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Queen before Queen
The 1960s RECORDINGS PART 4 : THE OPPOSITION

"Record Collectors"
Initial research John S. Stuart. Additional researh and text: Andy Davis.
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日記

ヤングはオポジションの記録保管人となり、いつギグが行われたのか、どの機材を使ったのか、どれくらいの収入があったのかを日記に綴っていた(実はジョン・ディーコンもである)。 リチャードの日記には、ディーコンが――今や世界でもっとも有名どころに数えられるグループのベーシストが――初めて運命の楽器を手にしたときのことが記されている。「1966年4月2日のことだった」ヤングは言う。「日記によるとこうだ。『土曜の午後、クライブをクビにする。ディークスんちのキッチンで練習。ベースはディークス。ずいぶんマシになった。』ジョンはベースを持っていなかったので、レスターのキング・ストリートにあるCox's楽器店まで出向いて、60ポンドでEKOベースを買ってやった。金を出したのは僕だったが、彼ならどのみち返してくれると思っていたよ」

「オポジション時代のジョンのベーススタイルは、クイーンの時と同じだよ」ナイジェル・バレンは言う。「奇妙なことに、彼はちっともピックを使わなかった。指しかね。だから右手はギターのトップにだらんと垂れる形になっていた。また、上向きになって演奏していたけど、それは今まで見たことがない恰好だったんだ、少なくともレスターにいた時分は。後になって、いろんなベース・プレイヤーがこのスタイルを採用してるのを見かけた。皆、彼のをコピーしたんだと思うな。そう彼に言ってやったら、取り合ってくれなかったけど」

バンドを辞めさせられたのは、クライブ・キャッスルディンが最後ではない。「オポジションのヴォーカルとリード・ギターはしょっちゅう変わっていた」ナイジェルが回想する。「いつもいたのは僕とジョンとリチャード・ヤングで――その後デイヴ・ウイリアムスとロン・チェスターが入って来たけど――今となっては、誰が他にいたのか全然思い出せないなあ。ごく最初の頃にリチャード・フリューって奴がいたっけ。カールっていう若い奴もいたけど、フィットしなかった。幾つかのギグをこなした後、リチャードが自分のヴォーカルに満足いかなくなってキーボードに転向したいと言い出したんで、ピート・バート(ローカル・バンドのRapids Raveの元メンバー)をギタリスト兼ヴォーカルとして迎え入れた。上手だったけれど、彼も長くは持たなかったな」

「僕らはみんなモッズだったのに、バートはかなりのロッカーだったのさ」デイヴ・ウイリアムスによるとこうだ。「僕らはスモール・フェイセスやザ・フーのようなモッズ・バンドに感銘を受けていた。バートは全く別の時代からやってきたみたいな奴だったからな」

「ディークスは毛皮の襟付きのパーカを持っていたっけ。髪は短髪、クルーカットでさ。スクーターには鏡が複数」ロン・チェスターが思い出すと、リチャード・ヤングも頷いた。「ジョンは誰よりもモッズだった。でも、僕等はいろんな音楽をやっていたから、バンドを分類することは出来ないと思うよ」

ディーコンにベースを買い与えただけではなかったせいで、リチャード・ヤングはグループのパトロンとして知られている。他のメンバーより年上だった彼は、レスターにある父親の電気会社で安定した職に就いており、一定の、誰もがうらやむような給料を貰っていたのだ。メンバーのために楽器を散財するときはいつでも即決だった。

領収書

「リチャードは僕にP.A.を買ってくれた」デイヴ・ウイリアムスは言う。「だが、僕に尋ねもせずにだ。グループが必要としているんだって理屈でさ。で、買ってから言うんだ。『これで君は僕に借りが出来たぞ』って。それをママがかなり心配していたよ。当時は財布の中身にまで目を光らせてる頃で、多分避妊具でも探してたんじゃないかな。あるとき彼女はMoore and Stanworth'sっていう地方の楽器屋からのレシートを発見した。Beyerのマイクで、30ポンド相当のものだった。僕はまだ学生で、小遣いを貰っていた身分だったからね…言われたさ、『一体これは何なのよ!』って。日曜のディナーの席なんかでね。だけど別に構わなかった。グループで必要としていたんだから」

「バンドのために本当に必死だったんだ」1966年6月、ウイリアムスの加入でオルガンに転向したヤングは主張する。「おそらく他の誰よりも。先立つものがなけりゃ、何も出来ないということが分かっていたからね」

「ディック・ヤングはうまいオルガン奏者だったさ」デイヴが続ける。「グループの向上に一役も二役もかっていた。いつも金を山ほど持っていたし、車も持ってたな。だけどものすごくヘンな奴で、ぶっ壊れてたよ。ある週はこのオルガン使ってるなと思ったら、次の週になると一層いいのを持っているんだ。ついにはFarfisaっていう、キーボードの上にあと2つキーボードが乗っかっているのにしたっけ。その後はハモンドのL100で、すごく重いやつ、それからBシリーズ。Lが一番でかかったから、持ち運びやすいように半分に切っていたっけ!」

デイヴ・ウイリアムスもまた、グループの向上に一役かっている。「彼も同じ学校出身だよ」ナイジェル・バレンは言う。「でも、別のバンドにいたんだ。僕らがいつも憧れていたところにね」そのバンドとは、リーズを基点とするOuter Limitsという名前だった。(60年代後半、デイヴが抜けてから、いくつかのシングルを出している。)「オポジションに入ったのは、彼らが見に来て欲しい、それで思ったことを言って欲しいって頼みに来てからさ」デイヴはこう語る。「Outer Limitsは年上の連中ばっかで、みんなモッズだったが、もうちょっと楽が出来るほうが良かったんだ。オポジションは同年代だしね。彼らは上手かったよ。でも、最初にジョンの家で会った時は、まだ寝室で練習していたんだが、そりゃヒドイ音を出していた。『音合わせしたことないのかよ?』って言ったら、やってるということだったけど、まるでデタラメ弾いているみたいな音で、ひどいったらなかった。すごく可笑しかったよ。みんな念入りに、自分のパートは覚えているっていうのに、お互いの音の調子を合わせていなかったんだから。僕の最初の助言ってのがこれさ」

「初めてのきちんとしたギグはエンダービーの生協ホールで、Rapids Raveというローカルバンドの前座だった」ナイジェル・バレンは言う。「彼らは毎週このホールで演奏していたから、僕らもほぼ毎週のようにやることになったんだ」 リチャードの日記によれば、オポジションのデビューは1965年12月4日で、稼ぎは2ポンドだったということである。その後、彼らは地方紙「オードビー・ウィストン新聞」に広告を出し、Kibworth、Houghton-on-the-Hill、Thurlaston、Great Glenなどという地方のホットスポットにあるユースクラブや村民会館での出演契約を取り始めた。

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