指輪
Written by ミントさん
ノックをすると、部屋の中から少し掠れた声が返ってきた。
「どうぞ」
フロアスタンドだけの薄暗い灯りの中に、ひとりの細身の男のシルエットが浮かび上がる。
窓の外は雨が静かに降り始め、この世の全ての音を包みこんでいるようだ。
フレディは、数々の宝石が散りばめられた黒色のタイトなステージ衣装を脱ぎもせず、
窓辺に立って、窓ガラスを伝う雨の流れを眼で追っていた。
ショーの後にしては珍しく、煙草を唇の端に咥え、口先でふかしている。
ショーは最高の出来だった。
ステージの上のフレディは、時に妖艶な天使となって甘く切ないバラードを歌い上げるかと思うと、
まるで悪魔の化身のように激しく、全身を叩き付けるようにハードナンバーを歌う。
フレディの声は美しく、力強くて、心を揺さぶる激しさを秘めている。
なのに、とても切ない・・・。
観客はまるで魔法にかかったように彼の姿を追い、自分達に時折向けられる視線に嬌声を挙げ、
美しいピアノの旋律と彼の美声と艶やかな姿態に酔いしれるのだ。
今日も、観客はこれ以上ないエキサイトぶりで、数人の女性ファンが気を失った程だ。
「ジョン、どうしたんだい?」
声の主は、そっとドアの方を首だけで振り向いて言う。
「フレディ、今日のショーは素晴らしかったよ!
君が部屋からなかなか出てこないから、皆で心配してたんだよ。
気分でも悪いの?」
「ん、少し、疲れたんでね。そう、疲れたんだ・・・。
打ち上げパーティには先に行っていてくれよ。僕は遅れて行くから。」
消え入りそうな声で、そして少しはにかんだように口元に微かな笑みを浮かべてフレディが言う。
左手の指にはさんだ煙草から、紫煙が細く上がっている。
ジョンは戸惑っていた。
いつもなら、ショーの後のフレディは、体はもう疲労で限界だというのに、興奮がなかなか醒めなくて、
それが辛いのか、驚くほど饒舌だったり、イライラと動き回ったりするのに。
今日のフレディはまるで拾われるのを待っている捨て猫のように、少し首を竦めてじっとジョンを見つめている。
その瞳には、いつもの強い光はなく、フロアスタンドのオレンジ色の小さな灯りが中で揺れている。
こんな彼を見るのは、初めてだった。
いつも自信に溢れて、自分の意思を貫き、妥協を許さない。
他人の評価なんて気にも留めず、自分の音楽を作り、全身でそれを表現できる。
そんな彼が羨ましかった。
自分にないものばかり持っている彼が。
何か声を掛けなければと思うのに、ジョンは声が出なかった。
フレディの視線がふと、外される。
この部屋に入ってきた時と同じ、窓の方を向き、右の掌を冷たい窓ガラスにそっと押し当てる。
ショーで彼の指を飾っていたイミテーションの指輪が、カチリと音をたてた。
暗闇を映し出すガラスに、フレディの白い顔と大きく開いた胸元が浮かび上がっている。
長い沈黙の後、その顔が面白そうに綻ぶ。
「ねぇ、ジョン。僕が怖いかい? ん?」
まるで、ドアに張り付いたまま動けないでいるジョンをからかうように。
「怖いだなんて・・・。怖くなんかないよ。」
やっとの思いで言葉を口から押し出すように言う。
言いながら、ジョンは複雑な気持ちだった。
本当は少し、彼を恐れているのかもしれないと思う。
この目の前にいる年上で気まぐれな彼の、凄まじい程の才能を。時としてエキセントリックな言動を。
いや、違う。
自分が最も恐れているもの。
それは彼の音楽の中に、自分の音楽が必要とされなくなること・・・。
フレディのように、自分の音楽に自信がなかった。ミュージシャンという職業を選んだことですら
自分には、それが良かったかどうかわからないのだ。
「僕はね、時々自分が怖くなるよ。フレディ・マーキュリーという存在が。
フレディは僕自身なんだよ。
なのに僕は彼に喰いつくされて、引き裂かれて、ずたずたにされてしまうんだ。
ねぇ、ジョン、わかるかい?」
思いがけない吐露。
知らなかった。彼がそんな風に不安と戦っていることを。
だってそうじゃないか、君はいつも、いつだって自信に満ちていて。
神様からひいきされたとしか思えない程の才能を持っていて。
自分になんて、手の届かない人だと思っていたのに・・・。
いつだって輝いている君・・・。
知らない間に、ジョンは窓辺に向かって静かに進んでいた。
あと少し、あともう少しでフレディに触れる。
抱き締めたかった。
目の前にいる、思ったよりずっと小柄で儚げな彼を。
自分から発せられる抑えきれない程の想いが、彼に向かって一斉に流れ出すのが見えるようだった。
『フレディ、僕は君を恐れてなんかいないよ。
僕は、君に必要とされていたいんだ。いつだって君の傍にいて、君を見ていたいんだ。』
ジョンも同じように窓の外を向き、左手をそっと、ガラスに押し当てたままのフレディの右手に重ねる。
もう一度、指輪がカチリとガラスに当たる音がした。
フレディの手は冷たかった。
汗が引いた後だからか、しっとりと肌に吸い付いて、まるで女の子の手のように柔らかい。
ジョンの手から少しずつ熱がフレディに伝わり、じんわりと温かくなってきた。
フレディの指が、わずかに震えている。
切なくて、心が悲鳴を上げそうだ。
『フレディ、僕は、僕は君を・・・。』
* * *
どのくらい長い間、そうしていただろうか。
「いつまでもそんな胸をはだけた服を着てたら、風邪を引くよ。
鼻水たらした貴公子じゃ、格好がつかないからね。」
やっと言えたのは、そんな言葉だった。
「そうだね。すぐに着替えるよ。ジョン、僕のストリップショーを見たいかい?」
「ハハハ、遠慮しておくよ。いつもステージの特等席で素敵なショーを観てるからね。
じゃあ、先に店に行って待ってるよ、雨が降ってるから温かくして来るんだよ。」
言いながら、ジョンはドアへ向かって歩き出した。
こちらを見つめるフレディの視線を背中に感じたけれど、振り向けなかった。
振り向いてはいけないんだ・・・。
背後から、フレディの声がした。
「ありがとう。ダーリン」
<終>