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A Beautiful Day

Written by la chatさん

ウェンブリー・スタジアムは、去年よりも広くなったような気がした。目眩がしそうなくらいに。

今日は、酷かった。とにかく、フレディの調子が良くなかった。7月だと言うのに肌寒く、雨まで降ってきて、彼にとっては最悪の天候だった。
彼はステージ上を駆け回りながらも、観客に背を向けた瞬間に険しい表情を見せていた。着替えのためにステージ裏に入ると自分自身に向かって悪態を吐いた。しかし、力めば力むほど喉が閉じてしまう。苦しむフレディを見守るうちに、ブライアンのフレージングが滑らかさを欠くようになり、次第にバンド全体がバランスを失ってしまった。

もう15年もバンドをやっていて、歯車の噛み合わないことなんか、何回となく経験してきた。だが、妙に納得顔をしたり、諦めたりはできない。俺たちにとって何百回のうちの一回であっても、観客にしてみれば、その「一回」が全てなのだ。
俺たちの仕事は、アルバム制作もツアーも、 “お芸術” なんぞでなく、エンターテインメントだ。聴衆を楽しませることが第一義であり、俺たちはそのために努力し、その結果を享受してきた。そして今回のツアーは、過去最大のステージセットを携えて、ヨーロッパ中を駆け巡るものとなった。その中でも、ウェンブリーは重要な場所だ。
ちょうど1年前、ここで俺たちは、生まれ変わったかのようなカタルシスを得たのだ。

夕方から降り出した雨が激しくなり、ステージにも吹き込んで来た。昔と違って、まず感電の心配はないが、あまり気持ちのいいものではない。足元は滑りやすくなり、楽器を含め機材にも、いいことは何もない。結局、雨は最後まで止まなかった。
まったく、この雨と言い、俺たちの出来と言い、どうしようもなかった。それでも観客は、歓声を上げ、手を振り、一緒に歌って俺たちを支えてくれた。フレディは終盤になって少し回復し、今度は観客と一緒に、雨に向かって悪態を吐いた。彼は最後に、ずぶ濡れになった観客に賛辞を送ったが、それは俺たち全員が思っていたことだった。

ステージを降り、慌しくリムジンに押し込まれる。ライヴが終わるなり、俺たちは、とんでもない速さで運ばれる。この国に、これ以上迅速な輸送機関はないだろう。
リアシートに身を沈めて目を閉じる。俺の身体の中で、興奮と疲労とが入れ替わって行く。
だんだんと重くなっていく身体がタバコを求めていた。キャビネットに手を伸ばし、タバコを取り出す。火を点けようとする手が小さく震えた。課題だらけではあったが、とにかく今日が終わった。
しかし、明日がどうなるのか、どうするのか。俺たちには責任があった。

リムジンは家の正面ではなく、庭の脇の通用口の前に止まった。一体、誰がこういう差配をするのか、俺自身も知らない。前後をセキュリティ・サービスにガードされながら、ステージを降りた時そのままの格好で、俺は小さな門を潜った。門に鍵をかけた家政婦を労い、彼女の後に付いて勝手口に行こうとすると
「あら、いけませんよ、ミスター・ディーコン。ちゃんと玄関からお入りになって下さいな」
「あ・・・そうか。ありがとう、ベッツィ」
振り向いた俺の目に、ポーチの灯が眩しかった。
ドアは、ヴェラが開けてくれた。
「お帰りなさい、ジョン」
「ただいま」
出迎えてくれたヴェラに、俺は目を合わせることが出来なかった。
家の奥から、子供たちの声が聞こえる。
「お帰りなさい、dad」
リヴィングルームに顔を出したら、ジョシュアが飛びついて来た。
だが、そこまでだった。俺は、相当機嫌の悪そうな顔をしていたらしい。ヴェラに促される前に子供たちは、さっさと子供部屋に引っ込んでしまった。俺がビジネスとバンドの狭間で苦しみながらも順応していったように、子供たちも浮き沈みの激しい世界に生きる親に順応しているようだ。素晴らしい。
ガウンを脱ぎ、シャワーを浴びる。今日の雨が、ステージが、フラッシュバックして来る。

フレディの調子が悪いことは今までに何回もあった。気候が不安定な時や、ハード・スケジュールで疲労が溜まると炎症が起こる。酒とタバコを止めれば、少しはいいのかもしれないが、今の俺にそれを言う資格はない。また、それを止めたら、もっと別のヘヴィなものでプレッシャーから逃れるしかなくなる。それで何もかも駄目にした人間を何人か見てきた。フレディには、そうなって欲しくないのだが。いや、彼はそんなことでリングを降りるような人間ではない。判りきったことじゃないか。今日だって終わりごろには、いつもの彼に戻っていた。明日は、きっとコンディションを整えて来るに違いない。
一方で、ブライアンは、かなり神経質になっていた。今日は、彼自身、納得のいく音が出ていたとは言い難い。一般にスタジアムというものは、音響的にはいいところではない。そのことをよく判っているサウンド・クルーは、今回も非常に気を使ってくれた。しかし、急拵えのステージでは、俺たちがチェックをする時間は大して取れない。自分の欲しいものが確実に得られるのか、正直言って不安だった。そして、実際ブライアンがモニターの音に身を硬くして、自分が何をしているのかを必死で聴いているのが判った。運悪く、そこにフレディの不調が重なった。しかも、ここはウェンブリーだ。フロントに立つ者として彼は、この最悪の状況を何とか打開しよう、と焦ったのかもしれない。
ロジャーも、珍しく緊張していたのか、走ったり、遅れたりと不安定だった。俺が「えっ?」という顔を向けると、「わかってるよ」と言わんばかりにウィンクを返してきたけれど。
そう言っている俺も、伸びないヴォーカルとぶつ切りのギターを何とかしようと、焦っていたかもしれない。
ちょっと待てよ。焦る?一体俺たちは、何をそんなに焦っていたのだろう?
何かが引っ掛かった。
気が付くと、俺は随分長い間、ただシャワーに打たれ続けていたようだった。急いでシャンプーし、バスローブを身体に巻きつける。
キッチンの冷蔵庫にあったペール・エールの6本パックから3本むしり取って、誰もいなくなったリヴィングルームのソファに腰を下ろす。エールを呷り、タバコに火を点ける。
焦り。俺は、今更何を焦っていたのか。
さっき、俺の頭に引っ掛かった何かをもう一度、捕まえたい。

俺は、もうこのバンドは出来ることを全てやり尽くしてしまったと思っている。
借金だらけのどん底から、俺たちの信じるものをひたすら追求していくうちに、世界中をツアーして廻り、プラチナ・ディスクを獲得し、金で買えるものは何でも手に入るようになった。
しかし、代償も大きかった。
アルバムを作るとなれば、前作よりも、良いもの、且つ売れるものを作らなければいけないというプレッシャーは、とてつもなく大きかった。それがメンバー間に深刻な溝を作ったことも、しばしばあったし、解散、という言葉を口にしたことも何度かあった。
プロモーション関連でも、メンバーの誰かがノーと言えば企画段階からやり直しになった。ああでもない、こうでもないと揉めるうちに時間だけが経って行き、そのうち尻に火が着いて、誰一人満足できないまま、やっつけた仕事もあった。
そこへ持って来て、今度はフレディがツアーを嫌がるようになった。確かに長期のツアーは、心身ともに負担が大きい。しかし、それはフレディに限ったことではない。大体、俺たちのように娯楽性の強いバンドが、ピンク・フロイドの真似をしてどうなると言うのか。幸い、あのライヴ・エイドのお蔭で、フレディは考えを改めてくれたから良かったが、それもいつまで持つか判らない。
それでいて、クイーン・プロダクションは見事に発展した。今や会社は、単に俺たち4人のためにあるのではなく、俺たちを商品として、多くの人間がそこで生活の糧を得るようになった。
おいおい、俺たちが商品だって?冗談じゃない!
だが、ビジネスは冷酷だ。あれほど望んでいた自分たちのマネージメント会社だったのに、その存続と繁栄は、俺たち個人の存在と引き換えだった。他人に搾取されたくない一心で引き受けた役割だったが、やればやるほど、俺は辛くなって行った。
管理する自分と、される自分との葛藤が続く。羊飼いと羊を同時に演じたら、楽しいだろうか。しかも、こいつは金の羊らしいぜ。
俺以外の金の羊は、数年前からソロ・アルバムを作るようになり、それぞれ一人の「アーティスト」としての自己を確立しつつあった。彼らには、クイーンでは消化できないアイディアが沢山あったのだ。俺にも、そうしたものがないと言えば嘘になった。
しかし、自分ひとりの名義でアルバムを作るほど、多くの材料は持ち合わせていない。つい数ヶ月前、友人たちの力を借りて映画用にシングルを作り、ヴィデオも制作してみたものの、セールスの方はさっぱりだった。アルバムならともかく、シングルは売れなければ意味がない。冴えない数字に気を遣ってくれているらしく、俺の周囲ではこの話題は避けられているようだった。
そして、俺は気が付いた。俺は、どうしようもないほど「クイーン」に依存した人間なのだ。クイーンというバンドが無くなってしまったら、俺には何も、何も残らない。ジム・ビーチでさえ、クイーンなんぞ無くても、一人の弁護士としての自己を持っているというのに。
今回のツアー中、俺はホテルのベッドで何回か同じ夢を見た。馬鹿でかいクイーンの紋章にぶら下がる俺が、手を滑らせて墜落する。普通なら、ここで悲鳴を上げて目を覚ますところだろうが、そうではなかった。俺は、そのまま風に吹かれて空を漂っていた。
最初にその夢を見た時は、何だか気味が悪いだけだったが、今その意味がわかった。
最早、俺には墜落して行く場所さえない、ということだ。
俺はいつまでこのまま、クイーンの紋章の下を頼りなく漂い続けるのだろう。もしも、この紋章が壊れたら、俺は地上に叩きつけられるのだろうか。それも悪くない、なかなか魅力的だ。
お願いだ、誰かぶち壊してくれ。
誰かぶち壊してくれ。

「ジョン・・・ジョン、起きて。こんなところで寝ないで」
「え?・・・今・・・何時?」
「午前2時になるわ」
そう言うと、ヴェラは静かに俺から離れて行きドアを開いた。そしてゆっくり振り向くと、やっと聞き取れるほどの小さな声で言った。
「ジョン、無理しないで・・・」
ドアが閉じ、彼女の足音が2階へ上って行った。
今の俺には、ヴェラの温もりを素直に求めることは出来なかった。

俺が取り残された薄暗いリヴィングルームは、海の底のように静かだった。
俺は空き缶を持って、のろのろと立ち上がり、キッチンへ行った。缶をゴミ箱に放り込み、冷蔵庫から残りのペール・エールを取り出し、俺がスタジオと呼んでいる部屋へ行く。
リヴィングルームにあるものより三段くらいグレードの低いソファに座り、エールを喉に流し込む。甘く、苦い。
俺の記憶は、2本目を飲んでいるところで途切れた。

翌日、目を覚ますと昼近かった。
バスルームでシャワーを浴び、ヒゲを剃る。鏡の中の俺は、去年よりだいぶ老けたように見える。そういえば、フレディとロジャーは、結構太ってきたな。
侮れないものだ、たった1年だと言うのに・・・。
そうだ、1年も経ったら、何だって変わるんだ。俺たちも、変わらずにいることは出来ない。
昨夜の答えをやっと捕まえた。
1年も経てば何だって変わる、それだけのことだ。
1年前の今日は感動的だった。だが、その感動を再現しようとするのは、愚かなことだ。
昨夜の俺たちは、もう1度同じようにやってやろうとして焦っていた。結果はあの通りだった。
ライヴ・エイドは確かに素晴らしかったが、もう、それは「素晴らしい思い出」でしかないのだ。
今日は、今の俺たちの持てる全てをプレイすればいい。

数時間後、リムジンがやって来た。今度は家の正面に横付けし、俺を乗せてウェンブリーに向かった。
天気は上々、昨日とは打って変わって暑いくらいだ。
スタジアム内の幾つものチェックポイントを通り抜け、VIPのためのレセプションルームを通り抜け、何だかわからない物が積み上げられた通路を通り抜けて、やっと控え室に着く。
フレディはステージ用のメイク・アップを欠かさないが、俺は10年以上前からメイク・アップはしなくなった。ヒゲさえ剃っておけば充分だ。
衣装係がステージ衣装を渡してくれる。まぁ、俺の場合、衣装も普段着も大して変わらないが。
遠くから歓声が聞こえる。ステイタス・クォーのステージが始まったらしい。
ラッティが顔を出し、チューニングを確認してくれ、と言ってきたので、チューニング用のブースに向かう。カメラ・クルーが、ぞろぞろ連なってうろついている。
知っている顔、知らない顔。恐ろしいほど大勢の人間が、ひとつの目標のために動き回っている。小さなトラブル、大きなトラブル。慌しく、しかし冷静に対応するクルーたちの真剣な表情。俺が女だったら惚れるね。
チューニングはいつも通り、問題なし。俺のローディーは優秀だ。昨日の雨など無かったかのように、楽器は磨いてあった。走り回っているラッティを捕まえて「完璧だ」と伝える。
レセプションルームに行くと、文字通りのVIPやら、その取り巻きやらが、あちこちで歓談していた。中には会いたくない顔もあったが、一応挨拶だけはしておく。
他のメンバーの家族も来ていたので、声を掛ける。俺も、家族に来るよう言うべきだったかもしれない。そう思うと、この場所が急に居心地悪くなった。
すると、奥からスティッケルズがやってきて、「あと20分だ」と俺に告げた。この場を離れる口実が出来たことに少し安心しながら、俺は控え室に戻った。
着替えを済ませ、タバコに火を点ける。ステージ上では、ローディーたちが喚き散らしながらも、整然と仕事を進めているのだろう。この時間帯が、一番不安になる。何度やっても、それは変わらない。タバコは1本では足らない。これも変わらない。
今日のセット替えのBGMは、リトル・フィートだ。誰がこんなのを選んだんだろう。いい趣味だ。
短くなったタバコを最後にもう一度深く吸い、煙を細く長く吐き出す。灰皿に吸殻を押しつぶすようにして消し、俺は立ち上がった。

俺たちは、バック・ステージに集まった。
「さぁ、今の俺たちの全てを7万人に見せよう」
俺の言いたかったことをフレディは、先に言った。
そして、急に表情を引き締めると、足早にスモークの中へ消えて行った。
俺も続いてステージに出る。
スタジアムを揺るがすような歓声が起こり、ブライアンのギターがショウのスタートを宣言する。今日の彼に迷いはない。フレディは、昨日とは別人のように自信に満ちていた。後は、ロジャーと俺が土台をがっちり支えるだけだ。

何よりも確かな tune が、今ここにある。
俺が生きている証が、今ここにある。

黄昏のウェンブリーの空は美しかった。

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