The Early Years (3)

Written by Mark Hodkinson (OMUNIBUS PRESS)
Clive
この人のベースが旨かったなら、クイーンの歴史は
変わっていたであろう、元The Oppositionのクライブさん

Chapter 1 : Clucksville (p.17--p.20)

クライブを辞めさせろという話は以前から出てはいた。ローカルバンド、The Rapids Raveのシンガー、ピーター・”ペドロ”・バーソロミューがその一人である。この外向的なフロントマンは、二つのグループが同じ出し物に参加したときにゲストで2,3曲歌っていたが、自らのグループでの在籍期間は短いものだった。The Rapids Raveの過密スケジュールが彼のエンジニア見習いに差し支えるとして、父親がバンドを辞めるように命じたからである。ピーターにとって、それほど目立った活動はしていないThe Oppositionは理想的なバンドであり、彼らもピーターの参加を熱望していた。ピーターは言う。「俺は言ったんだ。『ああ、入ってやるよ。だが一つだけ言いたいことがある。君らはみんな上手だけど、あのベースプレイヤーだけはクズだぜ』ってね。彼だけがズレてたんだよ。クライブは必死にパートを追っていた。ルックスも良かった。だが下手くそだった。君らはこじんまりしてるけどすごいバンドだ、でもそれをベースプレイヤーが台無しにしているんだ、とも言ってやったな」

仲間内では「クラック(Cluck)」と呼ばれていたクライブは、実は、誰よりも時代を読んでいた。彼はオードビーでも真っ先にヴェスパ・スクーターを所有し、モッズカルチャーを受け入れた中の一人である。これはもちろん、ロンドンの街から見れば大したことではなかったが、スカート丈が長くなり、スーツが細身になり、気取った態度をとるのはどこでも同じだった。「僕はスクーターの売買を始めたんだ」クライブは言った。「オードビーは裕福な街だったから、僕らはモッズだったといえるね。でも、過激じゃなかった。すごく隔離された環境にいたから、常識的に育って、普通の生活を送っていたんだ。ロッカーなんてまず見当たらなかったよ」

ピーター・バーソロミューは、自分こそがジョン・ディーコンに最初にベースを弾くように勧めたのだと主張している。グループはある日、ベースにジョン、ボーカルにピーターを配して、オードビー・ボーイズ・クラブで練習することにした。クライブに知らせずに早めに集まると、ジョンはクライブの機材を失敬して数曲演奏した。当時バンドは、アンソニー・ハドソンという人物に「マネージされて」いた。彼らの知人で、マネージャーに採用されたのであるが、それで稼ぎを得ていたかどうかは誰も憶えていない。「アンソニーは足でリズムを取りながら、クラブの扉の近くに立ってた」ピーター・バーソロミューは言う。「クライブが来るのを見張ってたんだ。彼が来たら、知らせてもらう手はずになっていたんだ。ジョン・ディーコンのベースはイカシてたから、すぐにとってかわっちまったな」

計理士になることを両親に止められたクライブは、趣味を脇にやって、仕事に専念することになる。「キャッスルディン・スクーターズ」は「クライブ・キャッスルディン・モーターサイクル」となり、レスターでホンダやスズキのディーラーとなった彼は、工場とショールームを、車通りの多いHumberstone Roadに所有している。繁盛期である夏には週に10台のバイクを売り、そろそろ息子に事業を譲ろうと考えているらしい。二つの汚いブロックの影で、ドラム缶や油染みた布切れ、モーターサイクルスーツに縫い込まれるジッパーや磨かれたバイクの列に囲まれた彼は、一度も、元の音楽仲間のライフスタイルを羨ましいとは思わなかったそうである。「音楽をやろうという考えは、きれいさっぱりなくなったからね」彼は言う。「すごく昔の、取るに足らないことだよ。パンクのときはちょっと興味を持ったけどね。StranglersやSham 69なんかの未熟さが好きだったなあ。でも週に60時間も働いてる身だったし。今じゃ、ベースの持ち方すら憶えてないよ」

クライブの抜けたバンドは、独自のペースを保ち、出演依頼も事欠かなかった。他の州と同様、レスターにも、教会からメンズクラブ、劇場にいたるまで、集会場が沢山あった。最初に若者によるライブミュージックを支援する下部組織を作ったのはUKである。ポップミュージックはテレビで独自の番組を持ち、それは軽いエンターテイメント番組のおまけ以上のものであった。皆がメロディ・メーカー紙を読んでいた時代だった。

どのグループでもそうだが、隠れた野心を持っていたThe Oppositionは、多いに腕を磨き、レスターのベストバンドの一つに数えられ、将来を有望視されるようになる。毎週土曜にはほとんどエンダービーの生協ホールに出演し、4ポンドを受け取っていた。1966年の末には、Market Harborough Working Men's Clubやレスター・テニス・クラブ等の集会場でも演奏するようになり、出演料は12ポンドに上がった。

大抵のショーは、ピーターの元のバンド、The Rapids Raveの前座だった。彼らはレス・テイラーという人物にマネージされた、少し年長のグループである。レスの継子のロバート・プリンスがThe Rapidsのリードギターを務めていた。レスは後にThe Oppositionのマネージャーにも就任する。「私はロバートから目を離したくなかったんだ」レスは回想する。「ごろつきがいる場所でも演奏してたからね。マネージャーだったら、少なくとも彼が何をしているかいつも見ていられるだろう? The Oppositionは、単にバックアップのグループに過ぎなかった。彼らのことはほとんど何も知らなかったよ」レスはいつも、両グループをセットにして売り出してはいたが、彼の最大の関心は出来の良い義理の息子にしかなかったようである。「ミッドランドのエリック・クラプトンさ」彼は息子をこう評した。ジョン・ディーコンのことは「可愛い坊やだった」と記憶していたが、それを思い出したのは、ジョンの大成功を知った10年ほど後のことであった。「音楽業界に対する野心なんてものはなかった」彼は言う。「ロバートを悪い仲間と交流させないようにするのが精一杯だったから。ここの次はあそこ、というように依頼をとってきただけさ。当時は簡単なことだったよ」

1966年6月には学友のデビッド・ウイリアムスがリードギターに参入し、リチャード・ヤングは以前からのお気に入りだったキーボードに転向する。The ZombiesやThe Spencer Davis Groupのカバーを始めるのもこのころである。彼らは頻繁に題材を変えようとするが、Booker TやThe MGsのインストゥルメンタルが彼らの限界でもあった。

The Oppositionの演奏を最初に聞いたとき、デイブ・ウイリアムスは何の感慨も抱かなかったらしい。彼は以前にもThe Glen SoundsやThe Outer Limitsというローカルバンドで演奏しており、グループでの基本的な要素、例えばチューニングのことなどに通じていた。「リハーサルに行ったら、ひどい音でね。ちっともチューニングなんかしてないみたいだった」彼は回想する。「チューニングはしていたけど、自分の楽器だけでやってるから、お互いにあわせると調子っ外れなんだ。ピッチパイプを使うようにアドバイスしたら、まあまあの音がでるようになったけどね」

ジョン・ディーコンのバンドへの貢献度はかなりのもので、熱心に曲をアレンジし、確実に演奏する彼の完全主義的態度は誰の目にも明らかだったらしい。彼はまた、リチャードと共にバンドの記録係でもあり、「レスター・マーキュリー」紙に載ったほんの小さな広告にいたる、あらゆる新聞の切り抜きを集めていた。

モリー・ディーコンはまだ、息子の人生にとってバンドは下らないものだと考えていた。夫は1962年、ジョンがちょうど10歳の時に亡くなっており、躾を一身に担っていた彼女は、アカデミックなキャリアに就けるように彼を教育していたのである。1966年9月、バンドはAtherstoneのTudor Rose pubで演奏することになっていた。厳しいモリーを避けるために、彼らは家の外にジョンをおびき出して庭で相談することにした。だが、不幸なことに台所の窓が開いており、彼女に丸聞こえだったらしい。「彼女はすごい剣幕で出て来て、こう言ったよ。『ジョンはパブなんかで演奏させません!』ってね。ジョンもあのころはまだ16歳にもなってない未成年だったけど、彼女はそんな調子だったから、ちょっと厳しすぎると思ったな」

(つづく)

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