名状し難い迫力に圧倒された記憶があるが、ジョンの貢献度からいえば「ザ・ミラクル」こそが渾身のアルバムだと思う。何よりも、エネルギッシュで前向きな雰囲気が、一度も悲しげな曲を書かなかった彼の音楽性に合致しているような気がする。

彼のプレイで好きなのは(楽器には疎いのでうまく表現できないのが残念だが)、ふとした途切れに、まるで歌っているかのようなメロディアスなベースを奏でるところである。その特徴がこのアルバムには沢山現われていて、音もかなり目立っていた。彼のベースが入るだけで、曲が柔らかくなるようでもある。アルバムは異なるが「愛の結末」のブライアン版とクイーン版を聞き比べてそれがよく分かった。ブライアンとフレディの声質の違いも大きいが、ジョンのベースの有無もこの2曲の雰囲気をがらりと変えている。

1991年11月24日を境に、ジョンの存在は希薄になった。追悼コンサートへの参加すら渋っていたと言う話もある。

ひどく冷淡に見えた彼を何度となく見直した結果、あの不自然な笑みは、溢れ出すと止まらない感情を極度に抑え込んでいる為ではないかと考えるようになった。静と動、光と影。常に対局にいるようでいて、フレディと一番近いのはジョンだったのかもしれない、と。11歳で父を亡くした時、ショックの余り以前の記憶がほとんど無くなってしまったという彼は、それ以来、沈着冷静・悪く言えばニヒルで冷淡な鎧を心に纏い、表面上は温和な笑顔を見せて、脆い自分を守って来たのではないか。ステージを降りると途端に内気で繊細な人間に戻ったとされるフレディとの共通点に思いを馳せる。

その後ブライアンとロジャーは、クイーンの名に縛られながらも、自らの音楽を創造する事を選んだ。そしてジョンが選んだのは、新たに2人の息子を授かり、家族と共に生きる道だった。

97年に作られた新曲「No One But You」のビデオに現れたジョンの姿は嬉しかったが、何かが曖昧だった。最後のカットで彼はブライアンとロジャーを交互に見るが、まるで第三者のような目をしている。それはフレディ存命中最後のビデオクリップとなった「輝ける日々」での、悟りきった深い視線とは明らかに異なっていた。このような言い方は語弊を招くかもしれないが、あの時の彼は間違いなくクイーンだった。あくまで内側から、全てを静かに見つめていた。だが「No One…」の彼は、ふわりと漂ってくる「誰かの存在」よりも遠かった。

フレディの死後、唯一ジョンが語ったとされる言葉を引用すると、こうである。

「僕らに関する事ではっきりしているのは、続けていく理由なんてないってことだ。フレディの代わりなんていやしないんだから。」

昨年出された「グレイテスト・ヒッツ3」には新しい「アンダー・プレッシャー」のリミックスが収録されていたが、作ったのはブライアンとロジャーの両名だった。彼らが公私共にメディアを賑わす中、「自宅にいる」としか情報がないジョン。(☆「おねーちゃん一杯のパーティーに出ていた」「車を競り落とした」等の「快/怪」情報も出てきた。) 第二の道を幸せに歩んでいてくれるならそれで良いと思う。音楽人生のほぼ大半を、希有な才能を持つヴォーカリストと過ごし、彼の声を引き出す為だけに曲を作ってきたと言ってもよいジョンが翼をたたむのは、身勝手なことではない。

だが、同ビデオクリップ集の中で、「バレエ・フォー・ライフ」のプレミアにおいてエルトン・ジョンと共にステージに上がったジョンの3年前の「最新」映像(☆正確には「No One…」のPVの方が「最新」である。こっち1月、あっち秋。)を見て、胸が痛くなった。ベースを奏でるジョンは、やはり何よりもカッコよかったから。一度でもいいから、この目でそれを見てみたい。新しい彼の曲に触れたい。捨て切れない思いが溢れた。

ジョンにとってフレディ及びクイーンとは何だったのか。最初に挙げた問いに対する答えはまだ得られていない。いつか本人とばったり出会って、お茶でも飲みながら昔語りをしてみたいものだと思う。(今でもイギリスの長者番付に載るくらい著名人なのに、そういう無茶な野望を抱かせてくれる雰囲気が彼にはある。)

再評価されつつあるクイーン。フレディを主に据えた伝説には限りがないが、ジョン・ディーコンをより深く知ることで、新たな側面が見えてくるのではないかと、私は日々夢中になって彼を追っている。(☆今も懲りずに。)


特集記事が組まれると知り、「誰かジョンのこと書いてくれるかなあ。ワクワク」から「もし誰も何も書いてくれなかったらどうしよう」になって結局自分で投稿してしまったのが去年の5月初めのこと。1年経ったから載せちゃえと思ったがやっぱり自分の文章は赤面する。カッコつけてて。くどくて。それでも発行された時は嬉しくて、簡単な英語の説明を付けてイギリスに送り付けてしまった。さすがに恥ずかしいので自分のは「いつかばったりあってお茶でも飲みながら昔語り」の件しか訳さなかった(それもある意味恥ずかしい)。半年ほどして返事が来たので届いてはいるらしい。


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