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Happy and Glorious? (Brian May Interview)
僕達はもう、解散するには歳をとり過ぎた

rockin'on 91
(By Phil Sutcliffe from Q magazine / rockin'on 91年5月号)

誉めてもらいたい一心で、がむしゃらに求めたいい成績・いい数字。再び全世界的支持を勝ち得た今、究極のロック・エリート達が抱え込んだ葛藤と、ノンポリならではの受難の日々を全て語った「クイーン20年史」

スマイルをしょっちゅう観に来ては、いつも「自分がフロントマンだったら絶対にこうする」なんてバンドに向かってがなり散らしているファンがいた。それがフレディだった

クイーンはあらゆる意味で適度という言葉を超越したバンドである。これはもう言わずと知れた事実だろう。ノッティング・ヒル・ゲイトにあるクイーンの事務所の受付の壁際には仰々しい賞状が掲げてあり、そこには「クイーンは名実共に過去十年における最高峰のバンドである」と堂々と記されている。実はこの賞状、ITV(イギリス民間テレビ教会)より「英国国民の総意を代表して」バンドに贈られたものなのだが、英国国民もあながち判断を誤ってはいないのかもしれない。何せこのバンドはその二十年に及ぶキャリアを通して、レコードを八千万枚売り、シングルについては億単位で売り、コンサート・チケットについては更に果てしなく何千億という単位で売りまくっている。各々のメンバーは個人年収七十万ポンド(約一億七千万円)以上というイギリスで最も高額取りの経営者としてギネス・ブックにも名前を連ねているくらいなのだ(因みにこの年収換算には印税収入は含まれていない)。おまけに、このギネス上の数字は遥か昔、79年のデータなのである。

フレディ・マーキュリーがかつて「実際、僕はもう身体中からお金がしたたり落ちて来そうだよ! こう言うとお下劣かもしれないけど、でも、やっぱり素晴らしい気分さ」と語った時、それは別に冗談ではなかったのだ。

しかしながら、このように見せびらかし屋でケバケバしい、それでいて人に好かれようという努力は微塵もしない彼らの最大の魅力の一つはこのバンドの必殺仕事人、ブライアン・メイがそもそもの出発点で初めて手にしたギターを未だに使っているということかもしれない。そう、あの有名な、廃屋の暖炉の建材を使って日曜大工のように作られたギターのことである。ブライアンがミドルセックス(今はロンドンの一部)のフェルトハムに住んでいた頃、父親と力を合わせて二年間もかけて制作した手作りのあのギターのことである。それにかかったお金は全部で八ポンド(約二千円)だった。

「そう、あのがらくたギター、巷で言われるあのギターについての伝説は全部、本当のことなんだ」。他のメンバーとは違い一人だけ、初期の頃から変わらない、きれいな巻毛を伸ばしたブライアンはじゃがいもとえびの料理に髪の毛が入らないようにしながら、そう説明する。

「実際、自分が未だにあのギターを使っているっていうこと自体、驚いちゃうよなあ。でも、あの温もりのある、息の長い音色に匹敵するギターに僕は巡り遭ったことはないからね。まあ設計と運と両方が非常にうまくいったんだろうな」

そのギターのトレモロ・アームは自転車のかばんの留具と編物用の針から作られている。ボディの飾りはプラスチックの棚の縁を流用し、ネックのデコレーションは貝殻ボタンを、また木材の虫食いにはマッチ棒を埋め込んでいった。しかし、そんなかいがいしい努力をしたというのに、ブライアンにとって憧れのギターはいつもフェンダー・ストラトキャスターだったという。

「ま、要は貧乏だったってことなんだな」

フレディの主張で四年前にツアー活動から身を引き、取材にも滅多に応じなくなってしまったクイーンと俗世間を今や唯一繋ぎ止めている存在であるブライアンはそう語る。

「あのギター制作の手順はすごく科学的にやって行ったんだよ。順を追いながらいろんなテストも何度もしていってね。その辺については結構、親父はすごいんだ。エレクトロニクス博士だったんだよ。まあ、今となっちゃいい思い出だよなあ。でも、親父としては僕とギター制作に取りかかることになったこと自体が大きな妥協だったんだよね。ギター制作をする暇があるんだったら、もっと勉強をしてほしいって言ってたからな……」

そして四十三歳になった今、ブライアンはそんな思い出が現在の複雑な現実と無邪気だった頃の記憶とを繋げてくれることに気付く。

「……まあ親父にしてみれば、僕が現実にロック・ミュージシャンを生業としていることなんて、僕達をマディソン・スクエア・ガーデンで観るまではよく呑み込めない、想像もつかないことだったんだ。それまではね、まあロックもいいけど、後々にはちゃんとした職につかんとなっていう調子だったからね」

「ただ、おかしいのは、僕自身も未だにそういう錯覚で悩んでいるんだってことなんだ。時々、自分が一体何者なのか分からなくなるんだよ。例えばスタジアム・ツアー級のバンドへと駆け上ってた頃までは『今はこれが楽しいけど、でも、そのうち何かやりたいことも出てくるかもしれないな』っていうくらいの気持だったんだけど。ところが、ツアー活動をやめてみて初めて『ああ、自分は実はツアーを思う存分楽しんではいなかった、それなのにもう終わりかけている』って気が付いたんだよ。そして、それが僕の深刻な危機の始まりとなったんだ。しかも悪いことに親父が死んだのとほぼ同時に僕の結婚生活も破綻してしまった(大衆ゴシップ紙が報じた通り、ブライアンは妻と三人の子供を捨てて、テレビ・スター、アニタ・ドブソンの下へ走った)。それで、しばらくの間、僕はもぬけの殻みたいになってしまったんだ。鏡で自分の姿を見ると『ま、こいつは、このロック・スターは一応元気そうだな』と思うんだけど、その実、僕の中にはほとんど何もなかった……うーん……僕がどんなにひどくなっていたかなんて説明できないよ。とにかく、全てが駄目になってしまったんだ」

「とはいえ最後にはどうにかこうにか乗り越えられるものなんだよね。今じゃ自分がどこの誰なのか、またわかるようになったよ。でも、どれだけの金も名声も、あの時に感じた苦痛から解放してはくれないんだ。それでも、また作品も沢山書けるようになったし、今じゃもう大丈夫さ。今度の新作でも僕がかなり大きな役割を引き受けたし。っていうかね、逆に他の三人がこの一年の間にいろんな問題と対処しなきゃならない羽目になっちゃったんだよ。それで今回は、よーし、バンドは僕が持ち堪えさせるぜって言ったんだ」


クイーンの母体が結成されたのは1971年、ロンドン大学でのことだった。バンドを始めた張本人は数学物理理学士、そして赤外線天文学で博士論文の研究をしていたブライアン・メイだった。自分にとって初めてのバンドであった、スマイルのためにブライアンが「ジンジャー・ベイカー/ミッチ・ミッチェル・タイプのドラマー求む」という告知を学生組合の掲示板に出したところ、これが縁となって生物理学士ロジャー・テイラーと出会った。その後間もなくしてスマイルは暗礁に乗り上げることとなったが、その短い活動期間のうちにイーリング芸術大学芸術デザイン課卒フレディ・バルサラなる人物がこのバンドの非常に珍しいタイプのファンとなっていた。珍しいというのは、つまりフレディはバンドの演奏をしょっちゅう観に来てはいたが、いつも客席ですっくと立ち上がったと思うと歓声を贈るわけでもなく、もし自分がフロントマンだったら絶対にこうするなどとバンドに向かってがなり散らしていたからだ。

その容貌と同じように、フレディの生い立ちもまたエキゾティックなものだった。バルサラというのは元はと言えばペルシャの名前なのだが、両親の国籍は英国にあり、しかも父親が外交官だった関係から彼はザンジバルで生まれて子供時代のほとんどをボンベイで過ごしていた。「実際、フレディにはスターのようなルックスがあったし、実際、スターのように振る舞ってたもんだよ。本当は全くの無一文だったくせしてさ」とブライアンは回想する。

「ジミ・ヘンに熱を上げていてね。そのうちフレディとロジャーは手を組んでケンジントン公園で開かれる市で洋服の露店商を始めたんだけど、その時でもヘンドリックスが死んだ日だけは店を閉めてたっけな。ま、とにかくあの露店をやっていたことで二人は、後々にグラム・ロックとなったムーヴメントのとっかかりにいたってことにはなるんだよ(笑)。といっても、信じられないほどひどい服もあったよなあ。それから三人で住むようになってからはフレッドが時々、こんな大きな袋を担いで帰って来ちゃあおぞましい服を取り出して『この素敵な服をみてくれよ! これはかなり高く売れるぞお』とか言っちゃってさ。『そんなのゴミにしか見えないよ』って僕は言ったもんだったけど」

しかし、審美眼に関しては必ずしも意見が合わなかった三人は音楽的には「強靭なメロディとハーモニーを持った大音量の、ヘヴィーでエモーショナルなサウンド・ウェーブ」を作り出し、それにいささかぎょっとするような装飾を施し、活気に満ちたやり方で提示してゆくということでは意見が一致していた。そして一つ残された「爆発的なベーシスト」の加入という課題は、電気工学理学士ジョン・ディーコンの登場によって片がついた。この時、バルサラという名字はマーキュリーとなり、スマイルというバンド名も、勿論フレディの提案で、クイーンと変えられることとなり(☆実際はこの時でなく数ヶ月前に「マーキュリー」「クイーン」は存在していた模様)、彼等はマスタープランを次々と現実へと移してゆく段階に入った。その計画にはまずじっくりとリハーサルに専念し、駅裏のパブ・サーキット巡りからは足を洗い、そしてデモ・テープによって破格の契約を獲得するなどといったことが盛り込まれていて、彼等はある程度はそれの実現に成功したのだが、考えていたよりは遥かに時間がかかったという。

72年頃にボウイを観て、考えこんでしまった。「ああっ! こいつに先を越されてしまった。自分達はまだレコードさえ出せないのに」

例えばトライデント・スタジオを所有しているマネジメント会社と契約できたことなどは幸先の良い出来事だったが、バンドの面々がそれぞれにうまみの多いキャリアを捨てていった割には(例えばブライアンなどは世界的に有名なジョドレルバンク天文台での研究職の申し出まで断わっていた)指をくわえながら待たされるだけで、そのうちに彼等が考えていたヘヴィーかつグラマラスなロック構想自体、もはや廃れてしまいそうな気配だった。

「72年頃にレインボー・シアターでボウイを観てね」とブライアンは回想する。

「それでもう考えちゃったよね。『ああっ! こいつに先を越されちまった。しかも、こいつはああやってもう名前もガンガン売っているのに自分達はまだレコードさえ出せない状態だ!』ってさ。すごくフラストレーションを感じたものだったな」

しかし、彼等もやがてEMIとの契約を取り付け、73年の七月、実はその二年半前に既にレコーディングされていた"キープ・ユアセルフ・アライヴ"を初シングル、そしてデビュー・アルバム『クイーン』をリリースすることに成功した。その秋にバンドは"オール・ザ・ウェイ・トゥ・メンフィス"で盛り上がっていたモット・ザ・フープルの前座としてツアーに参加、フレディはこの期を逃さずその類まれな挑発的ステージパフォーマーとしての資質を証明、わずか一年もしないうちにいわゆる「メジャー・マーケット」、つまりイギリス、アメリカと日本において最大有望株としての位置を確かなものとした。

「そして日本で何かがパチンと外れたんだ。東京の空港の税関を通ってさ、いざ空港のラウンジに出てみると三千人もの少女達が僕達に向かって悲鳴を上げていたんだよ。突然、僕達はビートルズになってたわけだ。そこを通り抜けるためには文字通り、担ぎ上げられながらその子達の頭上を通るしかなかったんだ。さすがにこっちも怯えたけどね。とにかく、あれはもうロック・バンドっていう現象じゃなくて、完璧にアイドル歌手ノリになってたよ。とはいえね、あれを僕達も楽しんでいたということは正直に白状しなくちゃならないな(笑)」

フレディがかつて言っていたように「才能ってものはいつかモノを言う時がくるんだよ」ということなのだろう。


しかし、現実側面においてバンドが本当にモノを言わせてしっかりさせたかったのは彼等のマネジメント契約についてだった。

「アルバムを三枚も出した頃になると、皆は僕達がロールスロイスでも乗り回しているんだろうって想像していたようなんだけど、実際には莫大な負債を抱えてたんだぜ。それで会計士を問い詰めてみて初めてわかったのは、マネジメントと交わしていた契約はお金がほとんど僕達のところに流れてこないように仕組まれていたってことだったんだよ。さすがにこれで僕達の不満も一気に表出したよね。借金はおそろしいほどプレッシャーになっていたし。照明機材の会社に金は払えないし、音響会社にも払えないし。自分達の私生活にも深く影を落としていたよ。例えば、その頃ジョンにはもう子供も生まれていたんだけど、トライデントが手付金を貸すのさえ拒否したから、引越しもできずに相変わらず狭いワンルーム一間に住んでいたんだよ(☆ちゃんと家族計画せんからだとある意味もっともな厭味を言われていたに違いない)

そこでバンドはこの業界の中でも信頼の高いマネージャーの面々から助言を請おうという手段に訴える。それに当時はまた伝説的な敏腕、辣腕マネージャーが何人も顔を揃えていたこともあって、彼等はあのやたらに攻撃的でそれでいて抜け目のないピーター・グラント(レッド・ツェッペリン)やドン・アルデン(ELO)、より計算機型のジョン・リード(エルトン・ジョン)やハーヴィー・リスバーグ(10cc)まであらゆる人物にどうしたらいいものかと意見を聞きまくっていった。幸い誰もがバンドに同情を示し、それぞれが考えるところの解決策を説明したが、エルトン・ジョンがちょうど休暇を取っていたこともあってバンドはリードに全権を依頼することに決定した。リードはその代わりに彼等をスタジオに送り込み、弁護士らとこの契約に根本的なメスを入れている間は全てを忘れろと指示を出したのだった。

「そして、それが素晴らしいほどに効を奏したんだよ」とメイは語る。

「おかげでやっと作曲をする時間も捻出することができるようになったし。それにこれからものすごいものを作ることになるってのはわかっていた。皆で、これは自分達の『サージェント・ペパーズ』になるかもしれないって話し合っていたんだ」

この作品を『サージェント・ペパーズ』と同列に並べるのはやり過ぎかもしれない。しかし少なくとも『オペラ座の夜』がクイーンの作品の中でも決して忘れられることのない、一つの究極美を提示したことに変わりはない。全くタイプの違うこの四人がそれぞれの作品を提供し、豪壮なヴァラエティ・ショーと化したこのレコード。ブライアンのギターだけからなるジャズ・バンド("グッド・カンパニー")、フレディのミュージック・ホールもどき("シーサイド・ランデブー")、ジョンの景気のいいポップ("ユア・マイ・ベスト・フレンド")などの作品が収録され、絢爛たるセッティングを作り上げたところでダメ押しとなる前代未聞のエンターテイメント、"ボヘミアン・ラプソディ"へと怒濤のように流れ込んでゆく。

過去に議論を呼んだことのあるすべての作品や出来事と同様に、"ボヘミアン・ラプソディ"は今となっては数字で説明されることが多い。この一曲のレコーディングのためにスタジオに籠ること一日十二時間単位で計三週間。また百八十人の声を使ったオペラ的な合唱を形にするのに七日間費やしたこと。しかし、その結果出来上がったシングルがゆうに六分間はあったためとてもBBCラジオじゃかけてもらえないだろうと思っていたらBBCは予想に反してそのままかけたこと。そのラジオのプッシュと予算に四千五百ポンドもかけたという画期的なヴィデオがあいまって勢いに乗ったこの曲はイギリスのチャートの一位に九週間君臨することとなった、等々。

「あんまりテープをかけ直したもんだから擦り減っちゃってね。一度なんかテープを電灯にかざしてみたら全くのスケスケだったんだぜ。つまり、音楽そのものは完璧に消えてしまっていたと。それで急いでテープを取り替えたりして、全く変なことをやってるなあと思ったよ。いかにもとらえどころのない音信号ってやつを、懸命に追っかけて捕まえようとしてるはしから、捕まえていたはずの音はどんどん消えちゃうんだからさ。フレッドが『あっ、やっぱり、♪ガリレオ〜、をもうちょっと録っておこうかな』なんて言う度にまた何かが消されてしまうんだ」

結果的に"ボヘミアン・ラプソディ"はクイーンの国際的な知名度を新しい次元へと突入させ、緻密に構築された他の誰とも間違えようのない独特なサウンドでそのどこか特異な地位を確立していった。

「デフ・レパードの連中に一度、どうやってあのヴォーカル・サウンドを作り出しているのかと訊かれたことがあってね。どうも、皆、僕達がいつも何百本にも及ぶトラックを使っていると思っているようなんだけど、普段は六つくらいなんだよ。フレディのリード・ヴォーカル以外では、フレディ、ロジャー、そして僕がリード・トラックに合わせてユニゾンで歌っているんだ。で、フレッドの声の質っていうのはすごく鋭くて透明感があるもんだろう? ロジャーはもっとハスキーで粗い感じ、で、僕のは丸っこい感じなんだよね。それを全部いっしょくたにして2トラックにぶち込んで行くとこれがまたすごくデカくなるんだな」

「で、ギター・ハーモニーについてはいろんな人が試みているんだけど、でも、僕の持論では各パートが主張を持ってそれぞれが相互に作用しあうようじゃないと駄目なんだ。例えばギター・ラインをただ並行させるといかにもダサイんだけど、この二つのラインが触れ合ったり離れたりするようにすると百万倍よくなるんだね。結局、どんなパートも声として扱わなきゃ駄目なんだよ。そうすることで初めてテンションが生まれるんだ。そしてそのテンションが音楽を作るんだよ」

ただ、自分達の音楽の大衆消費の対象という側面については、例えばフレディなどはかねてよりずいぶんさばさばしたところを見せてきた。「僕の歌なんてビックの使い捨てカミソリみたいなものだよ」とフレディは語ったものだ。

「単純に楽しさと現代消費の対象さ。聴いて、気に入って、取り払って次を聴く。そういうポップ消費材なんだよ」

しかし、76年の九月、ローリング・ストーンズがブライアン・ジョーンズの追悼のために行って以来初めてという、ハイド・パークでのフリー・コンサートを十五万もの観客を集めて成功させた時、クイーンは自らが使い捨てであるどころかもはや天下無敵のバンドとなったことを証明することになったのだった。

セックス・ピストルズのシド・ヴィシャスによく「愛しの凶暴君!」と声をかけていたフレディ

その後続くクイーン中期における活動はツアーとスタジオでの猛烈で骨身を惜しまぬ努力に終始していた。彼等は九年の間に実に十二枚ものアルバムをリリースしたのだ。しかし、そうやって成功をアルバム毎に確実なものとしていきながらも、その成功のせいで却って気分を害されることがほとんどだった。

特に音楽ジャーナリズムがバンドに向けた敵意がバンドにとっての強迫観念となった。「実はただの馬鹿?」などというタイトルのついた記事がいくつか出回るようになると、フレディはメディアから全面的に撤退し、目にできるような発言はお得意の、もったいぶっててちょっとしなのあるコメントのみに限られることとなった。

「それにアルバムがどんなに売れている時でも評論家は僕らの作品を、ゴミ扱いしていたからね」とブライアンは未だに信じられないという風に語る。

「でも、そうなってくるとこっちもいろんなことを考えちゃうものなんだよ。『本当のところはどうなんだろう? 僕達は本当にいいバンドなんだろうか? それともやっぱりゴミなんだろうか? 何を尺度にすればいいんだろう?』ってね、でも、結局のところは答えなんかみつからないし、自分を信じるしか手はないんだ」

そして"ボヘミアン・ラプソディ"の一年後、パンクが勃発し、巨大に膨張していたロック・ミュージックとオーディエンスのライフスタイルは悉く糾弾されていった。ところがクイーンは、例えばEMIのレーベル仲間であり、隣り合わせのスタジオで仕事をしたこともあるセックス・ピストルズと陽気に冗談を交わす間柄になっていた。フレディなどはシド・ヴィシャスによく「あら、こんにちは、愛しの凶暴君!」と声をかけていたという。とはいえ、ジョニー・ロットンの歌う"ゴッド・セイブ・ザ・クイーン"とクイーンのショーの締め括りを飾るきらびやかな英国国歌("ゴッド・セイブ・ザ・クイーン")のギター・ヴァージョンとの間のあまりにも大きなギャップがクイーンにとって心地のよいものではなかったのは想像に難くないことである。

やがてバンドは初期の窮乏状態を救ってくれたマネージャー、ジョン・リードを友好的に解雇、自らマネジメントを手がけることになり、ますます内々のクイーン・ファミリーの聖域に引き籠っては、外圧のためにどこかねじれてしまったユーモアを派手で突飛で自己嘲笑的な振る舞いの中に噴出させていった。

例えば"ファット・ボトムド・ガールズ/バイスクル・レース"のヴィデオではウィンブルドン・スタジアムの周りで自転車に乗る大勢のヌードの女の子達が撮影され、それに続いたアルバム『ジャズ』をぶち上げるに当たってはニュー・オーリーンズで英米のレコード会社社員のために盛大なパーティーを開催、多数のトップレス・ウェイトレス、ふたなりストリッパー、小人、そしてせめて肺癌は避けられるという言い訳のつく、下の口から煙草を吸う女達などを接待として大量動員したのだった。そしてフレディは黒人に扮装した十数名の召使いを従えて豪壮に登場した。それは風刺や諧謔を意味していたのかもしれないが、そこまでくるともはや冗談という世界を遥かに越えていた。

そう時間が経たないうちに"ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ"が彼等のテーマ曲となった。「大きいことはいいことさ! これに例外はないね!」とフレディは言っていた。


「そう、確かに僕達はかなり行き過ぎていたとは思うよ。でも、それは飽くまでも毒にも薬にもならない形だったはずだよ」とブライアンは当時の自分達を弁護する。

「それにああすることで僕達が誰かに大きな損害を与えたようなことなんて、決してなかったんだから別にいいじゃないか。例えば"ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ"に対してあまりにも思い上がっているという非難が一部で上がるのはよくわかるよ。でも、あれは何もクイーンがチャンピオンだと言っているわけじゃなくて、皆がチャンピオンだと言っているんだ。あの曲をやるとコンサート会場そのものがサッカーの試合のように盛り上がって、しかも、全員が一つの側にいるって感じになるんだな」

「ただね、あの時期の僕達が非常に保護された環境の中で生きていたというのは確かだと思うな。特にツアーなんかじゃ小さなカプセルの世界だったな。まるで小さな軍隊のような相互依存が皆の間に成立していて、すごい連帯感あったよ。そして常に、次のステップを実現させようと皆が一丸になっていたんだ。今年はレコード百万枚、来年は二百万枚、今回のツアーはマディソン・スクエア・ガーデンで一晩、今度来た時は二晩やるぞっていう風にね。それでひどい……つまり、ひどいというのはまるで学校にいた時と同じでさ、バンドをほめてもらいたい一心でとにかくがむしゃらにいい成績と数字を獲得しようとしていたんだ。だから、当然人工的なところが大きかったし、まるでゲームのようなものだったんだ。そう、自分の気持を慰めるゲームだったんだと、今はそう考えているよ。そりゃあね、僕達だって本当はチケットやレコード・セールスだけで自分達のことを評価しているわけじゃないんだ。でも、やっぱりこの仕組み全体のリアリティーが、所詮全て数字なのか、そうじゃないのか、その辺がわからなくなってくるものなんだよ」

そしてバンドもまた、かつてのようにバンドそのものを心から大切にしているわけではなかった。

「実際、しばらくの間はお互いに真剣に憎み合ってたくらいだからなあ。『ジャズ』(78年)をレコーディングして、それとミュンヘンでやった一連のアルバム、『ザ・ゲーム』(80年)と『ザ・ワークス』(84年)とね、もうお互いに対して怒り心頭に達していたんだ(☆自分が主導した『フラッシュ・ゴードン』(80年)は除外されるようだ。『ホット・スペース』(82年)の場合は思い出せないくらいなのかもしれない)。僕自身、何度をバンドをそのままあとに残してその場を立ち去ったことがあったよ。って言っても一日とかそのくらいだけどさ。でも、その場じゃ『もう嫌だっ、こんなのやめてやる!』なんてけんまくでさ、で、それは何も僕だけじゃなくて皆もやってたことなんだよ。しかも一旦そうなってくるとさ、もう音符一つだけを巡って全員が全員の揚足取りを始めるってような事態になるんだよな」

「おまけに、お金のいさかいがもう絶えなかったんだ。まあ、作曲っていうのはいろんな形でひどい不正がまかり通っちゃったりするもんだからさ。特にB面曲なんかがそうなんだよね。例えばさ、"ボヘミアン・ラプソディ"のシングルが百万枚売れるとなるとロジャーまでもがそれと同等の印税をついでにもらったりしちゃうんだな。なぜかって言えばロジャーはB面曲の"アイム・イン・ラヴ・ウィズ・マイ・カー"を書いたからなんだ。これが原因でいさかいがもう何年も何年も続いたんだ(☆これを不正と言うブライアンこそ諍いを長期化させていた気がしないでもない)

余りの政治意識のなさがもたらした大失敗、サン・シティ出演とブラジル公演

フレディの当時の見解としては「男四人、かしましく喧嘩して、こんな面白いことないじゃないか!」ということだった。

この時期、クイーンの安泰には勿論ぐらつきも何度かいろんな形で訪れた。80年代に入ってからアメリカで著しく失敗したのも目立ったことだったが、それでも尚イギリスにおいてはクイーンのファンのコアはとてつもなく大きく、彼等の人気も不動のものとして残っていた。ところがである。84年の十月のこと、南アフリカの悪名高い黒人自治区であるボプタツワナの近所にある、ラス・ヴェガス風リゾート施設サン・シティで八回に及ぶ公演を、おそらく大量のクルーガーランド金貨と引き換えにクイーンがこなした時、彼等はクイーン毛嫌い派にこれ以上にない餌を与えてしまうことになった。ただちに彼等は国連による"アパルトヘイトに反対する文化的ボイコット"を破ったとしてブラック・リストに載せられた挙句、政治的な正義についてほんの僅かでもかぶれている人なら決まってその名をあげる恥辱の象徴とされ、遂に総スカンをくらうこととなってしまった。

バンド側からも大々的な抗議や絶望したかのような発言まで各種各様のコメントがなされたが、正式な謝罪が表明されたことは一回もなかった。しかし、よく考えてみればこのバンドはノンポリもいいところだったし、ファンのためにどこへでも演奏しに出かけるおめでたいバンドなのだ(☆そのおめでたいバンドで一際おめでたい発言をしている人がここにいるのでご確認を)。また南アフリカにおける印税収入の一部はサン・シティの近くにある黒人の聾唖学校に寄付されていたし、おまけにANC(アフリカ民族会議)の指導者ネルソン・マンデラでさえクイーンの"アイ・ウォント・トゥ・ブレイク・フリー"を合唱曲として採用しているくらいだから、なにもクイーンがあそこまで非難される必要はなかったのではないかという気もする。

それから六年も経った今、ブライアン・メイはサン・シティの一件については全く負い目を感じていないし、一貫して間違っていなかったと譲らない。

「無論、僕達はアパルトヘイトには心から反対しているんだ」とブライアンは言う。

「あの時はまず僕達のビジネス・マネージャーのジム・ビーチが南アまで出かけて色々と事情を調べてきてね。それから予想される賛否両論について一年近くあれこれと注意深く検討してみて、その上でアパルトヘイトをどうにかしたいんだったら、何かしらの成果を上げたいんだったら、遠巻きにしているよりは現地に乗り込まなきゃ駄目だって決断したんだ。しかもね、現実問題としてサン・シティこそが、人種別の運営方式が導入されていなかった唯一の場所だったんだからな。オーディエンスは人種が混ざっていたし、ホテルでもまた混ざっていた。そしてインタヴューでもアパルトヘイトへの反対意見を僕達は言わせてもらったし、実際にソウェト(黒人居住区)へ出かけては黒人ミュージシャンとも演奏したりしたんだよ」

「きっと沢山の人達が未だに僕達のことをファシストの豚だとでも考えているんだろうよ。そういう言いがかりに僕は何もなしうることがないんだよ。でも、僕達は完全に正常な良識のもとで行動していたんだ」

また、ブライアンがこういった非難に対して起こした行動はスーパースターとしての義務を遥かに超えたもので、ブライアンはミュージシャン組合の支部集会へ出かけては批判的な動きに対するクイーンの立場の弁明を行っていったのだった。

「スピーチをして、それで一般的な反応としては少なくとも、来てもらえてよかった、これでやっと何であんなことをしたのかわかったよっていうものだったんだ。でも、決まりを破ったことには変わりなかったからね。結局、罰金をくらったよ」

実際、彼等がバカがつくほど無垢であることは見ていればわかる。クイーンが本気で白人優位を政治的に支持していると考えるには心血を注いでよっぽどクイーンを嫌いにならないと無理だろう。おまけにサン・シティ事件の僅か数ヶ月後のこと、今度はブラジルで行われたコンサートでクイーンはおそろしいまでに自分達が政治について世間知らずであったことを露呈する羽目になった。"アイ・ウォント・トゥ・ブレイク・フリー"の演目でかつらをかぶり、巨大な尻のステージ衣装を(☆お察しの通り原文は「尻」ではなく「胸=bosom」)身に着けてステージに登場したフレディは、観客からのヤジと空き缶と石までもが混ざった猛烈なシャワーを受けることとなった。咄嗟にフレディがかつらや衣装を外すとやがて観客もまた静まったのだが、ラテンのマッチョ的心情を侮辱してしまったのだろうかとバンドはその時考えたらしい。しかし、後々になって地元の人達に聞かされた話はそんな生やさしいものではなかった。何とクイーンの、それも特に"アイ・ウォント・トゥ・ブレイク・フリー"は常に政情不安に悩む南米では独裁主義に抵抗するという半ば神聖なメッセージをもった解放の歌として受け取られているというのだ。(☆それを聞いていちばん腰を抜かしたのは他でもない作曲者だろう)その曲をクイーン自身が茶化してしまうのは、それこそ屈辱的でとても耐えられないことだったのだ。

そしてクイーンの面々が進んで認めるように彼等はボブ・ゲルドフに多大な感謝をしなくてはならない。彼等のキャリアに再び脚光を呼び戻したあのライヴ・エイドに出ないかと最初にボブが打診してきた時、彼等は過去の破滅的で実のなかったチャリティー・ギグでの経験を思いあわせて躊躇していた。それをボブが無理矢理食いついて出演させたのだ。ボブはまず、マネージャー、ジム・ビーチの休暇用の別邸にまで押しかけるとクイーンのヴィデオでも語っているように「あのオカマあんちゃんに、とにかくこの世に起こったどんな出来事でもこれほどデカイものはないんだって伝えておけよ」と談判し、ジムは言われた通りにバンドを説得することとなった。

「ま、個人の好き好きを全く超えたところでクイーンこそがあの日の最高のバンドだったと絶対に思うよ」とボブは語る。

「演奏は最高だったし、サウンドも最高だったし、ライヴ・エイドの、あの地球規模でのジューク・ボックスっていう発想を完璧に連中はわかってくれたと思う。しかも、あれはフレディにとってはこれ以上にないって言えるほどの格好の舞台だったんだからね。あいつは世界中を相手にしても臆面もなくショー・アップできる奴なんだ」

実際、クイーンの面々もライヴ・エイドの成果には非常に感じ入ってしまったようで、ジョンの言葉を借りれば「ライヴ・エイドで僕達の世界がもう一回引っくり返ったんだ」ということだ。確かに、この出演はすさまじい宣伝ともなり、たちまちにして猛烈な勢いで旧譜セールスに火をつけ、86年のスタジアム・ツアーのきっかけともなったのだ。クイーンは再びウェンブリーとネブワースに凱旋し、ハンガリーのブダペストに足を伸ばすという快挙も成し遂げた。しかし、何よりも重要だったのはライヴ・エイドはバンド自身のやる気にまた活気を吹き込み、その姿勢をも心機一転させたということだ。それからの彼等は周囲の揶揄を全くものともせず、セイヴ・ザ・チルドレンやグリーンピースなどといったその後行われたチャリティ・イヴェントの波にがんがん参加し、その姿勢からはただただ肝がまた座ったのだという印象を感じさせられたものだった。またスティーヴン・ヴァン・ザントが主催したアーティスト・アゲンスト・アパルトヘイトでは毎日ラジオでバンドのメッセージを流し、しかも、政情の変化がない限り、二度とサン・シティで演奏することもないと言ってのけたのだった。

長年にわたる利権闘争に終止符を打った、クレジット・印税の平等分配

しかし、何よりもクイーンの将来にとって重要だったのは、これまで尽きることなくその活動において目の上のたんこぶとなっていた印税問題をようやく解決させたということだ。80年代を通して彼等はまずシングルのB面曲の印税は誰が作者であろうと関係なく全て均等に分割するという合意に達し、そして『フォー・ア・カインド・オブ・マジック』に至っては(☆原文の「For」までアルバム名に入れてはいけない)、機械的に各自に二曲づつ作曲を分担させ、そして一曲は結成以来初めてバンド名義にするという妥協点にまで行き着いたのだった(☆共作は二分の一曲と見なすのか? ちなみに"Stone Cold Crazy"は4人名義、"Under Pressure"はQueen&Bowieだったから全く初めてという訳でもない)。過去、こういうやり方に従って却ってバンド内での不仲をもたらし、活動そのものをふいにしたケースも多々あったはずだが、しかし、クイーンの場合、バンド活動の内容の水準を維持するには、この合意以外にやり方はなかったのだ。

というわけで十五年目にして初めてクイーンは寛大さというものを知ったということになるのかもしれない。そして89年の『ザ・ミラクル』に至ってはバンドはクレジットと印税を全て分け合うことになった。

「もっと早くやってたら、と本当に思うよ」とブライアン。

「はっきり言って僕達が行ってきた全ての判断の中でこれ程賢明なものはないと思う。勿論、作曲のクレジットを譲るなんてことをすると自分が犠牲になってるような気持ちになるのは確かだよ。自分の子供を自ら手放すようなもんだからな。でも、これを一度やってみるとね、突然、バンドがあらゆる側面で共同作業に精を出し始めるのに気が付くんだよ。前だったらね、やっぱり『ああ、あれはジョンのトラックだから別にいいや、どうにかやってくれるんだろう』ってなもんだった。(☆"One Year Of Love"あたり? 逆もまた然りなことは"Who Wants To Live Forever"に如実に表れている気がする) でも、今は自分の名前がどのトラックにもクレジットされるだけにね、これまでとは違って全ての曲についてベストを尽くしたくなるんだ。しかもだよ、こういう体制になると自分の曲が実はあまりシングルには向いていないってことももっと素直に認められるようになるんだよ。おかげで悩みがすごく減ってほっとしたな(笑)。今じゃさ、全員で合わせて二十曲くらいの作品をスタジオに持ち込んで、それで、どの曲がアルバムに残されるかっていうのは純粋に曲のよしあしの問題だけで決められるようになったんだよ」


「ん? まあ、再結成して嬉しいって言ってくれるのは僕としてもすごく嬉しいんだけどね。でもさ、僕達、実を言うと解散していないんだよ」

インタヴューを中断してロサンジェルスのラジオ局からの短いライヴ・インタヴューに応えるブライアンはそう説明した。しかし、アメリカにおけるクイーン支持層の崩壊の惨状を語る上で「解散したんじゃないの?」という言葉以上に優しい言葉は見つからないというのも確かなのだ。80年には"愛という名の欲望"や"地獄へ道づれ"のシングル、そして『ザ・ゲーム』のどれもが一位に輝いたクイーンも今やアメリカでは「え? クイーンズ何とかじゃなくて?」という存在でしかないのだ。

しかし、クイーンの世界観がドラスティックな転換を迎えたのと同時に、アメリカでの状況も今では上向きになりつつある。例えばディズニー社の子会社であるハリウッド・レーベルは既に彼等と契約を交わし、話題の一千万ドルという契約金で彼等の旧譜のアメリカ販売権を全て買ったという。おまけに嬉しい偶然でボウイが共作した"アンダー・プレッシャー"のベースラインを元ネタにした"アイス・アイス・ベイビー"を大ヒットさせてもいる。

「最初にあの曲を聴いたのはファン・クラブの事務所でだったんだ。まあ、ふーん、面白いねとは思ったけど、どうせゴミだから誰も買わないだろうなと思ったんだ。と思ったら大間違いだよ。そうこうしているうちに、息子にまで『イギリスでもあの曲ヒットしているよ、どうするんだい』って言われてさ。まあ実際問題としてはハリウッドの連中が全部やってくれているんだけどね。連中も大金払って手に入れたものをむざむざロハで使われたくはないだろうし。ただ、僕達としてはそういうことで他のアーティストと訴訟を起こしたりはしたくないんだ。何だかそういうのってダサイしな。とにかく、ヒットしてくれた今はね、まあそんな悪い作品でもなかったんじゃないかって思ってたりして(笑)」

とにかく、ようやくクイーンもまた本来の善玉として返り咲けたみたいな気配だ。フレディも一人だけツアーをしたくないと言い張っていたのを最近では撤回したというし、金絡みの確執も解消し、全般的にみれば成長して前向きな様子の最近の彼等である。

おかしなものだが、そんなブライアンは今では、ここ数年の間に初期の頃以来なかったという団結をバンドに再び強要した、大衆ゴシップ紙にも、変な感謝の念を感じているのだという。ブライアンの結婚の破綻の真相、フレディのバイセクシュアリティについて尽きることなく明かされる「衝撃的真事実!」ようやく結婚に辿り着いたロジャーは妻と子供をその数日後に置き去りにしてチョコレートの広告モデルと逢引、そしてジョンまでもがドライブ中ご乱交などと騒ぎ立てられて(☆原文では「misdemeanor(=軽罪、非行)」なので「ご乱交」じゃなく「ご乱行」程度で、酔っ払い運転で免停くらってポルシェを売りに出した件を指しているはずである、だよなジョン?)バンドも結束せざるをえなかったのだという。

「でも、今は本当の気持からお互いを支え合うようになったよ。今じゃバンドこそが僕達の持ちうる最も安定した家族になりつつあるくらいだよ。だけど、どうして今まで持ち堪えられたのかなあと考えるともう不思議でしょうがないな。まあ、とにかくロジャーがバンドの中では一番、放埓で過激なロックンロール・ライフを送っているんだよね。フレディは本当に謎で、未だにあいつがどういう人間なのか誰もよくわかってないんじゃないかと思うよ。ジョンもね、いかにももの静かな古典的ベーシストではあるけれども、信じられないほどに思い遣ってくれる一方で、わけがわからないほど無礼になる時もあって、そんな時、犠牲になった奴としては身悶えして死んじゃいたいくらいなんだぜ。(☆こういう謎な部分がフレディとジョンの共通点なのだろう。それにしても「身悶えして死んじゃいたい」邦訳は言い当て妙で最高に笑える) ただ、ジョンは本当に変わってるけど(☆「ブライアンに言われたくないよな!」の声がちらほらと)でもバンドのビジネス面のリーダーでもあるんだ。株式はくまなく研究しているし、契約書の落とし穴もわかっているからな。 で、僕。僕のことを他のメンバーに訊いたらバンドの中で最もつむじまがりで頑迷だと言うだろうし、それは自分でもわかってるんだ。自分に何か思いつきがあったりするとテコでも引けなくなる質なんだ。これは自分でも気を付けないとな」

そこでブライアンは丁寧にもうそろそろ、と話を切り上げる。これからは恋人のアニタ・ドブソンと会って、数日したらクイーンの面々とスイスのモントルーにある自分達のスタジオに入り、何ともう新作のレコーディングをするのだと言う。『イニュエンドゥ』がリリースされたばかりだというのに。何でもロジャーとフレディが新年に食事をした際、今現在のバンドのエネルギーがあまりにもありあまっていて絶対にこれを抑え込んでは駄目だという結論に達したのだという。

そしてショーは続く。フレディが言った通りなのだ。

「このバンドも五年持てばいいだろうと思ってたけど、今じゃあもう解散するには歳を取り過ぎのところまで来ちゃったからねえ。40過ぎて新バンド結成なんて信じられる? それを本当にやっちゃったらちょっと滑稽だよ」


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