The Early Years (7)

Written by Mark Hodkinson (OMUNIBUS PRESS)

Chapter 8 : Enter, Stage Right (p.139--p.144)

(それまでの粗筋:「クイーン」と改名して1970年6月27日に初舞台を踏んで以来、数名のベーシストが現われてはすぐに消えていった。原因は各人で違うが、基本的には他の3人との「バランス」だったようである。)

ベーシスト選びの手際ときたら並み以下のクイーンだったが、彼らにもとうとうツキが廻って来る。すでに3人ものベーシストに別れを告げており、彼らのサウンド、プロフェッショナリズム、パーソナリティをいつまでも補い合っていくような人物などいないのではないかと考え始めたクイーンにとって、ジョン・ディーコンはまさに幸運なアクシデントだった。

レスターの音楽シーンの人々にとって、ジョン・ディーコンの存在などほとんど無いに等しかった。カリスマティックには程遠い物静かな人間だったこともあって、取るに足らない奴だと思われていたようである。ロンドンに行って学位を取り、同級生か何かと結婚し、レスターに戻ってちっぽけな電子工学関係の会社でも作るんだろう、そんな程度に。しかし、元のバンド The Oppositionのメンバー達、特にナイジェル・バレンは、ジョンがそのような浅薄な人物ではない事をよく知っていた。彼らはジョンの落ち着いた決断力や生まれつきの誠実さ、非常に几帳面な性格に一目置いていた。真っ先に故郷に飛んで帰ってくる奴ではない。皆が考える以上に熱いものを持っている彼が、控えめな夢で満足する訳はないと。

それでも最初は彼らも、ジョンは勉強に没頭することに決めたのかと思っていた。ギターやアンプはすべてオードビーに残してあった。まあいずれにせよ、ロンドンで生き抜いていくだろうと皆は考えた。街はそのテクニカラーな煌きを1966年当時に比べれば幾分失っていたが、イングランド中部の静かな田舎から出て来た坊やにとっては、めまぐるしくてキラキラしていて、広大でふつふつと煮えたぎっていた。大学で人格がころっと変わるということはなかったが、多くの者同様、彼もまた、自分というものを発見した。大学課程が終わるころには、オードビーでの以前の自分との繋がりを完全に絶つような可能性を見出すことになるのだ。

大学での最初の年には、彼は頻繁にレスターに帰っていた。Artや、The Oppositionの旧友がいる他のバンドと、ただ一緒にいるだけのこともあった。交友関係は少なく、親しくコンタクトをとっていたのはデイヴ・ウィリアムズとナイジェル・バレンしかいなかったが、ナイジェルは時々、ジョンが他の4人の学生と暮らしていたクイーンズゲイトの男子寮の最上階で週末を過ごした。道楽のドラッグはなく、アルコールで軽く戯れるだけだった。その代わりにディーコンは、ロンドンに芽吹いたカウンターカルチャーを吸収していた。Sterling Cooperやケンジントンマーケットの衣服。The Strandの、The Bonzo Dog Doo-Dah BandのRoger Ruskin Spearによる展覧会。「彼は本当に楽しんでいたな」ナイジェルは言う。「変わったなって、はっきり感じた。髪を伸ばし始めて、すごくトレンディになったし。いつもと同じように理論的で、そこに座って勉強してるだけなのに、社交的になったみたいで良かったよ。とても頑張っていたからね」

距離はノスタルジアを生む。ジョン・ディーコンは、ロンドンで学業に専念するためにオードビーを去った訳であり、ギターやアンプはもう不必要なものだと考えていた。が、徐々に誘惑に屈することになる。ある時実家に戻った彼はアコースティックギターを提げて行き、それからまもなく、今度はベースとアンプを車で運んでくれるよう母親に願い出る。The Oppositionを抜けて一年もしないうちに、突然、彼は再びバンドの一員になることを望み始めたのだった。

しかし、ロンドンはレスターとは全く違う。ライヴサーキット自体が魅力に満ち溢れていた。レスターなら教会のホールかパブの後ろで行われたライヴが、ロンドンではThe Marqueeである。少し前にはジミ・ヘンドリクス、そしてデビッド・ボウイがいた場所だ。ロックの歴史それ自体が、一握りの会場に凝縮し、首都から数スクエア以内の場所に納まっているかのようだ。音楽評論家、マネージャー、レコード会社の面々が、Expresso Bongoの増刊号などでこれらの薄暗い会場を見つけ出し、厚底ブーツとだぶだぶのデニムを纏ってこう言うのだ。「金持ちにしてやるよ、にいさん。名刺をあげよう」翌朝11時30分頃になると彼らはソーホーのオフィスで壁のゴールドディスクに囲まれ、サングラスをかけ、グラスにはアスピリンを入れ、オフィスのテープマシンを探っている。レスターから100マイルと離れていないが、世界が違いすぎた。

最初はためらいがちに音楽に戻ったジョンだが、ケンジントン界隈の大学内のコンサートを聞きにいくうちに刺激を受ける。1970年10月、彼は暗闇の中で、風変わりだが目立たないあるバンドを、Estate Managementのケンジントンの大学で目にした。彼らの名はクイーン。しかしジョンには、レッド・ツェッペリンの陰気なメロドラマに傾倒している多くのバンドの一つとしか認識できなかった。

彼はルームメイトでギタリストのピーター・ストッダートと練習を始め、まもなく仲間の学生、ドラマーのドン・カーターやアルバートと呼ばれていたギタリストを交えて、ちょっとしたブルースのジャムセッションを行なった。彼らは1970年11月、チェルシー・カレッジで、たった一度だけ公に登場し、他の二つのバンドの前座として、ブルースのカヴァーやヒットチャートを演奏した。ポスターに載せるバンド名が欲しかったために、この夜だけ「Deacon」と名乗ることになった。おそらく、当時彼に芽生えたエゴがそうさせたというよりも、単に短くシンプルで覚えやすかったせいで名づけられたのだと思われる。

この時点でジョン・ディーコンは良い器材を持った熟練のベーシストだった。友人達とのジャムセッションを楽しんではいたが、それ以上を求めていた。オードビー時代、自分のバンドを作って運営してきた彼は、ミュージシャンとしても成長した。今では能力に自信があり、既存のグループのオーディションもいくつか受けることにした。メロディ・メーカー紙の広告に返事を出し、名のあるバンドの高倍率の競争にも参加することを辞さなかった。そしてどのポジションも得られなかった訳だが、オードビーの旧友、ナイジェル・バレンに手紙でこう書き送っている。貴重な経験ばかりだったから、ちっともショックではないのだと。

形式ばったアプローチを試みている半ばに、ジョン・ディーコンはチャンスに恵まれる。1971年初め、彼は友人のピーター・ストッダートとそのガールフレンドのクリスティン・ファーネルと共に、マリア・アサンプタ教員養成学校で催されたディスコに出かけた。そこでジョンは、クリスティンの友達だという二人の青年、ロジャー・テイラーとブライアン・メイに紹介されたのだ。クイーンというバンドにいる彼らは、ベース・プレイヤーがいなくて困っていた。

数日後、彼らはインペリアル・カレッジの講義室で再び顔を合わせた。そこはクイーンのリハーサル場所だった。ジョンが持参した練習用の小さなアンプは皆にからかわれた。最初はオリジナルナンバーを何曲か演奏してジョンに感じを掴んでもらい、その後でブライアンが「Son And Daughter」のコードを教えた。この曲はクイーンの初シングルのB面に収録されている。お決まりのブルースセッションでお開きとなったが、クイーンのメンバー達は、セッションが終わる前から、彼こそが自分達の最後のメンバーだとの思いを強くしていた。「グレイトな奴だと皆で思ったよ」ロジャー・テイラーは語る。「俺達はお互いに知り尽くしてるから、トップにまで上り詰めたのさ。奴は大人しいから、大したいざこざもなく俺達についてこられると思った。ベース・プレイヤーとしてもグレイトだったね。実際、エレクトロニクスの達人ってことが一番の決め手だったんだ」

その日、インペリアルカレッジでクイーンのオーディションを受けたのは、ジョンだけではなかった。Sour Milk Sea時代からのフレディの仲間、クリス・ダメットも招かれていたのである。ブライアン・メイのテクニックに惚れ抜いていたフレディだったが、もう少し音を「濃く」したかったらしい。バンドはギタリストを2人にしようとしていた。「俺を入れようとしたのは、単なるフレディの思い付きだったのさ」クリス・ダメットは言う。「俺はフレディと仲が良くて、似てるとこもあった。ブライアンはちょっとズレた奴だったから、フレディはリアクションに困ってたよ。引き立て役が欲しかったんだ、フレディは。俺は喜んでそうしてやってたから。フレディは俺にクイーンに入らないかと言ってきた。それでうまくいくと思ったんだな」

オーディションの時、自分の楽器を持っていなかったクリス・ダメットは、ブライアン・メイに借りることにした。彼はレッドスペシャルを手渡されたのだが、それで一貫の終わりだった。高感度のフレットボードを持つそのギターには、特有の演奏スタイルが要求される。クリス・ダメットの指は「そこら中滑りまくり」、まるで調子が合わなかったのだ。ギグに参加できるかどうか、尋ねるまでもなかった。

このクイーンの最終ラインアップの演奏を初めて聞いた部外者は、ジョン・ハリス以外では、クリス・ダメットである。ジョン・ディーコンが部屋を出るや否や、ブライアン・メイが彼に意見を求めたという。「俺のオーディションをしながら、彼らは新しいベース・プレーヤーの最終決定を下すのに意見を聞いて来た」彼は言う。「ジョン・ディーコンは恐ろしくキレる演奏をしたよ。イマジネーションはゼロだったがね。重箱の隅をつつくような感じで、いまいましいビートを落としもしなかった。まったくタイトな奴さ」偶然にもクリス・ダメットは、クイーンがインペリアル・カレッジでバリー・ミッチェルと共に演奏していたのを目撃しており、そのときすぐに違和感を持った。「彼は金髪で、はしゃぎすぎているように見えたんだ。明らかに浮いてたよ。他の奴等と全然違ったから」

(*オックスフォード大学のニュー・カレッジで学ぶために故郷に帰ったクリス・ダメットは再びギターを手にして、パンクシーンでも活躍した。1987年には、フレディのソロシングル「The Great Pretender」のビデオ撮影に参加し、旧交を温めている)


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