BACK

ジョン・ディーコンの半世紀


(7)1974年、苦難の門出と作曲デビュー

1974年初頭。セカンド・アルバム「クイーン II」リリースとそれに伴う3月の全英ツアーを前にして、ようやく将来をミュージシャンに定めたジョンを始め全員がリハーサルに精を出していました。そんな2月のある日、海外での野外ロック・フェスティバル参加の話が持ち上がり、メンバー達は勢い込んでオーストラリアに向かいます。しかし、まったく無名に近いが故にぞんざいな扱いを受けた挙句、帰国の際には本物の「クイーン」と間違われてマスコミが殺到、真相を知った彼等にまで邪険にされて、非常に幸先の悪いスタートを切ることになりました。メイン・アクトとしての3月のツアーはまずまずだったようですが、不運はジョン個人にも及び、古い映画館を借りてのリハーサル中に電気機材の火花が足に飛んで軽い火傷を負ったり、とある大学でのギグの後、カメラや小切手帳の貴重品と、オーストラリア・ツアーの写真が入ったケースを盗まれたりといった事件も起きています。

しかしなんといってもこの年一番の不運といえば4月、ブライアンが肝炎に罹ってしまい、モット・ザ・フープルの前座としての全米ツアーを途中キャンセルして帰国の途につかざるを得なくなったことでしょう。「まるでいきなり首をもぎとられてしまったように感じた」とのジョンの言葉は彼にしては大袈裟ですが、ようやくミュージシャン業に本腰を入れる決心をし、手荒な洗礼を受けつつも手ごたえを感じ始めていただろう矢先のこの思いもかけぬアンラッキーな出来事に動揺した様がよく表れています。

バンドは様々なアクシデントにも負けず、2枚目を出したばかりだというのに(セカンド・アルバム用の曲は、ファースト・アルバムのリリースが伸び伸びになっていた期間を縫ってずいぶん前から作られていたのかもしれませんが)、もう3枚目のアルバム制作に取り掛かります。しかしここでもなんとブライアンは、十二指腸潰瘍で静養を余儀なくされてしまいます。ライヴでのギタリストの重要性は言わずもがなですが、当時の作曲の主導権を握っていたのはフレディとブライアンだったことを考えると、スタジオでの彼の不在もまたバンドにとっては大きな打撃だったことでしょう。ですが実はこのことが結果的に、ジョン自身の能力を開花させ、彼のバンドでの立場を大きく飛躍させるきっかけになりました。アルバム3枚目にして初めて、彼のペンによる曲が収録されることになったのです。

ジョンがいつから作曲に取り掛かっていたのか、はっきりとした記述は今のところ見当たりません。オードビー時代はカバー曲がほとんどで、オリジナルの2〜3曲はすべてリチャード・ヤングの手によるものだということでした。クイーンのファースト・アルバムは、ジョン加入以前に出来上がっていた曲が多くを占めていました。そして恐らくセカンド・アルバム制作の頃までは、ミュージシャンとして生計を立てる決心をつけかねていたこともあって、積極的に曲作りに割り込むことはなかったのではないかというのが「ブライアンとフレディの曲があまりにいいだけに、僕なんかが曲を書いちゃいけないんじゃないかと心配したんだ」などという遠慮がちなコメントからも伺えます。そんな彼の性格上、ブライアンに何もアクシデントが無く、4人揃ってレコーディングに励んでいたとしたら、スタンスの変化はもう少し後になっていたかもしれません。彼に自分で曲を書いてみようと決心させた、或いは、密かに書き溜めていたかもしれない曲が日の目を見ることになった原因の一端は、ブライアンの一時不在にあったといって過言ではないでしょう。

収録デビュー曲『ミスファイアー』は2分に満たない短さですが、今までの2枚のアルバムや3枚目の他の収録曲とは明らかにテイストが違うという点で、異質な輝きを放っています。初期の重厚な曲調のみを好むファンを遠ざけることになるポップ化の原点であるこの曲はまた、ジャンルを超えたエンターテイナーへの道を歩み始める出発点と位置付けても良いのではないでしょうか。

めでたくサード・アルバム「シアー・ハート・アタック」がリリースされた1974年後半になると、ジョンは「ステージの中央に出てきて、会場の女の子にウインクしたら50ドルあげる」といったプロデューサーの妻の軽口に応じたり、ヨーロッパ・ツアーで音楽紙のために"カメラマン"をかってでたりと、積極性・社交性を徐々に発揮し始めます。自作が認められたことに加えて、まもなく夫そして父親になることへの責任と自覚が彼をそうさせたのかもしれません。まだ問題も山積みとはいえ、「終りよければ全て良し」に落ち着いた年でした。 (2003年2月7日)

(8)へ

BACK