第一部 宿命の扉
1.
なぜ僕が以前の仕事を辞めたのか、それを言葉にするのは難しい。
人には決して他人に触れられたくない過去があり、その過去と正面から向き合うには長い時間が掛かるものなのだ。
僕はつい最近、ようやく一人の人間になれた気がしている。
いい歳をした男の言う科白ではないが、僕は長いこと人生に甘えきって生きてきたことにやっと気づいたのだ。
いや、それだけじゃない。甘えきった人生を舐めてもいた。
弁護士を辞めたと言うと決まって、憐みを帯びた眼で理由も知らずに同情のため息をつく輩が僕は何より嫌いになった。
そんな手合いは一刻も早くそれが自分に酔ってるだけのナルシシズムの押し売りだと気づいた方がいい。
世の人間の多くは、この気難しい時代を生き抜く処世の武器として、より立派な肩書きを何より重んじる傾向にある。確かにかつての僕もそうだった。
当時の僕にとって、権力のローブ以上に素晴らしいものはなかったのだ。
僕は異例の速さでバリスター=法廷弁護人の地位に就いた。
それこそが権威の象徴であったあの奇妙なカツラでさえ大喜びで被っていたし、年若くしてその特権を与えられた選ばれし人間であるという驕りも人間の頂点に立ったような錯覚も、愚かながら僕は散々味わった。
仕立ての良い高級服を身に纏い、特注の靴を履き、注目を浴びて法廷のステージに立つ。
自分こそが今、この法廷で人を救うことが出来る唯一の崇高な存在であるとばかりに、陪審を前に顎を上げる。
自惚れなどという言葉では到底追いつかぬほど人々を見下していた時代だった。
年寄りたちは「浅はかだった自分に気づくことで、人間はさらに大きく成長する」などと言うが、知性の証拠を隠し持つ人間にとってそれは、愚にもつかない老いぼれの戯言に他ならないのだとせせら笑いながら。
だが、ほどなく僕はそんな馬鹿げた特権意識を根こそぎ失うことになる。
最終的に『地位も名誉も生きる意味とは別のもの』と気づくまで恐ろしく長い時間が掛かったが、その意識が僕を弁護士の縛りから解き放ったことは間違いない。
今、僕は兄の商売を手伝っている。
名声を纏った高みから見ていたとき、世の中にこんな下らない仕事があっていいものかと心底軽蔑し続けた仕事だった。
二度と身に纏うことのないシルクのスーツやブランド品を二度と開けることのないクローゼットに仕舞い込み、僕は兄の店のパート・タイマーとして働くことを自ら願い出た。
たぶん人に誠心誠意頭を下げたのはあれが初めてだったと思う。
その後の僕の人生は一変した。
そして僕はこの仕事を通じ、生の人間の体温をも知った。
ささやかな幸せに顔を綻ばす人間の温もりが、どんなに心を暖めるものだったかを僕はここで思い知った。
……いや、それだけではない。正直に言うべきだろう。
僕がここまでたどり着く間に、奇跡にも似た出逢いがあったことを白状しなければならない。
"彼"との出逢いがなければ、間違いなく今の僕はいなかった。
それを思うと彼がひどく懐かしい。僕は彼に惹かれ、どんな言葉も陳腐にしか響かないのがもどかしいが、僕は彼との旅――それを何かに例えるなら旅のようなものだったとしか思えない――がどんなものだったかをもう一度だけ振り返ってみたい。
実際、これは記憶を辿るだけで大きな痛みを伴う過去であり、二度と思い出したくないことも一つや二つではない。
だが、僕とジョンが偶然出逢い、互いを傷付け合うに至るまでを過ごしたあの四年間こそが、今の僕には何物にも換えがたい時間だったと認めないわけにはいかない。
最後に僕たちは決定的な局面を迎え、二度と会うことはなくなった。
なのに僕は、今でもジョンがすれ違いざまに声をかけてくる錯覚を起こす。
<ラリー、具体的な結論は?>
……あの眼に潜んだ情熱と困惑、知性と狂気、気品と破滅は今も僕の心を捉えて離すことはない。
2.
学生時代、ずっと法科のライバルだったケネス・ラドリーから電話が入ったのは1988年の秋だった。
ケネス=ビッグ・キースは身体も声も大きくカラテをこよなく愛する陽気な男で、少々悪ふざけが過ぎるのを除けば、僕とは対照的な豪傑ぶりを歓迎される得な人間だった。
金融に絡む弁護を専門分野とし、持ち前の正義感から人権派としても活躍。貧富の差が激しい英国において社会の底辺層と呼ばれる低所得階級の無料弁護も時に引き受け、一部スラム街では救世主扱いを受ける側面も持ち合わせていた。
僕らは学生時代から互いを好敵手とする反面、時に本音をぶつけ合える、心から頼りにできる親友でもあった。
しかし大学を卒業後、僕らは必然的に疎遠にならざらるを得なくなった。
同業者ではあっても別々の法律事務所に籍を置くことになった以上、互いに守秘義務を背負う仕事に携わる身でもあり、そう簡単には連絡も取れず、以前ほど頻繁に会うこともままならなくなったのだ。
数年前、そのケネスが突然何とかいう有名バンドが所有する音楽プロダクションから顧問弁護役として迎えられたらしいという噂を耳にしていたが、残念ながらその詳細を知りたがるほど僕は音楽通ではなかったし、ますます多忙を極める職務に追われるうちに、ケネスその人との連絡も年々とぎれがちになってしまっていた。
だから秘書から電話の相手はラドリー氏だと伝えられても、それがビッグ・キース本人からかかってきた電話だとは夢にも思わなかったほどだ。
「ローレンス、俺だ。わかるか?ケネス、ビッグ・キースだ」
電話の向こうにおぼろげながらも、身体も声も大きな癖毛のケネス・ラドリーがその輪郭を見せ始める。
途端に僕の声は弾んだ。
「キースか!? どうしたんだよ突然。ずいぶん久しぶりだなぁ」
僕の言葉の最後が届くか届かないうちに、ビッグ・キースは些かトーンを落とした口調で本題に入った。
「もう耳に入ってるかも知れんが、今朝ダニー・ウィンターが急死した」
「何だって……?」
ダニーことダニエル・ウィンターはビッグ・キースと共に件の音楽プロダクションで顧問弁護士を勤める、僕が以前籍を置いた法律事務所の先輩だった。
「ダニーは今朝、仕事先へ向かう車の中でハンドルミスを起こした。悪いことに運転していた車はコントロールを失い街路灯に衝突、炎上した。かろうじて息のあるうちに病院へ運ばれたが、火傷がひどく手の施しようがなかった。午前10時過ぎ、彼は息を引き取った」
反射的に時計を見ると午後2時40分を廻ろうとしていた。既に4時間半以上が経過している。
午前中のその時刻……僕が法廷でちょうど法衣と鬘を身につけていた頃だ。
普遍的な日常だったはずだ、少なくても多くの人間にとっては。
にわかには信じられない訃報だった。
だが幾らおふざけの過ぎるビッグ・キースであろうと人の死をネタに遊ぶ暇人とは思えない。
まして彼はダニーの辣腕ぶりを手放しで尊敬していたのだ。
「キース、ダニーの最期には……?」
ビッグ・キースはつかの間沈黙し、震える悲痛な声で答えた。
「いや…間に合わなかった。彼が逝ったのは……俺が病院へ……途中だった」
やっとそれを言うと、ビッグ・キースはこみ上げるものを堪え切れなかったように押し黙った。
「そうか、すまない」
「こっちこそすまんな……こんなに早く、突然逝ってしまうとは夢にも……」
ビッグ・キースの声を押し殺してなお溢れる嗚咽が胸を掴む。
「今夜……必ずダニーの家を訪ねるよ」
僕がそう答えたと同時に部屋のドアが開き、こっそり顔を出した秘書が彼女の腕時計を指し示した。声を出さない口元も『時間が迫っています』と動いている。
僕は秘書に向かって、わかった、と頷いた。
ビッグ・キースも幾分気を取り直したのか「今夜ダニーの家で」そう言って電話を切った。
3.
ダニーの家には急を聞いて駆けつけた客がごった返し、思い思いの場所で故人を偲んでいた。
沈み込む空気が漂う中、この春生まれたばかりの末っ子サーシャ・ジェニーだけが訪問した人々の涙を笑顔に代える魔法を駆使している。
むろん、この子が哀れだとよけいに泣き崩れる手合いもいたが、そのあどけない姿は人々の沈んだ気持ちを束の間明るくしたに違いない。
ダニーの妻・アンジェラは息子たちと気丈に振舞っていたが、時々、緊張の糸がぷっつり切れたかのようにダイニングの片隅で泣き崩れた。
僕はそんな彼女に慰めの言葉を掛けることも出来ず、肩に手を置くのが精一杯だった。
ビッグ・キースがひと際目を引く人物を伴って現れたのはそれから間もなくのことだった。
当初、僕には何が起こったのかよくわからなかったが、弔問の場に相応しいとは言い難い緊迫した空気がその場を包んでいることだけは確かだった。
顔を見合わせ何事かを言い合う者こそ少ないが、殆どの視線がその男一点に注がれている。
部屋中に溢れる人々が俄かにざわつくのを不思議に思いながら、僕はビッグ・キースの顔を追った。
ビッグ・キースはそんな反応には慣れっこだと言わんばかりに人々の驚嘆をものともせず、
目敏く僕を見つけ出すと、注目を一身に浴びる連れの男を護衛するかのようにこちらへ向かって来た。
僕らは互いの視線を捕らえて頷き合い、熱くなる目頭を隠すように言葉もなく相手を抱いた。
ダニーの悲運を痛感したのは、たぶんこの時だったろう。
同時に、誰もが予想だに出来なかった事態はいつも突然やって来るのだと、ダニーの死同様にそれは教えてくれた。
この国の人間ならその名前くらいは一度ならずとも耳にしたであろう人物が、故人となったダニーのフラットのドアを潜り、予告もなく姿を現わしたのである。
ビッグ・キースは彼の巨体の後ろに半分隠れている人物を僕に紹介した。
その名を耳にした僕は虚を突かれたも同然だった。
――そうか……彼が引き抜かれて行った先はクイーン・プロダクションだったのだ――
その時になってようやく僕は謎だったビッグ・キースの担当先を思い出す有様だった。
だが、その場にいた殆どの人間は既に"彼"が何者なのかを殆ど正確に把握していた筈だ。
ビッグ・キースのやや後方から差し延べられた華奢な手。
僕は躊躇いながらも歩み寄り、その手を握り返しながら初めて男の顔を真正面から見た。
一見、巷に溢れるスターのイメージとはほど遠い柔和な雰囲気を纏った彼に惑わされそうになったが、眼が合った一瞬にして腹の中を見透かされる不安を煽られ、僕は僅かに狼狽した。
特異な貫禄を醸し出すその眼から発するのは、他人の胸を容易く射抜く鋭い閃光だった。
穏やかな憂いと相反する強い生命力を帯びた碧眼がまっすぐに斬り込んでくる。
周囲が霞んでいくようだった。
これがクイーンのジョン・ディーコンである。
――この男は紛れもない曲者だ――
直感的に僕はそう思った。
キースは慌しく僕とこのジョンをダニーの妻・アンジェラの許へ誘った。
ジョンとアンジェラは初対面ではないらしく、その姿を見て再び泣き崩れたアンジェラの肩に手を廻し静かに言葉を掛けるジョンからは、先ほどの威嚇するような気配は消えていた。
ビッグ・キースは僕の耳にだけ入る声で囁く。
「ジョンはダニーと親しかった。アンジェラとダニーを結びつけたのもジョンみたいなもんさ」
僕は黙って頷いた。
子守役だったダニーの息子がアンジェラにサーシャ・ジェニーを抱き渡した際、一瞬、ジョンの顔が微かに綻んだのを僕は見逃さなかった。
素に戻ればひとりの父親でもあろうこの男が、幼い子供に相好を崩すのは無理もない。
しかし、ふとした瞬間にふたつの異なる人格を使い分けるが如く豹変する表情からは、彼が特殊な世界に身を置く特別な身の上であるという事実以上の情報が伝わってくる、
僕はそんな気がしてならなかった。
ジョンは勧められたグラスに口をつけることもなく、ダニーの愛息2人に寄り添った。
寄り添いながらも彼は身についた保身術を解くことはなく、好奇心を剥き出し、少しでもこのスーパー・スターに近づこうと試みる数多の弥次馬たちには容赦なく底意地の悪い眼を向けた。
時に、少しは場所を弁えろとばかりに無視を決め込み、常識を易々と踏み越える人々の目に余る行為を邪心ごと追い払うことも忘れてはいない。
言葉選びが最大の武器になる弁護士稼業を続けていると、言葉を用いることなく話す人間に対しある種の尊敬を抱く反面、自動的に防衛を強く働かせてしまうものだ。
この時僕はジョンが非常に高慢で傲慢な、特別意識を丸出しにした俗なスターだと思い込むことで自分の何かを必死で護ろうとしていたに違いない。
皮肉なことに、そんな僕自身自覚も及ばないほどジョンに見入ってしまっていたのだろう。
近すぎる僕の視線が煩かったのか、ジョンは何度か素早く抗議の一瞥を投げて寄越した。
僕が過激なファンより質の悪い覗き見に夢中になってることを無言で警告したのだろうか。
ほどなく彼はその姿を現した時と同じように人々の熱い注目を集めたまま、同じドアから今度はひとりで姿を消した。
ダニーを悼んで集った人々もまた、故人を偲ぶ本来の現実へと戻っていった。
4.
ビッグ・キースと共にダニーの家を後にしたのは、とうに日付が変わってからのことだった。
このまま別れて帰るのも気が滅入ると、ビッグ・キースは僕に寄り道を打診した。
僕らは大学時代の同期だったサミー、サミュエル・アンダーソンの店に足を運ぶことにした。
ロンドンの西、オフィス街を少し外れた一角にそのバー「エメラルド」は建っている。
地域の名士だった老父の没後、莫大な財産を相続したサミーが暇つぶしと称して開いた騒々しい店だ。
オレンジ色に塗られた壁一面を、貫くように描かれた銀白色の巨大な稲妻が厭でも眼に飛び込んでくる。
いかにも悪趣味を売りにするサミーらしい外壁だ。
ビッグ・キースは路肩に愛車ベンツを停め、無理やり穴蔵を抜け出すように運転席から降りた。
しげしげと店の全貌を眺め、頭を振って苦笑する。
「何度見てもこればかりは慣れないよ。おまけに店の名と壁の色がちぐはぐなんだよな……」
サミーは大学時代「法の天才」と呼ばれ、卒業後に一度、検事補の職に就いた。
しかし法廷がつまらないという理由であっさり法曹界に背を向けた変わり者でもある。
幼い頃に絶対音感を身につけた彼はピアノとサックスもプロの腕前で、ジャズやロックの世界ではスタジオ・ミュージシャンとして引く手数多の時代もあった。
だが、御曹司らしい気まぐれが災いし、彼はしょっちゅう暴走していた。
レコーディングをすっぽかし、打ち合わせどおりのプレイをせず、プロデューサーの指示を平然と無視。やりたい放題をやってのけた挙句、札付きの名を欲しいままに業界のブラックリストにその名を呈した。
契約違反など朝飯前で、泥酔して乱闘騒ぎを起こし、スタジオから蹴り出されたことなど数知れない。
しかも、何度警察沙汰になろうとも、得意の法の抜け穴を見つけ出し専門知識を駆使して自己弁護する
気など欠片もなく、毎度尻拭いは人の善いビッグ・キースに担当させてきた。
「歩く時限爆弾」とまで呼ばれたサミーだったが、僕は何故かなかなか正体を見せないサミーの独特のスタイルが気に入っていたし、サミーにとって誰よりも心許せるビッグ・キースと僕が親しかったのも、僕をすんなり受け入れた理由になっていたのだろう。
3人が揃うとひどく奇妙な顔ぶれのコメディアン・トリオに見えるらしいということを除けば、僕らは学生時代の気分そのままで過ごせる面子を歓迎し合ってきた。
店の重いドアを開くと、暗い店内から大音量で流れる<クレオパトラの涙>がレコード・ノイズと共に耳を劈く。
ここに来たのは久しぶりなのに、僕は反射的に身を翻しそのまま帰りたい気分に襲われた。
だが次第に耳も眼も慣れてくると、音の良し悪しはともかく、この店の中はあの悪目立ちを極めた外観を裏切り、実に質と品の良い物を揃えていると気づくのである。
それはまるでサミーそのものだった。
俗悪を尊び、気色悪く飾り立てることで彼自身を護ろうとしているかのように、自分に備わった利点を悉く否定してみせる。
今日は特に店内が薄暗い。
居並ぶ酒瓶とクリスタル・グラスだけが不気味に煌いている。
横ではビッグ・キースが両手で耳を押さえ、法廷で効果的な武器と化すバリトンの声を張り上げて
「さっさとヴォリュームを下げろ、この外道がっ!」と叫んでいる。
カウンター越しに顔を上げたサミーは、酔っているのか機嫌が悪いのかこの暗さでは判断がつかない。
いきなり音楽が止み、視界が明るくなった。
「これはこれはエリート紳士諸君。こんな時間にようこそ」
ぎこちなく気取ったサミーは何色にも染め分けた長い髪を無造作に束ねていた。
ビッグ・キースが「お前にキスされる女の子は流血モノだな」と顔を背けた唇には幾つものピアスが異様に輝き、細長い顔には濃く縁取られた切れ長の眼と、浮き出るような長い睫が妖艶なコントラストを描いていた。だが素肌に羽織ったレザージャケットとレザーパンツの取り合わせだけはいただけない。
彼のように縦長の肢体を持っているなら、せめて上半身はシルクのシャツにでも代えるべきだろう。
宝石をちりばめたプラチナのチェーンを腰から下げ、刺青だらけの左腕にはポーカーに負けたパウエルとかいうドラマーから奪い取ったと豪語するリスト・バンドが嵌められている。
年は取っても気持ちだけは若いチンピラ風情、それがこのサミー・アンダーソンの仮の姿だ。
「相変わらず有り余る金の使い道に困ってるってわけだ」
僕はサミーの背後にある棚のウォッカの瓶を指差しながら、皮肉たっぷりに言った。
普段僕はウォッカのような強い酒を飲まないが、今夜だけはさっさと酔い潰れてしまいたかった。
「先週、カナリア諸島のひとつを買ったよ。ま、小遣いで買える程度の代物だがな……」
軽口を叩くその間にショット・グラスに注がれたウォッカが、カウンター・テーブルの上でサミーの手を離れ勢いよく僕の手に滑り込む。当たり前のように僕の手にフィットしたグラスには酒が半分しか入っていなかった。サミーは僕が酒に強くないことを承知している。
他の客がいないのをいいことに、ビッグ・キースはカウンターの向こうへ無遠慮に入り込むや、冷蔵庫に首を突っ込んでフレッシュ・ジュースの材料を物色し始めた。
サミーはその大きな背中を嬉しそうに叩きながら、
「蜂蜜なら横の棚の下にあるぜ、プーさんよ」とニヤついている。
ビッグ・キースは下戸で、その風采に似合わずまったく酒が飲めないが、そんなことはお構いなしに酒場を渡り歩くのが昔から好きだった。
僕は2杯目のショットを飲み干し、もしこの再会が思わぬ悲劇によって齎されたものでなければ僕とビッグ・キースはもっと羽目を外していただろう、と酔いの廻った頭でぼんやり考えていた。
ミキサーに目ぼしいフルーツを放り込んでジュースを作ろうしていたビッグ・キースの背中も、今日一日がどれほどのダメージを彼に与えたかを如実に物語っているようだった。
「辛気臭いなラリー。誰か死んだのか?」
慣れた手つきで煙草を巻きながらサミーはずばり言い当てた。
ビッグ・キースはイエスを言う代わりに動きを止めてサミーを上目遣いに凝視している。
不安に駆られたサミーは僕に視線を移した。何も言わずに僕もサミーをじっと見た。
「誰だ?その様子なら俺たちのよく知る誰かなんだろう。ブルース・ディクスか?
デヴィッド・チェ二ングか?それとも……まさかダニー・ウィンター?」
ミックス・ジュースを注ぎ終えたばかりのビッグ・キースは手にしていたグラスをがつんとテーブルに置き、唇を噛んだ。サミーが口にした名前の主は皆、ロンドン大の法科を出た僕ら3人に関わりの深い先輩だ。
「ダニーなのか……?」
サミーは顔を歪めた。
「そうだ。今朝だよ。お前の勘にも呆れるな……」
僕がやっとそう言うとサミーは神妙な顔になった。もともと彼には翳りがあったが、今の彼からは生気すら感じられない。
「勘じゃない。タロットさ。今日は偉大な'D'が重大な異変を迎えると出ていた」
「ふん、そんなのは偶然と言うんだ。馬鹿げたオカルトに何の意味がある……?」
ビッグ・キースは非科学を認めない類ではないのだが、むきになって食って掛かった。
「カードは真実だけを告げる。そこから教えられただけだ」
表情こそ変わらないが、サミーは僕らが持ち込んだ事実にひどく動揺している。
ビッグ・キースはそれを察し、泣いてはならないと自らに課した我慢がたった今限界を迎えたことを悟って大声を張り上げた。
「タロットだ……!? そんなもん、俺には死神としか思えんよ!!」
ビッグ・キースはやり場のない悲しみを怒りに代え、宙へ向かって怒鳴り声を上げ続けた。
「何だってこれほど人の気持ちを掻き乱す!? 死は心躍るイヴェントなのか?」
サミーも僕も、ビッグ・キースが必死で涙を堪えようと見苦しい悪態をついているのが痛いほどよくわかった。
暫くの間、僕らは沈黙の海を漂い続けた。
ダニーは契約に絡む法を熟知した、カリスマ的な弁護士だった。
そしてかつては彼も法廷弁護人として活躍したのだが、その手腕が法曹界に轟いた頃、クイーン・プロダクションから破格の契約条件で顧問弁護士を打診され移籍している。
クイーンをはじめとするロック・ミュージックを好んだダニーが法廷弁護士に未練を残さなかったのも、彼を知る者の間では納得のいく話だった。
そのダニーが遺していったのは数々の連勝記録や語り草になる人徳や絵に描いたような素晴らしい家族だけではなく、彼のように宿命的な仕事をこなして彼と肩を並べ、いつかはあの――詩を朗読するかの如く、人々の心に浸透する完璧な――弁護をも超えたいと願う者にとって、二度とダニーに挑むことはできないと思い知らされる、崇高で残酷な現実でもあった。
弁護は決して相手方を倒して愉しむゲームではない。
しかし人間の価値や権利を守りながらいかに相手方の弱みを衝くかによって流れが変わる、
時に極上の快感を味わうことも可能なスリルを孕んだ大きな駆け引きである。
僕はその綱渡りが齎す成功や名声や、新聞見出しの大文字に夢を馳せこの世界を席巻すべく、寝食を忘れて仕事に没頭してきた。
サミーも短かった検事補時代、アンダーソン検事ここありとばかりにその名を轟かせようと夢中になった時期がある。野心の塊で虚栄心を満たされるのが何より好きな男が、法の名の許、他人の人生や財産を駒のように動かす快楽に優越感を揺さぶられなかった筈はない。
しかしもうそんなことはどうでもいい。
僕らが直面していたのは悲しみだけでなく、自分達に与えられた当たり前の命がある日とつぜん理不尽な事由で奪われこの世を去る恐怖でもあった。
ビッグ・キースが崩れるようにカウンター・テーブルに突っ伏したまま眠りに堕ち、僕は会話が恋しくなった。
「タロットはよく当たるのか?」僕は切り出した。
「ああ。時にとんだホラ吹きでもあるがな」
サミーはカードを仕舞った棚を振り返り、抽斗に眼をやった。
「何か気になることでもあるのか?」
カードの箱を取り出してサミーは僕の顔を覗き込んだ。
「いや、特にないよ」
嘘だった。
僕は頭の片隅にずっと引っ掛かっている眼を振り払おうとしていた。
何だってあの場違いだった男を思い出すんだ、と。
だが、僕はこの店に来るまでの間も皆が沈黙していたあの時も、ふとした瞬間に今日見たあの蒼白く、有名人らしからぬスーパー・スターを思い出さずにはいられなかった。
サミーは煙草を咥えたまま、カードを切り始めた。
父親の愛人だった女性から教わったというタロット。
擦り傷だらけの指が、切り終わったカードの束を広げて僕の前に突き出した。
「単に質問しただけだ。いいよ、そんなもん仕舞ってくれ」
僕は急に怖くなった。こんなものが何かを言い当ててしまえば今夜の僕は冷静ではいられなくなる。
「恐れることなどないさ。遊びだと思えばいい。お前の気になることを頭に浮かべながら、3枚……いや、2枚でいい。好きなカードを取り出してごらん」
僕は躊躇った。自分でもわからない何かがびっくり箱から飛び出してくるんじゃないかと。
だがサミーの怪しげな甘い声が呪文に掛けたかのように、僕は自然にカードを引き抜いていた。
自分側に置いたカードを捲ろうとした僕をサミーは片手を挙げて制した。
「おっと、そのまま」
僕は手を引っ込めた。サミーは向こう側から身を乗り出し、選び出されたカードをサイドから開く。
何やらわけのわからない鮮やかな絵が2枚並べられた。
サミーはカードを凝視している。
僕はどきまぎするのを見破られないようまるで気のない素振りで、動きを止めたサミーの顔を見上げた。
「ラリー」
一瞬顔を上げたサミーが口を開いた。
彼は再び何かに憑かれたようにカードに視線を戻した。
僕はますます昂ぶる内面の動揺を抑えきれずせわしなく眼を泳がせる。
「ずいぶん強かな人間に巡り逢ってしまったようだな」
サミーはカードから眼を離すことなく哀しげな笑みを浮かべる。
僕はカードを見た。
エキゾティックな絵になぜかオーヴァーラップするジョンの顔を、黙って見つめ続けた。
5.
ダニーの葬儀は小雨の降り頻る中、粛々と執り行われた。
ロンドンの長い冬は確実に近づき、濡れそぼった人々の肩が凍えて見える。
ビッグ・キースの足取りは重く、抜かるんだ墓地に埋まってしまいそうですらあった。
濡れた癖毛が巻き上がり、その人相を滑稽に変えている。
僕は体温全てを雨に奪われそうな寒さを感じ、心もち早歩きになった。
「お前、顔色が良くないぞ。少しでも寝たか?」
ビッグ・キースは掠れ声で丸めた僕の背に訊いてくる。
「あぁ、大丈夫だよ」
僕らはそこで立ち止まり、無言のまま互いの手を握り合って別れた。
雨足が強まり、コートのポケットに手を突っ込んだ僕は2ブロック分離れた駐車場へと急ぎ足になった。
――寝てなんかいない――
あの日から夜がくるとベッドに横たわりはしたが、どんなに疲れていようと眠ることは殆どなかった。
どうやら僕を異常な神経症に導いていたのは、身近な人間の死に直面した恐怖心だけではなかった。
二晩前、カードに出たのはジプシーからの警告であると言ったサミーの声が繰り返し耳の奥で響くのを止められなかったのだ。
<お前の身に降り掛かる今後の決定的な変化は、総てこの同一人物によって齎される。
有害でも有益でもあるこの人物――陽の当たる道をしぶしぶ歩む才人と出ている――は、余計な詮索を好まない。お前の制御の有無がこの人物との関係の鍵となるだろう。
良くも悪くもお前はこの人物に惹かれ、いっとき喜怒哀楽を共にするが、致命的な結末が訪れる>
いつの間に車に乗ったのか僕は覚えていない。
ワイパーが作動するかすかな音を耳に受けながら、僕は運転席にじっと坐っていた。
サミーの言葉がまた呪文のように甦ってきた。
呆然とする僕に向けた、取って付けたような胡散臭い言葉も。
<どうってことはない。ただのくだらん占いだ。気に病むな>
果たして本当だろうか。
気がつくと車内の窓が曇っていた。素手でフロントガラスを拭きながら、ワイパー越しに妹に支えられて車に乗り込むアンジェラを見た。
さぞかしやつれただろう表情は黒いベールに隠れて見えないが、ふらつく足元は何よりも雄弁に彼女の傷の深さを物語っている。僕は見るのが辛くなって眼を伏せた。
学生時代、僕は二歳年上のアンジェラに憬れていた。
愛していたわけでもなく、落としてやろうと狙っていた相手でもなかったが、
束の間彼女と付き合った時期があり、その後しばらく僕は彼女にひどく執着した。
ひとりの人間としてではなく、僕のものとしての彼女に。
僕には奇妙な癖があった。
恋人やガールフレンドになった女性と自分との境界線を見失う、タチの悪いものだった。
一度でも愛情関係になれば相手を思いどおりにしないと気が済まない。
まるで自分の所有物でもあるかのように、何事にも口を出し、支配したがった。
学内では当然のように噂が広まり、僕は一部の女性たちから敬遠されがちだった。
だが、贅肉の付かない体質と母親似の童顔が僕を救っていたのも事実で、噂に聞くほど悪い人でもないと思い込みたがる女の子達から熱い眼で見られるのを感じない日はなかった。
非常に気が弱く神経質なのを除けば、僕には目立った欠点などなかったのだ。
ビッグ・キースやサミーのような大胆不敵さに対して抱くコンプレックスをひた隠せば、非の打ち所のない経歴と見栄えのする外見が僕の武器として大いに活躍していたのは確かだ。
しかし、大人になると勝手は変わる。女性たちは学生時代を終えると途端に現実を相手に闘い始めるのだ。そしてやたらと強くなってしまう。身体も心も。
周辺を見渡しても、サミーの長年の同棲相手・ローラは口論になると先制攻撃を仕掛け、思いっきりサミーの脛を蹴り上げ、痛みに屈んだサミーに怯むことなく今度は力いっぱい頬に平手打ちを見舞うツワモノだった。
ビッグ・キースの妻になったジュリーもイタリア製の花瓶を何度ビッグ・キースの背後で叩き割ったかわからない。
脅えて逃げ廻る自分の夫に悪びれもせず、男に必要なのは立派な肩書きや名声ではなく、思い遣りと度胸と先を読む冷静さだと息巻いた。
僕にはわからなかった。何故そんな凶暴な女たちに彼らが縋り、愛するのか。
裁判と同じく先に相手を制し主導権は余裕でこちらが握る、それが鉄則ではないのか?
僕は自分を包んでいるらしい無機質な雰囲気や近寄り難いイメージを何より大切にしていた。
女に依存し、見苦しく縋りつく生活感を丸出しにする男など言語道断だと言わんばかりに。
だからこの年になっても僕は頑として男性優位を唱えていた。
もし結婚するなら、相手には男を引き立てる華やかさや美しさと家庭的な有能さを求めただろうし、僕よりも優れた経歴を持った女性などは論外で、もっともそんな女性がいるなら見てみたいものだと鼻持ちならない自惚れにどっぷり浸かっていた。
……今ならその訳がよくわかる。きっとそう考える方が僕には楽だったのだろう。
僕には本物の自信がなかっただけのことだが、得意の理論武装は片時も忘れなかった。
いつしか空に晴れ間が広がった。
車を出そうとギアに手を掛けると、いきなり自動車電話が鳴り出した。
「ハンターだ」
僕が出ると、秘書のキャロル・ヴィンセントが震える声で切り出した。
「あぁ、出てくれたんですね。良かったわローレンス。すぐこちらへ戻れます?」
「うん、行くよ。そんなに慌ててどうした?」
秘書とは言っても電話の向こうで焦る彼女は僕の大先輩に当たる弁護士だった人物だ。
運悪く汚職事件に巻き込まれて資格を剥奪されたものの、腕は確かで優秀な仕事ぶりだった。
母親ほど年が違うので時に説教されることもある、僕が唯一頭の上がらない女性だ。
「明日の法廷の打ち合わせをお忘れにならないで。一刻も早く戻って下さいね」
「わかった」
「それから」
嫌な予感が走る。雲行きが怪しいときの声だ。
「寝不足ですね?」
図星を突かれた。
「もう車を出すよ、小言はあとにしてくれ」
「おおごとを束にしてお待ちしますわ」
電話を切ってラジオを点けると、ピアノの旋律に乗った伸びやかな声が
「翼を広げて飛び立て」と歌っている。
どこかで聴いたことがあるのだが、誰の曲だったかは思い出せなかった。
単調だが美しいメロディにしばし聴き入り、幾分気持ちが軽くなった気がした僕は、山積みになっているであろう仕事へとギアを切り替え、車を発進させた。
6.
翌年2月。
BBCニュースのトップとガーディアン紙の見出しを飾った【令嬢誘拐被告無罪/真犯人は別人】は、僕の名を国中に流布する結果となった。
もともとが冤罪事件だったのだが、被告のアリバイを証明できる人物との接触が難しかったために目撃証言の犯人像によく似た、限りなくクロに近い被告青年は追い詰められていった。
16歳の高校生、ローズマリー・ラッシュがボランティア活動で出入りしていた障害者施設から計画的に誘拐され、ひと月半後に自力で犯人のアジトを脱出するまで麻薬漬けにされた悪質な事件だった。
陪審を説得できるだけの決め手に欠いた僕は珍しく弱気になり、辣腕秘書のキャロルからは大学に入り直せとまで叱咤される有様だった。
難航する証拠集めに勝訴の兆しが見えたのは、事件直後に持病を悪化させ病院へ移送された老人の存在が浮上した時だった。偶然にも似たような名前の人物が同じ施設から別の施設へ移った時期とも重なり、書類上で混乱が起きていたのが証人捜しを混乱させた要因でもあった。
捜し当てた証人は盲目で耳も不自由になりつつある老女だったが、視力を奪われた代わりに与えられたであろう異常に発達した嗅覚が、何年も花屋で働いてきた被告青年を救う結果となったのである。
「花や花粉の匂いなんかしなかった。事件の日に嗅いだのは、普段ならけっして嗅ぐことのない薬品や重油のむかつくような匂いだったわ」
陪審がこの老女の言い分を認めたのは至極当然だった。
僕は事前に名を伏せた7種類の物を持ち込み、それらの匂いだけを彼女に嗅がせて正確に当てて貰い、その実力が本物だということを証明して見せていたからだ。
真犯人は2人だった。薬剤師でジャンキーになった中年男と自動車修理工場で働く10代の少年が、共に麻薬を買う金欲しさに企んだ犯行だった。2人は密売人を通じ知り合いになり、たまたま少年が中学校の同級生と街で出くわし、何気ない会話から被害者となったレディRが社長令嬢であることを知ったのである。そしてその瞬間にこの事件は始まっていたも同然だった。
僕は更なる賞賛を浴び、勢いづくままに、長年の懸案事項だった独立事務所を作る計画を実現させようと水面下で動き始めた。
ビッグ・キースを引き抜き、サミーにもオーナーになってもらうつもりでいた。
もちろん僕を支え続けてくれた秘書のキャロルも、当然新しい事務所に来てもらおうと。
だが人生とはままならない。
成功を重ね、その名を馳せたところで決して一筋縄ではいかない側面がある。
僕はジョーク交じりに打診したキャロルからきっぱり断られただけでなく、ビッグ・キースからは逆にダニーの後釜としてクイーン・プロダクションの顧問弁護士を勤めて欲しいほどだと、冗談とも本気ともつかない調子で懇願される始末で、結局、独立の手助けを引き受けたのは「戻る当てのある金なら幾らでも出す」と投げやりに答えたサミーだけだった。
苦汁は舐めたがまだ時期尚早と判断し、僕は計画を一旦保留にした。
一方、クイーン・プロダクションに於けるダニーの後釜は定着せず、何人もの人間が入れ替わり立ち代わり仕事をどうにか繋ぐに過ぎなかったようだ。
多忙を極めるビッグ・キースの負担は日に日に増えて、家に帰れない日が続いた。
妊娠した妻は悪阻がひどいのを言い訳にコーンウォールの生家へ帰ってしまい、孤独なビッグ・キースが真夜中に判例確認の電話を僕に掛けてくる回数もどんどん増えていった。
生まれてくる子供に鼻の下を伸ばす暇さえない様子を見兼ね、僕がこっそり仕事を手伝うことも珍しくはなかった。
ビッグ・キースが改まって僕に電話を掛けてきたのは4月も終わりに近づいた頃だった。
ぜひ耳に入れたいことがある、と。
彼が変に畏まっているのが不思議でならなかったのだが、待ち合わせのホテルの部屋を訪ねた僕は、何故ビッグ・キースがあんなにぎこちなかったのかをひと目で察することができた。
彼はひとりではなく、男が他に2人いたのだ。
ひとりはクイーンのマネージャーという額の広い男で、ジム・ビーチと名乗った。
抜け目のない笑顔が年配の僕の同業者を思い起こさせる。やり手に間違いはなさそうだった。
そしてもうひとり、「はじめまして」と挨拶できない人物がそこにいた。
ダニーの不在を厭でも思い起こさせられる人物でもあったが、以前とまるで違うにこやかな表情がスターのイメージをより一層強くした。
半年前に会ったことなど覚えていないだろうと高を括っていた僕は、早口の彼が初対面の挨拶言葉の最後に「アゲイン」をつけていたのを、うっかり聞き逃したと後で知ることになる。
再びこの男と会うことになるとは……。
それは不思議と待ち焦がれた人間にようやく会えた時の歓喜をも掻き立てた。
次第に気持ちが高揚するのを見破られまいと、僕は静かに深呼吸を繰り返した。
7.
――落ち着き払って見えるのは、たぶんこの男が最小限の動きしかしないからだろう。
見も知らぬ他人と会う回数をこなした人間は身に着けた技術を無意識に行使し、動きを抑えることで必要以上の外見的な情報を相手に与えないものだ――
同じ轍を踏むまいと細心の注意を払いながら、僕はジョンの一挙一動を観察した。
マネージャーを含めた話し合いの意図は主にふたつあった。
ひとつ目は、このビッグ・バンドが結成28年目にして初めて試みたアルバム統一名義にかかわる契約書確認だった。
クイーンは「ザ・ミラクル」という12枚目のオリジナル・アルバムと先行シングルの発売を目前に控えていたのだが、それまでの作品では個人名義でクレジットされていた作曲者名をバンド名で統一し、今後の印税は総て4人のメンバーが均等に分配するシステムを打ち出したのである。
この件は故ダニー・ウィンターが一任されていたため、他の仕事に忙殺されていたビッグ・キースが詳しい中身を知っていなかっただけでなく、社内でも長いこと極秘扱いだったために契約そのものを知る人間は限られていた。
先月、その契約書の確認に迫られたビッグ・キースが鍵のついた書棚をあけたところ、同じ契約書綴りの箱の中からダニーの個人契約書が見つかったのだという。
そして生前ダニーがサインした個人契約書の備考欄には、こんな一文があった。
【私ダニエル・フィッツジェラルド・ウィンターに一身上の問題が発生した場合、同僚ケネス・ラドリー及び法廷弁護人のローレンス・シドニー・ハンターを後任として指名し、主に契約書への疑問や不備が発生した場合に於いては、上記二名の承認を得た上、再契約の書面を交わすことをここに認める。
なお、ローレンス・シドニー・ハンターがこの件に関する同意を拒否した場合はこの限りではなく、ケネス・ラドリー並びにラドリー選出の弁護人二名に一任するものとする。
18/JULY/1987 ダニエル・フィッツジェラルド・ウィンター 】
正直言ってこれを見せられた時は愕然とした。
結局、これが彼らのふたつ目の目的であり、本題でもあったのだが、なぜ無関係なはずの僕がこの場に呼ばれたのか――の種明かしであると同時に、一見してわかるとおり、これは遺書そのものなのである。
ダニーは自分の身に起こるだろう近い将来の出来事を、悲情な偶然とはいえ一年以上も前から予告していたも同然だったのだ。
その上彼は、僕にダニー自身が歩んだのと同じ道を歩くよう方向を指示している。
僕は平静を装いながらも二重の打撃を受けて混乱していた。
ビッグ・キースはすまなそうに僕に耳打ちした。
「俺がもっと早くにこれに気づけば良かったんだが、他に感けてダニー自身の契約書にまで目が届かなかった。お前も寝耳に水だろうがダニーの遺志としてこれを伝えないわけには行かないし、会社としても一刻も早く定着できる後任が欲しいんだよ。お前もよく知ってる通りにな」
突然マネージャーのジムが緊急電話で呼び出され、ビッグ・キースを伴い中座すると告げても僕は次々に湧き上がる疑問と闘うのが精一杯な状態だった。
待たせることの出来ない事情であるとジムが説明し、慌しく2人が部屋をあとにすると、バンドがここまで大きくなる以前は会計士並みに財務を担当していたというジョンが分厚い契約書をぱらぱら捲りながら話し始めた。
「既知のとおり先任者は君が適任だと推薦し、我々も差し当たって異存はない。したがって君の意向を確認する必要が生じたんだ。本来これは先ほどいたジム・ビーチ、彼は元弁護士でね、その彼の仕事なんだが、予定が狂って急遽私が代行する。どうかよろしく」
「……はい?」
僕は目の前で喋る男の言葉を掴みきれずに聞き返した。
相手が口にする言葉を巧く咀嚼できないでいた。
おまけに僕は、ロック・ミュージック界の大物の一人が財務や法律という全くの別世界に器用に通じ、違和感を持たせることなくベテラン専門家のように振舞う姿にも初めて出会って面食らっていた。
これがあの時と同じ人物なのか?そんな場違いな疑問も輪を掛けて僕を混乱させた。
ジョンは僕を諌めにかかった。
「無理もない。これほど急な話だと誰だってそうなるさ」
「急な話?」
「ダニーが引き継ぎを望んだ契約内容が心配なんだろう?」
「いえ、まだそんなことまでは……」
僕の頭はそこまで追い着いてなかった。そんなものはもっとずっと後の話だ。
「じゃあ何?」
「ダニーは何故こんな遺書まがいの物を残したんだろうか、と」
ああまだそこか……と言わんばかりのジョンは薄く開いた口元から大きく息を吐き出した。
「私も本当に残念だ。会社としてもダニーを失ったのは大きな損失だよ。
どんなに優秀な弁護士でも、彼みたいに我々の活動を充分理解した上で職務に励むことはなかなか出来ないだろうと思うしね。でもダニーの遺志については、特別なこととも言えない。
我々のような特殊な集団では誰でも普通に、こんな風に後任を指名してるのがこの世界の常識みたいなものだ。残念ながら代えが必要になることはいくらでもあるからね」
厳密に言えばジョンは僕の疑問に半分しか答えていなかったが、本当に忙しい人間に多い無情な響きを伴いながら簡潔に喋り、こちらのペースなど易々と乱してくれた。
無駄のないキレの良さも、それがあまりにさり気なく自然で僕は戸惑った。
感情が置いてきぼりにされるような実務至上主義的な運びには慣れていたはずなのに、こうも早回しな立て板に水の流れだと自分のペースで話すことすら出来なくなる。
この時の僕はまるで気がついていなかったが、マネージャーとビッグ・キースが戻るのを待つ間に、ジョン主導の奇妙な駆け引きの幕が切って落とされていたのだった。
8.
ジョンはルームサービスが運んできた紅茶をカップ2つに注ぎ分けながら、
「気楽にしてよ。君と私は初対面でもないんだし」あっさりそう言った。
僕は眼を丸くした。
「覚えていたんですか?」
「……あれ?さっき君が来てすぐ<また会えて嬉しい>と言ったんだけどな」
――そうか。覚えていたんだ――
慌てて緊張していたと言い訳を添え、迂闊な態度を詫びた。
もっともジョンは自分の前で緊張する人間など見飽きているだろうが。
「印象的な人は忘れないものだよ」
意外な言葉が出てきた。
「僕が印象的……だった?」
「うん。君は私に怯えていたから」
ジョンは紅茶を注ぎ終えたティーポットをワゴンに戻し、背凭れに身体を預けて足を組んだ。
冷やかすような笑みを見せる姿からは大物の貫禄が滲み出し、それでなくても萎縮していた僕は身の置き所をなくしていた。
バツの悪さに咳払いを繰り返すと、それを待っていたかのように皿ごと紅茶を渡してくる。
動きは少々無骨で、伸ばした手の先にあるカップと皿は不快な音を立てた。
だがそんなことにはお構いなしなジョンは、ご機嫌な様子で自分のカップにダイエット・シュガーを放り込んでいる。
「失礼だけど」
彼は柔らかな声で切りだした。
「弁護士はお喋り好きかと思っていた。君は違うね。よほど大事な時にしか喋らないんだろうな。しかも君は面白い。考えていることがすぐ顔に出る。わかり易い君となら仕事も捗るだろう」
悪びれもせずジョンは言った。明らかに僕を挑発している。
僕はわからなくなった。ジョンはいったい何を目的としているんだろうか。
ひとまず相手の話を聞き真意を探ることが先決だと自分に言い聞かせたが、僕はとうの昔に分の悪い状況へ追い込まれていた。
ジョンはスプーンを手にして僕の出かたを待っている。
僕はといえば、目を合わせるのが妙に気まずく彼のスプーンに焦点をあてた。
当初ジョンはそのスプーンを優雅にカップの中で廻していたが、長引く僕の無反応に業を煮やしたのか、いきなりその回転を速めた。どうすることも出来なくなった僕はスプーンの柄に集中しすぎてだんだん気分が悪くなる。
不意にその手が止まった。
はっと我に返って顔を上げると、ジョンは目尻に数多の皺を寄せて笑いを噛み殺していた。
「君の活躍は新聞で読んだよ。優秀な法廷弁護人なんだね。心強い限りだな」
ご丁寧にとどめを刺してくる。僕は身悶えのた打ち回りそうになった。
恥ずかしさのあまり『そう、廻るスプーンを見つめて眩暈を起こすほどね』と悪態をつきたくもなったが、この男を前に巧く立ち回る自信などなかった。
ジョンは余裕で僕の眼を覗き込んでいる。
時折その眼に悪戯な魂が宿るのを感じる度、僕は心底降参しそうになっていた。
ジョンは決して僕をリラックスさせなかったが、表情の変化につい油断すると、今度はどうしようもなく拍子抜けさせられてしまう。
初めて会った時に見たあの周囲を圧倒する迫力やオーラが今の彼からはまるで感じられない。
曲者に変わりはない。が、今日の僕は穏やかにいびられている気がしてならない。
いや、実際ジョンは僕をからかって面白がっている、それは確かだ。
僕は僅かに苛立ちを覚えた。
このまま引き下がるのも癪に障る。僕は気後れてばかりだった。
ここは戦略を変え、退いてばかりはやめにして強引にでも押してみることにした。
「確かに僕は勝ち続けてきました。しかしそれを幸運の一文字で片付ける人も少なくはありません。そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。だから僕は他人の評価を深く追求しないようにして来た。わかっているのはひとつ。盲点は必ず存在し、そこを容赦なく突く。相手をよく見て、先に制し、倒す。僕はそれを繰り返したにすぎない」
内心、今更な……と後悔した。これほど説得力を欠く科白はないだろう。
既に僕はジョンからご挨拶代わりの軽いパンチを浴びせられギヴ・アップ寸前だったのだ。
きっとまた笑い出すに決まってると焦れながら、僕は少しだけ胸を張って顎を上げた。
だがジョンは真顔だった。
「なら、きっと君は気づいているだろうが……」
そこまで言うとジョンは一旦、紅茶を口に運んだ。
僕もそれに遅れてカップを持ち上げた。
「私は君が考えたとおりのクセモノだよ。厄介な男だと思ってるだろ?」
ジョンは顎を引いて片眉を吊り上げた。ここは笑いどころだとでも言うように。
僕は反射的に口に含んだばかりの紅茶を吹き出しそうになって咽た。
ジョンはやはり笑ったが、鋭い視線が僕を刺してきた。
ダニーの家で見たのと同じ、奥に仕舞った本音をいとも容易く見透かすあれだ。
彼が今までとは違う何かを言おうとしているのを察して、僕はやや身構えた。
「君の多忙ぶりは想像がつくよ。我々の弁護士たちも激務に追われろくに休暇も取れない。しかも君は法廷弁護人だ。我々が望む顧問弁護士の立場に身を置くのであれば、バリスターの地位から遠ざかることになるのも承知している。でももし君に少しでも興味があれば我々の仕事を引き受けてもらえないか?」
今が攻め時と判断したのか、彼は唐突に本題に入った。
「悪い話ではないと君が納得できるだけの報酬は約束する。また君の働きによっては保障も少しは拡大できる。車でも家でもね。何か要求か質問があれば聞くよ」
ジョンはどこを見ているのかわからない眼でさらさらとそう言った。
極めて冷静で事務的な口調だったが、ここでも言葉にはし難い挑戦的な気配を消すことはなかった。
僕は――冗談じゃない……こんな男の許で仕事など出来るもんか――と思っていた。
恥を掻かされた怒りは後から後から沸き起こる。
まったく興味を持たなかったわけではなかった。が、初対面も同然の人間を相手にここまで土足で踏み込み無礼の限りを尽くすとは、いったいどういう神経なのだ!?と。
僕は頼りない自分の外見を恨めしく思う以上に、タガの外れたジョンの隙を突いてやりたいとこみ上げて来るものを抑えられなくなった。
「貴方は他人に最低限の敬意も払えないわけではないですね?」
僕は感情のない静かな声で言った。
「ん?」
ジョンは驚いたふうでもなく聞き返してきたが、一度口を開いてしまった僕の怒りは止めようのないところにまで達していた。
僕は侮辱には侮辱をとばかりに、この場に相応しい最終弁論を始めることにした。
「失礼ながら先ほどから貴方を観察していて、貴方の頭の良さは充分納得できた。他人の言動に素早く皮肉を返すなど、並の人間ではとてもこなせない技もお持ちだ。ざっと見たところ、名義統一の契約書にも不備はなく完璧な仕事とお見受けした。ブレーンの揃った、理想的な職場環境だということがこれだけを見てもよくわかる。さらに、僕を後任に、と指名してきたダニエル・ウィンター氏の意向文書ならびにそのサインも紛れもなく当人のものであることは明白であり、光栄なことと受け止めている。しかし、遺憾ながら今の僕にはこの仕事を引き受けるだけの心理的余裕があるとは言い難い」
本当は最後にこう言うつもりだった。
――貴方と一緒に仕事をするくらいなら、格下のソリシターに甘んじる方がまだマシだ――と。
だがさすがにそれだけは躊躇われた。
まだ幾分、この男への興味が僕には残っていたからだ。
僕は最後通告を渡した気分でいたが、こめかみに揃えた指を当てたジョンはただ黙っていた。
先ほどまで検事席にいた筈の男が、今は陪審長のように評決がどっちへ転ぶのかを内心ハラハラしながら待っているようにも見える。
物憂げに落とした視線の先には彼が外した腕時計があった。
ジョンはそれに手を伸ばすと、映画俳優顔負けの流麗な動きであっという間に腕に嵌める。
思いがけずそんなジョンに突然スターの風格を見た僕は、感動に近い衝撃を受けた。
時々、彼が世界中にその名を知られた存在だったことを僕は忘れてしまうのだ。
得体の知れない感情が侵食している。
「それ、本心?」
ジョンが訊いてきた。
打って変わって、振られたショックを隠せないまま必死で縋りつく諦めの悪さにも似た色が滲み出ている。
僕は頷いた。
ジョンの奥の深さに圧倒されてはいたが、自尊心を護ろうとする気持ちのほうが強かった。
もう何といわれても絶対一歩も退くものか、と。
ジョンは何度かゆっくりと首を横に振る。威厳を取り戻した余裕の表情がそこにあった。
「違うな。君は私の度重なる無礼に我慢がならなかった、そうじゃないか?」
やはり言い当ててきた……しかしこれも予想済みだ。
これ以上怒る理由もなかったので僕はまた頷いた。今度は視線を捉えたままだった。
ジョンはシャツの胸ポケットから取り出した煙草をしばらく見つめていた。
「いや、申し訳なかったね。わかっていたよ」
煙草を一本を抜き出し火を点ける。一度吸い込んだ煙を僕を避けた場所に向かって長々と吐き出した。
何か決め兼ねていたことを今、決心したかのようだった。
「世界一気難しい面子が私の背後にいる。だからどうしても他人を試してしまうんだ。
でも君なら大丈夫だろう。さすがにダニーが薦めた人物だ。ケネスは君の力こそが必要なんだと昨日も熱弁を振るってたよ。私もケネスに同感だ。すぐにでも来て欲しい」
ジョンは微かに笑みを浮かべた。
僕の内心はひどく揺れていた。
さっきまでの怒りがまるで嘘だったようになりを潜めた今、ジョンが纏う空気にすっかり呑み込まれているのを厭でも感じないわけにはいかなかった。
彼の言動から攻撃性が消えると、僕は不思議と安らぎにも似た開放感を感じていたし、何かと不安定だった僕はあろうことか有頂天にすらなりつつあった。
いったい何がこれほどまでにこの男への興味を掻き立て、僕を迷わせるのだろう。
束の間だったが僕はジョンを見た。吐き出す煙のカーテン越しにジョンも僕を見ていた。
もう何も読み取らせはしなかったし、ジョンも余計な言葉を使おうとはしなかった。
だが心臓は早鐘のように打ち鳴らし、背広の下ではYシャツの背中がじっとり汗ばんでいた。
9.
……何時間経っただろう。たぶん真夜中だったに違いない。
僕はこの35年間、一度も吸いたいと思ったことのない煙草に次々と火をつけては消すを繰り返しながら、職場のデスクでタイプライターのキーボードを叩いていた。
もしキャロルがこれを見たら、物も言わずにピッチャーいっぱいの水を顔から掛けてくるだろう。
結局、僕は曖昧な返事をジョンに返しただけだった。
充分すぎるほど僕の日常は忙しく、バリスターを辞めるか否かを悩む時間が増えると仕事に差し支える。
それくらい実際問題として厳しい状況にあった。
ジョンに向かって言ったことばの総てが怒りから出たハッタリでもなく、かなり正直に事実を語っていたのだ。
ジムとビッグ・キースは終ぞホテルには戻れず、次の仕事の時間ぎりぎりまで待っていたジョンは最後に「返事は直接聞きたい」と彼自身に直通する電話番号を知らせて来た。
僕は同じエレベーターの中で去り際のジョンに告げた。
「僕はクイーンの音楽をよく知りません。何を聴けばバンドや貴方がわかるのかも見当が付かない。それでも勤まると思いますか?」
ジョンはしばらく黙ったあと
「きっと奇跡が必要なんだろうな」
そう言った。
止まったエレべーターが扉を開くまでの僅かの間にジャケットからサングラスを取り出し、開き始めた扉の向こうに人の山が見えたか見えないかの時を狙って手で顔を覆い隠すかのように縁の大きなサングラスをさっと掛けると、何事もなかったかのようにジョンはドアに向かって急ぎ足で歩き始めた。
ドアの外に出ると彼は数歩後方の僕を振り返って言った。
「良い返事を待ってるよ」
言うが早いか、彼はひらりと身をかわして近くに横付けされたキャブに乗り込んだ。
茫然と突っ立ったままの僕の耳に、たった今、車の中に消えた男の名前を確かめ合う複数の声が飛び交った。連鎖的に広まった声が僕の後ろで熱気を帯びている。ヒステリックな声が高層ビルに反響した。
走り出したキャブの中から、サングラスを掛けたまま相変わらずどこを見てるかわからないジョンがこちらに軽く手を上げると、途端に背後から数人の甲高い声がし、走る車を追い始めた。
僕も片手を上げて応えたが彼からそれが見えたかどうかははっきりしない。
だがこれだけは言える。
遠ざかる車の中にいたのは疑いようのないスーパー・スターだった。
10.
「ジョンは普段、そこまで感情的な行動には出ないんだがなぁ……」
ビッグ・キースは盛んに首を傾げた。
「確かに彼は極端な物言いを得意とするし、気に入らないと黙り込んで抗議する厄介な面はある。
だが、お前に対してはいき過ぎだ。バンドと話す時、俺が一番慎重になる相手は大概ジムか、蒼褪めてなお持論を延々展開するブライアンだけだ。案外、ジョン流の歓迎儀式だったのかも知れんが」
ケチャップをたっぷりつけたチップスを頬張りながら、ビッグ・キースはまるで腑に落ちないという話しぶりだった。
あれから5日が過ぎた。
なかなか決断を下さない僕をビッグ・キースが訪ねて来ていた。
彼が僕のフラットのベルを鳴らしたのは水曜の朝6時前だった。
昼も夜も休日でさえも仕事に追われ続ける彼が時間を取れるのは、この朝しかなかったのだと。
前夜から丸ごと冷蔵庫に入れてあったという紙袋いっぱいの食品を抱えて、玄関前に立っていた。
開かない眼を擦りながらドアノブにしがみついていた僕を見て挨拶代わりにひとしきり笑うと、彼はキッチンへ直行した。
ぶつぶつ独り言を言いながらコーヒーを淹れ、フライパンを振り、野菜やパンを切ってテーブルに並べる。
「おぉっと、これがなくちゃな」
袋の下の方で出番を待っていたチップスを取り出すと、慣れた手つきで鍋に油を注ぎ、跳ねる油を器用に避けながら好物をバットに載せている。
朝に弱い僕は闖入して来たこの家政婦をキッチンの片隅に置いた書棚にもたれてただ眺めていた。
「おう、喰うぞ。ついでにお前の気持ちも話してもらえるとありがたい」
ドスの利いた低音が腹に響く。僕は渋々テーブルに着いた。
こうして僕とビッグ・キースのあまりにも唐突な朝食会が有無も言わさずに始められ、<ついでに>僕は先日のジョンとのやり取りを掻い摘んで説明していた。
焼きすぎたベーコンをフォークで突き刺し、もう片方の手で胡椒のキャップを押し上げた。
食欲はなかったが、食べるふりでもしないとビッグ・ママ・キースから山ほど罵倒されそうだった。
「彼の本分は音楽だろう?なぜここまで会社の実務、人事に口を挟むんだ?」
ジョン本人を目の前にして言いたくても言えない言葉のひとつでもあった。
ビッグ・キースは齧っていたセロリを振り廻しながら言った。
「内部の人間にとってクイーンとは、ジョン個人を指す名詞でもあるんだよ」
古代ギリシア文字の羅列を見たかのような色が僕の顔に浮かんでいたに違いない。
「まだわからんだろうな。今その意味を解れと言われても無理な相談だ。が、一緒に仕事をすればその意味がよくわかる。彼はそういう男だ」
僕は立ち上がり、エスプレッソ・マシーンの前を行ったり来たりしながら言った。
「バンドや会社がどうあれ、僕は彼によってクソミソにされたんだ。特別な扱いをしろとは言わないさ。
しかしあの態度は何なんだよ」
「お前は充分特別だよ。少なくてもあの<ジョン・ザ・クワイエット・モンスター>の興味を惹きつけているんだからな」
「興味?何のことだ?」
「ジョンは興味のない人間にはいたってクールだよ。機嫌が良ければ笑顔の大サービスで追い払う。
だがお前は散々絡まれたよな?つまりお前には並々ならぬ興味を持っているということだ」
「……なぜだよ?」
「知るか。食事中は立って歩くな。落ち着かん」
ビッグ・ママは僕に一瞥をくれるとオレンジ・ジュースを飲み干した。
「最初にお前をクイーン・プロダクションにと言ったのは確かにダニーの契約書だ。そしてジム・ビーチは当初、難色を示した。理由は知らん。バリスターなどでなくて良いとしか言わなかった。バンドもダニーの遺志より現実的な決定をしたい、つまり一刻も早く後任をと考えた。だが何かが起こったとしか言いようがない。ジョンはある日突然、俺にお前の個人的な情報を求めてきた。その後ジム・ビーチは態度を翻した。
そしてジョンと共にお前を説得すると宣言した。俺は会社の決定を喜んだよ。お前と一緒に仕事が出来る可能性があるなら、それに賭けてみる気にもなるさ。……あとはお前の知ってるとおりだ」
ビッグ・キースは再びチップスを口に運んだ。
「さっぱりわからん」
「あぁ。俺がお前でも混乱するだろうな。だがお前自身はどうなんだ。迷っているんじゃないのか?」
僕はまだビッグ・キースに本心を明かす気にはなれなかったが、迷いがあるのは明白だった。
「ややこしい世界なんだろ?」
「何を恐れている?」
「そんな異常な世界などごめんだ」
「異常な世界……?お前の頭にはいったいどんな観念があるのかこっちが知りたいよ」
ビッグ・キースは呆れ顔で言った。
「少なくても普通とは違うはずだ。人や音楽がビジネスの根底にある会社なんだから」
「は……?俺からすれば普通としか言いようがないんだがな。そもそも顧問弁護士の仕事なんてのはどこであろうと中身は同じじゃないのか?」
「では訊くが、彼の為にバリスターをやめるほどの価値があると言い切れるか?」
僕は苛立った。ジョンの名を耳にする時、総てが謎ばかりであることに辟易していたのだ。
だがこのお陰で腹の内を晒したも同然だった。
「逆に俺が訊きたいね。お前にとってのクイーン・プロダクションとはディーコンその人なのか?」
ビッグ・キースの褐色の眼が核心を貫いた。
「誰もそんなことを言ってないだろう」僕は思わずファックと口走った挙句、舌打ちした。
「……ここが法廷なら偽証罪と法廷侮辱罪がたったいま加わった。被告は間違いなく有罪だぞ」
「うるさいな、偽証罪の裏づけはどこにある?裁判官への真摯な謝罪と証人喚問の信憑性いかんでは逆転無罪も勝ち取れるケースだこれは!」僕はやけくそになって言った。
「眼を覚ませよ、ラリー。俺はお前の本心が聞きたいだけだ」
頭に昇った血が引いた時、僕は決定的なミスを犯したことにやっと気づいた。
もう隠し遂せない。僕は負けを認めなくてはならなかった。
「お手上げだよキース。自分は何故バリスターをやめることばかり考えているんだ?
不思議とジョンが頭から離れない。どうしてここまで彼に拘るんだ……?」
11.
僕らはどちらが言うでもなく居間のソファに場所を移し、端と端に並んで坐った。
学生時代からの癖で、向き合うよりもこの方が互いに気楽だった。
ビッグ・キースは三紙ある新聞の束から一紙を取ると、それを拡げながら僕に訊いた。
「来るか?我がクイーン・プロダクションへ」
「まだ決めたわけじゃない。もしそっちへ行くのなら、会っておかなければならない人物がいる」
「……スコット・バレンか?」
「ああ」
僕は彼を思い浮かべるだけで身体の力が抜けていくのを感じた。
移籍を前提にスコットと会うのは、約束された将来への道から自ら外れることを意味した。
どんなに天才的な法律家であろうと、僕ら中流階級以下の青二才にはスコットのような後ろ盾がなければ将来など見えるはずもない。こと貴族であることが優勢な英国司法の現場にあっては、王家の血を引く系統が圧倒的な力を有する。スコットは公爵の末裔とはいえ、典型的な貴族出身の判事である。
僕は法曹界に足を突っ込んだ直後から、このスコット・バレンのお眼がねに適った扱いを受けてきた。
「あの哲学の鬼がどんな言葉を使って血迷ったお前に物申すのか、考えただけでも興奮するね。
<有罪であるという事実そのものを罪としてはならない。だが、無罪を認められた犯罪者には常に法が下した大罪が付き纏う>だったか?」
「ああ。<法は罪を裁くが、人を裁く法の罪は、いったい誰が裁けよう。人を裁くこと勿れ、汝、罪こそを裁く巡礼者なり>も名言だ」
「サー・スコット・パラドックスに神のご加護を!お前の道ならぬ恋もついでに裁いてくれるといいが」
「もう少しマシな言い方はできないのか……?」
「抗い難い魅力の虜となり、その存在が頭から離れない時、人はそれを恋と呼ぶんだ」
ビッグ・キースは嬉々として僕の弱みを弄んでいる。僕は頭を抱えた。
柱時計は間もなく9時の鐘を鳴らそうとしていた。
「さぁて、今日のところはここまでにしよう。出勤の時間だ。お前にはまだ猶予が必要らしい。
充分考えるんだな。今日の出廷は何時だ?」
「午後だ。保険金詐欺の第一回公判が控えている」
「あぁ、被告は確かジョン・ディッケンスだったな。ときめくだろう?」
ビッグ・キースはジョン・ディまでの部分をやたら強調してみせた。
「……勘弁してくれよ」
「いや、名前を確認したまでだ。気を悪くするな」
ビッグ・キースは洗面所で歯を磨くと上着を羽織り、玄関へ向かった。
「俺はもうこれ以上うるさく言わん。だから自分の気持ちに従ってくれ。ただ、ひとつだけ付け加えておきたいことがある。お前のドリーム・ボーイは……」
僕は一歩進み出ると腕を組んでビッグ・キースを睨めつけた。
「失礼。ジョンは今、必死だ。誰よりも強くバンドを支えようとしている。詳しいことを言える立場ではないが、それだけは確かだ」
ビッグ・キースの奥歯に物が挟まったような話しぶりが奇妙に思えたが、僕はますますクイーン・プロダクションへの移籍が見えない何かによって運命づけられたシナリオのように感じてならなかった。
書斎の窓からベンツを見送ると、僕は鍵のついた机の抽斗からスコット・バレンの住所が書かれた分厚い関係者名簿を取り出した。
スコットの名の位置から真っ直ぐ右に辿ると、リッジモンドとウインブルドン双方の住所が記載されている。
貴族の出で資産家のスコットには高級住宅街に所有する自宅が二つあった。しばらくの間、僕はそこに釘付けになった。
僕は再び首をもたげた躊躇いの感情に揺れ始めていた。
このまま行けば裁判官になれるだろう将来が、たった一本の電話で絶たれるのかと思うと手が震える。
何の為にそんな暴挙に出ようとしているのか、はっきりとした答えをまだ見つけてはいなかった。
ほどなくドアベルが鳴り、玄関の前には小包を手にした配達人が立っていた。
受け取りにサインすると片手に収まる四角い紙包みを渡された。
包みをひっくり返すと手書きの差出人名のみが書かれてある。
【ゴールドフィンチ・プロダクション】
まったく聞き覚えのない会社名だった。
だが、宛名には間違いなく僕の名前があり、ご丁寧にも親展扱いで送られてきている。
僕は訝しがりながらも包みを開けた。中から出てきたのは一枚のCDだった。
これが間もなく発売予定のクイーンの新譜だろうか。
ジャケット写真には青と白の背景を前に合成された四人の男の顔が並んでいた。
お世辞にも気味の良いデザインとは言い難いが、左端の男には面識があったし、赤い字で記されたバンド名の下には、タイトルでもあり聞き覚えのある言葉が書かれていた。
【奇跡】
突然僕はジョンがエレベーターの中でため息混じりに漏らした言葉を憶い出した。
<奇跡が必要なのかもしれないな>
写真左端の男は確かにそう言った。奇跡……?これがその奇跡だとでも言うのだろうか?
そしてこれはジョンが謎解きのために送って寄越したのか?
硬いCDケースをこじ開けると、挟まっていた紙切れがひらりと床に落ちた。
慌てて拾い上げると、その紙に力強い筆跡で走り書きされた文字が眼に飛び込んだ。
【参考までに JD】
――JD……ジョンだ。やはりそうか――
メッセージというには実に素っ気ないものだった。
だがこの短い言葉こそがジョンという人間をわかり易く表しているのではないだろうか。
僕は何を差し置いても今このCDを聴かなければならない衝動に駆られた。
その思いは強く、気がつくと手近な受話器を取り上げ、事務所のキャロルに電話を掛けていた。
「予定変更だ。昼までは自宅で仕事をするよ。たとえ緊急であろうと電話は決して廻さないでくれ」
「かしこまりました。本日の開廷は午後2時です。くれぐれも遅れないように」
「わかった。ありがとう」
電話を切ると僕はCDプレイヤーの電源を入れた。
普段めったに使うことはなく、ごくたまにスコットから薦められたモーツアルトやビゼーの有名な歌劇を気まぐれに聴くために購入しておいた物だった。
高速ターンテーブルが機械の奥からするりと出てくる。
黄色いCD本体をそこに載せ、リモコンのプレイボタンを押すと、ややしてドラムの音が鳴り出した。
僕が意識して初めて聴くクイーン・サウンドが部屋中にその音を満たしていく。
それまで想像することもなかった未知の世界が広がり始めた。
ほとんど違和感を持たぬまま惹き込まれ、そんな自分をすんなり受け止めているのが不思議だった。
まだ発売されてもいない一枚のCDアルバムを、僕は驚嘆の思いで終わりまで聴き続けた。
12.
それまでの僕はロックを好んで聴いたことがなかった。
特有の煩く忙しすぎるリズムや過激なメッセージといった既製のイメージがあまりにも強く、喰わず嫌いのまま遠ざけて来たこともその一因だったのだろう。
だがこのアルバムから聞こえてくるのは果てしなく自我の真価を問う人間のリアルな声であり、溢れ出してくるのは生きる者が抱えた当たり前の苦悩や希望や欲望だった。
様々な曲の構成は重厚かつ壮大でありながら独自の世界を成し、絶え間なく力強く踏み出す勇気を訴え掛けてくるのである。
決して煩い音だけではなかった。音が鳴り出した途端、思わず笑みが零れてしまう軽快な曲もあれば、曲の終わりに繰り返されるフレーズを覚えて共に歌ってしまったものすらあった。
心地良い疲労感が僕を包んでいる。
音が鳴り止んだ静寂の中で、ひとつのドラマを見た気がしていた。
パーティが終わり船旅に出てまたドンチャン騒ぎを繰り広げ、平和という奇跡を祈り、総てを手中にすべく求めた透明人間が苦悩から解き放たれる突破口を開こうとするも、意地悪な雨を避けられず、醜聞に苦しみながら愛人によって救われ、生きてきた価値はあったと言い放つ。
……解釈の是非はともかく、見事に完結したストーリーがそこに姿を現したのを見て、僕にはそれが面白く思えたのだ。
と同時に、今までの僕には全く見えてなかったミュージシャンとしてのジョン・ディーコンもその輪郭を見せてくれた。
彼はこの円盤の中でも確実にバンドの屋台骨を支えている。
曲によって表情を自在に変えるベースの音が、私はここにいると訴え掛けてくるかのように。
新たな好奇心が僕の内側で活気づく。もっとプレイヤーとしての彼を知りたいとわめき散らすのだ。
ジョンは僕に応えてきた。これがクイーン・サウンドなのだと。
彼に投げ掛けた疑問に対する答えが、この一枚のCDだった。
【参考までに】とだけ書かれたメモ用紙、これひとつを取ってもこのアルバムはクイーンの、或いはジョン個人にとっての自信作であると窺い知ることができる。
満足な仕事を終えた時、人はクドクドとそれについて語ろうとはしない。
どんなにこの達成感が素晴らしいものかを吹聴して歩きたい衝動に駆られようと、こと彼のような男なら白々しいまでに謙虚な振る舞いを選択してしまうだろう。
黙っていても世間は評価を下してくる。彼はそれを厭というほど知っている。
アルバムに関して言うなら、結果はもう見えたも同然だ。
これほどの会心作が人々の気持ちを掴まないはずはない。
ロックに疎い僕にもそれだけははっきりとわかる。
また違うジョンが見えた気がした。
そこに自分との共通項を見い出せたことも大きな安心感を呼んでいた。
そして答えは出た。
彼がこうして挑んで来た以上、僕はもう逃げるわけには行かない。
スコットに会おう。
ローレンス・シドニー・ハンターの口頭契約違反について、自ら真摯に謝罪するのみだ。
必要とあらば弁護もしよう。彼はもはやバリスターの器ではなくなったのだと。
血迷った弁護士はそれに相応しい職場を選ぶ権利があるのだと。
スコットはきっと僕に訊くだろう。
敬虔なクリスチャンでもある彼のことだ。
神が与えた稀有な力を、君は誰の為に生かすつもりなのか、と。
その時、僕は答えよう。
神の赦しを請うのではなく、神の意思として僕は選んだのだ。
「すべてはクイーンのために」
(第一部 了)
第二部へ続く