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The Invisible Man

QUEEN - the inside story - "Mojo Classic", 2005

words and interviews Ben Mitchell

超ミニ短パン履きまして、ボンバヘッドでじっと我が身を省みすれば・・・あっというまにベーシスト、ジョン・ディーコンの出来上がり。

1985年7月13日、ライヴ・エイドの開幕。チャールズ皇太子、ダイアナ妃と同席したフレディ・マーキュリー、ブライアン・メイ、ロジャー・テイラーはすぐにそれと分かった。しかし、4人目のメンバー、「ベーシストのジョン・ディーコン」として招待客に名を連ねている男はなぜか、馴染みの顔ではなかった。「大ファンだし、彼女に会いたくてたまらなかったんだけど」 後にジョンはこう語った。「ナーヴァスになりすぎちゃって、ローディーのスパイダーに代わりを務めてもらったんだ。 いざとなると、何か馬鹿なことをしでかしてしまうんじゃないか、何も気の利いたことを言えないんじゃないかって思ってしまって」

すべてにおいて極端なバンド、クイーンは、1971年、ジョン・ディーコンの加入によって、これまた極端に型どおりの無名ベーシストを手に入れた。釣りやトランジスタ・ラジオ弄りが好きな子供だったディーコンは、すこぶる多才なミュージシャンでもあった。12歳でギターを弾き始めた彼は、3年後、最初のバンド、ジ・オポジションにてベースに転向する。その頃から既に、おとなしく控えめな性格だったらしい。ジ・オポジションのギタリスト、デイヴ・"プッシー"・ウィリアムスは、ミラーで飾り立てたヴェスパ180でにわかモッズを気取っていたディーコンが、そのバイクでひっくり返った事故のことを引き合いに出した。「ジョンが心底取り乱しているのを見たのは、あれが最初で最後だったもんなあ!」

しかしながら・・・きらびやかなマーキュリー、無頓着なテイラー、もじゃもじゃヘアのギターヒーロー・メイ、といったクイーンにおいては、ディーコンは、いわば酋長だらけのメンバーの中、並のインディアンでいることに満足しているような、まさしく究極の「残りの奴」だった。

デビュー時には「ディーコン・ジョン」とクレジットされた。そうすればより面白いだろうというマーキュリーとテイラーの考えだ。しかしジョンの反対により、このおふざけはすぐにボツになった。「最初の頃は、かなり大人しくしていたんだ。常に新入りだという頭があったから」とジョン。「でも、だから僕でうまくいったんだと思う。僕の前に何人かベース・プレイヤーを試してみたものの、個性が強すぎて衝突しちゃったようなんだ。僕は大丈夫だったよ。なぜって、ブライアンやフレディのお株を奪うつもりなんか毛頭なかったし」

クイーン人気が雪だるま式に膨らんだ頃でさえ、ジョン・ディーコンはエニグマチックな人物のままだった。皇帝・マーキュリーのヒゲのご時世、フロントマンのフレディは切り詰めたマイク・スタンドをこれみよがしに振りかざしながらスポットライトの下をうろつき回り、ブライアン・メイの前でのみ歩みを止め、大仰にかしこまって踊ってみせていた。背後ではロジャー・テイラーが、格安の座席からでも見えるような、ビートの合間にとてつもなく腕を振り上げるスティックさばきで大袈裟なドラミングを披露。なのにディーコンはといえば、1986年にはお気楽なTシャツと超ミニ短パン姿。ステージの右側で人知れずフェンダー・プレシジョンをあやしていた。ステージ外でも、ボマージャケットや白い遊び着を好む姿は、レスターからきた腕のいい電気屋、といった風情。もっとも、それがまさしくジョンなのだ。クイーンの雑誌プロフィールには、彼のお気に入りドリンクは紅茶とある。好物は? チーズ・オン・トースト。同僚の控えめさ加減について聞かれた時、ブライアン・メイはかつてこう打ち明けた。「ジョンはあまり物事に心を動かされないタチなんだ・・・それが彼の流儀でね」

しかしながら見かけに寄らず、ディーコンは脇役ではなかった。自作曲は多くはないものの、『ブレイク・フリー』『マイ・ベスト・フレンド』、さらには、一山当てようかというお手軽感情に突き動かされたような『地獄へ道づれ』などがある。また、バンドの金銭面の決め事に関しても、ディーコンは抜かりがない。「ジョンはビジネス面できっちり目を光らせてくれているんだ」とマーキュリー。「ジョンのOKが出なけりゃ、僕ら他の面子は何も出来ないのさ」

クイーン以外でのディーコンの音楽活動は、かなりひっそりしたものである。ソロ・アルバムをリリースしているマーキュリーやテイラー、メイに対し、全く歌うことができないこのベーシストは不利な立場にあった。その代わり、アニタ・ドブソンやホット・チョコレートのエロール・ブラウンといった多種多様なアーティストたちの曲に参加している。1986年には「ビグルス」のサントラに貢献した。もっとも、ピーター・カッシングの遺作というだけが取り得の、すばらしくお粗末な映画だったが。もっとびっくりするのは、モリス・マイナー&ザ・メイジャーズという、コメディアンのトニー・ホークス率いるUKコメディ・ラップ・ユニット(ビースティ・ボーイズのパクリ)の2本のビデオに出演していることだ。

「出会ったのは、ヴァージン・アトランティックのマイアミ就航飛行便だ」ホークスは言う。「ジョンは招待客だった。僕らモリス・マイナー&ザ・メイジャーズが機内でコメディを披露したら、ジョンが大層気に入ってくれてね。週末に長いこと一緒にブラブラしたり、飲んだくれたりしているうちに、友情が芽生えたってワケ」

ホークスによると、近々リリース予定だったシングル「Stutter Rap (No Sleep Till Bedtime)」のPVにチョイ役で出てくれないだろうかとディーコンに勧めたところ快く了承、かくして、青いカツラでギターを弾くおマヌケな彼の姿がビデオにお目見えすることになったのだそうだ。「彼は大変嬉しそうに馬鹿げた真似をしていたよ」とホークス。「僕にはジョンが、たまたま間違ってロック・スターになってしまった人物にみえた。富と名声を目いっぱい我が物に出来ても、もっと他のことをしていた方が幸せだったかもしれない、というようなね。長いこと友人同士だったけれど、ジョンがだんだん引きこもりがちになってからは交流がなくなった。できればまたぜひ会いたいんだけどなあ」

1991年、フレディ・マーキュリーが他界。クイーンは終わったと見なしたディーコンは、翌年の追悼コンサートを済ませた以外は、隠遁生活に入り、業界からほぼ身を引いたようだった。時々は、テイラーやメイの別個のプロジェクトに協力してベースを弾いたり、クイーンのサポート・キーボード・プレイヤーだったスパイク・エドニーのSASバンドの一員になったりもしていた。「主に家で子供たちの世話に追われているんだ」 1996年に、現在の活動について彼はこう記していた。献身的なファミリー・マンのディーコンだが、4年前のとあるラップダンサーとの疑惑を、最近になってMail On Sunday紙に書きたてられたことはある。今年の1月に妻ヴェロニカと結婚30周年を祝ったこのベース・プレイヤーは、息子5人、娘1人と共にロンドン南西に暮らしている。

今ディーコンを目にすることは滅多になく、大抵「いない」ことだけが注目されている。2000年にはブライアン・メイとアニタ・ドブソンの結婚式に姿を見せなかっただけでなく、バンドを称えるセレモニーの類も避けている。ディーコン・ウォッチャーが大変残念がったことに、「Through The Keyhole」というTV番組に出演するという噂は全くのガセネタだった。しかし2001年、例によって全く予期できない形でジョンは隠れ家から姿を現した。インターネットのゴシップサイト、Popbitch主催のパーティに出席したのだ。同じ年、The Sun紙は、ロビー・ウィリアムスが映画「A Knight's Tale(邦題「ロック・ユー」)」用にレコーディングした『ウィ・ウィル・ロック・ユー』(訳注:ではなくて『伝説のチャンピオン』)にジョンが不快感を示したと報じた。「関わり合いになりたくなかった。それで良かったよ」 彼はこうも言ったそうだ。「彼らがどんなことをしでかしたか聞いて、馬鹿げていると思ったからね」

その他のクイーン・プロジェクトについても、ディーコンの熱意(のなさ)はほぼ同レベルだ。バンドのミュージカル「ウィ・ウィル・ロック・ユー」や再結成ツアーにも関わらない道を選んでいる。もちろん金が欲しいわけでもない。去年のSunday Times誌のリッチ・リストでは、ロジャー・テイラーと同率の777位(年収5千万ポンド)だったのだから。

「ジョンはすっかり引退してしまったよ」2003年、テイラーは語っている。「外に出るのが好きじゃないんだ。我々にくれた手紙には、『たとえ何をしようが、君たちの行いを全面的に支持する。後ろで心からのサポートを送るよ。けれど僕はかかわりたいとは思っていないから』ってなことが書いてあった。ジョンは他人との付き合いをあまり楽しめないクチでね」

ブライアン・メイは最近、自身のウェブサイトでコメントを余儀なくされた。ベーシストの不在に関するファンの憶測、ロードに出ようと着々と準備をすすめる「クイーン2005」にくっ付いて回る狂気的なメディア攻勢に、メイは、かつて束の間「助祭(Deacon)ジョン」と呼ばれたこのストイックな男の存在を失ったことは大きな痛手だと認めている。

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