結婚式の前日、ナイジェル・バレンはジョン・ディーコンと打ち合わせをするためにロンドンへ向かった。ジョンはフルハムのParsons Green駅の近所のフラットに住んでいて、地下鉄が通る度に揺れるので会話がしばしば途切れた。地元のレストランで食事した後、サザン・コンフォートのボトルを開けながら、彼らは結婚式の準備について語り合った。
結婚式はケンジントン・チャーチ・ストリートのカーメリテ教会で執り行われた。ヴェロニカの家族が一員であるこのカトリック教団は、パレスチナのマウント・カーメルにちなんで名づけられており、厳格で伝統的な教義に則っている。カーメリテの尼僧たちには、ごく最近まで、一旦入会すると完全なる沈黙の誓いを守り続ける慣習すらあった。
修道士による婚礼の儀は長かったが、その場が一気に明るくなる出来事が起こった。フレディ・マーキュリーの到着である。ナイジェル・バレンによればこうだ:「教会の後ろの扉がバンと開いたかと思うと、両腕に女の子を抱いた人物のシルエットが見えた。一人はメアリー・オースチンだったと思う。最初は花嫁かと思ったんだけど、フレディだったんだ! 彼は羽根付きの帽子を被ってて、会場にいる人は皆振り向いて見ていたよ。たいしたご入場だったなあ」
レセプションはハマースミスにあるヴェロニカのフラットで行われる予定で、ごった返しの状況で最大限の尽力に励んでいたナイジェルは、十分な車のない中で大勢の人々を移送するという難題に取り組むことになったのだが、突然、あることをやってのけた。「車の数が足りなかったんだけど、どうにかして皆をレセプション会場まで運ぶのが僕の仕事だった」ナイジェルは言う。「フレディは女の子たちとリムジンに乗っていた。たぶん自分の車なんだろうと思った僕は窓から頭を突っ込んでこう言ったんだ。『もう少し乗せられるよね?』って。それから残っていた人を全部押し込めちゃった。彼は何にも言わなかったけど、そのときの表情はまさに見物だったよ! ほんと、滑稽だった。羽根付きの帽子なんてしわくちゃになってたもんね」
ナイジェル・バレンは70年代半ばもジョン・ディーコンと大変親しい関係を続けていて、彼やヴェロニカと一緒に、降って沸いた富を楽しんでいた。ロンドンで行われるクイーンのショウを運転手付きのジャガーで見に行くといったようなことをだ。しかし結局、この二人の友人関係は終焉を迎えることになる。ナイジェルとルース・バレンは、見えない布がジョン・ディーコンを包みこみ、名声が彼をさらってしまうのをただ黙って見ているしかなかった。ロンドンに来たらいつでも電話をしてみるのだが、彼がいた試しはなかった。留守か、ツアー中か、或いはヴェロニカの言によれば「仕事をでっち上げている」ということだった。ごくたまに再会しても、もはや以前のようにはいかず、どこかぎこちなく苦痛を生じるものになっていた。バックステージでのほんの限られた時間ですら、ジョンの心は明らかに他事に向いていたから。バレン夫妻にはどうすることも出来なかった。名声によって変化した友人関係を保つすべなど分からない。もしこのまま彼を追い続ければ、きらびやかなモノに憧れるおべっか使いに成り下がる気がした。だがもし無視すれば、見捨てられた、避けられたとジョンが思いはしないかと心配だった。
ルース・バレンはオードビーで、ジョン・ディーコンの母親、モリー・ディーコンと時々会うことがあり、彼女にその懸念を打ち明けている。「彼女は私達よりもっと彼のことを心配していたわ」ルースは言う。「彼女は言ったの。彼はプレッシャーがかかり過ぎて病気になりかけてるって。ヴェロニカも言ってたわ…ツアーから帰っても、普通の人に戻れないんだって。子供達と遊んだり、彼らを公園に連れて行ったりといったことすら出来なくなったそうよ。きりがなくて、彼自身どうにも止められないらしいの。そんな生活、私ならお金貰っても願い下げだわ」
1985年のクイーンUKツアー(★注)において、ナイジェル・バレンはとうとう、彼自身の人生とジョン・ディーコンのそれとが余りにもかけ離れてしまった事実を受け入れた。彼はリーズ、バーミンガム、ロンドンのショウを見に行ったのだが、かつての学友が築き上げた恐るべき地位に仰天するばかりだった。「信じられないくらいの警備体勢が敷かれていた」バレンは語る。「たとえ知人だとしても、そう、例えば母親であっても、セキュリティが設けた手続きをすべて踏まえなくちゃならない。彼のお母さんがバックステージに入れてもらうためにある場所で待ち続けていたのを見たことがあるんだ。中に入って、彼と一緒になったら快適だったけどね。飲み物をもらって、話をしたよ。僕らに何が欲しいか聞いた彼が指をぱちんと鳴らしただけで、誰かが運んできてくれるって具合さ。周りにいる取り巻き連中は、彼の機嫌を取るためだけにいるみたいだった。すごく不自然に思えたよ。4人を始終ハッピーにしておくための大掛かりな組織があって、各自の気まぐれに付き合っているんだ。彼はもう、僕の知ってる彼じゃなかった。70年代初めの頃の熱狂も失って、『ああ、何もかもやっちまったよ』ってな態度が見えた。そりゃ、変わるなと言うほうが無理なんだろうけどね…」
1985年のクイーンの豪勢なバックステージを垣間見た後、ナイジェル・バレンはこれが自分自身の生活に戻る良い潮時だと思った。彼は80年代に二度職にあぶれたが、現在はルースと共に、オードビーからほんの数マイルの風通しの良い工場地で小さな織物会社を経営している。バレン夫妻からディーコン夫妻への、或いはその逆からのクリスマスカードのやり取りはもはやなく、二人の友人は10年近く会っていない。ナイジェルはそれでも構わないと思っている。もう過去のことだし、人生は続いて行くのだから。だが「N.Bullen 織物会社」の看板を見る度、それでも彼は思うのだ。ワイヤーフェンスで囲まれた駐車場の反対側には、きっと、「J.Deacon エレクトロニクス」と書かれた看板があったはずなのに、と。
("Pretentious Even..." : 終)
(★訳注)実は1985年にはUKツアーは行われていない。リーズでのショウは1982年5月のHot Spaceツアー、バーミンガムとロンドンは1984年9月のThe Worksツアーだから、おそらくナイジェルさんが最後にバックステージに行ったのは1984年ではないかと思われる。アフロだ。
二度と帰らぬ日々に思いを馳せるナイジェルさん。