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生き地獄へ道連れ 〜真実のジョン・ディーコン〜(後編)

Written by ぼーいんぐ819さん

4.化けの皮

固定観念とは恐ろしい。マスコミのイメージ作りはもっと恐ろしい。
ブライアンの中から見ているクイーンは、それまでmamiが思っていたあのクイーンと
あまり似ていない集団だった。

ジョンはとにかくよく転ぶ男だ。彼の鼻がいつも赤いのは多分にそのせいだと思われる。
飲酒の有無に拘らず、運動神経の良し悪しにも関係なく、障害物があろうがなかろうが、
気がつけばジョンはありとあらゆる床や地面に転がり倒れ、ぶつくさ文句を言っていた。
大勢の人間が集まる場所などで「あれ…?ジョンは?」と捜すとスタッフが無言のまま指や顎や目で
低い位置を示したし、フレディなどは先に床に寝転がり、ジョンが倒れるのを待っている有様だった。それまでジョンと言えば<落ち着き払った岩のような男><静かなる影のリーダー>などと実態を
度外視した評価やイメージが強くあったが、現実なんてこんなものかもしれない…とmamiは苦笑いを隠せなかった。

しかもジョンは、妻ヴェロニカと電話で話す際、時々幼児語を使っていた…!!
…ジョンの名誉の為、敢えて彼の言葉の引用は避けるが、人を顔で判断するのは危険極まり
ない、夫婦には外からわからない世界があるのだとしみじみmamiは思った。

だが別の場面でmamiはジョンの語られざる一面を目の当たりにし、感涙に咽いでもいた。
ジョンは実に良く気のつく男で、そうは見えない外見を裏切るように細やかな気配りをする。
表情こそあまり変わらないが、誰かが何かを必要として探している時、その何かをいち早く察して
何気に差し出すか、偶然そこにあったかのようにその存在を知らせるのもジョンだった。

【ブレイク・フリー】撮影の打ち合わせの最中、mamiが、否、mami入りブライアンがメモに目をやったまま椅子から立ち上がり、ちょうど紅茶を運んで来たアシスタントとぶつかった。
弾けたカップの熱い紅茶がブライアンの左腕方向に飛んだのを見たジョンは、騒ぎ立てる他の同席連中を尻目にどこかへ消え、すぐさまタオルと氷の一杯入ったビニール袋を持って現れた。幸い、ブライアンの腕の火傷は小範囲だったが、「早く水を掛けて冷せ」と言ったジム・ビーチをじろりと睨んだジョンは、「流水で冷やすと痛みが増す。この方がいい」と素早く手当をしたものだ。
mamiはジョンのアフロに鼻をくすぐられながらも、このまま時を止めてしまいたい…!と願わずにいられなかった。
『やっぱりジョンはいい男や〜。さすが、伊達に19針の経験者やないわ…』

頬を染め、うっとりジョンを見つめるブライアンに、ロジャーは首を傾げるばかりだった。

翌日、ロジャーの新車が慣らし期間を経て高速走行解禁となった。
それを聞きつけたメカマニアのジョンは真っ先に飛んで行き、エンジン・ルームを覗き込む。
ロジャーが新車を買ったという話は聞いていたが、「慣らし運転期間中はむやみに加速出来ない
から」と、ロジャーは仕事に来るにも新車を慎重に運転して、誰にも触らせようとはしなかった。
この日ジョンは昨日から夜を徹して続いた仕事で疲れ切っていたが、ひとしきりロジャーと
車談議で盛り上がり、勢い余って2人はその加速を試すため、仕事を放ってロジャーの車に
乗り込んだ。
ブライアンとしての仕事が残っていたmamiは、同乗するのを暫く躊躇ったが、一度は助手席に
坐ったジョンがロジャーから「この車の凄いところは、リア・ドライヴの威力を後部座席の方が
実感できることさ」と言われて運転席の後に移るのを見たmamiは、一緒に行く…と力なく言って
ジョンの隣に乗り込んだ。フレディが「僕は遠慮するから」と言ったので3人で出掛けることになった。

ロジャーはロンドン郊外に向って車を走らせながら、ルーム・ミラー越しにジョンとマニアックに話を
続けていた。バルブがどうのサスペンションがどうの、排気量が、タイヤの扁平率がどうのこうのと、
mamiにはあまり食指の働かない話が延々繰り広げられる。景色が高層ビルや巨大な看板といった
都会の象徴から自然の中に居並ぶ家屋へと変わり始めた頃、ロジャーは待ってましたとばかりに
猛然とアクセルを踏み込んだ。車高の低い、足回りの固い車だけあって、あっという間に景色が
見えない速さになって行ったが、いつもなら車酔いし易いmamiも、この日は比較的元気に乗って
いられた。
ジョンが目を輝かせて、楽し気にロジャーとはしゃいでいるのを見ているだけでも充分幸せなのに、
mamiが入りこんでしまった相手がブライアンだったお陰で、斜めに放った長い脚の先にはジョンの組んだ脚がある。今にも双方の脚がくっ付きそうで付かないギリギリの距離だ。
mamiはどうすればこのままジョンの脚にさり気なく触れることが出来るかを思案していたが、ほどなくmamiの頭の中は真っ白になった。
疲れのピークを迎えたジョンの方から倒れ込んで来たのだ。

『☆……ジョン……☆』

この時のmamiの心境は…とてもシラフでなんか書けやしない。
…こっちまで恥かしくなるからさっさと先に進むとしよう。

mamiの肩の下には、腕組したまま寝入ったジョンのアフロがあった。
こんな嬉しいことはない。しかしこの場合その大きな頭がとにかく邪魔だ。
『折角の寝顔が見えないじゃないの…』
mamiには触れるという直接的な官能体験よりも、ビジュアルなショックの方がより刺激的に
思える人間だった。(*まぁーったくやぁねぇ…この・ス・ケ・ベ☆)

ロジャーが興奮気味に「どうだ、なかなかだったろう?」とミラー越しに不気味な沈黙を守る後部座席へと目をやると、恐る恐る自由の利く左手を延ばしたmamiがそっとジョンの髪を撫でたところだった。
『ブライアン……!?』
ロジャーは唖然とその光景を見ていたが、続けざまに瞬きをするや視線を前方に戻し、黙って来た道を退き返した。
何かがおかしい、と思いながら。

mamiはと言えば、この上ない至福の時でありながら、実は寒さに震えてもいた。
ジョンは倒れ込んだ時、飲みかけのミネラル・ウォーターの瓶を椀組した手に持ったままだったのだ。mamiの、いやブライアンの腿から下は水浸しで、ついでに熟睡するジョンが垂らした涎も肩に
キラリと光っていた。

5.見え隠れする真実と訪れた変化

いよいよ【ブレイク・フリー】の撮影当日。

mamiは、この後mamiの母国へと行ってしまうジョンに切ない思いを抱きながら、
個人的に聞き出したいことをどうやって聞いたら良いのか考えあぐねていた。

ドレッシング・ルームで女装しながら、mamiは複雑な気持ちがいっぱい広がるのを感じない訳には
いかなかった。
『どうしてブライアンだけこんななの?』当初違和感しか感じなかった自分じゃない人の姿にも日毎に
馴れたせいなのか、少しずつ愛着すら感じるようになった今、幾らドラマのパロディだからといってブライアンだけこんな酷い女性にすることはないでしょ、とmamiは憤りすら覚えるのである。

キワモノ・フレディが髭面にピンクの口紅をつけるのは別として、ロジャーがリボンのついたカツラを被り、例え婆さん姿であってもどこか気品を感じさせる姿に変身したジョンを見たmamiは、2人にちょっぴり嫉妬を感じたものだ。周辺のスタッフ連中からやんやの拍手と歓声を浴びてポーズを決めるフレディとロジャー。別段いつもと変わらずに無表情でコケ捲るジョン。そして今や中身がmamiであろうとなかろうとブライアンと呼ばれる男がここにいる。有名人を生きるのも結構しんどいな、とmamiは思う。

それでも彼等は、少なくても他人の身体を借りて生きている訳ではない。
彼等を見ていると、自分じゃない自分を生きなければならなくなったmamiはひどく哀しくなる。
勿論大好きなジョンの近くで暮し、仕事をして軽口を叩き合い、様々な喜怒哀楽を共に出来る
幸せを噛み締めてもいたが、ようやく首が坐りかけている息子・ジョシュアの話を嬉しそうにしている
ジョンを見ていると、突然いなくなった娘を必死で捜している母親の顔が重なって胸が痛かった。
HPでは更新もレスもなく、メールにも応えず電話にも出ない私をいったい何人の人が捜しているだろうと思うと、何とかロジャーを出し抜いてジョンと一緒に日本に帰りたい、と切実に思う。

当初mamiには、ただ単にジョンと共に行動をしたい一心で捻り出した計画があった。
しかし今は本当に日本に帰りたいホームシックが強くなって、その計画を実行に移す気持ちに
変わっていた。どちらにせよ、この際ロジャーがネックになる。ロジャーがこれからのプロモーション・
ツアーに出られなくなるようにし、代りにブライアンが出掛けられるようにするにはどうすればいいのか、mamiは考え抜いた。

そしてもうひとつ、日本に帰る前にジョンに聞きたいこともいよいよ聞くべき時が来た。
撮影が終わった時点で、mamiはジョンを誘ってみた。

「あ、あのぅ…ぜひお聞きたいことがあるんですが…よろしかったら軽く飲みに行きませんか…?」

mamiは言ってから『しまった!』と思ったが遅かった。
ジョンを飲みに誘うという大胆この上ない行為に怖気づいたmamiは、ついブライアンの外見を忘れて素に戻っていたのである。
初めて自分に向けられたブライアンの敬語にジョンは驚愕し、呆気に取られていたようだが、最近のブライアンの異常行為は誰の目にも余っていたので、気配りの男としては誘いに応じ、それとなく何があったのかを聞いてみる必要も感じていた。

「いいよ」ジョンは快く返事を寄越す。
mamiはホッとした途端、どっと汗が噴き出した。

6.夜の天使

ジョンは名の知れたミュージシャンや俳優達が足を運ぶ、露出の激しいおネエちゃんが沢山いる
華やかな店を避け、時々仕事関係者が使う会員制バーを選んだ。
高級感漂う店内には毛足の長い絨毯が敷き詰められ、薄暗い照明の下、紳士・淑女がドレスアップしてブランディー・グラスを傾けている。

「場違いだったかなぁ…」
入り口で名を言うと慇懃極まりない挨拶をされ中へ通されたが、ジョンは少々たじろいでいた。
幾ら世界のクイーンとは言え、仕事帰りのジーンズ姿のアフロとカーリーはその場で見事に
浮き捲ったからだ。

「…ロックでいいか?」テーブルを挟んで黙りこくるブライアンに、ジョンが静かに訊く。
借りて来た猫よろしく俯きがちに恥らっていたmamiは慌ててかぶりを振った。
「あ、いえ…お酒は飲めませんので、そうですね…ジンジャエールでも…」
「飲めないって…ブライアン、またどこか悪いのか…?それとも何か心配事でもあるのか?」
ジョンは眉毛を少し下げ、同僚への思い遣りを顔に表した。
「少しくらいなら大丈夫だろう?ま、飲めば気が楽になるさ」
ジョンは近くのボーイに何か軽いアルコールを、と告げて椅子に沈み込んだ。

バーの椅子に腰を下ろした時から、mamiはジョンの顔つきに変化が訪れたのを感じていた。
大勢の仕事仲間と一緒の時、ジョンは警戒心を顕にする。それが誰にでもはっきりと判るのは、
目が野生動物の子供のように鋭くなるからだった。口が笑っても目が笑うことは滅多にない。
しかし今ジョンの目からその剣が取れ、解放感に満ちたジョンは愛情深い父親の表情に戻っていた。

薄暗いバーの中でも浮き立つような白い顔がmamiにはひどく悩ましい。
ブライアンになってからというもの、この事実と向き合う度速攻で思考停止に陥ってしまうmamiは、
勝手にときめき始めると止まらなくなる妄想を押さえ込む為に『これはただのへのへのもへじ』
なのだと言い聞かせ、勤めて正面から顔を直視しないよう努力して来た。
だがもう駄目だ。2人きりで向かい合うとジョンが醸し出す独自のムードに呑み込まれ、
急ぎ過ぎる鼓動に呼吸を合わせることが出来ず今にも倒れそうになる。

「…それにしても改まって聞きたいことがある、なんて珍しいな。何だよ?」
穏やかなジョンの声は切ないほど胸に染み渡る。ジョンの話し声は時折歌を口ずさんでいるかの
ようにリズミカルな響きを伴う。そしてそれは長い年月を共にした家族のように暖かく懐かしい。
mamiは確信した。きっと彼が封印してしまった歌声はか細く甘く、悲しいくらい心の琴線に
触れ、そして鷲づかみにされたが最後、二度と忘れることは出来ないだろう、と。

7.地獄たる所以

だが、その声はあくまでもブライアンに向けて語っていた。
mamiはそこに自分がいないことを痛いほど思い知る。
『そうだった…私は仮にもブライアンなのだ――』

しかしいかにmamiといえども、【あなたも今日からブライアン】ばりのカルト級テキストはない。
何がどうブライアンであればいいのか、どこをどうすればブライアンとしてジョンと語り合えるのか、
シュミレーションすらしたことのない場面を迎えて言葉を失っていた。
何かを言おうとすればするほど言葉が見つからない。mamiは手に汗を握ったまま沈黙していた。
穏やかだったジョンの顔が次第に苛立ちを交えた不安の様相に変わっていく。
「どうした?何故黙っているんだ…?」
ジョンはひとりでスコッチのロックを空け「何だか女性と一緒にいるみたいだな」と口をへの字に曲げ
皮肉っぽく笑っている。ジョンはダンマリを決めたブライアンとの見詰め合いに飽き飽きし始めているのだ。
mamiは焦った。
『これは不味い。何か言わなければジョンは帰ってしまう…』

ジョンが吐いた小さなため息が引き金となり、mamiの言葉はあまりにも唐突に口をついた。
「僕とキミは、そんなに仲が悪いんですか…?噂に過ぎないんですよね、そんなことないですね…?」

mamiの声は引っ繰り返った。目を見開いて興奮気味に喋り出したブライアンにジョンは
しばし凍り付く。その顔中が『へ???』と声の代りに驚いている。
ジョンはかぽっと残りのスコッチを飲み干すとテーブルにグラスを滑らせ、
「確かに昔ほどなんでも話さなくなったよな。けど…」そう言うと下に向って再びため息を吐き出す。
今上手くいかないのはお前のせいだろう…と呟いたジョンの声はmamiの耳に届かなかった。

「けど、何なんです?」mamiは身を乗り出した。ジョンは酒の勢いも手伝ってか、さきほどまでの
穏やかさを投げ打って饒舌になっていった。
「何なんです、だって?…おいおい、シラを切るのかよ?お前だろ、こうなった諸悪の根源は」
「え?」何を言ってるのかmamiにはさっぱり判らない。だがどうやらmamiの質問がジョンの逆鱗に
触れたことは間違いなかった。ジョンの顔はもはやすっかりピンク色に染まり、目付きは最悪の
三白眼に形を変えていた。

ジョンはスコッチをやめバーボンのストレートをあおり始めた。
「ブライアン、確かに俺は皆ほど上手くは歌えない。間違っても歌で生き抜こうとは思わないさ」
「…………」mamiには答えようがない。しかしつい先ほど考えたことを見透かされたようで
死ぬほど恥かしくなった。
「だがな、これだけは言っておく。俺の歌を茶化すのはやめてくれ。ジョークだとはもう思えないんだ」
怒りのオーラが2人の空気を緊迫させる。ジョンは本気だ。

『ブ…ブライアン、あんた、なんちゅうことを……!!』

mamiは自分の外側を生きている男の所業を恨めしく思った。
端から見てもジョンとブライアンには同業者・同僚以上の親しみを感じなかったせいか、確執絡みの展開はある意味予想出来ていたが、思いも寄らぬこの展開には意表を突かれた。

「いつも俺に自信を持って歌え、一度はソロを取れと言っておきながら、この前、お前はとうとう無意識に本音を吐いたよな?実際、あれが本音なんだろう?」
いったいあれってのはどれのことなんや…?mamiは2人がどんなやり取りの果てにジョンをここまで怒らせたのかを知らずにおれるか、と躍起になった。
「あれってなんですか…?何のことなのか…」
ジョンは正面からmamiを凝視した。表情に変化はないが、目だけは怒りに燃え盛っている。
「ん?…あれさえも思い出せないのか?」
mamiは恐れ慄きながらもやっとのことで頷く。
ジョンは「そうか、思い出させてやるよ」と唸るように言うと、ストレートバーボンに添えられた水の入ったグラスを手にして立ち上がり、mamiのカーリヘアをびしょびしょにしながらそのグラスを空にした。

「思い出したろ?…ジムがお前に水をぶっ掛けた日だ。お前はスタジオの空き部屋で横になって休んでいた。俺はようやくソロ・ヴォーカルを取る決心を固めて、お前の寝ている近くで……歌ってた」

mamiはボーイから慇懃無礼に手渡されたタオルで頭と顔を拭いた。もちろんあの日のことは忘れもしない。ブライアンになったあの日だ。しかしジョンが歌っていたとしても、mamiには記憶がない。
それは多分、自分がブライアンに入り込む直前にでもあった事実なんだろう、きっと。
『う…もっと早くブライアンになっていたら、ジョンの歌を聴けたってことやな…!?』mamiは悶えた。
なんと惜しいことをしたのだろうと、この恨めしい運命を悔やむばかりだった。

「ブライアン、あの時お前は歌ってる俺に向ってなんと言ったか覚えているか?」
『そこはぜひ聞きたいですぅ…だって本物のブライアンの言葉なんだし…』mamiは思った。
「覚えてないなら教えよう。お前は俺の歌が日本の僧侶が唱えるお経のようだと言ったんだ」

『……お経……!?』記憶の彼方からあの日の衝撃体験がやって来る。同時に、今まで顧みることもなかったあの日の目覚めに至るまでの悪夢がどやどやとやって来た。

あの時、確かにmamiはお経の声を聞いていた。否、聞いたような記憶がある。不快な雑音に悩まされながらも、このジョン本人が毛布を剥ぎ取るまで目が覚めない睡魔に襲われていたあの日だ。
耳障りな一本調子のお経だったような気がしてならない。けれど今となってはそれが何だったかも
定かではない。

『え…?まさか……!!』
mamiの顔から血の気が引いた。

「アレが…キミの歌…?」

ジョンの顔からさっきまでの怒りが消えた。
「やっと思い出したか?その後のお前はまるで別人のように変わってしまったが…あの時お前は
゛そのうるさいお経をやめさせろ”とまで叫んだんだ」

8.閉ざされていたココロ

『そ、そ、その人は私ではありませんよぉ〜〜〜〜〜!!!!!』mamiは心の中で泣き叫んでいた。
察するに自分の外側の人が正真正銘のブライアン・メイとして最後に叫んだ言葉がそれだったに
違いない。

恐らくブライアンも自分が乗っ取られる直前の昏睡に近づきながら、次第に混濁していく意識の
中に漂う現実からの音に反応して、必死でそんな言葉を吐き出したのだろう。
mamiにはわかる。あの重苦しく泥のように気怠い眠りは只事ではなかった。
しかしこの無情…。誰にも気付かれない異変を迎えたブライアンが、命懸けで叫んだ言葉がよりによってそれだったのかと思うと、この絶望感に満ちた話の筋がますます恐ろしくなる。

が、mamiは決意した。これ以上ことを混乱させたままではもうどうしようもないところにまで
来てしまってることが判ったからだった。いちかばちか、ジョンに全てをぶつけてみよう、と。
「聞いてください。これから私は本当のことを話します。信じられないかもしれないけど、
これから話すのは全て真実です」

mamiは何もかも―ジョンにこれまでの経緯を、何故ブライアンがおかしいのかも―を正直に語った。
ひたすら黙って酒をあおり続けたジョンの目は完全に坐って身体が揺れる。そんなジョンの反応と
いえば、時々さもくだらない噂話でも聞かされているかのように、ふんっと鼻で笑うだけだった。

「信じて欲しいと言うにはあまりにも無茶な話ですよね…それは重々承知の上です。
でも私は本当に2001年から来た、クィーンファンの日本人なのです」
mamiは本当はジョン・ディーコンファンと言いたいところを我慢した。
これ以上冷や水を掛けられない為にも、穴が開くほど睨まれない為にも。

ジョンは「はぁ〜」とため息を吐くと大仰に苦笑いを見せた。
その笑いは呆れを通り越し「もうそれ以上話さなくていいよ」と言っているようにも見えた。

束の間重い沈黙があった。
やはり信じてもらえなかった…と落胆するmamiの顔を覗き込んだジョンはやっと口を開いた。
「なぁ、ブライアン、俺はもう自分の歌がどうかなんてどうでもよくなって来たよ。ここまでバカバカ
しい話を大真面目に語られてしまったんじゃなぁ。お前もいろいろ大変だったんだよなぁ…
現実逃避したくなるほどだったんだな」

ジョンは脚を組み直した。
「最近…将来自分が、そうだな…例えば10年後もこのままクイーンでいたいと思う事が
多くなって来たんだ。昔と違っていつでも堅気に戻れるなんてことをだんだん考えられなく
なって来たのかな」

ジョンは完全に出来あがっていた。陽気な酒を楽しむ男は充分に呂律が廻らないことなど
まるで意に介さず、時に満面の笑顔を見せながらぺらぺらとよく喋る。
mamiが予想していた通り、ジョンという男は酒が入ると他人の話を殆ど聞いてないし、
ろくに覚えてもいなかったが。

「ホットスペースでコケて」ジョンは相変わらず強い酒を飲み続けた。
「一時はもうこの仕事を辞めようと思った。でも辞める訳にはいかなくなって、気がついたら
辞めたいと思うのをやめたくなって苦しんでいる自分がいたよ」

mamiは【ブレイク・フリー】がどんな状態の中から生まれた曲だったのかをこの時理解した。
『アンタが打開したかったんは自己矛盾やったんやな…』

「歌えない俺が本当にクイーンに必要なプレイヤーなのか…?ってこともよく考えるんだ。10年後の
今頃、15年後の今頃、年取った俺はいったいどんなミュージシャンやってるんだろうなぁ…。
その時一緒に演っていたいのは…俺にとってはこの3人だけなんだ、お前らがどう思おうとな」
ジョンはくすくす笑った。その顔には気負いも警戒もなかったが、苦しんだ者特有の切なさだけが
見て取れた。何かがジョンの中で変わり始めているようだった。

その15年後のジョンを知るmamiは、こみ上げる涙を悟られまいと上を向いた。
クイーンは今から7年後に事実上終わる運命が待っている。それもフレディを失うという悲劇の中でジョンだけが引退を告げることになるのだ……。
これほどまでクイーンを愛していたジョンだったのかと思うと再び万感胸に迫った。

mamiは半分眠りかけているジョンの目を盗んで店の外に走った。
涙が止めど無く流れ落ちる。

人気のない路地で声が漏れないように両手で口を覆い、声を押し殺して泣くブライアンの姿が
そこにあった。

それは何者にも勝る不気味な光景だったが…。

8.鍵を握る男

何事もなかったかのようにテーブルに戻ったmamiを待っていたのは酔い潰れたジョンではなく、
何故か当時のプロデューサー・マックだった。
「ジョンならアシスタントを呼んで車で帰した。何も心配は要らない」
「帰った?」mamiは2割方ホッとする気持ちだったが、残り8割の大きな落胆を隠し切れなかった。

それにしても、どうしてこのマックが突然ここに現れたのか謎が残る。
ジョンが誘ったんだろうか…?
そして何故この男はいつも黒い服尽くめなのだろう?
『まさかマックだけに真っ黒、なんてオヤジギャグとか…?』mamiは咄嗟に思い付いた
つまらない駄洒落に我ながら呆れた。

その時マックはくすくすと笑い出した。
「キミも結構くだらないことを考えるんだね、ブライアン…否、中にいるのはmamiだったかな」
mamiは耳を疑った。
『え?ええっ??今何て言った…???』

「mami、キミの考えていることは全部私には聞えるんだ。もちろんキミは嘘だと思うだろうがね。
でもさっきまでキミがこのバーの裏側の路地で泣いていたことも私は知っている。そしてキミが
これからクイーンの将来に起こる全てをジョンに知らせようとしていることもね」

mamiは図星を突かれて身が竦む思いだった。
だが自分がブライアンの中にいるという怪奇現象以上に、この目の前の宇宙人・マックの
話の内容の方が遥かに身の気がよだつ気がする。或いはこれこそが悪夢なのだろうか?

マックは俯いたまま首を左右に振った。
「mami、終わりにしよう。今すぐブライアンから出て日本の生活に戻るんだ。
キミは情が深すぎた…。歴史を変えてまでジョンを守ろうとし、今のジョンの気持ちを叶えて
やろうだなんて、まさか本気で考える人間がやって来るとは私も予想外だった。もうひとつ
加えるなら、私は宇宙人ではない」

mamiはうっすらと頭の中で出来つつあった点が次第に線になっていくのを感じた。
「よく判りませんが…つまり、私はどういう訳だかアナタの策略によって今ここにいる、と
そういうことなのですか?」
「さすがだ。キミの頭脳は思ったとおり素晴らしい。よくそこまですぐにわかったものだと
感心するよ。それでは何故キミがブライアンの中に入り込んだのか…そしてこれからどうやって
元に戻るのかも含めて説明しよう」

mamiは望むところだと思った。ただ、何かを密かに考える度にマックがこちらを向いて即座に
反応するのだけは心からやめて欲しかった。
『このマックはジョンをどう思っていたんやろ…』とふと思った時もそうだった。こちらは思考の世界にいるだけで声を発してはいないのに、マックはいきなり
「…私はジョンのころころ変わる目付きや、しっかりしてるようでいて全然そうではないちゃらんぽらんなところも気に入ってるよ」などとすかさず答えるのだから堪らない。

何時の間にかバーの客はmamiとマックだけになっていた。
「mami、私の本名はブルガー・マクドナルド。ブルガーはドイツ系の祖父が付けた名だ」
頭の中でその名前を書いていたmamiは、ドイツ語読みのブルガーが英語読みではバーガーと
発音する綴りだと気付いて思わず噴き出した。
『平日半額かい…』
「子供の頃の仇名はウィズ・ポテトだったよ…。それはまぁともかく、私の家系は代々続いた呪術使い
でね。特定の人間の魂だけを呼び寄せることができるんだ。しかも私の場合は少しばかり特別な要素が加わってしまったせいで、一族とはかけ離れた現象をも引き起こすことが可能になった」
「特定の人間というのは?特別の要素って何ですか?かけ離れた現象って…?」
mamiは矢継ぎ早に聞き返す。マックはこのmamiの手応えに満足気な笑みを浮かべている。
「特定の人間を意味するのはまず第一に鍛えられた頭脳を持つ人間だ。閃き・直感の強い人間であればもっと良い。そういう人間は簡単にコントロールされず、私が与えた恣意的な環境の中でも何とか自力で生き延び、面白い展開を次々と見せてくれる。だから私はクイーンの4人が大好きだった。
彼等は苦境や逆境があれば結束を固め、素晴しい作品を生み出していった」

mamiは黙りこくっていた。
「特別の要素というのは私も最近知ったのだが…その前にひとつ断っておかなければならないことが
あるんだが…mami、実は私も…今君から見えているのは84年のマックだろうが、中にいるのは
キミがブライアンに入ってしまう前と同じ2001年を生きていた今から数えて16年後のマックなんだ。つまり私には過去の自分の浸入し、その時代に起こったほんの小さなミスくらいなら書き換えられる力が与えられてしまったという訳だ」

『ええなぁ…』mamiは今すぐ先祖巡りの旅に出て、今自分を困らせている恥かしがりの遺伝子を
書き換えたいと思っていた。マックはその発想を愉快に思った。
「mami、我々は医者ではない。そこまで望むには科学の力を借りなければならないだろう。私には
そこまで長い時間を与える力がまだない」
「では…私に与えた時間はどれくらいなんですか?」
「最長でせいぜい2週間だろうな。キミはまだその全てを過ごしてはいないが、キミが歴史を大きく
書き換える危険が生じた今、もうここにキミを置くことはできなくなったんだ。それと最後の質問の
答えとしてこれも言っておこう。私だけが持っているのは一族からかけ離れた現象を起せる、つまり…他人の身体に入り込んで生きる人間を作り出せる力を持っているということだ。魂だけを呼ぶのではなくてね」
マックは肩まで伸びたブロンドをゆっくりかきあげた。
宇宙人ではなく、魔法使いか悪魔の化身だという割に名前がバーガー・マクドナルドで奇妙な男。

「…ジョンと一緒に日本に帰りたかった…」mamiはポツリとそう言い、ジョンが置いて行ったグラスを見つめた。
「mami、キミのプログラムはここで過ごすことだけだ。仮にキミがブライアンとして明日日本に
ロジャーの代りで行くとしても、日本にいる間に期限が切れてしまうのだ。するとどうなると思う?
キミが帰って行けるのは84年の中学生だった頃だ。キミはいつ目覚めるかわからない大人の
頭脳と知性を眠らせた中学生に戻ることになる。その後のキミの人生は明らかに狂いが生じて
しまうだろう。一度キミが辿った2001年までの道筋をまともになぞることはもうできなくなるのだ。
決して2001年のジョン・ディーコンを追うmamiに行き着くことが出来なくなる。つまり、それが起
こってしまうとキミが大切にしているHPに集う仲間やここまで来るのに積み重ねた全てが失われて
いくんだ。ただ消えてしまうだけではない。中には狂いが生じるが故に過去の事実の中にも不都合
が現れ、辻褄を合わせる為に命を落とす人間も当然現れてしまうだろう。それでもいいのかね?」
mamiは黙って首を左右に振り、しばし2001年の日本に残して来た様々な人間や自分に関わる
事柄に想いを馳せていた。誰も自分の勝手で失わせてはならないのだと思う。
しかも、子供の頃に戻っても16年後に今の自分になれないなんて…と。

もう一度マックを見た時、さっきまでとはまるで違うオーラを発していることを感じていた。
mamiは次第に震え出す身体を両手で押えるのがやっとだった。
「mami、キミには起こってしまった過去の事実を書き換える空しさが判る筈だ。
私がキミを選んでブライアンの中に招待したのも、どんな酷い運命が人間に課せられたとしても
人にはその後の選択を誰にも邪魔されずに生きて行く権利があるということを、キミ自身がジョンと
いう男を追う中で学んでいたからだったんだ。願っていただろう?アフロのジョンに逢いたいと」
「一番の願いはこれからのジョンと縁側で日本茶を飲むことですが…」

mamiは笑い声を耳にした。豪快に楽しそうに笑う聴き慣れた声だった。

「先のことは自分でやれるさ。僕はあれだけの才能と腕を持ちながら引退して行ったジョンが、まともだった時代の最後に考えていたことにキミを立ち合わせたかったんだ。僕の大切なジョンを誤解して欲しくなかった。キミなら本当のジョンをしっかり受け止めることができる筈だから」

その声にmamiはどうしようもなく泣けてきた。
ぼろぼろと涙が溢れ出して止まらない。

mamiは今、やっとすべてがわかった。
マックを名乗っている男をもうマックだとは思えなかったからだ。

「フレディ…」mamiは声を振り絞って呼びかけた。

マックは何も答えなかったが、目をこちらに向けたまま顔だけ少し横に向けて
軽くウィンクを返して来た。

「どうしたら日本に帰ることができるのか…今すぐ教えてください」
mamiは気を取り戻したマックに向って呟く。
マックは黙って頷いた。
その顔からは稀有な才能を持った天才歌手の面影は消え失せていた。

9.ショウ・マスト・ゴー・オン

戻るのは簡単だった。マックはひと通りmamiの…否、ブライアンの頭をなで繰り回し、
「あぁ、ここだ。ここがツボ」と言うや長くて邪魔臭いカーリーヘアを掻き上げて、その地肌の
部分にマジックでばってんを書いた。
「ここをちょっとだけ刺激してやるとブライアンが戻って来る。ブライアンの意識が完全に戻ると
自動的にキミが排除されて戻れるという訳だ。但し―」
「但し、なんですか?」mamiは嫌な予感がした。
「キミはここでの体験を全て忘れることになる」

予想通りだった。
「何もかも忘れてしまうんですね…?」
「あぁ。なかったことと同じさ」
「私はどこに戻るんですか?」
「キミがブライアンに入ってくる少し前に設定しておいた。だから空白の
時間の歪を心配することはない」

mamiはジョンとのやり取りをもう一度しっかり辿る時間が欲しかった。
せめて消される前にもう一度だけ、と。
しかしそれにもマックは首を縦に振らなかった。
「mami、ここで起こった全てがたった一度だけ蘇る時がキミにも来る」
「え?じゃやっぱり完全に忘れ去る訳ではないんですね…?」
「それはキミが人生を終える直前だがね」
「何とか…ここでの記憶を少しでも残しておけないんですか?」
「それはできない。だいたい、そうしてしまうと私の都合が悪い」

「…わかりました」
mamiはもう後戻りしないと決めた。

これだけの体験を次に思い出せるのは死ぬ間際なのだというのも
実にジョン・ディーコンファンにとって相応しいことではないか。
mamiはジョン・ディーコンに出会った時から、長く終わりの来ない生き地獄を
歩み始めていたのだ。それに気付きながら懲りもせずにジョンを追い続け
生きて来たのだから、これからも続いて行くのは本望なのだ悟っていた。

mamiはブライアンのカーリーをかきあげ、地肌に書かれたばってんをマックに向けた。
マックはトンカチを振り上げながら最後の言葉をmamiに贈った。

「ベスト・ウィッシュズ!」

mamiは遠ざかる意識の中で、確かに今ジョンの鼻声を聞いた気がした。

(了)
2001. 6.24

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