The Early Years (6)

Written by Mark Hodkinson (OMUNIBUS PRESS)
John's house
Hidcote Roadにある、ディーコン少年の家。
左の木の上にあるのは巣箱なんだろうか

Chapter 1 : Clucksville (p.24--p.26)

生真面目で粘り強い活動を続け、デビューから4年経っていたThe Oppositionではあるが、レスターから数マイル以上離れることはなかった。彼らにはスタジオ経験がなく(しかし、ジョンが抜けた数週間後に、Wellingboroughのベック・スタジオでアセテート盤を作ってはいる)、地方の1つか2つのエージェント以外は音楽業界との取り引きもなく、そして、おそらくこれが一番ネックだったと思うのだが、自作曲がなかった。彼らのローカルな度量の狭さは、1968年初頭に7年物のモーリス・バンを買うという決断に要約されるだろう。広い視野を持ったグループなら、レコードプレス代やスタジオ代、有望なマネージャーを探しにロンドンに向かう費用、ポスターキャンペーン、或いは首都に出稼ぎに出たりするために金をつぎ込むだろうが、そういったことはThe Oppositionのスタイルではなかったのである。「僕たちはレスターやその周りでのベストバンドの一つになりたかった」リチャードは言う。「僕は誤解していたんだな。上手くなってきたらプロになれて、自然にのし上がっていけるものだと思っていた。でも、そんなふうには行かなかったよ。下手くそでも適切なプロモーションをすればそこそこやれるんだって気づくのに時間がかかりすぎたんだ。そういうことさ」

新たなグループがレスターに現れ、The Opposition、特にリチャードは、プロモーションの重要性を痛感したらしい。新星のごとく現れた新しいグループ、Lagay(ドラマーの名字を取って名づけられたらしい)は、ほんの数週間で街の集会場を支配し始めた。The Oppositionが何度も精を出して演奏した場所でも、彼らは徐々にファン層を伸ばしていった。「リチャードはLegayにかなりイライラしていたよ」ナイジェル・バレンは言う。「彼らはイメージをしっかり持っていた。タムラ・モータウンのヘビーロック版って感じで、彼らが演奏してるとレスター中のゴージャスな女の子が寄っていったな。音楽的にはまったく並だったけどね」ジョン・ディーコンがすでに突出したものを持っていたことを、周囲は誰も知らなかった。Legayはその後かなり売れ筋になり、1970年にGypsyとしてロンドンのパブ・サーキットで確固たる地位を築き、反応は今一つだったが、United Artistsから2枚のアルバムを出している。

ジョンはまもなく抜けることになっていたが、リチャードはThe Oppositionの出演依頼を取り続けた。それにはSouthseaやNewcastle-upon-Tyneなどの郊外も含まれている。しかし、ジョンが去って一年経つと、リチャードもまた、Fearn's Brass Foundryのピアニストの職を得てバンドを抜ける。このソウル・カバー・バンドは週に5夜もライブを行い、レスターでも一流のミュージシャンが混じっていた。彼らは余りにも魅惑的であり、リチャードは自分の温めていた計画が自然な成り行きをたどっていることに気づく。彼はキャバレー・サーキットを渡り歩き、17年余りそこに留まった。クルーズ船での演奏者になったとき、音楽は彼の世界の大部分を占めていたのだが、1986年、彼はさまようのを止め、レスターでピアノの調律師兼教師として働くことに決めた。

ジョン・ディーコンがThe Oppositionに在籍していた頃は、ポップ・ミュージックが根本から変化していった時代だった。10年以上の時代精神を物語るビートルズやローリング・ストーンズは、輝きがあるが青二才的なポップ「HELP!」や「Satisfaction」を1965年夏に出し、ほんの4年後には「Abbey Road」や「Let It Bleed」などの円熟味を増した大人っぽいアルバムを世に出している。トミー・スティール、クリフ・リチャード、ダスティ・スプリングフィールド達は、イギリスのティーンエイジャーをその両親と同じような服装や優しい物腰に仕立て上げた。ブリティッシュブルースの兄弟たちともいえるエリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、ロジャー・ダルトリー、イアン・アンダーソン、キース・リチャーズにレイ・デイヴィスは、髪を長く伸ばし、衣服を引き裂き、WEMスピーカー達の騒ぎは、媚びていたり抑え気味だったりすることは全くなかった。

The Oppositionはこの新たなエネルギーを吸収しようとしていた。1966年10月の初めにはfuzz boxを使っていたくらいだったが、彼らは所詮、Aレベルを貰って大学へ行くような、育ちの良いお坊ちゃん達でしかなかった。現にジョン・ディーコンは8つのOレベルと3つのAレベルを取得してビーカムを卒業している。これはグループにかなりの時間を割いていたことを考えると大した業績であろう。The Oppositionはジェスロ・タルやディープ・パープルなどを分別臭くカバーした曲を演奏していたこともある。実際、初期のディープ・パープルはジョン・ディーコンに影響を及ぼしていたようだ。大学へ入学する前、彼はレスターの友人、リチャードやナイジェルと一緒に、ロイヤル・アルバート・ホールへディープ・パープルを見に行っている。彼らは既にディープ・パープルのアルバム「Book Of Taliesyn」に夢中だった。ロンドンでのコンサートにはフルオーケストラがバックに付いており、1年後に「Concerto For Group And Orchestra」としてリリースされる。「素晴らしい夜だったよ。僕らみんなが影響を受けたね」リチャードは言う。「オーケストラや演奏にクラクラきた。もう、最高だなって思ったよ。レスターへ帰る車の中で、僕らはそのことばかり喋ってた」

(Clucksville:終)

[Back]