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Queen before Queen
The 1960s RECORDINGS PART 6 : THE OPPOSITION

"Record Collectors"
Initial research John S. Stuart. Additional researh and text: Andy Davis.
[6]
The band 'Deacon'
1971年、チェルシー・カレッジ在学中、ジョンはDeaconという名のカルテットで、
Hardin&Yorkの前座として一晩限りの演奏を行なった。

馴染みのない

(アセテート盤収録の)残りの2トラックは、Bobby Hebbのカヴァー「Sunny」と、それよりもっと知られていないソウル系の「Vehicle」という曲だった。(後にIdes Of Marchによってヒットする。)ヴォーカリストをフィーチャーしてはいるものの、なんとなく不慣れな感じがするのは、彼がオポジションの即席フロントマンだからである。「ちょっとの間、アラン・ブラウンっていうシンガーがいたんだ」ナイジェルは語る。「入ったと思ったら、あっという間に出ていったけどね。いいシンガーだったよ。すごくうまかった。たぶん、うますぎて僕等と不釣り合いだったんだな。彼はそんなこと言わなかったけれど、僕らには分かった」

どちらの曲でもブラウンは、トム・ジョーンズや初期のヴァン・モリスンを足したように聞こえなくもない(そういう想像が出来ればの話だが)深みのあるソウルフルな声を聴かせてくれる。アート版「Vehicle」は、リチャード・ヤングの独特のキーボードとナイジェル・バレンの賑やかなドラムが目立つ、角があって荒々しい曲である。デイヴ・ウイリアムスがまた良い働きをしており、はじけるようなwah-wahギターが聞こえる。一方、ナイジェル・バレンのアセテート盤からコピーしたテープからは少なくとも、ジョンのベースは非常に突出しており、実際のところ、オーヴァーレコーディングされて唸っているような感じだ。

「Sunny」は更に上出来で、いきなりジャズっぽい4分の3拍子で半分ほど進み、トラディショナルな4分の4拍子に落ち着く、想像力に富んだアレンジメントが施されている。デイヴとリチャードのソロもあり、一方でハモンド・オルガンの流れとジョン・ディーコンの力強いベースが曲を支えている。

ナイジェルは言う。「『Sunny』はステージセットの一部として演奏していたんだけど、こんなにジャズ風にやってたことはなかった。すごく面白かったよ。スタジオに行く前に話し合って、このセッションでだけそうしようって決めたと思う。デイヴは6弦と12弦のギターを持っていた。もしかするとツイン・ネックだったかもしれないな。彼がこの曲で弾いたwah-wahが今でも気に入っているよ。当時リチャードのオルガンは2台目か3台目だったっけ…ハモンドとレスリーにハマッてたなあ」

野心のかけらもない雰囲気を醸し出す中、お決まりのセット、トレードマークのゆったりしたアプローチでのレコーディングを念頭においていたリスナーにとって、アートのアセテート盤はまさに意外な驚きであった。今の学生連中を午後からスタジオに放り込んで、この半分でもうまくやれるように挑戦させてみたいものである!

このアートのディスクは、たった2枚が現存しているとみられる。ジョン・ディーコンの母親が1枚持っているとされており、もう1枚がナイジェル・バレンのものである。「このレコードのことをすっかり忘れていたよ」ナイジェルはそう認めた。「1枚を灰皿にしちゃったことはよく覚えているんだけどね! ある晩のリハーサルで、僕らはリチャードのレコードの上でタバコをもみ消しちゃったんだ」当時は丁寧に取り扱うどころではなかったようだが、今ではナイジェル・バレンもこのレコードの重要性を理解している。「これがたぶん、ジョン・ディーコンの最初のレコーディング物だね。もう一つ、彼が自分の寝室でリール式録音機でレコーディングした物があったんだけど、多分無くなっているだろうし。いや…ジョンのことだから、まだ残ってるかも!」

1969年6月、アートに終わりが近づいてきた。ジョン・ディーコンがビーカムを卒業したのである。ロンドンでの大学生活が決まっていた彼にとって、バンドでの日々は限られたものとなった。彼の最後のギグは8月29日、馴染みの場所であるGreat Glen Youth and Sports Centre Clubで行われている。10月には、ロンドン大学の分校であるチェルシー・カレッジで電子工学を学ぶためにロンドンに引っ越すことになった。

さらに11月には、バンドの要であったリチャード・ヤングが去り、有名なローカルミュージシャンのSteve Fearn率いるFearn's Brass Foundryに加入した。「彼らはBlood, Sweat and Tearsタイプのグループでね」リチャードは言う。「今まで以上に稼げたんだ。週に5回、一晩につき約3ポンドの収入があった。僕らの平均はだいたい10ポンドだったから」前の年からリチャードはFoundryでセッション・キーボードを担当していて、彼らの2枚のDeccaシングル、「Don't Change It」(F 12721, January 1968, 10ポンド)と「Now I Taste The Tears」(F 12835, September 1968, 8ポンド)に参加している。

サヴェージ

ロン・チェスターも時を同じくしてバンドを去り、音楽から身を引いている。「僕は70年代初めに抜けたのさ。ジョン・ディーコンがロンドンに行った後にね。ジョンに代わる次のベーシストは、ジョン・サヴェージって名前の奴で、僕とウマがあわなかった。違ったテイストを持ってて、かなりハードな奴だった。ディークスとは全く違ってたよ。カネにものすごく興味がありすぎてさ。バンドの『相棒』意識が無くなってしまって、前と同じようにはいかなくなっちまった」

ナイジェル、リチャードそしてデイヴは1970年、新たなベーシストを加え、バンド名をシルキー・ウェイと変えて押しすすめた。彼らは再びBeck's studioに戻り、Freeのカヴァー「Loosen Up」を、新しいヴォーカリストのビル・ガーデナーと共にレコーディングしているが、それがバンドの限界であった。あるクリスマスのパーティーのステージで泥酔してナイジェルのドラムキットに倒れ込んだ後、デイヴはバンドを去った。彼は恥ずかしそうに回想した。「次の日、僕を拾ってくれるかなって待っていたんだけど、二度と来てくれなくなっちゃって」

リチャードとナイジェルは、Lady Jane Tripという名の、ディナー・ダンス・タイプのバンドに移ったが(「全くイケてなかったね!」バレンは笑った)、大学生活に集中するためにナイジェルはまもなくして音楽から遠ざかった。リチャードはプロになり、Steve Fearnが抜けたBrass Foundryと共にキャバレー回りを始め、後にRioという名のトリオを結成し、ホリデー・キャンプや海外クルーズでの定期的な仕事を得るようになった。70年代後半には、Love Affairのツアーにも参加している。

ロンドンに向かったジョン・ディーコンは、1970年10月に、世界制覇を共にすることになる未来のパートナー達を垣間見ている。新しく結成されたクイーンというバンドの演奏を、ケンジントンのエステート・マネージメント・カレッジで見たのだった。彼はジム・ジェンキンズ&ジャッキー・ガン著「果てしなき伝説(As It Began)」の中でこう語っている。「全員が黒い衣装を着ていて、照明もすごく暗かったから、4つの影しか見えなかったんだ。その時はほとんど印象に残らなかった」

クイーンズゲートに下宿していた際、ジョンはルームメートと共にルーズなR&Bカルテットを結成する。ギタリストはピーター・ストッダート、ドラムはドン・カーター、もう一人のギタリストはアルバートという名だった。この新バンドは、アートとなんら代わり映えのしないものだった。オリジナル曲はなく、ギグもたった一度だけ、1970年11月21日にチェルシー・カレッジにおいてHardin&York、Idle Raceの前座として、急に予定に組み込まれて出演しただけである。バンド名は、Deacon。物静かなオードビーの青年が自らを気まぐれに宣伝してみせた稀な事例である。

数ヶ月後の1971年初頭、マリア・アサンプタ教員養成カレッジ内のディスコで、ジョンは共通の友人であるクリスティン・ファーネルからブライアン・メイとロジャー・テイラーを紹介される。彼らはベーシストを探していた。その後まもなく、ジョンはインペリアル・カレッジでオーディションを受けた。ディーコンの第一印象について、ロジャー・テイラーは「果てしなき伝説」の中でこう語っている。「すごい奴だと思った。お互いに無茶苦茶ウマが合ったんだ。おとなしいし、俺たちと諍いなくやっていけるだろうと思った。ベースプレイヤーとしてもグレイトだったが、実際のところ、決め手は器材に恐ろしく強いことだったな!」

レスターのアート/オポジションのメンバー達は、ジョンのクイーンでの成功をどう受け止めていたのだろう?「突然、って訳でもなかったな」ロン・チェスターは言う。「最初に彼が別のグループに入れてもらったと聞いたときには信じられなかったもんだがね。『連中、耳が悪いのか?』ってなジョークばかり言い合ってたよ。その後レコード契約の話を聞いて、次がレコード発売。順を追った進歩だったし、誰も彼が途中で諦めるような奴だなんて思っちゃいなかった」

ナイジェル・バレンはこう語る。「僕らの中の誰かが成功するとは考えてなかったなあ。リチャードなら成功するかもとは思ったけど。最初にプロになったのは彼だったから。それに、大学に通うためにロンドンへ行ってしまったとき、ジョンは器材を全部こっちに置いていったんだ。これでおしまいにするんだなって思った。続けることに全く執着しなかったからね。大学での学業が最優先さ。でも、すぐにまた興味を持ち始めて、『メロディ・メイカー』でベーシスト募集の広告をたえずチェックしていたっけ」

またジョンは、60年代にデイヴ・ウイリアムスに感銘を与えた「イージー・ディーコン」タッチを少々失いかけてもいた。ナイジェルは続ける。「ジョンは色んなバンドに電話していたけど、有名どころだと分かると、怖じ気づいていた。無名のバンドのオーディションを受けた時は、30人以上のベーシストが詰め掛けていて、かなり勇気が要ったらしい。彼はただ、きちんとしたバンドで演奏したかっただけなんだ。クイーンがデ・レーン・リーでレコーディングをして、ジョンがファースト・アルバムのデモを聞かせてくれたときに思ったよ。うまくまとまってるなあって」

キャバレー

1973年初頭、デイヴ・ウイリアムスはアニメ制作のキャリアを捨てて、Highly Likelyという名のキャバレーの一行に参加する。リーダーにMike Hugh、プロデューサーにDave Hadfieldを配したこのバンドは、"Whatever Happened To You (The Likely Lads Theme)"というマイナーヒットを飛ばしていた。デイヴがバンドに入った時、彼らは次のシングルをレコーディング中だったが、リリースされずに終わっている。その後彼らはグラム・ロック系のバンド、Razzleとして(後にRitzと改名)、シングルを何曲かりリースしている。「クイーンがまだそれほど成功していなかった初期の頃、ジョンが僕らに会いに来てくれた」デイヴは回想する。「『僕もこんな風にちゃんとギグが出来るバンドにいたかったよ』って言ってたな」

デイヴは最後にこう締めくくった。「しばらくして、またジョンが来たんだ。『デモを持ってきた』ってね。『うちのもあるさ!』僕は言った。それで僕らは先に彼のから聴くことにした。最初のトラックは『Keep Yourself Alive』でね、聴いたときはもう口があんぐりさ。『なんてこったい! 物凄い曲だな!』と思ったよ。当時の僕らのヒーローだったリッチー・ブラックモアよりうまいギタリストじゃないかと言った覚えがある。つくづく思ったさ、『マジだなこりゃ。まさに本物だ』とね」

Thanks to Nigel Bullen, Richard Young, Ron Chester and Dave Williams for their time and illustrations. Thanks also to Mark Hodkinson.

(終)


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