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クイーン:ショウの女王

(ラ・マスカラ出版「ロックの群像」シリーズ/No.64 アルトゥーロ・ブレイ著)
(Translated By BanKさん)

53〜54ページ:ジョン・ディーコン

ジョン・ディーコンは、クイーンにおいてローリング・ストーンズのビル・ワイマンやザ・フーのジョン・エントウィッスルと全く同じ役割をずっと果たしてきた。つまり、物静かで注目を集めることもない、控えめなベーシストであり、カメラの前に出てくることを望まないような人物である。そして、同時にクイーンの中で最年少であるにもかかわらず、ジョン・ディーコンは4人の中で最も思慮深く、穏やかでもあった。そして彼は、最も落ち着いた性格の持ち主でもあった。事実、バンドマネージャーだったジョン・リードと決別した後、クイーンの中でそれらの仕事を引き受けたのはジョン・ディーコンだった。「ジョンは事業に関してとても目端が利くんだよ。それに、完璧なリズム感や、ロックとビジネスを同時に機能させるにはどうすればよいかと言うことに対する理解力と知性を持ち合わせているんだよ」(ブライアン)黒字を得ることができないものであっても、最大限人目を引くツアーを実現させなければならないと、他のメンバーを説得していたのがジョンだったという光景が、何度も繰り返されてきた。「僕たちは、自分たち自身が満足するためにツアーをしているけれど、それはまた、グループの社会的地位を上げるためでもあるんだよ。まあ、長期的な投資だね」(ジョン)

1951年にレスターで生まれた彼は、少年時代には成績優秀な学生であり、それはロンドン大学電子工学科に「優秀な」成績で入学する(訳者注:原文ママ。「卒業する」の方が事実を正確に述べている)にまで至ったのである。60年代半ば、彼は勉学に励みながらも、ビートルズやローリング・ストーンズのようなグループがイギリス音楽界において主役を担う並外れた変化に着想を得たバンド、オポジションで音楽面における予期せぬ出来事を経験した。オポジションの2代目ヴォーカリストであり、解散前にグループを辞め、かつての仲間とも連絡を取らなくなっていたピーター・バーソロミューが語る、当時についての良い逸話がある。彼は後年、クイーンの大ファンとなったが、そのバンドのベーシストが他でもない、かつての仲間ジョン・ディーコンであることは知らずにいた。ピーターはクイーンのレコードを何度も繰り返し聴いていたが、ある日、彼らがTV番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」に出演し、そこにジョン・ディーコンが初めて出会った頃と同じ短い髪で姿を見せた時、ピーターはそれが彼であるとわかって、心底ビックリした。「嘘やろ!でも、もしかしてジョン、オポジションのジョン・ディーコンなんか・・・?えらいこっちゃ!」そうして彼は、何もかもすっかり思い出したのである。「ジョンはオポジションの中で一番才能のあるヤツやったなあ。まるで、生まれた時に手にベースを持っとったんとちゃうかと思えるくらいやったわ。いつもアイツは飛び抜けとったなあ」

ジョンがクイーンに加入した時、バンドはすでに何人ものベーシストと共に何ヶ月も活動を続けていた。「おそらく僕は、グループの中で唯一、外部から物事を見ることができる人間だったんじゃないかな。一番最後にバンドに加わったからね。僕にはそこに何かがあることはわかっていたけれど、確信はなかったんだ。たぶん、アルバム『シアー・ハート・アタック』まではね」(ジョン)クイーンで最も知名度の低いメンバーであるとは言え、彼に多くのファンがいないと言うわけではない。これだけ特色のある大物バンドにおいて、荷の上げ下ろしをするツアークルーなどの若者たちまでにも、自分のファンクラブがついていたのである。

とは言え、ジョン・ディーコンは常にビジュアル面においてクイーンの中で最も地味であった。彼にとっては、ステージに上がる際にはジーンズとTシャツで充分だったのだが、これはフレディにかなりの不快感を与えた。クイーンの全メンバーがスパンコールの付いた衣装を着ている方が、フレディには好ましかったのである。だが、ジョンはそういった衣装を身につけないばかりか、多くのライブにおいて、特に最後の2回のツアーではTシャツと水着(訳者注:原文ママ。これって「お気に入りの短パン」のことだと思います。いくらジョンでも水着ではステージに上がらないでしょう)を着てステージに上がっていたのである。気の毒にも、フレディにとって不愉快な状態が続いていたのである。

そんなジョン・ディーコンの内気で控えめな性質は、ビジュアル面において、特にビデオにおいて華やかさを求めるクイーンの哲学とは、明らかに正面からぶつかるものであった。通常、クイーンのビデオは創意工夫に満ちたもので、ユーモアセンスがあり、人々を驚かせる舞台装置や信じられないような扮装がつきものであった。ジョンは、ブライアンと同様に悩みはしていたようだが、どんな服装を着せられることに対してもストイックに耐えていた。ただ、この2人は、ビデオで好き放題に振る舞っていたフレディやロジャーとは正反対に、芸術活動だからといって芸達者を装うことは特になかった。それでも、ジョンはステージ上では、派手に動き回るわけではなかったが歴史に残る面白い動きを生み出していた。それは、片足で小さく素早いステップを踏んでリズムを取ったり、全身を前方に軽く傾けてテンポを取ったりするものである。その「ジョン・ディーコン」スタイルは「ザ・ミラクル」のビデオで11歳の少年が完璧にコピーしていた。

楽曲の提供に関しても、70年代にはジョンは目立った活動をしていないが、それでも「オペラ座の夜」と「華麗なるレース」の中でそれぞれ「マイ・ベスト・フレンド」と「ユー・アンド・アイ」という2曲の素晴らしいポップソングを作っている。また「世界に捧ぐ」の中でも傑出した曲「永遠の翼」を、「ジャズ」の中で「うちひしがれて」を書いてもいる。だが、80年代には、やはり作品数は少ないものの、80年代のバンドにおける大ヒット曲を2曲、生み出した。「地獄へ道づれ」と「ブレイク・フリー」である。また、バラード「心の絆」をフレディと共作した。また、ジョンはクイーン以外にもW・E・ジョーンズ創作の空軍エースを扱った映画「ビグルス」のサウンドトラックを作るなどの活動にも着手していた。

ジョン・ディーコンの私生活について知られていることはほとんどない。人知れず、名声とも無縁で、マスメディアの魔手の届かないままでいたいと、彼が望んでいるのである。インタビューからこっそり抜け出す彼の特技は、伝説的ですらある。そのため本書では、ジョンの言葉を引用している部分が非常に少ない。何しろ自分自身について語ることがほとんどなかったのだから。彼が最も時間をかけてじっくりと語ったのは、ライブエイドに際して、自分がミュージシャンであることを誇りに思っていることを語ったくらいである。好奇心をそそる大物、人の良いジョンである。


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