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ドラ次郎が行く―サクラの恋 (3)

Written by MMさん

15.そしてあいつが帰って来る

目出度い席のはずなのに、何故かどんよりとした空気が立ち込めている。
ほっとした表情のゴモクと、少し酔いが回って浮かれている牧師とは対照的に、ジムじいとサクラは浮かない顔だ。
「何です?、何か暗いですよ」。
牧師は、全然色気のないガラスコップを軽く振りながら、眉をひそめた。
「ま、飲みましょう、飲みましょう、飲めば少しは気持ちも晴れる」。
「あ、じゃ、僕一杯頂きます」。
ゴモクがコップを差し出した。牧師が慣れた手つきでシャンパンを注ぐ。
「しかし…この家には、シャンパングラスとかワイングラスなんてものは…」。
「ない」。
ぶっきらぼうに答えるジムじい。
「おちょこじゃ、ダメですよねぇ」。
サクラは、申し訳なさそうに言う。
ま、いいや、ここは団子屋なんだ…牧師は何度もそう自分に言い聞かせた。

「ところで、何で二人ともそんなに暗いんですか、折角サクラちゃんの結婚もほとんど
決まったっていうのに、二人とも変ですよ、何か心配事でもあるんですか?」。
「心配事ね…」。
「いやぁ、このサイダー、あんまり甘くないなぁ」。
文句は言うが、ゴモクのコップは空。しかも、牧師が光にすかして見ると、モエ・ド・シャンドンの残量は、予想以上に少ない。
(むむゥ!、ゴモクの話が長いから、こんなに飲んじゃったじゃないか)。
牧師の不満に気が付いたのか、ゴモクはそれ以上シャンパンは望まず、かわりに
「僕、やっぱり、ギネスにしますゥ」。
「ギネスって何だ???」。
と、小声でジムじい。
「世界記録のことぉ」。
と、自信たっぷりのサクラ…。
そして凍てつく、その場の空気…。
いかん…牧師は焦る、話を元に戻さなくては…。話の腰をこれ以上折られぬように、サクラに普通のビールを用意させた。
ゴモクにはこれでも飲ませておこう。

「で、あるんでしょ?。やっぱり心配事が」。
「心配事ですかぁ?」。
サクラとジムじいは、顔を見合わせた。まぁ、ない、といえば嘘になる。
それは肩を寄せ合って生きてきたこの二人が、常に共有してきた懸念だった。しかし何しろ、根拠がない。
果たして、信じてもらえるものだろうか…?。
「あ、これ、○リンビール?、○ッポロの方がよかったなぁ〜」。
無視!、無視!、無視!。
「牧師さん、あんた、その、虫の知らせっての、信じますかい?」。
ジムじいは、膝を揃え、神妙な顔つきでそう尋ねた。
「えぇ、まぁ、これでも一応、神に使える身ですから…」。
ジムじいとサクラは、小笠原流礼儀作法でも実践するように、二人そろって牧師ににじり寄った。
「実はね…牧師さん、私たち二人は、昔から、何の前触れもなくこの予感がすると、ほとんど100パーセントの確立で当たるんですよ…」。
「何がです?」。
「それはね…何か重たい気配がする、外が気になる、すると必ず…」。
ん?、ん?。何か地響きがする。何だろう、何だ?。このズドンズドンって音は?。え?。
突然、玄関のガラス戸が粉々に砕け散り、聞き覚えのあるあの声が轟いた。
「たっで〜ま〜!」。
どすこい!。
「や〜、すっま〜ん!、戸、ぶち破っちゃったよぉ〜」。
埃の中から現れたのは…一年前とは比較にならないほど横幅の広がった金髪男。
ドラ次郎だった…。戸の幅に体が合わず、そのまま体当たりをしたらしい。

「いやあ、みなさんお揃いで酒盛りですか?、あ〜、いいですねぇ〜、ぜひあたくしも仲間に入れて頂きたいですねぇ〜」。
彼のトレードマークの太鼓とおねえちゃんたちは、足音が太鼓の代わりになり、
体重がちょうどおねえちゃんたち二人分増えていたので、今はここになかった。
酒臭い息を振りまきながら、茶の間に上がりこみ、何食わぬ顔で酒宴に加わる。
ジムじいとサクラは首をうなだれ、牧師は反射的に、シャンパンの瓶を隠した。
ゴモクだけが、礼儀正しく正座をして、ドラ次郎に向かってお辞儀をしている。
「あぁ、お客さんでしたか」。
「いや、お邪魔してます」。
ゴモクは何も知らないので、ビールを奨めた。ドラ次郎はうれしそうに瓶を掴み、ラッパ飲みをする。
さぁ、大変だ。すでに出来上がっているのに、それ以上飲ませてどうする。
ジムじいとサクラは、すかさずゴモクとドラ次郎の間に割って入った。
「や、ドラ次郎さん、こりゃまた、ご機嫌ですな」。
ジムじいは半分イヤミをこめてそう言うと、ドラ次郎の腕を掴んだ。
「よ、ジジイ!、久しぶりじゃねぇか、元気だったか?、ん?、少しは頭の毛でも生えたか?」。
ジムじいの額に、デコピンが一発入る。
むっとしながらも、ジムじいは慇懃に声をかけた。
「さ、さ、ドラ次郎さん、もうお酒は十分入っているようですから…」。
何せ、暴れん坊である。口の悪い男である。短気である。ゴモクの機嫌でも損ねて、折角まとまりかけた話をぶち壊されてたまるか。
二人は、ドラ次郎の両脇をつかみ、互いに声をかけあって、この場から引きずり出そうと試みた。
「何やってるんです?」。
ゴモクが訝しげに聞いた。
「大丈夫なんですか?、お客さんをそんな粗末に扱って…」。
「うちはね、一杯飲み屋じゃないのよ」。
「こういう性質の悪い客は、追い出すことになってるんだよ」。
しかし…いかんせん、おねえちゃん二人分の体重が増加しているドラ次郎である。
年寄りとか弱い(とはとても思えないのだが)女の腕では、簡単に持ち上がるはずもない。
不器用に脇を引っ張られるドラ次郎としては、耐えがたき状態である。
「おい、おい、お前ら、何しようとしてんだよ」。
「さ、もう遅いですから」。
「遅いって、まだ夜の七時だぞ」。
「さ、帰りますよ、お客さん」。
「帰る、かえるゥ?!」。
酔ってはいるが、まだ人の言葉は解せるらしい。ドラ次郎は思い切り体を揺すって二人の腕を
払いのけて、叫んだ。
「帰るってどこにだ!、ここはオレのうちだぞ!」。

ゴモクが、サクラとドラ次郎の顔を交互に見る。
「オレのうちって…、ここ、あなたのうちなんですか?」。
ドラ次郎、よくぞ聞いてくださったという顔をして、ゴモクの顔を寄せる。
「そ、そうなんだよ、お客さん、ここはね、思い出ふかぁい家なのよ、いっぱいいっぱい懐かしい思い出がつまってる家なんだよ、
ね、それで理由あって長い長い旅に出てたわけ、やっと帰ってきたと思ったら…こいつら(と、サクラとジムじいを指差し)、
アカの他人のふりなんかしやがる!、やい!、てめえら!、何のつもりなんだよ、え?、
お茶の一つも出すかと思えば、さぁ、帰りましょうね、だとぉぉぉ?、っざけんなよっ!」。
ゴモクは、もっさりした頭の指を突っ込み、音を立てて掻き始めた。目は完全に点状態になっている。
そんなに飲んだ覚えはないが、どうもフラフラしてきた。
「…ってぇことは…あなたは、この家の何です?」。
「何って?」。
「たとえば…続柄というか…」。
「ゾクガラって…貝殻のことか?津軽ジョンガラ…?」。
「…じゃぁなくって、兄弟とか親子とか、いろいろあるでしょう、つまり…」。
ゴモクは、サクラを指差し
「彼女に対して、弟とか、兄とか、従兄だとか」。
「…とか?」。
「……夫とか…」。
ドラ次郎とゴモクとサクラの視線が一瞬交差する。三人の間に、世にも奇妙な光のトライアングルが形成された。
何だ、この不思議な感覚は?。怒りとも嘆きとも違う…。そう、あまりのくだらなさによる、一種の脱力感…。
サクラが独りごちた…これが夫なら、私はとっくにのし餅だ…。
ゴモクも心の中で思った…太ってるほうがいいのか…。
ドラ次郎がつぶやいた…ひげ生えてる女は勘弁してくれ…。

柱の後ろで、牧師が何やら小さく声をかけている。
「ゴモクさん、ゴモクさん…」。
「何です?」。
ゴモクが近づいて、牧師の口元に耳を寄せた。
「あのね…その人、サクラちゃんの、お兄さんなんですよ」。
「い?」。
何度も何度も二人を見比べる…何度も…しかし、
ちっとも似てないじゃないか!。
「いいんですよ、似てなくたって、細かいことを気にしてると、病気になりますよ」。
「お、お、お兄さんなんですか?、あんたほんとに!」。
ゴモクは声をひっくり返して叫んだ。ドラ次郎は怪訝な顔つきでうなずいた。
「何だと思ったんだよ、夫なわけなぇだろ、こんなそっくりな二人がよ
(そう、彼はとても目が悪い、とびっきり綺麗なおねえちゃん以外は、全部同じにしか見えないのである)、
それより…さんざんオレのことを誰だと追及したあんたは何なんだ?、ん?」。
あ、そうだった…。相手が兄貴なら、ちゃんと襟を正して挨拶せねば。
将来、この人は…あまり乗り気じゃないが…形としては義理の兄になる人である。
ゴモクは極めて丁寧にお辞儀をして言った。
「僕は、サクラさんの婚約者なんです」。
「へ?」。
ドラ次郎の瞳孔が縮んだのを、サクラは見逃さなかった。
「何だって?」。
「婚約者なんです、フィ、ア、ン、セ…とも言います」。
ドラ次郎が、サクラとジムじいを見た。二人は反射的に視線をずらした。
「婚約者って…結婚するってことかい」。
「えぇ、時期はわかんないですけど」。
「いつ…決まったんだよ」。
「今さっき」。
ドラ次郎以外の全員が声を揃えて答えた。
ドラ次郎は一度ゆっくり後ずさりをし、疑わしそうな顔で周囲を見回し、大きなため息を一つつくと、へっへっへ…と、
不気味な笑い声をたてた。

「そうかい、そーかい、そーだったのかい、なるほどねぇ、それでか、それでなんだな、
それでジイさんたちは、オレを他人扱いしたってわけなんだな、つまりこういうことだろ?
オレは一族の面汚しで、他の家に人間には見せたくなかったってわけなんだろ?、
妹の婚約者に、兄貴だと言いたくなかったんだろ?、こんなのがこの家にいるってわかりゃぁ、誰だって尻込みするわな、
はっはっは、あー、そうかいそうかい、そんなにあんたらはオレが邪魔かい、わかったよ、出ていってやるよ、
おー、上等じゃねぇか、出てってやるさ、ヘン!」。
定石通りのタンカを切り、背中を向けたドラ次郎だったが、すぐ振り返り、サクラを見つめた。
「今日のお前は、やけに派手だな」。
サクラは黙っていた、その派手というのは、化粧がボロボロにはげた顔のことを言っているのか、
それとも服装のことを言ってるのか確かめようとしたが、アホ臭いのでやめたのだ。
「そんなにいいか、この男が、そうか、そんなにいいのか、この日光不足のナスビのような人が…、
茎が異常成長したブロッコリーさんが」。
「そりゃ失礼だろー!」。ジムじいが怒るのを、ゴモクが制した。
「いえ、いいんです、あながち間違ってませんから」。
確かにな。うん。
ドラ次郎は、今度はゴモクに向き直り、続ける。
「そうかい、こいつがそんなに好きかい、そうだ、こいつは確かにおもしろい女だしな
退屈はしねぇわな、(そしてゴモクの肩を叩きながら)、まぁ、可愛がってやんな、折って畳んで丸めて転がして、
せいぜい可愛がってやんな、確かにひげは生えてるけどな、ま、電気消して顔でもまじまじと見ないようにすれば、
十分楽しめるだろうさ…」。
ドラ次郎がここまで言った時である。
何の前触れもなく、部屋中に白い粉が舞い上がった。一瞬何も見えなくなった。
複数の咳き込む音が聞こえ、やがてモヤが落ち着いた頃、その中から人影がうっすらと映った。
「な、こら!、ジジイ!、おめえだな!、ゴホゴホ」。

そう、そこにはドラ次郎が言った通り、バケツを持って仁王立ちする防塵マスク姿のジムじいがいた。
「ずるいぞ!、自分だけマスクなんかしやがって!」。
「△□××◎○!」。
「何だって?、何言ってんださっぱりわかんねぇぞ!、ゲホゲホ」。
ジムじいの言葉はマスクのせいで、全く不鮮明だった。
「△○□∞∬♀♂!」。
「はぁ?!」。
「○∬▽◎∴!」。
「え〜い!、ゴモクソ言うんじゃねぇ!、ゴホゴホ!」。
「何か呼びましたぁ?、ゴホゴホ」。
粉だらけのゴモクが、目をこすりながら、モヤの中からぬぅっと現れる。
「あぁ!、腹が立つ!、ゲホゲホ!」。
もともと短気な男である。そして腕っぷしには自信がある。ドラ次郎はジムじいに掴みかかり、マスクを無理やり取り上げた。
「さぁ!、どうだ!、ジジイ!、これで俺たちの苦しみもよく分かっただろう!、ゲホゲホ」。
「なんだっとぉ、オレはなぁ、おめえみたいなひよっ子には、まだまだ負けねぇんだよ、
ゴホゴホゴホゴホ(年を食ってる分だけ、咳払いが多い)」。
「へーんだ!、よく言うじゃねぇか、上新粉撒くしか脳のねぇジジイがよ、ゲホゲホ」。
「何をぉ!、おめえがサクラに、ひでえことを言うからじゃねぇか!、このアンポンタン!ゲーーーーーホゲホゲホ!」。
ポカ!。ポカポカポカ!。
「おめぇみたいな野郎は、粉でもぶっかぶらねぇと、わっかんねぇんだよ、ゴホゴホゴホゴホ」。
ポカポカポカ!。
「っるせい!、このうすら○ゲ!ゲホ」。
「なんだと!、この百貫○゙ブ、ゴホ」。
二人が取っ組みあうと、床の粉がさらに舞い上がった。
「暴力はやめましょう、暴力は、ゲホ、暴力では何も解決しません、話合いをしましょう、
話し合い、人類はみな兄弟です!、話せばわかる、話せばわかる!、憎まず殺さず許しましょう!、ゴホゴホ」。
止めに入ったゴモクだったが、如何せんマッチ棒のような体では、ドラ次郎のかなうはずもなく、あっけなく振り飛ばされ、
そのまま玄関まで吹っ飛んでいった。
その時である。突然耳を劈くような叫び声があがった。
誰もが一瞬我に返り、その声の主を探した……サクラだった。粉で真っ白くなった頬に涙の筋を這わせ、小刻みに震えていた。
その目は、世にも恐ろしい三白眼であった。

「今日はサクラが折角幸せになった日なのに、どうしてこんな風に、お兄ちゃんと叔父さんは喧嘩ばっかりするの?、
どうして、誰も祝ってくれないの?、いっつもそうだったじゃない?、誕生日の時も、サクラが小学校を卒業した時も、
初めて女の子になった時も(あくまでも、“女の子”であって、“女”ではありませんからね)、
いつもいつも、お兄ちゃんと叔父さんは、家中を真っ白にして喧嘩してたじゃない?、
サクラは一回でいいから、お赤飯を炊いて、みんなで祝ってもらいたかったのよ、それなのに、いつも、こんな無意味な後始末ばっかり!、
もうたくさん!、もういや!、私、疲れちゃった!、もう、みんな嫌い!、大っ嫌い!ゲホゲホ」。
サクラは、これまでの思いの丈をぶちまけると、弾丸のように家を飛び出していった。
傍らに転がっているゴモクに気が付かないまま、裸足で彼を踏んずけて…。

悲鳴をあげたゴモクだったが、痛みに耐え立ち上がり、後を追おうとする…しかし…あ、靴履いてなかった。

その靴も、これまた機動力の悪いサボ。すったもんだしながら、何とかでかい足を突っ込んで歩こうとしたが、
いまいちしっかり履けていなかったので、バランスを崩して、バッタリと倒れてしまった。
「あ、いかんいかん」。
再び立ち上がろうとした時である。
「サクラ!、待て!、サクラ!」。
背後からハイトーンなハスキーボイスが聞こえた。そして次の瞬間、ゴモクの腰に強い衝撃が走った。
「グッキ」
さくらを追って飛び出したドラ次郎の、おねぇちゃん二人分を足した体重が、もろにゴモクの腰を直撃したのである。
ゴモクの腰には、ドラ次郎愛用の下駄の二の文字の痕が、くっきりと残っていた。
「あ、あ、だぁ」。
声にならない声を発するゴモクに、さらに、今までどこに潜んでいたのか、突如現れた牧師のナイキスニーカーが追い討ちをかけた…。
「待って、ドラ次郎!」。しゅわっち!、どんッ!。
完全にゴモクは気を失った。

16.そしてあいつは去っていく…。

牧師は外に出たドラ次郎に、モエ・ド・シャンドンのシャンパンの瓶…そう、もう残り少ないからと隠したあの瓶を、彼に渡した。
「君、またしばらく戻らないつもりなんだろう?、だったらこれは少ないけど、餞別だ、持っていきなさい」。
ドラ次郎は目を伏せたまま、無言だった…見透かされていたのだ。
この人には…怪しい人なんだが、彼にはすべて、ドラ次郎の心が読めていたのだ。
このままここに残っても、みんなに迷惑をかけるだけだ…だから黙って立ち去ろうとしていたことを…、
そして、その前に、妹だけには一言謝っておこう、そう思っていたことも…。
不真面目で、悪態しかつけない自分の愚かさは十分わかっていたつもりだったが、今はどうにもならない悔恨だけが胸に広がっている。
いつか、いつかは堅気になって、ジムじいやサクラが、自慢して人に紹介できる真っ当な人間になりたい、と思いながら、
結局いつも、同じことの繰り返しだ。でも、しばらくここを離れていると、やはり彼らの顔が懐かしくなる、会いたくなる…
その気持ちを抑えることは、出来ない…。
「ダメ男だねぇ、オレは…また妹泣かせて…」。
牧師は、ゆっくり首を振って言う。
「いいんじゃない?、君らしくて、僕はいいと思うよ」。
ドラ次郎は照れた笑いを浮かべ、俯いて首を横に振る。
「それ、慰めてるつもり?」。
「誰だってそうじゃない?、気ままに生きるしかないよ、ダーリン」。
ドラ次郎が牧師に背を向ける。牧師はその手に、何かを握らせた。
「これ、彼女に持っていってあげなさい」。
…サクラがいつも履いているビーチサンダルだった。鼻緒の部分が不器用に修繕されている。飛び出していった時、サクラは裸足だった。
さ、もう行かなきゃ。サクラを追っかけて、あいつをつかまえて、あいつだけにはお別れを言わなくちゃ…。

人気のない公園で、サクラは定石通りブランコを漕いでいた。
髪も顔も粉だらけで、頬には涙の跡がくっきり浮き出ている。
絶望と至福と怒りをいっぺんに経験し、すっかり憔悴しきっていたし、しかも悲しいことに、またしても、
ゴモクは追ってこない(追えない理由があるなんてことを、彼女が知る由もない)。
(みんな、私のことなんか、どーでもいいと思ってるんだ)。
再びの絶望感。
(君の自由でいられる世界になれる、とか何とか言っちゃって、ふん、全然音沙汰ないじゃん)。
ああ、また涙。
(口ばっかりだ、ゴモクは)。
あ、鼻水も…。天を仰いで、現実を見ろ…か。
(話も長い、プロポーズするまで、いったい何時間かかったと思う?)。
ふぇっくしょん!。
(ゴモクソゴモクソ、能書きばっかりたれおって…)。
―だから、ゴモクっていうんじゃないのか?。それにしても、さっきから地鳴りがするなぁ、
何だろう?、地震かぁ?。

ズズズズズズズズズズズズズ
地鳴りが止んだ。後ろに人の気配を感じた。しかし、ゴモクがこんな物音立てて歩くか?。
あんな爪楊枝みたいな人が…すると、これは??。
恐る恐る後ろを振り向くサクラ。そこにいたのは…
「何だ、お兄ちゃんか(ケっ、ガッカリ)」。
「何だはないだろうよ」。
妹の涙と鼻水グチョグチョの顔を見ると、何だ〜というのは照れ隠しだろうと思える。
(でも照れじゃない、ほんとにこいつは、がっかりしてる)。
ドラ次郎は、空いている隣のブランコに腰掛けた。すると突然、鎖が切れ、金属的な音をたてて、
ブランコともども地面の小さなくぼみにはまった。
(壊したな…)。
「すまねぇ、サクラ…」。
「私に謝るより、公園の管理人に謝った方がいいんじゃない?」。
サクラは冷たく言い放った。ああ、やっぱりお前は怒ってるんだ…そりゃぁそうだろなぁ、
怒るさ、オレのせいで、みんなめちゃくちゃにしちまったんだからなぁ…。
「なぁ、サクラ」。
ドラ次郎は、胡座をかいて座ってしみじみと語り出した。胸にしっかり、モエ・ド・シャンドンのシャンパンを抱え、
指の先にビーチサンダルをぶら下げて。
「オレがこんな野郎だから、お前はいつも苦労してるよな」。
(全くそうです)。
「確かにいつも、オレは冷やかしてばっかりいたよ、ひげ生えてるってな」。
(でも、生えてんの、ひげだけじゃないもんね)。
「だけど、さっきのはちょっと違うんだ」。
(何が?)。
「まさか、お前が結婚すると思ってなかった…」。
(何だ、失礼な言い方するなぁ、人生にはまさかの坂ってのがあるんだよ)。
「オレ、びっくりしてな…」。
(酔ってるだけなんでないのか?)。
「つい、あんな言い方しちまって…悪いと思ってんだ」。
(お、珍しいね、あんたが謝るなんてね)。
ドラ次郎は空を見上げる…上を向いていると、二十顎もすっきりして見える。
「いい人そうじゃないか、あの…」。
「彼?」。
「ああ、ゴモ、ゴモ…あ、ゴモクソさんか」。
(みんな、そう思ってるんだ、ゴモクソさんって)。
「でも、迎えに来てくれなかった…」。
サクラは、つま先で土を小さく蹴る。その足元に、ドラ次郎はさりげなくビーチサンダルを置いた。
「理由があるんだよ、きっと」。
(確かに理由はある、しかしそれはドラ次郎、あんたのせいだ、わかんないのか?)。
「あれは、なかなか骨のある男だ、オレが保証してやるよ」。
(骨はあるが、肉がない…一つの骨、一つの鶏肉)。
「大丈夫、お前は幸せになれるさ」。
「…なんかヘンよ、お兄ちゃん、まるでまた、どこか遠くに行っちゃいそうな口ぶりね」。
ドラ次郎は、誰に言うともなく呟いた。
「オレはまた、旅に出る…」。
「え?」。
「オレが居ないほうが、みんなのためになる…」。

それまで、ずっとドラ次郎を見ないようにしていたサクラだった。見ればきっと、自分の手の平が、彼の頬を強襲すると思っていたからだ。
ひどく憤慨していた。許せなかった。確かにほんの数分前までは…。
しかし、今、再び旅立とうとする意志を知り、改めて兄の横顔を見ると、すっかり肉付きがよくなったとはいえ、端正な顔立ちだったことを知る。
こんなに粉まみれになりながら、ドラ次郎は美しかった。強い精神に溢れ、生気がみなぎり、溌剌としていていた。
ふと、サクラの記憶に、昔の出来事が蘇ってきた。
鼻を垂らして不器用に歩き、いつも近所のガキどもにいじめられるサクラを、かばってくれたドラ次郎。
いつも腹をすかせているサクラのために、給食の残ったパンをかき集めて持ち帰ってくれたドラ次郎、
そして、両親を失い打ちひしがれていた幼いサクラを、ずっと抱きしめて勇気づけてくれたドラ次郎…。
トラブルも起こすが、同時に一番の心の支えになっていたのも、ドラ次郎だったのだ。
自分が危機に陥った時、そこには必ずスーパーマンよろしく、ドラの姿があった。
それなのに、自分は…自分の幸せばかり考えて、その大事な人だったはずのドラを、排除しようとしていたではないか…。
おじさんとは喧嘩したって仕方ないわよ、男同士なんだからうまく言えなきゃ、殴りあうことだってある…
だからこそ、私がお兄ちゃんをかばわなくちゃならなかったのに…。
それなのに…。

「ねぇ、お兄ちゃん」。
サクラは思い切って、こう言った。
「旅になんか出ないで、一緒に帰ろうよ、家に帰ろう、そしておじさんに謝って、みんなで暮らそうよ、
おじさんとお兄ちゃんと、私とゴモクさんと四人で…」。
ドラ次郎は、まだ空を見上げたままだ。
「そして、お兄ちゃんも、いい人探すの、結婚して、たくさん子供作って(君たちは構わんだろうが、果たして将来のドラの嫁と、
ゴモクが何と言うかね)賑やかにあの家で暮らすの、ね、そうしよう、時間がたったら、ますます謝りにくくなるよ、帰ろうよ」。
ドラ次郎は、ふっと笑いながら首を横の振った…。
「いや、サクラ…、お前がいろいろ気を使ってくれるのは有難いけど、オレにはそういう落ち着いた生活は不向きだと思う、
腰を据えてってのが、性に合わねぇんだ、もともと、風来坊に出きてるんだな、
勝手気ままに、流し流され生きていくのが好きなんだ…
まぁ、これが結局、オレの世界なんだろうさ…」。

…空を飛べないペンギンは、水の中で自由になれる。
─―――――人には、それぞれふさわしい世界が与えられている――――――。

引き止められない―そう思った。
サクラに与えられた世界がこの下町の小さな日常ならば、ドラに与えられた世界は、旅から旅を繰り返す生活。
そして、この二つの世界が一緒になることは、決してない…。
今もこうしている間に、もうドラ次郎の心はすでに遠くの別の町にあるだろう。
これから出会うであろう、まだ見ぬきれいなおねぇちゃんたちに…。

ドラ次郎は立ち上がった。そして、サクラの肩を軽く叩いた。
「じゃな、サクラ、あばよ」。
サクラはブランコを揺らしながら無言でいた。何か声をかけたかったが、思いつかなかった。
いや、何か言えば、また涙が止め処もなく溢れてきそうだった。
「ゴモクソさんと、幸せに暮らしな」。
ただ、ただ、静かに頷くだけだった。
大きな足音は次第に遠ざかっていく。そしてやがて、遠くで鳴るサイレンにかき消されていく。
サクラは我に返ったようにブランコから立ち上がり、無人の公園を見回した。
そこにあるのは、小さな街頭に照らされた青白く浮かび上がる細い道路だけだった。

これは本当のこと?、それともただの幻?
もう一つのブランコは、確かに鎖が切れて地面に落ちている。
サクラは、ふと、遠くからこんなドラ次郎の声を聞いたような気がした。
「お前こそ、はやく家へ戻れよ、ビーチサンダル履いてな!」。

さあ、サクラ、戻ったら忙しいぞ。粉だらけの家も掃除しなくちゃならないし、何せ一番の大仕事、ぎっくりゴモクの看病が待っている。
また頑張って、彼の面倒を見てやらなければ。あれで結構手のかかる男なのだ。
この分だと、エメラルドパンツの出番は、やはり当分ないだろう。

                                               (完)

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