ハイジロー
Written by MMさん
ハイジローがデーテおばさんに連れられて、ジムおんじいの所へ来たのは、5歳の時だった。
ハイジローは生まれてすぐに親が亡くなったみなし子だ。
アフロで色白でほがらかで好奇心の塊のハイジローは、最初はデーテおばさんが育てていたが、
大人が答え辛い質問ばかり執拗にするので鬱陶しくなり、ジムおんじいに引き取ってもらうことにしたのだ。
ジムおんじいは、山間の小さな村に住んでいた。
村には、ペータという羊飼いの子供がいた。ハイジローはすぐにペータと仲良くなった。
ペータは金髪でちょっと太めで言葉使いも乱暴だったが、色男でモテモテで、いつも女の子を数人はべらせていた。
そして、いろんなことを知っていた。
だから、好奇心旺盛なハイジローは、ペータのことをとても尊敬していた。
ジムおんじいに聞けばうるさがられることも、ペータなら快く答えてくれるのだ。
ペータが気に入っている遊びは、お医者さんごっこ。ペータの説によると、お医者さんごっこには、
三段階あるらしい。
A=問診
B=触診
C=お注射
ハイジローは、AとBはすぐに理解したが、Cについてはよくわからなかった。
実は物知りペータにも、わからないことがあったのだ。
「調べとくから、待ってろ」。
ペータは会うたびにそう言った。そうか、そのうちわかるんだな。よしよし。
ところが、ハイジローは突然村から離れることになった。
デーテおばさんが、街へハイジローを連れていくことになったからだ。
デーテおばさんは、知り合いに、健康な子供をある家に連れてきて欲しいと頼まれていた。
なんでも、そこの坊ちゃんは、体が弱く外にも出ずいつも一人きり。
それではいくらなんでも情操教育上よろしくないということで、遊び相手を探しているらしい。
おばさんの頭に、すぐハイジローが浮かんだ。ハイジローの旺盛な好奇心は、大人には鬱陶しかったが、
都会暮らしで体が弱く退屈気味の子供にはちょうどよさそうだった。体は丈夫だし、年の頃も相手とぴったり。
急に友達から引き離されるので、さぞかしハイジローはがっかりしているかと思いきや、意外にけろっとしていた。
ハイジローはノンポリだった。細かいことは気にしないのだ。
心残りはただ一つ、Cのお注射のことが、はっきりわからなかったことだけだ。
そのお屋敷にいたのは、背が高くて蒼白い顔をしたちりちり頭の御婦人と、車椅子に乗った黒い髪の男の子だ。
御婦人は、この家の家政婦頭兼家庭教師兼庭師兼ボイラー係兼執事のロッテンメイヤーさんで、
器用さが災いして、何でも任せられて忙しい人なので、いつも機嫌が悪かった。
車椅子の男の子…この子がハイジローの遊び相手の、フラディーだ。
黒い髪を長めの坊ちゃんカットにした、ちょっと変わった風貌の子だ。
お父さんもお母さんも、仕事が忙しくて、いつも家にいないそうだ。
それで、フラディーは、ほとんどこの家で、気難しいロッテンメイヤーさんと二人きりだった。
ハイジローは来てみてびっくりだった。自分の役目はフラディーの遊び相手と聞いていたのだが、
実際は勉強仲間だったからだ。
どうしよう。勉強なんかできないよぉ。
フラディーは大丈夫大丈夫、とハイジローを励ました。
「だって、ABCを習うんだよ」。
そうか、それなら安心…AとBはもう知ってるからね。Aは問診。Bは触診。Cはお注射…。
ロッテンメイヤーさんにそう説明したら、突然テニスラケットみたいなお仕置きグッズが飛び出して、
ハイジローのお尻を襲った。ばしっ!、ばしっ!、ばしっ!…。
そうか、ここは外国なんだ、だからABCの意味が変わるに違いない。
所変われば、品変わる…。
フラディーはハイジローの知っているABCを詳しく知りたがった。
フラディーも結構好奇心旺盛だ。
ハイジローは、詳しく教えてあげたかったが、残念ながらまだお注射については知らない。
たぶん、田舎で今ペータが一生懸命調べてくれているところだ。
だから、わかったらフラディーにも教えてあげるね。
フラディーは体の自由がきかなかったので、いつも絵を描いたり刺繍をしたりしていた。
とても上手だった。よくかっこいいロゴを書いて、それを下地にしたテーブルクロスを作っていた。
時々フラディーは、ハイジローに絵を描いてとせがんだ。
でもハイジローは、フラディーの上手な絵を見ると気後れして、断りつづけた。
ハイジローは、俗に言う「いたずら書き」しかできなかった。
ロッテンメイヤーさんのお勉強の時間は、ハイジローには退屈極まりないものだった。
算数はまあまあだが、とにかく話が長い。くどい。脱線ばかりしてわけわかんない…。
一番苦痛だったのは、音楽の時間。ロッテンメイヤーさんはギターが得意だったが、
得意すぎて、時々弾いているうちにどこか遠くの世界に行ってしまう。
なが〜いなが〜いギターソロが、延々と続く。
フラディーはそれほど嫌ではないようで、目を瞑って聞き入っているような顔をしていた。
でも本当は眠っているのかもしれない。
のんびりした風貌からは想像もつかないが、実はハイジローは短気で飽きっぽい。
だからロッテンメイヤーさんのなが〜いなが〜いソロワークが始まると、
ついノートにいたずら書きをして遊んでしまう。
ある時、フラディーがそれを覗き込んで、指差しながら囁いた。
「君、絵が描けるじゃない」。
え、どれどれ?。フラディーの指の先にあったのは、「へのへのもへじ」だった。
「これ…ただのいたずら描きだよ」。
ハイジローがばつが悪そうにそれを隠そうとすると、フラディーはハイジローの手をどけて
自分の鉛筆で、「も」の字を指した。
「ここをもっと強調するんだ」。
あれあれ、そうすると不思議不思議。「へのへのもへじ」は、ハイジローそっくりになった。
二人は顔を見合わせて、ぷっと吹き出した。
フラディーは自分のノートを見せながら言った。
「ぼくね、何度も君の顔を描いてみたんだ」。
ノートの片隅には、たくさんのハイジローの似顔絵が並んでいた。どれも写実的でとても上手だとハイジローは思った。
でもフラディーは気に入っていなかった。
「どうしても、片一方の目がうまくいかないんだ」。
そういえば、全部、向って左側の目が書き込まれていない。
フラディーはうっとりとハイジローを見つめた。
「君はすごいよ、こんな少ない線だけで自分を表現できるなんて、ピカソに匹敵する才能だね」。
ピカソ?。それって何だろう?。ピカピカしてるのかな。ジムおんじいの頭みたいに。
何だかよくわからないけど、とにかくフラディーがとても喜んだので、嬉しくなったハイジローは、
たくさんの「へのへのもへじ」を描いた。自分のノートだけでは描き足りなくて、フレディーのノートに。
それでも描き足りなくて机に。それでもまだ描き足りなくて壁に。
ロッテンメイヤーさんが我に帰った時、壁は「へのへのもへじ」で溢れかえっていた。
そこは、どこもかしこも「へのへのもへじ」な、「へのへのもへじ」の部屋だった。
その日一日、ロッテンメイヤーさんは、ハイジローへのお仕置きと、壁の塗り替えに追われた。
ロッテンメイヤーさんは器用だから、家の修繕もしなければならないのだ。
こんな雑事に忙殺されて、ロッテンメイヤーさんはいつも機嫌が悪い。
お尻を叩かれ過ぎたからというわけでもないだろうが、やがてハイジローの様子がだんだんおかしくなってきた。
笑わなくなり、いつもぼんやりしていた。アフロがだんだん縮んでいった。
フラディーは心配になった。きっとお医者さんごっこがしたいんだろうと思った。
でも、問診しても触診しても、ハイジローはちっとも元気にならなかった。
お注射がないからダメなのかな。でもどうやってやるのか、フラディーも知らない。
困ったな、困ったな…で、本当のお医者さんに診てもらった。すると…。
実はハイジローは…極度のホームシックにかかっていたのである。
慣れない都会生活に神経をすり減らしながら、それでもフラディーに気を使って我慢に我慢を重ねていたのだ。
何にも考えていないようで、実はとても繊細な子供なのだ。
このままではどんどん病気が重くなるということで、ハイジローは一旦田舎に戻ることになった。
フラディーは寂しがったが、ハイジローはきっとまた会えるよ、と言って、お屋敷を去って行った。
田舎に戻ってしばらくすると、ハイジローは再び元気になった。アフロもふくらんだ。
そしてペータとそのガールフレンドたちと一緒に、お医者さんごっこのAとBにいそしんだ。
でもハイジローには、フラディーを気にかけない日は一日もなかった。
そんなハイジローのもとに、素敵な知らせが舞い込んできた。
フラディーが、療養のため、田舎に来る事になったのだ。
これは楽しみ。だってフラディーも、お医者さんごっこのお注射の謎を知りたがっていたから。
ペータも、フラディーが来るまでに、お注射の方法を調べておくと約束してくれた。
久々にお友達に会える。ハイジローの胸は高鳴った。
フラディーは、ロッテンメイヤーさんと一緒にやってきた。
ジムおんじいの家は狭かったので、二人はペータの家に泊まることになった。
ところが、ペータの家は、あちこちガタがきていた。
ペータが暴れん坊で、あちこちドンドン叩くので、壁のいたるところ、穴があいていたのだ。
たまりかねて、ロッテンメイヤーさんは修繕することにした。
だから忙しくなってしまったロッテンメイヤーさんは、フラディーの面倒をハイジローとペータに
任せることにした。
ペータは力持ちだったから、フラディーは車椅子から抱きおろしてもらい、クローバーの上で
寝そべって遊んだ。すっかり田舎が気に入ったようだ。
ところで、フラディーが草の上でごろごろ転がってる間、主のいない車椅子を見ていたペータは、
ある衝動に駆られた。ペータは車輪のついたものを見ると、いてもたってもいられなくなる。
「ちょっとくらいなら…」。
そう。ペータは車椅子に乗ってみたかったのだ。しかし体を乗せたとたん。
バキッ。
ペータは地面にお尻をついた。大変だ。車椅子が壊れてしまった。重量オーバーだった。
車椅子は、結局ロッテンメイヤーさんが作り直すことになった。
「また仕事が増えちゃったぢゃないの!」。
器用さが災いして忙しいロッテンメイヤーさんは、今日も機嫌が悪い。
フラディーは、ハイジローとペータが追いかけっこをしている間、草の上に座って一人静かに刺繍をしていた。
自然の風はとてもフラディーを元気にしてくれた。フラディーはご機嫌だった。
でも、ペータはうかない顔をしていた。車椅子を壊した犯人だから?。
いや、それだけじゃない。
ペータは最近、お医者さんごっこのお注射の方法をついに知ったそうだ。
「すごいじゃん、すごいじゃん、フラディーにも教えなきゃ」。
はしゃぐハイジローに向かって、ペータは首を横に振ると、
ハイジローを連れてフラディーから離れた所にある木陰へと入っていった。そして言った。
「フラディーはお注射できないんだよ」。
「え、どして?」。
「お注射はね、足腰が丈夫な人じゃなきゃ出来ないんだ」。
どび〜ん!、がび〜ん!、はげびび〜ん!。
ハイジローはペータからお注射の仕方を教わった。
確かに足腰が丈夫な人じゃないと、出来そうもないことだった。
折角、ずっと知りたいと思っていたことがわかったのに、ハイジローには喜びがなかった。
そうだ、だって、フラディーだって、お医者さんごっこの完結編を楽しみにしていたのだから。
なのに、出来ないなんて。そんなことを知ったら、フラディーが落ち込んでしまうじゃないか。
ペータは仁王立ちでお空を見上げてつぶやいた。
「でもこれが現実なのさ」。
ハイジローは悩んだ。こんな残酷な宣告、ボクには出来ないよ。
フラディーががっかりする顔なんて、見たくないよ。
「ハイジロー、仕方ないんだよ、これがオレたちに課せられた役目なんだよ、
ミラクルが起きない限りは、この現実からは逃れられないんだ、
お前から言うのが嫌なら、オレが言うよ」。
のっしのっしと歩くペータの後ろを、ハイジローはうつむいて小走りに付いて行った。
出来ることなら、ここから逃げ出したかった。
フラディーは、目を覚ました。
どうやらうたた寝をしてしまったようだ。手元を見ると、おや、刺繍をしていた布がない。
周りを見回すと、ああ、あんなところに!。
居眠りしている間に、手から離れて風に飛ばされたようだ。
取ろうと手を伸ばしたが、届かない。あれ、困ったな。
自分の周りにいるのは、ペータが面倒を見ている羊ばっかり。
「ね、羊さん、そこの布地取ってくれる?」。
フラディーは無駄だと分かっていながら、一応声をかけてみた。
案の定、羊はメーメーメーとだけ言うと、ぷいと去っていってしまった。
大きなため息をついて、フラディーは頭をポリポリかいた。
急にフラディーに名案が浮かんだ。そうだ。転がっていけばいいんだ。
い、も、む、し、ごーろごろって。すごい!。ボクってなんて頭がいいんだろう!。
すると、さっきの羊が布をくわえた。持ってきてくれるのかなと期待したらとんでもない。
もごもご、と食べ始めたじゃないか!。
「あ!、ダメだよぉ!」。
フラディーは叫んだ。そして咄嗟に地面に手をついて、体を起こした時だった。
「?」。
不思議な感覚だった。世界が突然大きくなったような感じがした。
「あれ?、何か変だな、どうしたんだろう?」。
ぺータとハイジローがこっちへ向かってくるのが見える。
フラディーは手を振って二人を呼んだ。
「ねえ!、そこの羊のくわえてる布を取り返してくれる?」。
顔を上げた二人は、驚いたような顔をしていた。そして互いに顔を見合わせた。
彼らが見たものは…しっかりと自分の足で立っている、フラディーの姿だった。
ペータが思わずつぶやいた。
「ああ…ミラクルだ」。
フラディーが完全に歩けるようになるまでには、もっと練習が必要だ。
でも、ハイジローとペータは、残念な報告をしないで済んだ。
一生懸命歩く練習をすれば、フラディーもいつかお医者さんごっこが出来る。
でも、ロッテンメイヤーさんは、心の底から喜べなかった。
だって、今度は歩行器も作らなければならなくなったから。
それでなくても、村中の人がロッテンメイヤーさんの噂を聞きつけて、いろんな修繕工事を頼むものだから、
忙しくて大変だというのに、さらに忙しくなってしまうではないか。
器用さが災いして、忙殺気味のロッテンメイヤーさんは、今日もまた機嫌が悪い。
新しい車椅子も完成し、田舎での暮らしを一旦終え、フラディーは都会に戻ることになった。
フラディーは別れ際、ハイジローに紙包みを一つ渡した。
「これ、プレゼントだよ、後で開けてみてね」。
ハイジローはうれしそうにそれを受け取ると、胸にしっかりと抱いた。
「また来てね、フラディー」。
「君もまた、お屋敷に来てよ、ペータも連れて」。
そう言うと、フラディーはハイジローの耳元に口を寄せて、そっとささやいた。
「三人で、お医者さんごっこしようね」。
三人…?。フラディーとボクとペータ?。あれ?。女の子がいないぞ。
まあ、いいや、その時は、ボインボインでお尻の大きな女の子を何人か一緒に連れていかなきゃ。
ハイジローは、大きくうなずいた。
紙包みの中味は、一枚の布だった。
広げてみて、ハイジローは思わず「アッ」と声をあげた。
ちょっと「も」が強調された「へのへのもへじ」の刺繍をほどこした、テーブルクロス。
何故か端っこが少しちぎれていたが、その「へのへのもへじ」の頭の所には、
アフロの前髪らしきくるくる模様が入っていて、横には丁寧なロゴで、こう書かれていた。
「ハイジローへ、愛を込めて、フラディーより、 X X X」。
<お、わ、り。>