:: BACK ::

マック −− クイーンを再開発した男

*Thanks Sebastian for translating*
(Musikalische Themen Von Heute 2000)

ラインハルト・マックはドイツの最も著名なミュージシャンの一人であるが、同時に知られざる多くの顔を持ち合わせてもいる。サウンド・エンジニア、音楽プロデューサー、そして、若いアマチュア・アーティスト達への惜しみないサポーター。今年はマックにとって特別な年である。彼が初めてエンジニア兼共同プロデューサーを請け負った、英国のバンド・クイーンの「ザ・ゲーム」が産み出されて20年が経つからだ。

あなたはクイーンが最も成功を収め、世界中を飛び回っていた1980年から88年までの時期を請け負っていますが、それについて話してくれますか?

我々が一緒に仕事をした何枚かのアルバムで、特別なサウンドが生まれたのは事実だ。それまでクイーンのトレードマークだった数年前の『ボヘミアン・ラプソディ』を押しのける勢いの、全く新しいものがね。しかし、チームワークであって、私だけの責務じゃなかった。彼らにはもともと新しいサウンドのアイデアがあって、それを表現する手助けができるエンジニアを必要としていたんだ。

それではあなたたちは、「出会うべくして出会った」わけでしょうか?

我々みんなにとって、ラッキーだった。実際には、バンド・マネージャーのジム・ビーチのおかげかな。不可抗力が我々を導いた、とかいう「宿命」は感じない。むしろ日和見主義なんでね。

「ザ・ゲーム」の頃に初めてコンタクトを取った際、クイーンから何が伝わってきましたか?

伝わる以上の何か、彼らの間に漂っていた全体的な雰囲気などを。1979年、クイーンはある種の行き詰った段階にいた。彼らのキャリアが始まったのは、少ないツールの持ち合わせの中、印象的で独特のサウンドを作り出した2枚の素晴らしいアルバムからだ。それらは複雑なアルバムだったから、オーディエンスの層をもっと広げるためには、次のターニング・ポイントが必要だと彼らは悟った。それが「シアー・ハート・アタック」だ。このアルバムは次に繋がるムードを生み出している。共通なラインに沿って、よりヘヴィな曲を、まったくオリジナルな新しいスタイルでミックスしているね。「オペラ」、「レース」、「世界に捧ぐ」も同じパトロンに従って大成功を収めているが、「ジャズ」にきて完全に燃え尽きてしまったようだった。 ジョン・ディーコンは「もしこのまま同じラインに沿っていけば、オーディエンスの関心を得られなくなってしまうと思うんだ」と言っていた。 先にあげた数々のアルバムはどれも素晴らしいもので、当時の音楽に新風を吹き込んでいた。だが、「ジャズ」では型が決まりきってしまっていた。彼らは心機一転したがっていて、それが私の仕事の出発点だった。

コラボレーションが始まった時、アルバムはどれくらいまで進んでいたんですか?

新しいアルバムは1980年にリリースされる手はずだった。曲のアウトラインは既に出来上がっていて、レコーディングやミキシングの場所も選ばれていた。幸運にも、一緒に仕事ができるミュンヘン・ミュージックランドが入っていたんだ。彼らは、自分たちには以前のレコードとは異なる新しいサウンドが必要だということが分かっていた。しかし同時に、人々がクイーンだと認めてくれなくなるんじゃないかと恐れてもいた。70年代のアルバムの、あの有名なハーモニーが彼らのシンボルだったわけだからね。新しいものを得たい、でもどうしたらいいのか分からないという状態だった。

で、どのように表現していったのでしょうか?

フレディが一番控えめだったね、なぜなら彼が「ザ・ゲーム」用に書いた曲はどれも以前のアルバムに完璧にフィットするようなものだったから。ブライアン・メイは、よりそれと分かる、すなわちメロディックな曲で、オーディエンスを留めておくべきだと考えていた。ジョンはかなりはっきりとしたアイデアを持っていて、もっとドライで聞き取りやすく、シンプルな作りの、当時の新しい音楽の風潮を採用したサウンドを擁護していた。ポップ志向だった。 ロジャー・テイラーが、新しいサウンドの探求に一番熱心だったと思う。他のメンバーよりも一緒に作業する時間が長かったよ。ロジャーが手助けを必要としていたんでね。

それは、どういう?

ロジャーは以前書いた自作曲に満足していなかった。前とは違う新しいスタイルを掴みとってはいたんだが、それにどう磨きをかけてよいのかが分からなかったみたいなんだ。「ザ・ゲーム」用にロジャーが書いた3曲が、3曲ともバンド内の論争の原因になったのを覚えているよ。ロジャーは最初、『カミング・スーン』という曲をシングル用にすべきだと考えていて、もう一つの『ヒューマン・ボディ』をアルバムに入れるつもりでいた。だがブライアンとフレディは、この曲を入れるとアルバムが余りにメロディックになりすぎると異議を唱えた。同じようなダウンビートの曲がもう3つもあったんだ。最終的には彼らが、『ヒューマン・ボディ』に特別入れ込んでいたロジャーを説得して、『カミング・スーン』を選んだんだ。あの曲は、我々がこのアルバム、そして「カインド・オブ・マジック」までに得たサウンドの良い見本だった。しかし、ロジャーの3番目の曲『ロック・イット』の方がより良い例かもしれない。この曲でもトラブルは生じた。ロジャーは自分が歌うと言い張ったんだが、ブライアンと私は、フレッドの方がいいんじゃないかと提案した。で、ロジャーとフレディ、2つのバージョンが録音されることになった。ジョンはロジャーのを気に入り、ブライアンはフレディのを推したので、イントロだけはフレディで、あとはロジャーのテイクという折衷案が取られたんだ。ブライアンが既に1曲自分で歌っていたから、これは理にかなっていた。『ヒューマン・ボディ』が除かれなければ、ロジャーにも同じチャンスがあったわけだから、これで公平なんだ。クイーンの仕事ぶりはこんなふうだった。彼らはお互いをよく理解しあっていた。ようやく曲がレコーディングされる段階になると、プロデュース関係でこなすべき仕事が増えた。ロジャーは非常に特徴のある、ブロークンな声の持ち主で、フレーズの伸びが短かった。反対にフレディは長く伸びる声を持っていた。歌詞が短くなるのを避けるために、ロジャーが一節を終える毎に私がシンセ・エフェクトを入れ、次の節との間が空きすぎないようにしていた。そのことが、後のアルバム、特にロジャーの作品で、曲に新鮮で新しいサウンドを与えることになっているよ。

クイーンは、4人それぞれがソングライターという利点を持っているため、非常に多産なバンドでした。各々と直面した印象はどうでしたか?

フレディの書き方はどこか印象的だったよ。大抵は曲の一般的なアイデアから練り始めていた。最初に、例えば「すごくハーモニックなラブ・ソングを書くぞ」というように大雑把な目的を立てるんだ。で、うまく発展しそうなアイデアから、足したり引いたりして磨きをかけていく。『ボヘミアン・ラプソディ』や、初期の2枚のアルバムの中の秀作もそうやって書いたんだと言っていた。でも彼はいつでも、今自分が何をして、どこへ向かおうとしているのかをはっきり認識していたな。ブライアン・メイは、ものすごく細部にこだわるミュージシャンでね、まるで建築技師みたいに曲を組み立てていたよ。1フロアごと、土台から始めるようなね。彼には、その建物が何階立てになるかくらいは分かっていたが、窓をいくつ付けることになるか、あるいは屋根裏部屋がどれだけ大きくなるかは気に留めていなかった。さらに、彼は非常に厳格で、自分自身へ要求するものが高かった。

ジョンはエニグマ(謎)だった。ブライアンが作曲している時というのは、分かるんだ。なぜならブライアンはノートを持ってあっちこっち歩き回っては声に出して歌ってみせたり、アイデアを口に出したりしていたからね。でもジョンの場合は、ほとんど喋らなくなってしまって、それで曲を書いているんだなと分かるという具合だった。彼は椅子に腰掛けて紅茶やソーダを飲みながら、長い間ただじっとしていた。ロジャーがスタジオのリヴィング・ルームに冗談を言いながら入ってきたときのことは今でも覚えているよ。「なんだなんだ、誰の葬式だ?」って叫びながら完全な静寂の中へやってきたロジャーに、フレディが「シーッ、ジョンが創作してるんだよ」って耳打ちしていたっけ。「ダチョウ」というニックネームを考え出したのはフレッドだったと思う。ジョンはまるで鳥みたいだったから。完璧な卵を産むまで、じっとしているようなね。ジョンはそんな風に、完璧に書き終えた楽譜を皆に手渡していた。それを後から皆で色々改良するんだけれどね。

ロジャーは?

ロジャーはフレディの対極にいた。コンポーザーとしての彼は、非常に直感的だった。ほとんどいつも、メロディやコーラス、シンプルなハーモニーといったサイドから出発していた。いい感じに聞こえたら、それが良い曲への出発点になると考えていたんだ。ある意味、ロジャーは大部分をインスピレーションに頼る男だといえる。幸運にも彼はいつもインスピレーションに恵まれ、素晴らしい曲を書いた。音楽に心身を捧げた、すごいミュージシャンだよ。何年経っても、彼の熱中ぶりが色褪せずに残っているのは驚きだ。このアルバムで、彼は本当にベストを尽くしたよ。

にもかかわらず、「ザ・ゲーム」はロジャー・テイラーとブライアン・メイが歌を入れた最後のアルバムですね。

「ホット・スペース」までは、彼らが歌うのは普通だった。作曲して演奏するだけではなく、自作曲を歌うことも出来るんだというところを見せたかったんだと思う。ブライアンとロジャーがそれまでに歌ってきた曲は、まるで自分たちの声用に書いていたような雰囲気もあるしね。フレディが『アイム・イン・ラブ・ウィズ・マイ・カー』を歌っている姿は想像できないなあ。あるいは「ザ・ゲーム」でブライアンが書いた『セイル・アウェイ・スウィート・シスター』なんかもね。この曲はコンサートのセット・リストに入っていなかったけれど、最近ブライアンがソロ用にリカバーしたそうだから、聞くのが楽しみだね。

「ザ・ゲーム」は商業的に大成功を収め、大規模なコンサートのおかげでクイーンはアメリカでの勝利を手中にしました。商業的な部分はさておき、音楽的に、あなたとバンドは満足しましたか?

「ザ・ゲーム」のグローバルな成果は、大変満足のいくものだった。ジョンはアルバムの最終的な仕上がりに大喜びしていたし、ブライアンは、こんなに出来が良いものは1976年にミックスした「華麗なるレース」以来だと言っていた。フレディは少し曖昧な感じだった。満足していなかったというんじゃないんだ。実際彼は『愛という名の欲望』を、3本か4本の指に入る自分のベスト・ソングだと思っていたしね。だが、我々が探し求めていた新しいサウンドに適応するのにかなりの努力を要しなければならなかったんだ。数年後、僕が関わってはいないアルバム「ミラクル」用に彼が作っていた『Stealin'』という曲を聴いて、「ザ・ゲーム」から7年経って、彼の作曲方法やアレンジの仕方が、我々がミュンヘンでやっていた方法に負うものが多いと確信できたときは誇らしかったよ。合計5枚のアルバムを一緒に作ったが、すべてのデビューが「ザ・ゲーム」だった。クイーンと一緒に編集し、彼ら最良の時代を築いたこのアルバムを、自信を持ってお気に入りに挙げるよ。『地獄へ道づれ』や『愛という名の欲望』のような、コンサートで欠かすことの出来ないシンボリックな曲も入っているからね。

クイーンと再び仕事をするという計画はあるのですか?

いや、今のところは皆無だ。ブライアン・メイと私は以前、クイーンを離れて仕事をしたことがあったが、今は全然。ブライアンとロジャーは、クイーンの伝説を続けるために奮闘している。彼らが決めたことだ。そして、それが出来るのは彼らしかいない。私の役目は、あの輝ける年月で終えているんだ。とにかく、彼らは親友だし、また一緒に仕事をする準備はいつでも出来ているよ。


:: BACK ::