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THE INVISIBLE MAN

(From "Bassist & Bass Techniques":1996年4月号)

誰よりも過小評価され、謎に満ち溢れ、おまけにおそろしく金持ち
プレイヤーのキャリアを、Jeffrey Hudson が描く。

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時代の流れと捉える向きもあれど、トシを感じる話ではないか。極端な話、巷には『地獄へ道づれ』がITVの土曜夜のマッスル番組「グラディエーターズ」のために書かれた曲だと思っている世代がいるのだ。まあそれも不思議なことではない ―― 拳闘士コーナーで、体重7ストーンの次の競技者をハンターかウルフが檻に放り込むたびに、あの独特のベースラインが勝者の握りこぶしをバックに流れ出し、盛り上がったオーディエンスがタイトルを咆哮する姿が映し出されるのだから。だがこれはもちろん、ジョン・ディーコンの知ったことではない。作曲者として彼は、この俗っぽい汗塗れのイベントでこの曲を流す許可を出さなければならなかったろうが、エピソード毎に相当額の印税を受け取れるわけである。だが、仮にも世界中で大ヒットしたシングルがこんな風に認識されているのは、少し考えものではなかろうか?

1980年、『地獄へ道づれ』は全米チャートのトップに立ち、永遠に続くのではないかという勢いで、最後には、その年のあらゆるトップチャート ―― クイーンの『愛という名の欲望』も含まれていた ―― を凌いだ。まさにビッグ・ヒット。いや、ビッグ以上の巨大ヒットになったのだ。注目すべき事柄がふたつあった。ひとつ。ジョン・ディーコンにとって、3枚目のシングル・カット曲でしかなかったということ。トータルでたった9曲しか書いてこなかったのだから悪くない。そしてもうひとつ。「ザ・ゲーム」からの他のシングル ―― ブライアンの『セイブ・ミー』やフレディの『プレイ・ザ・ゲーム』―― が、スタンダードなクイーン・ソングだったのに比べ、この曲は、彼らが今まで踏み込んだことのなかった世界へとバンドを誘ったということ。ファンキーな世界へ!

「学生時代はソウル・ミュージックを沢山聴いていたんだ」ジョンは回想する。「だからずっとその手の音楽に興味があった。長い間、『地獄へ道づれ』のような曲をやりたいなあと思っていたんだけど、もともと頭の中にあったのは、メロディラインとベースのリフだけでね。それからだんだんと埋めていって、バンドのみんなもアイデアを追加してくれたんだ。これは踊れる曲だなって感じはしていたけれど、こんなにビッグになるなんて思いもしなかった。アルバムからピックアップされて、アメリカのブラック系のラジオ局が流し始めたなんて、そんな経験、今までになかったからね」 最期の決め手は、とある高名なファンの太鼓判だった。「実は、マイケル・ジャクソンがね、シングルで出すようにって勧めてくれたんだ。彼は僕らのファンで、よくショウを見にきてくれたよ」

アメリカのオーディエンスにとってこの曲は、初期の『伝説のチャンピオン』や『キラー・クイーン』などの成功に乗じる、クイーン絶頂期を体現したものだ。しかしこのグルーヴィーな曲の起源は、その当時と同様、今でも謎のままである。いまだかつてないほどの有名なベースライン(まあ、シックの『グッド・タイムス』にちょっぴり 似てはいるが)を生み出した男は、どうやら、想像しうる限り最も「らしくない」ファンク・ライターなのである:白人で、結構な所帯持ちで(結婚生活はなんと20数年!)、他のメンバーと同じく中産階級。それでは一体、彼のルーツとは

ジョン・ディーコンのバック・グラウンドを探ると、歳の割にはかなりのしっかり者で博識だったことが伺える。厳格な中流家庭で育ち、故郷レスターの学校で試験に試験を重ねながらも、音楽の趣味を満足させる時間をやすやすと見出していたほどだ。ご多分にもれずビートルズにハマった彼は、1963年、ちょうど12歳のとき、古いおもちゃのトミー・スティール・ギターを最初の本格的な楽器 ―― 6弦のアコースティック―― に替える 。この時点でジョンが熱心に真似たのはレノンの方であり、ほどなくリズム・プレイヤーの技を習得した(やがて、レノンなら思いもしなかったであろうフィンガーピッキング・スタイルを発展させることになる)。電子工学の才能に恵まれ、すでに、自作の無線機をこしらえてさえいた彼は、初めはローディー兼電気係として最初のグループ「ジ・オポジション」に参加、1965年9月には、リズム・ギタリストとしてステージに立った。

お気に入りはレノンの方だったにも関わらず、ジョンに運命付けられた道は、ポール・マッカートニーのキャリアだった。ジ・オポジションのベース・プレイヤーが達人に程遠いと分かると、ジョンにお鉢が回ってきて、彼はギターのボトムの弦でベース・ラインを弾いていた。しばらくはそんな状態が続いたが、結局、その何年か前にマッカートニーがそうしたように、ジョンはすすんでベースを手にし、バンドを助けることになった。レスターのコックス音楽店で60ポンドのEKOベースを買うと、1966年の春に彼は遅いデビューを果たし、 ―― 二度とギターに戻ることはなかった。

3年後、ジョンにまた転機が訪れる。今回はロンドンで学位を取得するため、グループ(「ザ・ニュー・オポジション」となり、後に「アート」と呼ばれていた)を離れたのだ。実はそれだけではない:あるパーティーでブライアン・メイ、ロジャー・テイラーと出会った彼は、彼らのバンドの、インペリアル・カレッジでのオーディションに誘われたのだった。バンドの名はクイーン。

ジョンは、この華麗なるグループにうってつけの人物であった。「最初の頃は、すごくおとなしくしていたんだ。いつも自分は新参者だと感じてたから。でもそれが良かったのかもしれないな。彼らは僕の前に何人かのベース・プレイヤーを試していたけれど、人間関係がうまくいかなかったみたいなんだ。僕は大丈夫だった。なぜって、ブライアンやフレディに向かって偉そうにするつもりなんてなかったからね」

今だからこそ、ロック界で栄冠を掴み取らんとするクイーンの軌跡はめざましいものだった、などといえるが、実際のところは、辛く骨の折れるものだった。彼らのグループ名を冠したデビュー・アルバムは、完成してから世に出るまで2年もかかった挙句、チャート入りさえ果たせなかった。次作「クイーンII」からシングル・カットされた『輝ける7つの海』は全英でトップ10入りしたが、バンドが本当に評価され始めたのは、第3作目からであった。まだ音楽を単なる趣味として捉えていたジョンでさえ、やっと確信を得るに至ったのだ。「たぶん僕だけだったね、グループを客観的に見ることができたのは」彼は言う。「僕は最後に入ったし。こいつは何かがあるなって思ってたけど、アルバム「シアー・ハート・アタック」まで、確信は持てなかった。それまで僕らはただのヘビメタ・バンドだと思われていたみたいなんだけど、『キラー・クイーン』が全く新しい側面を見せつけたんだよ」

新しい側面はもうひとつ、ジョンの初めてのペンによる、快活ポップ・ナンバー『ミスファイアー』によって表に出た。この曲で彼は、フェイド・アウト時に目立つ陽気なベース・リフだけでなく、アコースティック・ギターも演奏している。さらに、後にメタリカにカバーされ、1992年のフレディ・マーキュリー追悼コンサートでジェイムズ・ヘットフィールドが演奏することになる『ストーン・コールド・クレイジー』では、25%のクレジットを得ることにもなった。この曲の熱狂的なセッションとフランティックなペースを思い出しながら、ジョンは打ち明けた。「ものすごく速くて演奏しにくかったよ」

1975年は、クイーン、特にジョンにとって、要の年だった。世界中がマーキュリーの『ボヘミアン・ラプソディ』に熱中している一方で、 バンドは、ベース・プレイヤーがアルバムに捧げたささやかな曲『マイ・ベスト・フレンド』にびっくりしてもいた。「ジョンはどこからともなくこの曲を持ってきたんだ」ブライアンは認めている。「曲を書いてたった2作目だというのに、こんな完璧なポップ・ソングだなんてねえ」世間にも認められ、この曲は全英7位に躍り出た ―― 多産なメイがすでに書いたどの曲よりもハイ・ポジションについたのだ。

ジョンはこの曲で、いつものフェンダー・プレシジョンの他、エレクトリック・ピアノも弾いている(ちなみにブライアン作『39』ではコントラバスを担当してもいる)。ピアノの弾き真似の様子はプロモーション映像 ―― 『ボヘミアン・ラプソディ』の大ヒット後に知られるようになった「ビデオ」 ―― で見ることができる。典型的なベーシストのメンタリティを持つジョンは、バンドのこの歴史的偉業についてもさほどこだわっているふうではない:「クリップは以前からあったけれど、大体がフィルムで撮られたものなんだよね。ほんとに偶然だったんだ。僕らはその時ツアーをしていて、水曜の「トップ・オブ・ザ・ポップス」の収録に行けそうになくてさ、マネージャーがモバイル・ユニットを持ってたから、ビデオに収めたんだ。およそ4時間くらいでね!」

シングルでの成功にも関わらず、ジョンの曲は次のアルバム「華麗なるレース」でも1トラックに限られていた。次の2枚のアルバムでは、彼とドラマーのロジャー・テイラーがそれぞれ2曲出してはいたが、それでもマーキュリーとメイの手当ての半分でしかなかった。 ―― そして80年代には、「仲良し4人組」という幻想がこじれ始める。「スタジオやステージでは、一緒にうまくやっているよ」 1981年、ディーコンはこう白状している。「でも、仕事以外では、ほとんど親しく会ったりはしないんだ。みんな個別の友人がいるしね。例えば、僕は一度もフレッドの家に立ち寄ろうかなって考えたことがないし、彼だって僕んちに来たりはしない。僕らはそんな風に、各自が孤立しているんだ」 曲を巡る争いも、事態を悪くしていた。「レコードやツアーの稼ぎは均等に4つに分けているんだけど、アルバムに誰の曲を入れるのか、シングルのB面を誰が取るのか、といったことを決めなきゃいけないときにいさかいが起こるんだよね。B面は、ヒット・サイドと同じだけの配当が貰えるもんだからさ」

彼の曲をアルバムに収録するのがまたおおごとだった。曲を認めてもらうにもひと悶着あるとジョンが悟ったのは、1982年のアルバム「ホット・スペース」の時である。彼のファンクの試みが大成功し(アル・ヤンコビックが『遅刻へ道づれ』というパロディをつくったくらいだ)、また、バンドとしてクイーンはあらゆるスタイルに取り組んできていたものの、ジョンのブラックよりの新曲はあまりにも行き過ぎていたのだと、ブライアンは白状した。「『バック・チャット』という曲には、ギター・ソロが全くなかった。ライターであるジョンが、おそらく僕らの誰よりも過激にブラックに傾倒していたからだ。それについては何度も議論を交わしたよ。彼がこの曲で向かおうとしているものには、まったく妥協できないということ、R&Bのアーティストがやるようなブラックな物は、僕らのやり方とまったく相容れないものだということをね。僕は、まっとうな道に彼を戻そうとして、ヘヴィーさをいくらか加えようと努力した。そこである夜、言ったんだ。付け加えられるかどうかやってみたいって。―― 「バック・チャット(口答え)」なんて曲だったから、ちょっとガッツが必要だったけどね。―― 彼は賛成してくれた。それで、少し手を加えてみたんだよ」

ひとりだとギタリストに勝てないジョンだが、このベーシストが無敵のシンガーと組んだときには、反論は出なかった。このペア初のコラボレーション『クールキャット』は、レイジーなベース・リフがリードし、フレディの奔放なスキャットが踊り出る曲だ。メロウかつ紛れも無く「クイーンらしくない」この曲のオリジナル・バージョンには、バッキング・ボーカルにデビッド・ボウイがフィーチャーされている(ブートレッグをチェックしよう)。ボウイはモントルーのスタジオに顔を見せ、ベース主導の曲をもうひとつ作り、こちらはアルバムに収録されることになった。全英第1位に輝いた『アンダー・プレッシャー』である(『バック・チャット』は40位台で固まってしまったが)。

ディーコンの曲が、1980年のクイーンのアメリカでのキャリアに大いに貢献したと言ってよいが、それを帳消しにしかねない曲があった。1984年、原点に戻ったアルバム「ザ・ワークス」内の曲『ブレイク・フリー』は、女装したメンバーが登場する浮かれたビデオの力を大いに借り、世界規模での大きな売り上げを記録した。しかし、あれは「コロネーション・ストリート」のパロディなのだという事実をアメリカ人が知る由はなかったのである。4年前のあのイカすロッカー達はとうとう気がふれてしまったと思われてしまい、フレディの生存中、アメリカでのヒットは二度と生まれなかった。

実はこの曲、どこへ行っても騒ぎの原因になったようである。南アメリカといえば、1980/81年のツアーが破竹の大成功を収めたこともあるクイーン贔屓の土地で、人々は『ブレイク・フリー』の歌詞から、恋愛ごっこの終局以上のものを感じ取っていた。彼らにとってこの曲は、自由の為のキャンペーン・ソングだったのである。1985年、ロック・イン・リオの20万の人々の前で、フレディがあろうことか胸パットをつけて登場した途端にブーイングの嵐が起こったのも当然である。彼はその不快な乳房をとるまで攻撃され続けた。

その事件はさておき、南アメリカでの興行は、恐怖さえ感じたという最初のツアーよりは徐々に良くなっていた。

「もみくちゃにされて、引っ掻き傷だらけになって、やっと車に乗れたんだ」ジョンは思い返す。「まだ数百ヤードしか動いてないのに、運転手はガソリンスタンドで車を止めた。間髪を入れずに車は窓や屋根をばんばん叩く女の子たちに囲まれちゃってさ。運転手は何が起きたのか分かってないみたいだったよ。今まで一度もそんなこと経験してなかったんだろうね」

バンドにとってロック・イン・リオはビッグな催しだったが、1985年には、数百万人の前にして、世界の有名アーティスト連中を相手に場をかっさらったパフォーマンスがあった。「ライブ・エイド」である。「僕らはボブ・ゲルドフなんて全く知らなかった」ジョンは回想する。「『ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス』は、新しいアーティストばかり集めて出してたしね。今度のギグには、一般受けするバンドがもっと欲しかったみたいなんだ。『うーん、どうだろうなあ ―― 20分で、サウンドチェックなしだろ?』ってのが、僕らの最初の反応だった」

「事がまとまり出したのは、日本ツアーが終わった直後だね。ホテルで食事しながら、どうするかじっくり話し合って、その結果、出ることにしたんだ」

「音楽業界に入ったことを誇りに思える日だったよ。 ―― 普段はほとんどそうは思えないんだけどね! あの日はほんとに素晴らしかった。みんなライバル心なんか忘れていて…僕らにとっても、恰好の起爆剤になった。イギリスでの人気の高さを実感できたし、みんながバンドに何を望んでいるのかが分かったからね」

この日はまた、ディーコンらしい内気さが垣間見られた日でもあった。ショウの前に、ウェールズ皇太子と皇太子妃に会見し、ロイヤル・ボックスに参列することになっていた彼だったが、結局…「緊張しすぎて、ダイアナ妃に会えなかったんだ。で、ローディーのスパイダーが僕の代わりに ―― 彼女と握手したり、いろいろこなしてくれた。写真はあらゆる新聞のフロント・ページを飾ったから、今じゃ彼は、世界でもっとも有名なローディーだよ!」

80年代中期から、シンガーとベーシストのコラボレーションはより顕著になっていった。1986年にリリースされた「カインド・オブ・マジック」には、Mercury/Deaconとクレジットされた曲が2つある。どちらも『クール・キャット』でみられたグルーヴを追求し、ジョンのファンクへの傾倒と、フレディの生来のポップ感覚に 新たな効果がブレンドされている。特に『喜びへの道』では、主導するジョンのベースに負けじと、自らが好むダイアナ・ロス風に気張って歌うフレディがみられたし、『心の絆』はスタンダードなクイーン賛歌で、バンドにかなりのヒットをもたらした。

次のアルバム「ザ・ミラクル」でも、彼等のパートナー・シップは続いていたようだが、ふたりとも進んで自分の手柄にするようなことはなかった。特に『マイ・ベイビー・ダズ・ミー』では:「あれは、ジョンがベース・ラインを持ってきたんだよ」1989年のBBCのラジオ番組でこう述べたフレディに対し、「違うよ、君だろ!」とジョンがやり返していたり。じゃれ合いはさておき、アルバム・リリースまでの3年の空白の間、ジョンが穏やかなままでいられたのは、曲作りのお陰だったらしい。「もし僕がバンド内で、一生ただのベースプレイヤーだったとしたら、それしか出来なかったとしたら、今みたいに満足していないだろうな。ベースを弾くのは、仕事の一部分にすぎないと思っているから。曲が作れて、制作の過程で、議論とかいろんなことに関わることが出来るっていうのは、良いことだよ。みんなと一緒に、バンドの運命を担えるというのはね」

次のアルバムのレコーディングは「ザ・ミラクル」が完成するや否や開始された。この時点で、フレディは余命が限られていることを悟っていたのだが、決してメンバーに打ち明けようとはしなかった。彼は「イニュエンドウ」を完成させただけでなく、アルバムのリリースも、2作目の「グレイテスト・ヒッツ」の表装も見届け、さらに、いくつかのトラックを遺しさえした。そしてこれは1995年に「メイド・イン・ヘヴン」としてリリースされる。

1991年11月。シンガーの死は、ディーコンにとって激しい打撃だった。「僕らには少なくともこれだけははっきりしているんだ」彼は強調する。「続ける理由なんてないってこと。フレディの代わりなんて、いやしないんだから」 クイーンをリタイアし、メイやテイラーのようにソロキャリアを伸ばそうともしないようだ。「僕は歌えないから。歌えたらいいなと思うよ。そうしたら、曲作りがもっとスムーズにいくだろうしね!」 ―― しかし彼は一度だけ、ジ・イモータルズというグループ名でソロ作をリリースしたことがある(1986年、映画「Biggles」のテーマ曲用に『No Turning Back』を書き、レコーディングを行っている)。

ディーコンを目撃する機会はまれだ。季刊のクイーン・ファン・クラブ・マガジンにはたいてい、「家族とビアリッツで休日を過ごしています」と書かれている ―― それも記事があればの話。セッション・ワークは非常に少なく、ほとんどがクイーンのメンバーのソロ関係のものである。ロジャーの『I Cry For You』のリミックス、フレディの『How Can I Go On』での演奏、ブライアンの秘蔵っ子アニタ・ドブソンや本田美奈子の曲での手助けなど。数少ない対外活動では、ホット・チョコレートのエロール・ブラウンとのシングルでの共作、エルトン・ジョンのアルバム「アイス・オン・ファイアー」と「レザー・ジャケット」がある。そして、とても信じられないことであるが、モリス・マイナー・アンド・ザ・メイジャーズのビデオに、青いカツラを被って現われたことも!

1992年のフレディ・マーキュリー追悼コンサート以来、ディーコンを公の場で見かけた回数は片手で足りる。レコード会社の大物達なら、EMIのプライベート・パーティーの中で、ジェネシスやピンク・フロイドなどの面々の後ろに控える彼に会うかもしれない。が、ファンが彼の姿をようやく目にしたのは、昨年(訳注:1995年)のシェパーズ・ブッシュ・エンパイアでだった。彼はスパイク・エドニー・オール・スターズ(ファン・クラブにサポートされた、クイーンの下で働いていた者たちが作ったグループ)と共にゲスト参加したのだ。夕方遅くにやって来たジョンは、群集の物凄い反応にも気づかない様子で、非クイーンのソウル・ナンバーを何曲か演奏した。そして、不可解なことに、彼は来たときと同じくらい、静かにその場を去ったのだった ―― バンドが『愛という名の欲望』を演奏する前に。30余りいた他のバンドの中で、彼だけが、アンコールにも戻って来なかった。

ジョン・ディーコンは多くの点で、理想的なバランスを保ってきた。強い家族の絆。あらゆるドリームを超える富。巨大ヒットしたシングルの数々。仲間からのソング・ライターとしての認知 ―― それでいて、人に気づかれることなく通りを歩ける男。1971年から、思えば遠くへきたものだ。「電子工学の勉強を始めたばかりの頃、バンドに入った(後に首席で卒業)。バンドが飛び立ったから、僕も付いていった―― 少なくとも週に20ポンドは稼げたから、やってみる価値はあると思ったんだ。その後雪だるま式に僕の人生は巻き込まれてしまって、それ以来ずっと、こんな調子だよ」

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THE WORKS

70年代初期のスチールで、ジョンはフェンダー・ジャズ・ベースを構えている。しかし同じ写真で、ブライアンがトレード・マークの「ファイアープレイス」(訳注:レッド・スペシャル)ではなく、ストラトキャスターを使用しているので、正確なところは分からない。基本的にジョンはプレシジョン派で、25年に渡って様々な機種を試してきたようだ。70年代には主にサンバースト・フェンダーを使っており、ステージ上ではサンバースト・ミュージックマン(そしてしばしば、トライアングル)と共にスポットライトに当たっていた。髪の毛が短くなるにつれ(「世界に捧ぐ」以降)、塗装を剥いだナチュラル・フィニッシュを代わりに使用。これは10年あまり用いられ、ワークス・ツアー、さらにはライブ・エイドでも見られた。86年のマジック・ツアーでは、初めてブラック・プレシジョンが登場したが、ビデオではいつもこれという訳ではなかった。『心の絆』では、ジョン・エントウィッスルがデザインしたワーウィック・バザードで奮闘しているジョンの姿が見られたし、『ワン・ビジョン』、『アイ・ウォント・イット・オール』そして『ヘッドロング』では、レッド・プレシジョンが登場した。しかし、面白いのは、『プリンシス・オブ・ユニバース』、『ブレイクスルー』、『インビジブル・マン』そして『スキャンダル』の中で、ジョンはロジャー・ギフィンが彼の為にあつらえたギフィン・ナチュラル・ウッド・フィニッシュを弾いていることだ。このベース、基本的にはピックアップが2つあるプレシジョン型で、12番目のフレットの上にゴーストのはめ込みがついているのが特徴だ。これら4弦楽器の他、『リブ・フォエバー』ではコントラバスを、『カインド・オブ・マジック』ではバンジョーを、『ワン・ビジョン』ではドラムを演奏していた。ベースのブランドがなんであれ、彼のスタイルは変わらない。 非常に巧みだがほとんど派手な音を出さないジョンは、めったにピックを使わない。指先を、いつも45度の角度で持った楽器にひっかけるだけである。 そして時には、片足で演奏するのだ(「クイーン・アット・ウェンブリー」をみてみよう!)(☆訳注:サンバーストとブラック・プレシジョンは同じベースであることが判明している(参照:Bass'es Bassinet))

A to Z of Great Bass Lines(by Tony Wilsonham)

例:Killer Queen・Another One Bites The Dust・Bicycle Race・Bohemian Rhapsody
ピック、指弾き両方の好例をここに挙げよう。クイーンの幅広いレパートリーの至る所で、ジョンは多才ぶりを遺憾なく発揮していると思う。使われているあらゆる種類のスタイル:例えば『ボヘミアン・ラプソディ』の最初のロング・ペダル・ノート、『ドント・ストップ・ミー・ナウ』のストレート・ロック・ライン、『愛という名の欲望』のウォーキング・ライン、そして『ボヘミアン・ラプソディ』のギターに沿ったフレーズなど、これらノイズはすべてジョンのお気に入りフェンダー・プレシジョン・ベースから出たものなんだ。
プレイに関しては、正確で肉厚なサウンドを目標にして、タイトな重低音がアンプから出るよう、ベースのピックアップのネックから演奏してみよう。ジョンのプレイには、ギャンギャンうるさい音やジャコ(・パトリアス)風なのは御法度だ。音は充分出すこと! 4人組なら、楽器はギター・ベース・ドラムの3種類しかない場合がほとんどだ。「シャイなお子ちゃま」の余地はないんだよ!
それから5音をよく練習しておこう。クイーンの曲では5音が飛び交っているからね。もうひとつ大事なのは、態度。ジョンは本質的にバンドの「クール・キャット」で、それはプレイに非常によく現われていると思う。いいかい、少ないほど良いんだ。ジョンが沢山の旋律を弾いているようなら、しかるべき理由があるからなんだよ。要するに、ピックと指弾き、どっちつかずにならないように巧くこなすことだね。ここの例を弾きこなそうと思うと、テクニックと経験、両方が必要になることを忘れずに。


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