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Legal Regal(法の王)

A profile of John Deacon

legal regal

ジョン・ディーコンがクイーンに参加したのは一番最後だった。 多くの点で、彼はグループ内で「孤立」している。 他のメンバーよりいくらか年下だし(唯一、「50年代の申し子」)、 どう見てもフレディ、ブライアン、ロジャーほどの華麗さはない。 彼は、いわば、クイーンの「知られざる顔」といえよう。

3人構成だったバンドのオーディションを受けた当時、ジョンはまだ チェルシーカレッジの理系の学生だった。プレイ及びその人格はすぐさま 気に入られ、1971年2月、彼の参入によってクイーンは完成する。

かなりのリハーサルが要求されたが、ジョンは学位取得の為の勉強も 怠ることなく続け、ついには電子工学の首席学位を取った。

ジョンの、巷で知れ渡っているペルソナはいくぶん地味だが、 クイーンの音楽的スタイルの発展に実質的に影響を及ぼしたのは、 間違いなく彼だった。

彼が初めて作曲したのは、「シアー・ハート・アタック」に収められた 「ミスファイアー」である。このかなりポップなナンバーこそが、後に 作られるディーコンの有名な曲の数々の前ぶれだったといえる。

実際に彼の音楽的個性が露わになったのは、「オペラ座の夜」での有名な曲、 「マイ・ベスト・フレンド」だろう。

「「マイ・ベスト・フレンド」には驚いたよ」ブライアンは言っている。 「彼は孤立して、かなり危ない立場にいたね。だって、今まで僕等がやってきた ような音じゃなかったから。でも、やりたいことがはっきり分かっていたんだ よ、彼には」

多くのバリバリのハードロックファンにとって恐怖だったのは、 ジョンのファンクへの傾倒がクイーンサウンドに徐々に浸透してきて、 完全に変えてしまいそうな気がしたことである。 そして1980年、ジョンのペンによるシングル「地獄へ道連れ」がリリースされ る。この曲は、以前のクイーンのように、轟くようなパワーロックからは 程遠いものだった。クイーンが本当にディスコ・ファンクに移行してしまうなん てことがあり得るのか? この曲の12インチシングルは瞬く間に全米のソウル及 びディスコチャートのトップに上り詰めた。 ほかでもないあのクイーンが、シックのようなグループを同じ土俵で打ち負かす なんて、誰が想像しただろう? しかし、これを快挙とみなした者ばかりではな く、あからさまに敵意を表した批評家もいた。

「Creem」誌の評にはこうある:「「地獄へ道連れ」のベースラインは、シック の「グッド・タイムス」そのままである。まるでSugarhill Gangが存在しなかっ たように、だ」 (*訳注* Sugarhill Gang:1979年結成、1985年解散。「Rapper's Delight」は シックの「グッド・タイムス」のパクリらしい。)

ジョンは気分を害した。いわば格好の餌食にされた訳だが、これが徐々に、 ジョンのプレス嫌いを導いたようだ。

後に彼は滅多にインタビューを受けなくなり、先の不幸な状況の時のように、 自分の言葉がねじまげられないよう、非常に注意を払うようになった。

「ライター達が引用を止めればいいのにと思うよ」彼はこぼしている。 マスコミ向けの骨の折れる仕事から手を引いた彼は、空いた時間とエネルギー を、クイーンの重要な領域である、財政やビジネス面での取り引きに充てること になった。

メンバーの中で、クイーン・プロダクションに最も深く関わっているのは、ジョ ンである。クイーン・プロダクションは自分達で作った組織であり、毎年、この 4人の重役兼パフォーマーは、それぞれ700.000ポンドを受け取っているらし い。

「ジョンは実に合法的なやりかたでビジネスを取りまとめているよ」ブライア ン・メイは言う。 「すごく熱心なんだ。何が起きているのかちゃんと分かっているのは、僕等の中 ではおそらく彼だけだろうな。どんなことでも、誰にもやらせないのさ。 また、機材についても誰よりも良く知っている。今では腕利きのクルーがいるけ ど、昔はジョンが、ぎりぎりになるまで修理に駆り出されていたもんさ。多くの 面で、ベースプレイヤーらしい精神をもったベースプレイヤーだな。すごく真面 目で、馬鹿げたことはしないし、いつでも地面にしっかり足がついている。特 に、フレディと僕にとっては必要な奴だよ。僕等の場合は、戻って来られるかど うかなんて考えもせずに、急に道を逸れちゃったりするからね。腰を落ち着けた ディーキーが、僕等を連れ戻してくれるって訳さ」

1981年夏。クイーンはレコーディングの為にモントルーに来ていた。 ジョン・ディーコンは、ある友人をスタジオに招こうと決めた。 スタジオで軽くおしゃべりをして、少しばかりジャムセッションをしてもらおう と。その結果が、クイーン2番目の全英No. 1ヒットになる。 ジョン・ディーコンの友人とは、デビッド・ボウイ。 「アンダー・プレッシャー」におけるボウイとクイーンのコラボレーションは計 画されたものではなく、実は二人の友が出会った為に起きた偶然の産物だったと いえる。

実際のところ、この出来事は略式のものだったので、ボウイはNME誌で後にこう 語っている。「すごく不思議だよ。本当いうと、どうしてああなったのか、よく 覚えていないんだ…。彼らがモントルーにいるというので、スタジオに会いに 行って、お決まりのジャムを始めて、それが、曲の骨格になった。これはいい音 だと思ったから、仕上げることにしたんだ。半分くらいの出来だったけど、もっ と良くなると思ったな。24時間で出来てしまったから、急だったよ。」

「有名なだけではなく、伝説的な」という語句を背負っているにも関わらず、 ディーコンだけは、芸能界のきらびやかな魅力に影響を受けることはなかった。

謙虚であるが情熱的でもあるミュージシャン、ジョン・ディーコンの、財政面での機敏さとビジネスセンスによって、クイーンは多くのバンドが陥る落とし穴 を免れてきたのだった。1978年に先のマネージャー、ジョン・リードと別れて以来、彼が財政管理を引き受けてきたのである。

計り知れない財を持ちながらも、ジョンは妻と4人の子供達との、比較的地味な生活を楽しんでいるようである。(彼はクイーンが成功する前に結婚している。) ジョンのエキサイティングな社交の場といったら、パブでの一夜だというのだから。

「飲みに行くのは、時々でいいな。2,3週間に1度くらい」彼は言う。 「誰にでも必要なことだと思うよ。気分転換になるよね。たとえ次の日は酷い気分でも、少しは楽になるものさ」


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