雨の庭(後編)
Written by MMさん
いつにまにかジョンは、屋敷の中に自由に出入りするようになっていた。
ジョン自身は気乗りしなかったが、彼女がそうするように望んだのである。
だが…気乗りがしない…という言い方は正しくないかもしれない。
目を見張るばかりの美女という人ではなかった。
あくが強い。世間一般では賛否両論が分かれるタイプだ。支持する人はするが、支持しない人は絶対にしない。
そういう人だ。だが周囲の評価など、どうでもいい。
ジョンが何気なく入ったその小劇場で、彼はカウンターパンチを食らう。
芝居がどうこう言うのではない、その圧倒的な存在感だった。
太陽のように眩しく、星のように煌びやかで、炎のように熱い、その存在感…。
悪天候にもかかわらず、ジョンは楽屋口で彼女が登場するのを待っていた。そして…。
まだ誰も彼女や彼女を取り囲むブレーンの名前を知らない、遠い昔の話である。
実際の彼は、ワゴンに庭仕事の道具を積んで、東に西に駆けずり回り、木を剪定し、花を植え、
家に戻れば少し持て余され気味の、ありきたりな人生の中にいる。
だが、その小さな世界に身を置きながら、ジョンは実際には存在しない、もっと大きく羽ばたく幻の人生を
ずっと胸に抱いてきたのだ。
レディーとともに生きる自分。クイーンに添うナイトとしての人生を…。
ジョンにはわかっていた。それがはたから見ればどれほど馬鹿げているかを。
他人に話して、愚弄され、引き裂かれるのは嫌だった。
夢物語をひたすら隠していたのは、そういう理由からだった。
これは子供の城と同じ。大人から見ればくだらない、だが本人にとってはかけがえのない宝物。
だから自分の心の中だけで暖めていればいい。それで十分だ。満足だった。
幻とわかっているからこそ、心のバランスを保ってきたのに…
それが突然、大きく膨らみ始め、現実を脅かし始めていることに、ジョンは恐怖を憶えるようになった。
このままこの屋敷に出入りを続けていたら、いつか幻に自分が乗っ取られてしまうのではないか、と。
だが…走り出したこのもう一つの世界を止めるのが容易でないことも、彼は知っている。
花壇の花の種類が増える毎に、ジョンとレディーとの間は、確実に狭まっていた。
「あなたは私を嫌っているのだとばかり思っていたわ」。
レディーは含み笑いをして言う。
「だって、全然お話して下さらないんだもの」。
ジョンは少し身をかがめた格好で、レディーから離れた場所に座っている。
「話すのは苦手なんです」。
「だから庭師に?」。
ジョンが驚いたようにレディーを見る。彼女はそうなんでしょ?、とでも言うような表情だ。
「だって、花や木はお話しなくてもよい相手だものね」。
ジョンはどう反応してよいのか悩み、挙句の果てに、泣いているのか笑っているのかわからない、
奇妙な顔をレディーに向けた。彼女はカラカラと笑った。大きな口から白い大きな歯が見えた。
他愛もない話で二人の時間を過ごす。
こうしている時も、ジョンは何度もこみ上げてくる言葉を、必死で喉元で押しとどめていた。
ずっとあなたを見てきました。あなたは私の大切な思い出、夢の中の女王…。
だがそれは言わない。決して口にはしない。
たとえ彼女の望みでも、自分が無害な人間だとブライアンが判断しなければ、ここには入られなかっただろう。
でも…別に、彼女に近づきたかったから黙っているわけじゃない。
僕はただの庭師に過ぎないんだ、請われて庭をこさえる庭師さ。
ここに呼ばれて庭を整える…それを貫徹するだけだ、それ以外は何もないんだ。
彼女にまつわる様々な噂なんてどうでもいい、それを探るのは僕の仕事じゃない…。
だから、僕は何も言わない…。
出窓には、庭で咲いた薔薇が花瓶に挿してある。
レディーはそれを指で軽くさして言った。
「ブライに持ってきてもらったの、あなたに何の断りもなく勝手に鋏を入れてごめんなさい」。
「謝ること、ありません」。
ジョンは小刻みに首を振った。
「あなたの庭です」。
「そうだったわね」。
「何だったら私が切って持ってきます、頼んでください、遠慮なさらず」。
ジョンはそう言いながら、椅子に腰掛けるレディーの足を覆う毛布を見た。
如才のない人ならこういう時、上手に慰めるのだろう。だがジョンにはそんな器用さはない。
「本当はあの庭をもっと近くで見たいの」。
レディーは、まるで独り言のようにつぶやく。ジョンは黙っていた。聞こえていない振りをした。
視線を感じる。痛いほどの彼女の視線を。
今彼女が何を望んでいるのか、ジョンにははっきりわかる。そして自分がそれを承知する立場にないことも。
レディー、もうそれ以上は何も言わないで。ジョンは沈黙を守っていた。まるで何時間にも感じる静寂。
それを彼女の懇願する声がやぶった。彼女は言った。
「Mr.ディーコン、連れていってくれる?、庭に…」。
「出来ません…」。
「どうして?」。
「そんな立場じゃない」。
レディーはジョンを手招きした。
恐る恐るジョンが近づくと、その頬に手を伸ばし、俯き加減だった顔を無理やり起こす。
そして彼の目を見て、もう一度言う。
「あそこは私の庭、私はあなたの主人、あなたは十分その立場にあるわ」。
「私は…ただの庭師なんです…」。
「庭師は主人を庭に案内するものよ」。
窓から外をそっと覗く。ある程度は庭を見ることができる。だが…木にかくれて見えない部分も数箇所ある…。
そう、庭はそこに立って見ることを計算して作られたものだった。
「抱き上げて頂戴、あなたがいつも使ってる出入口を使えばいいのよ」。
ジョンはそっと…まるで壊れ物に触るかのように、レディーの足と背中に腕を回し、ゆっくり持ち上げた。
羽のように軽かった。
そのまま、他の者がいないことを確かめて、階段を足音を忍ばせて降りていく。
レディーが囁いた。
「お姫様になったような気持ちね」。
女王様だよ、ジョンは心の中でつぶやいた。そして僕はその女王様を守るナイト…。
奇妙な気持ちだ。今までこんな風にヴェラを抱き上げたこともないのに。
今自分の腕の中には、レディーがいる、本当にいる。
夢のようなこの甘い時間に酔い、ジョンは声をかけたい衝動に駆られていた。
そう、ずっと、あの雨の日以来、あなたの視線に射られたあの瞬間から
僕の人生には、すっとあなたが添い続けていたのだ…と。
だが駄目だ、それを言ったらすべてが終わってしまう。
それは魔法を解いてしまう言葉、今こうして腕に中にいる彼女も、この自分が手をかけた美しい庭も、
すべてが消え去ってしまう。言ってはならない、言ってはならない。
僕は…鏡の中の世界には入れないんだ…。
東屋の椅子にレディーを降ろす。
計算したわけではなかったが、格子に施した蔦が、うまい具合に要塞の役目を果たしていた。
容易に中を覗けないようになっていたのだ。
レディーを花壇に向けて座らせ、ジョンは下から順番に指を指していった。
「一番手前は背丈の低い花、奥にいくにつれて次第に背の高い花を植える、こうして花の壁を作るんです」。
そして、レディーを再び抱き上げて、反対側へ。そこも同じように段差がつくられていた。
ただし植えてある花は、先ほどの花とは別の種類だ。360度に渡り違う花を高さを変えて植え込んであるのだ。
次。格子に取り付けた鉢植えを見る。ジョンはわざとそれぞれのぶらさげる位置を微妙にずらしていた。
こうして全体に躍動感を与える。
次、ジョンが一番力を入れたトピアリーの数々。
人口池のほとりに、アヒルの親子、それを狙う猫。走る馬、居眠りをする犬、今にも飛び上がりそうな兎…。
「動物ばっかりね」。
レディーは、少しからかうように言った。ジョンは不適な微笑みを浮かべている。
別の東屋に入ったところで、レディーが小さい悲鳴をあげた。
麦わら帽子を被った小さな女の子が立っていた。ジョンがクックと笑った。
「よく見て」。
…まったく手が込んでいる。それもトピアリーだった。娘が昔着ていた服を失敬して作ったのだ。
「人が悪いわ、驚かせないで」。
ジョンの腕の中で、レディーは罰が悪そうな顔をしていた。
東屋で二人は寄り添って座り、花を見つめ、鳥のさえずりを聞いていた。
レディーはいつのまにか、うつろな表情でジョンに体を預けている。
至福の時…。この庭の中で幻が次第に現実を凌駕しようとしている…。
レディーの肩にまわした.自分の腕に当たる感触は、ジョンの背筋を凍らせた。
だが…今は何も考えるまい。この瞬間だけは、どんな現実にも目を瞑ろう。何も聞かない、何も見ない。
目に映らないものを信じよう。ジョンに寄り添ってきたもう一つの、実際には有り得なかった世界に身をゆだねよう…。
僕はナイトになって、女王を守る…。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
誰かが近づいてくる。
我に返ったジョンの目の前に、蒼白な顔で息を切らしたブライアンが立っていた。
「何をしてるんですか!」。
呆気にとられているジョンを押しのけて、ブライアンはすぐにレディーを抱き上げた。
ブライアンは慌しく東屋を出て、裏口に向かった。ジョンがすかさず後を追う。
「何か不都合が…?」。
「不都合?」。
「蔦で外からはうまく見えないようになってたんです」。
普段の彼とは全く別人のように、言葉が飛び出した。
突然、現実の世界に引き戻され、ジョンは混乱していたのだ。
「あなた方が心配するようなことなんか、ほとんどなかったのに、あそこならほとんど
見られることなんかないのに、彼女は庭を見たがっていたんだ、二階の窓からじゃよく見えない、
もっとよく見たい、そう頼まれたんだ、だから」。
ブライアンがくるりと振り向き、ジョンを睨みつけていた。憎悪と不信が溢れていた。
「だから?」。
ブライアンが聞き返す。
「だから外に連れ出した?」。
ジョンは言葉を失った。
彼の腕の中にいるレディーを見た瞬間、自分は大変なことを仕出かしたのだと解った。
彼女はぐったりしていた。
ブライアンは、吐き捨てるように一言言うと、急いで屋敷に入っていった。
「何も事情を知らないくせに!」。
ジョンは、庭に一人取り残された…。
屋敷の中が、にわかに慌ただしくなる。医者が激しく出入りし、様々な機械が運び込まれる。
何かが起ころうとしているのは明らかだ。
レディーは、彼が考えていた以上に重症だった。後悔がジョンを押し潰そうとしていた。
結局、自分自身で魔法を解いてしまったのである。なんと愚かな…。なんと軽率な…。
確かに長年心の中に温めていた幻は、一瞬だけでも現実になった。
だがこんな形で失いたくなかった。ジョンの鋏は鈍りつつある。もうここには来ない方がいいのかもしれない。
レディーと共に過ごした東屋で、ジョンはぼんやり花を見つめている。
人の気配がした。顔をあげた。あの恐怖の瞬間と同じように、ブライアンが立っている。
顔は相変わらず蒼白で、かなり疲れているようだった。彼はジョンの隣に腰掛けた。
しばらく沈黙が続いたが、口を開いたのはブライアンの方だった。
「レディーに責められました」。
ジョンは黙って聞いている。
「何故Mr.ディーコンを締め出すのかと」。
ジョンはため息をつく。かばう必要なんかないのに。ブライアンは続けた。
「もうわかっているとは思うけど…噂は本当です、体の抵抗力がほとんど失われてるんです、
外気は今の彼女には危険過ぎる、
ここ数年外部との接触を絶っていたのは、彼女がやせ衰えた姿を晒すのを義としなかったのもあるけど、
本当の理由はそういうことでした」。
ジョンは、恐る恐る聞く。彼女の容態はどうなのか…と。
今は落ち着いている、当分心配は要らないから、その答えを聞き、ジョンの胸のつかえは少し取れた。
ブライアンが少し笑って言う。
「あの後考えました、たぶん私があなただったら、やはり同じことをしただろうって」。
ジョンにとっては、少し意外な言葉だった。
ブライアンは東屋の壁の木目を指でなぞりながら、まるで独り言のように続けた。
「どうしてなのかな、彼女に頼まれると嫌だとは言えない、いえ、仕方なくやってるんじゃなくて、
心の底から本当にそうしてあげたくなってしまうんです、あなたに会ってもらったのも、そうでした、
昔からそうだったな、そうこうしているうちに、こんなに付き合いが長くなってしまって…
出来れば…庭に連れ出して、側で花を見せてあげたいって、それも何度も思っていましたよ
それが最近の一番大きな願いだったから…でも…」。
言葉が詰まった。ブライアンの目から、突然大きな涙がぼろぼろと零れ落ちた。
「そうすれば、彼女の命が確実に削られていくんです…」。
ブライアンはそれを拭うこともせず、壁に頭を押しつけて言った。
「どんどん弱っていく姿を側で見てるだけなんて…こっちは何にも出来ないのに…」。
ジョンは、レディーを抱きあげた時の尋常ではない軽さを思い出していた。
そして…肩を震わせるブライアンの姿を見ながら、残された時間が少ないことを知った。
レディーの横たわるベッドの周りは、今まで見たこともないような機械に囲まれている。まるで要塞みたいだ。
ジョンはわずかに残った庭の花を摘み窓際に飾った。そして彼女の側に座った。
レディーは言う。庭が見えなくなるから花瓶は別な所に置いて欲しい、と。
ジョンは無言でその通りにした。
「すっかり地味になったわね、庭も」。
「ほとんどの花は季節が終わりましたから」。
ジョンは素っ気なく答える。事務的な口調だった。レディーの視線は、庭からジョンに移っている。
彼はそれを知っていながら何も言わなかった。同じ間違いは繰り返したくない。
「ジョン」。
耳を疑う。思わず振り返る。レディーは相変わらず彼を見ている。
彼女は力のない笑顔を浮かべた。
「そう呼んでもいいでしょ?」。
大きな戸惑い。自分はこの人の何者でもないのに、何故ファーストネームで?。
「驚かないで、私たち友達でしょ?、嫌?、こんな大きな口と歯の女じゃ?」。
「そんなことありません…でも…」。
目を背けたジョンに向かって、レディーは突然真顔になって言った。
「そんなに自分を責めないで」。
ジョンは胸が締め付けられる思いがした。あれは明らかに過失だ。
何も知らないのに余計なことをし、そして彼女を危険に陥れた。
なのに、こんなちっぽけな存在の自分にそんな気遣いをしてくれるのか?。
レディー、違うだろう?、他の追随を許さない、化物とまで称されたあなたが、
誰をも軽々しく寄せ付けない太陽のようなあなたが、どうしてこんなしがない庭師に心を砕かなくちゃならないんだ?。
そんなことよしてくれ、僕の中ではあなたは女王なんだ、僕はあなたに近づき過ぎて火傷を負ってしまったよ、
なのに今度は、あなたから近づいてくるというのか?。遠い人のままでいてくれ。鏡の国の人であり続けてくれ。
残り少なくなった時間、僕に夢を見させ続けてくれ…。あなたが近くなればなる程…失うのが怖くなる…。
ジョンは彼女に背を向けて、動揺を探られないようにする。
これ以上は無理だ。仕事に戻る、そう言って部屋を出ようとする。
呼び止められた。こっちへ来て―握手くらいしてよ。ジョンは彼女の手を握る。すっかり骨張っていた。
「明日、また来て」。
レディーはジョンの背中にそう声をかけた。ジョンが少し振り返った時だ。
彼女ははっきりと、こう言った。
「すっかり白髪になったのね…」。
…すっかり…?。
ここに来た時からジョンの髪は十分白かった…。
雨、遠雷、ベルべットのジャケット、びしょ濡れのパンフレット…、
もう二十年以上も前の話だというのに…。
ジョンは、何も答えず、そっとドアを閉めた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
タイプライターの音が聞こえる。
キッチンの隣の小さな部屋を覗くと、ロジャーがくわえ煙草でキーを叩いていた。
彼はジョンに気がつくと、向い側の席をすすめた。
ジョンがそこに腰を降ろすと、ロジャーは間髪置かず言った。
「台本の清書をしてるんだ、さすがに手書きじゃ見えにくくてね」。
いつもと雰囲気が違うのは、サングラスではなく普通の眼鏡をかけているせいだろうか?。
彼は指を休めると、煙草の箱をジョンに向けた。ちょっと逡巡したが…気持ちを紛らわすためにはいいんだろう。
どうせ家じゃ吸えない。ヴェラににらまれる。一本失敬した。
ロジャーがすかさず、ジョンのくわえた煙草の先に火を灯した。
「馬鹿げてると思ってるだろう?」。
ロジャーが突然そう切り出した。
「もう舞台に上がれない役者のために台本なんか書いてさ」。
ジョンは黙っていた…この口ぶりじゃ、ロジャーも彼女の病気のことはずいぶん前からわかっていたんだろう。
彼はブライアンとは違って、まるで屈託無く話を続けた。
「でも、どういうわけか、彼女に頼まれると断れないんだ…快く引き受けたくなっちまうんだ…
おお、いいよって感じで…君もそうだろう?」。
言葉にはしなかったが、ジョンは躊躇することなく同意した。
「不思議なんだ、彼女はどんな人でも虜にしちまう、どんな奴だって、彼女の魅力にはかなわない、
彼女は傍にいるどんな人にも魔法をかけられるんだ、みんな彼女が好きになっちまう、
俺もブライアンもみんな魔法をかけられたんだよ、もう二十年間もそれは色褪せないで続いてる…」。
二十年間の魔法…ロジャーの言い方を借りれば、ジョンもあの雨の日、魔法にかけられた。
ただ彼らと違うのは、ジョンのかかった魔法は、変貌自在なことだった。
ブライアンやロジャーが、レディーを引き立てるためのブレーン以外は、何者にもなり得ないのに対し、
ジョンは自由だった。ソファーに横たわるレディーの隣を彼が占領することも出来た。
タイプライターを叩いて、彼女のための台本を清書することも。
そこでのジョンは、向日葵のように堂々としていた。レディー・マーキュリーという太陽の力強い光を浴びて
大輪の花を咲かせることが出来た…。
同じ魔法にかけられて二十年間を過ごしてきた三人。だがその中身はまるで違う。
彼らの経験や思い出には実体がある。揺るぎの無い真実の集合体だった。それでは自分は?。
所詮…ジョンは思う。自分が抱いてきたものはすべて影に過ぎなかったのだ、と。
現実のジョンは、やはり庭師以外の何者にもなり得ない。
あの時東屋でブライアンが流した涙が、そして屋敷に泊り込んで書かれているロジャーの台本が
レディーへの愛の証なら、自分が示せる証は何か―それは庭しかなかった。
どんなに自分が背伸びをしても、レディーと現実の時間を共有してきたあの二人にはかなわない。
彼らと同じような愛し方は出来ない。だったら、自分が出来る精一杯の証を見せるべきではないだろうか?。
ジョンはレディーの部屋に入った時、彼女がいつも庭を覗いている窓からの景色を確認した。
今までジョンは、地上の目線で庭を作っていた。
だが彼女はもう庭に下りることは出来ない。ここから見える世界が、外の世界のすべて。
この窓からの眺めを計算して、庭を作り変えよう。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
レディーの病状は確実に進んでいた。様々な機器が彼女の体に取り付けられた。
さらにやせ細り、しきりに咳き込み、医者が常駐するようになった。
もはや、いつ何が起こっても不思議ではない。
それでも彼女は、ロジャーの書いた台本に目を通し、鉛筆で書き込みを入れ、
ブライアンに舞台装置に関する指示を細かく出している。腕に点滴の針が刺さった状態で、だ。
ジョンが部屋を訪れた時には、彼女は何故かバナナの房を頭に乗せていた。
驚いて立ち尽くすジョンに向かい、レディーは点滴のチューブとその頭の上のバナナを指して、こう言った。
「新しい衣装よ、イカすでしょ?」。
その体は確実に終焉へと向かっているのに、この人の何と生気の溢れていることだろう。
ジョンは、体中にチューブを刺し込まれながらも、笑顔を絶やさないレディーに痛々しさを憶えると同時に
畏敬の念を抱いた。そうだ、やはりこの人はどうあっても女優だ。それを最後の瞬間まで貫こうとしている。
あの雨の日以来、ジョンが抱き続けた太陽は生き続けていた。
たとえ彼女がどんなに身近な人たちに愛想を振り撒こうと、気遣いをしようと…それは変わらない。
ショーは続く。いかなることがあっても。そうだ、続けようじゃないか。
再び雨がジョンの作業の邪魔をする。
あの楽屋口でジョンに大恥をかかせたオイルジャケットに、彼は再び身を包む。
もう花の季節は終わっている。普通なら冬支度だ。だが終わらせるわけにはいかない。
常緑樹を使ったトピアリーなら、まだ間に合うだろう。
かじかむ手を息で温めながら、ジョンはひたすら無心に鋏を動かした。
休むな、鋏を動かしつづけろ、庭師は庭に集中するんだ、ここがお前の仕事場、
そしてここが…お前の愛の証を残すべき所…。
さあ、ショーを続けよう。
偽者のナイトはもうレディーを抱き上げることはしないが、
そのかわり、本物の庭師が彼女の庭に魂を吹き込むのだ。魔法をかけてもらったお礼にね。
扱いやすい小ぶりの木を、あの窓からよく見える位置に集中して植え込んでいく。
もうワイヤーを使う時間の余裕はない。何の下ごしらえもしないまま、ジョンはそれらに鋏を入れていった。
何度も何度も脚立に上って上から形を確かめ、慎重に、なおかつ大胆に。
休憩時間も取らず、食事も摂らず、一心不乱に…。呪文のように同じ言葉が、彼の口から漏れる。
ショーを続けるんだ、ショーを。手を止めるな、時間が迫ってきている、ショーを続けろ…。
雨は降りつづけていた。ブライアンもロジャーも、なかなか屋敷から出てこなかった。
刻一刻と時が迫っているのを、ジョンは感じていた。でも…この鋏を休ませるわけにはいかない…。
遠雷が聞こえた。
雨はまたさらに激しくなった。まるで針が降っているようだ。
忌々しい雨…もう少し時間をくれ…空を恨めしく思い、ちょっと上を見上げた時だった。
あの窓が少しだけ開いたのが見えた。
ジョンは手を止め、しばらくその向こう側を伺った。人影が見えたような見えないような…。
少し移動して背伸びをする。額に手をかざして、顔にかかる水滴を遮りながら、目を凝らす。
レディーがいた。
あの二人に体を支えられたレディーが、こっちを見ていた。
彼女の唇が動く。何かを言っている。
雨と雷に妨害されて声は聞こえなかったが、ジョンにはその動きで分かった。
SHOW MUST GO ON
ジョンが親指を立てて答えると、今度は、ロジャーが、ジョンに向かってこっちに来いとでも言うように手招きしている。
ジョンは手に握っていた鋏で空を切る真似をして見せた。
後で、もう少ししたら…一段落ついたら…。
ジョンは窓を閉めろという身振りをした。
レディーの体が冷えてしまう…。ブライアンが納得した顔で頷いた。
その隣で、レディーが…片手にバナナを持っておどけていた。
ジョンは手を振り返した。窓が閉まった。
それが…ジョンが見た彼女の最後の笑顔だった…。
主のいない空っぽのベッドの脇に立ち、ジョンは窓から庭を見下ろしている。
そこには、木を横側から刈り込んで形作った不死鳥が、大きく翼を広げていた。
彼がチェストの引き出しに仕舞い込んだ、あのパンフレットに描かれていた絵と同じ、不死鳥が…。
* * * * * * * * * * * * * * *
書きかけのあの脚本に日の目が当たるまで、何年もかかってしまった理由は
何となくわかるような気がする。
彼らは、レディーの抜けた穴を埋める者がいないことを、よく知っていたのだろう。
だが、再び行動を起こしたのは、喪失感を払拭出来たからなのだろうか?。
それとも、悲しみを紛らわすためなのだろうか?。
あるいは、これが彼らなりの、追悼の仕方なのだろうか?。
ジョンは、送られてきた一枚の招待券を見ながら、いろいろと考えを巡らせている。
レディーの家は、現在、あの二人が管理しているらしい。
何度か庭の手入れを頼まれたが、ジョンはすべて断った。
果たしてあの不死鳥がどうなっているのか、それはもはや彼の知るところではなかった。
彼は、年頃を迎えた娘に券を渡す。
ハリウッド映画の某に熱を上げるのもいいが、たまにこういう落ち着いたものも見ろ…と。
娘はそれを暖炉の上に無造作に置いて出かけようとし、慌てて戻ってきた。大雨だと騒いで。
「雨がなんだ」。
「だって汚れちゃうじゃない」。
「オイルジャケット着ろよ」。
露骨に嫌な顔をする娘。
「いやよ!、あんなダサいの!」。
家中ひっかき回して傘を捜す娘の肩からぶら下がったバックに、ジョンは暖炉の上の券を取り上げて突っ込んだ。
「持ってろ、なくするから」。
ああ、これでまた嫌われたな…ジョンはそう思いながら、自分も仕事に出かける用意を始めた。
果たして、自分が立ち直っているのかどうか、それはジョン自身にもはっきりわからない。
ただ、幸か不幸か、彼には家庭がある。動かしがたい現実の暮らしが。
それは、レディーがいた時には足かせで、いない今では、逆に救いになっている。
この他愛もない日常が、彼の心の平衡を保っていてくれる。
小部屋にはあまり引きこもらなくなった。引出しにも手をかけていない。
子供たちが大きくなって、家に居つかなくなり、親父の居場所が出来たからかもしれない。
(これはヴェラの言い方だった)。
それでも…どうしても、その舞台を見る勇気は、ジョンの中には起こらなかった。
おそらく…スポットライトの中に、自分は彼女の姿を見ようとするだろう。声を聞こうとするだろう。
だが、実際そこにいるには、全くの別人なのだ。ジョンが全く知らない別人。
もう幻影とはおさらばしたい。
そう思いながら、ただ一つだけ、ジョンには心に残しておきたいものがある。
かつて自分の人生にレディーの影が寄り添っていたように、
彼女の人生にも、びしょ濡れになった栗色の髪の自分が寄り添っていた…。
そのくらいの夢物語は、許してくれてもいいんじゃない…?。
雨に濡れる窓を見ながら、ジョンは誰に言うわけでもなくつぶやいた。
さあ、出かけよう、この雨だから、ひょっとすると仕事にならないかもしれないが。
日常生活を続けること…これがジョンにとってのSHOW MUST GO ON―。
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