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ハニーレモンの香る夜は…

凍るような冬の夜、張り込みを終えたバタピー刑事は家路を急いでいた。
立ち並ぶアパートのカーテンの隙間から漏れる暖かそうな光をぼんやり眺めながら
歩いていると、この寒さだというのに窓が開いたままになっている一角があった。
よく見ると、窓辺でチューリップが寒そうに揺れている。
(…あれは、ドンチャック刑事の部屋じゃないか…!どうしたんだろう)
急に胸騒ぎがして、バタピーはアパートの階段を駆け登った。

呼び鈴を押しても人の気配がない。だが、明かりはついている。
そっとドアノブに手をかけると、簡単に回った。
(不用心だな…いや、まさか泥棒?)
慌てて銃を構え、いちにのさん、でドアを蹴破った彼は、
…窓辺でのびているパジャマ姿のドンチャックを発見した。
「!ど、どうしたんですかドンチャック刑事!」
とりあえず戸締まりをして、よいしょと抱き起こすと、体はひどく熱いのに、
震えていた。顔が赤く、咳もしている。誰が来たのかも分からない状態らしい。
(風邪ひいたんだ…この元気な人が)
「鬼の霍乱」なんていうことわざがふと頭によぎったものの、
このままではいけない、なんとか急いでベッドへ運ばねば、と思い直す。
しかし普通に抱き運ぶにはバタピー自身に無理があったので、少々格好は悪いが、
消防車のホースを提げる要領でどっこいせと抱えあげ、その辺にぶつけないように
注意しながらベッドへ寝かせることに成功した。
その足で台所へ向かい、水を入れた洗面器とタオルを用意する。

(えーっと、それから薬だ。風邪薬、あるかな…)
「ドンチャック刑事、聞こえますか?僕です、バタピーです。薬箱はどこに
あるんですか?」
「ううん…」
呼びかけてみたものの、頼りない反応しかかえってこない。仕方なくあたりを捜し、
一応ベッドの下までのぞいてみたが、見当たらなかった。どんなときも薬を常備
しているファイアー刑事が今ほど愛しく思えた時はない。
一旦帰って薬を取ってこようかとも思ったが、彼を一人にしておくのは不安だった。
コンコンと辛そうな咳をする彼の枕元で、額のタオルを整えながらしばらく考えて
いたバタピーは、ふと思い立って冷蔵庫へ向かった。

ドンチャックは、夢うつつの状態だった。
寒気がしたので早めに寝たのだが、急に部屋が暑く感じられて、余りの息苦しさに
ベッドを出て、窓を開けた後、そのままひっくり返ってしまったのである。
体ががくがく震えてきたが、起きる力はなかった。
と、誰かが体を抱き起こして、ベッドまで運んでくれたのがぼんやりと分かった。
額がひんやり心地よいが、喉が苦しい。

しばらくすると、耳元で声がした。とても懐かしいのに、誰だか思い出せない。
「ほら、ハニーレモンですよドンチャック刑事。飲んでみてください」
「う〜ん…」
なんだか甘酸っぱい香りが漂ってくる。ドンチャックは自分の体を背後から
支えながらコップを口元にもってきてくれる腕をおぼろげに見ながら、こくんと
一口飲んでみた。
「そうそう、ゆっくりね。これですぐによくなりますから」
それは優しく温かな味で、遠い日の母の記憶がよみがえってくるようだった。
(熱を出して寝込んだとき、よくこうやってあったかい飲み物を持ってきて
くれたっけ…)
時間がスリップしてゆく。優しかった母の笑顔が浮かんで、消えた。
「ママ…行かないで。そばにいて…」
「大丈夫。ここにいます。安心して眠って下さい」
先刻の腕が肩にそっと触れるのを感じながら、彼は穏やかな眠りについた。

『とにかく放っておけない人なんだ』
双子の兄ピーナッツは彼のことをよくそう評していた。
淡泊なところがあった兄が、不思議なくらい気にかけて、見守っていた人。
バタピーはドンチャックの枕元に大事そうに置かれているエンジェル型のリュックを
軽く指でなぞった。命を失ってなお、兄は彼を守っているのだ。
こうして寝顔を見ていると、その気持ちが分かるような気がした。すべてをそつなく
こなす強さを持っているのに、どこか危なっかしくて、はらはらさせられる。
(僕にできることなんて、これくらいしかないからな…)
熱を含んできたタオルを取り替えながら、ひどく優しい気持ちになっている
バタピーである。
(どんな人生にも多少の雨はつきものさ…レイン・マスト・フォール、
うん、なんだかいい詩ができそうな気がする)
ちょっと趣味の詩なども考えてみたりしているうちに、夜が静かに更けていった。

朝、玄関のチャイムが鳴り、バタピーはびくんと目覚めた。
うたた寝してしまったらしい。
ドンチャックはまだ眠っている。熱は引いたようだ。

ドアを開けると、マリオが心配そうに立っていた。
バタピーが出たのでかなり驚いたらしい。
目が真ん丸になり、顔がみるみるうちに赤くなる。
やましいことは何もないのだが、バタピーは自分の顔もほてってくるのを感じた。
なんとなく気まずい空気が流れる。
マリオが口火を切った。
「ご、ごめんなさい…あの…ドンチャックさんは?夕べ散髪にくる約束
だったのに、来られませんでしたから、気になってしまって…」
「ああ、そうだったの。…彼、風邪で熱があるんだ」
「ええっ、だ、大丈夫ですかっ!」
「もうかなりよくなってきたみたいだよ。…そうだ、君忙しい?
僕はこれから出勤しなくちゃいけないから、代わりに彼を看ておいてくれないかな」
バタピーの言葉を待つまでもなく、当人は既に上がり込んでドンチャックの枕元に
いた。泣き出さんばかりである。
「しっかりしてください、ドンチャックさん…」

(マリオとドンチャック刑事…)
この2人を同時に目の当たりにすると、なぜか不安になる。何か忘れているような
気がする。
それも、重大なことを。
「…じゃあ、後はよろしくね」
それだけつぶやくと、急に苦しくなってきた胸を押さえて、バタピーは部屋を
後にした。
アパートを出たとたん、目の前の景色がふうっと揺らいだ。側にあった柱をつかんで
息を整える。頭が重い。
(…なんだか、うつっちゃったみたいだ…)

胸が苦しいのはマリオも同じだった。
(あの人…たしかバタピー刑事だったっけ…なぜ彼の部屋にいたんだろう、
こんな朝早くから…まさか、一緒に住んで…?
ああ、駄目だ!何を考えているんだ僕は…きっとあの人は、
朝一緒に出勤しようと思ってやってきただけかもしれないじゃないか)
ドンチャックの枕元でもんもんと考え込む。
バタピー刑事の伏し目がちに探るような視線が、マリオを不安にさせる。
何か忘れているような気がする。

昼ごろ、ようやくドンチャックは目覚めた。
「あっ、気がつきましたか?」
嬉しそうなマリオがそばにいて、少なからず驚いた彼は不思議そうにたずねた。
「どうして君がここに…?」
そして、夜どおし感じていた優しい気配を思い出した。
(あれは、マリオだったのかな…)
「もしかして、ずっといてくれたの?」
「ええ、あなたが心配で心配で…」
マリオに悪気はない。彼だって午前中ずっといたのだから。

あたりが暗くなって、そろそろ帰らないと僕が送っていかなくちゃいけないよ、
と言うまで、マリオは甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
彼の一生懸命な気持ちに深く感動したドンチャックだったが、やはり昨晩の感じ
とは別のような気がした。
(夢、だったのかもしれないなー)

翌朝、ドンチャックが出勤してみると、部屋にはファイアー刑事が暇そうに
いるだけだった。
「やあ、君一人かい?バタピーはもう張り込み?キューピーも出払ってるの?」
「キューピーはここ数日自宅謹慎じゃないか、また派手にカーチェイスやらかした
からね。バタピーはきのう早引けして、今日は休みだよ」
「ふうん、バタピーが?どうしたんだろ、家族旅行?」
「違うよ。きのう来たときから様子が変でさ、午後になって帰ったんだが、
道端でぶっ倒れたらしいんだ。都合よく通りかかったキューピーが見つけて、
家に連れてったそうだ。なんでもひどい風邪らしいね」
「ええーっ?じゃ、今家にいるんだねっ!?」
あわてて飛び出しかけるドンチャックにファイアーが付け足した。
「家っていっても、キューピーん家だよ」
急ブレーキをかけて振り向くドンチャック。
「な、なんでキューピーの家なんだよ!?」
「自分ちだと、子供にうつるからって、バタピーが頼んだそうだ」

ドンドンドン!
「なんだようるさいなまったく。ドアが壊れちまうぜ」
くわえ煙草のキューピーがドアを開けると、顔を真っ赤にしたドンチャックがいた。
「どうしたんだ?なんか事件か?俺のレーサー並みのドライビングテクが
必要って訳?」
「ば、バタピーの具合は?いるんだろ、ここに」
「なーんだ。ああ、寝てるよ。さっき熱測ったけど、昨日からちっとも
下がってないみたいでさ。氷枕用意してるとこ」
「なんだって!? そんなに重いのに、病院に連れていかなくていいのかい?」
「大丈夫だろう。それにこう見えても、もと医学生なんだぜ俺は」
「…歯医者のタマゴだっただけじゃないか!」

心配気なドンチャックを尻目に鼻歌交じりで寝室へ入ったキューピーは、
バタピーの頭の下に氷枕を差し入れた。
「おっと、ファイアーにもらった薬も飲ませとこうかな。効いてないみたいだけど。
ほい、ちょっと我慢しろよバタピー」
そう言ってこれまた手慣れた様子で彼を抱き起こし、薬を飲ませるキューピー。
バタピーは熱で朦朧としているのか、されるがままになっている。

かなり絵になるその構図を一部始終食い入るように見つめていたドンチャックが、
ついに爆発した。
「なんでだよ?なんで君なんだよ?」
「何言ってんだよ」
「どうして君が看病してるんだよ?」
「どうしてって、見つけたの俺だし、ちょうど暇だし、家に誰もいないからさ。
俺とこは広いから、こういうとき役に立つだろ、な?」
「そういう問題じゃないよ!いつもの「暗黙の約束」はどうなってるんだよー!?」
「また訳のわからないこと言いだしてからに。帰ったほうがいいぜ、ドンチャック。
タチの悪そうな風邪みたいだから」

「…ドンチャック…?」
キューピーの言葉を聞きつけたのか、バタピーが弱々しくつぶやいた。
キューピーを押しのけてドンチャックは側へ駆け寄る。
「バタピー、僕だよ。しっかりするんだ。…えっ、なんだい?何を言ってるの?」
「…大丈夫…ずっと側にいますから…安心して眠って…」
「ああ、それ、うわごとだよ。夕べもいろいろつぶやいてたぜ。
ハニーレモンがどうのとか」
ドンチャックはどきっとした。そうなのか…
(僕を徹夜で看病してくれてたのは、バタピーだったんだ!抱き起こして、
ベッドに運んで、飲み物まで作って…ああ、どうしてもっと早く
気づかなかったんだろう…じゃあ、彼のこの風邪は僕がうつしたんだ…)
「ごっ、ごめんよ〜バタピー!」
「…いきなり謝ってどうしたんだよ?」
「キューピー、ちょっと僕たちを2人きりにしてくれないか」
目を真っ赤にしながらも、急に改まった口調で切り出すドンチャック。
「俺の家だぜ、ここ…まあいいけどさ」

ドンチャックはバタピーの額にそっと触れた。びっくりするほど熱い。
目を閉じて苦しそうな息を吐く彼は普段以上に脆く崩れてしまいそうだった。
(毎日張り込みで疲れてるのに、僕のために…)
ベッドに力なく投げ出された彼の手をぎゅっと握り締める。
「バタピー…今度は僕が君の側を離れないよ」

数時間後、また玄関のドアをたたく音がした。ファイアーだった。
「なんだ、ファイアーまで来たのか」
「僕の薬、効いたかなと思ってさ」
「効いたかなって、ぜんぜん駄目だよあれ。しけてんじゃないのか?」
「そんなことないよ。僕が処方したんだから。で、どうなんだい様子は」
「さあね、ドンチャックから締め出しくらっちまってさ。まったく、
バタピーのこととなると」

2人はそっと寝室を覗いてみた。
「わっ!」
「び、びっくりしたな〜一晩でこんな髭が生えるのかと思った」
それもそのはず、ベッドに寝ているのは…ドンチャックだったのだ。
バタピーは側の椅子に寄りかかっている。
「なにやってんだバタピー。お前が寝てなきゃだめじゃないか」
「だって、彼が横で寝ていたから、びっくりして…きっとまだ
治っていないんですよ。どうして僕の側に連れてきたんです?
また風邪がぶり返したら大変じゃないですか」
「それより君の具合はどうだい?」
「おかげでずいぶん楽になりました。さっきまでの気分と全然違いますよ」
ほれ見ろ、といわんばかりのファイアーをわざと無視するキューピーだった。
「どうやら薬も、処方した奴に似るらしいな。スローでさ」
「あの、お世話になったし、もう家に帰ろうかと思うんですが…」
「よし、送ってやるよ。そうだファイアー、ドンチャックをみててくれ」
「はいはい、分かりました」
(僕はいつもこういう役回りじゃないかな…)

「ふぁ〜疲れた。夕べもジャムってたから寝不足なんだ〜。
ここのベッドは大きくて気持ちよさそうだ。ちょっと僕も休むことにしよう。
ドンチャック、少し横にどいてくれよな」
言うなりベッドにもぐりこんで寝息をたてるファイアーであった。

「僕らはずっと一緒だよ〜ブランデーにはピーナッツ。そしてドンチャックには
バタピーなんだ…むにゃむにゃ」
最愛の人の横で安らかに眠っていたはずのドンチャックだったが…
悲劇はまもなく訪れる。

「なっ、なんで、なんでファイアーが僕の横で寝てるんだよぉ!」
「いって〜、いきなり床に落とすことないじゃないか。君のそういう感情の
爆発具合が、僕としては大いに気に入らないね」

「おいオマエら、俺んちはホテルじゃないぞ!さっさと帰れよ!」
戻ってきたキューピーは目の前の信じられない光景でかなり機嫌が悪い。


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