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ジョン・ディーコンの半世紀


(8)Happy At Home 〜 寛ぎの場所を得て

1975年1月18日。ジョンとヴェロニカさんは4年越しの交際期間を経て、家族や友人、バンド・メンバーをはじめ、多くの関係者を招いて式を挙げました。場所は彼女の家族が一員となっているカーメリテ教会で、花婿介添人はオードビー時代からの親友のナイジェル君。大勢の前でスピーチしたり、全員を披露宴会場であるヴェロニカさんのフラットまで送り届ける手配をしたり、ナイジェル君はなかなか大変だったようです。

マネージメント会社からも祝福を受けたものの、彼らとの関係はますます悪くなっていました。というのも、新妻と7月に生まれる子供の為に新居に移ろうと決心したジョンが彼らに手付金分の前借りを頼んだところ、「何様のつもりなんだ」とにべもなく突っぱねられる出来事があったからです(そのせいで、ロバート君が生まれてしばらく経ってからも、ワンルームのフラットに暮らしていたのだとか)。メンバー全員が、なんらかのストレスを抱いていました。第3作「シアー・ハート・アタック」のヒットで潤いを増しているはずの彼らの懐は、トライデント社との不公平な契約で、いつまでも寂しいままだったのです。

表向きは会社の方針に沿いながら、しかしながら裏では知人の敏腕マネージャーや弁護士などと密にコンタクトを取り、いつかリベンジしてやるぞとの思いを胸に、彼らはがむしゃらにツアーに奔走します。自分達は必ずもっとビッグになれる。それだけの力があるはず。そんな自信を確固たるものにした大きな要因のひとつが、4月中旬、初来日で降って湧いた爆発的人気だったといえるでしょう。

力強く、時には繊細な、斬新なサウンド。リスナーの幅を一気に広げた、日本人好みの端麗かつ清潔なルックス。彼らの人気がどれほどのものであったのか、逸話に限りはありません。それは彼ら自身の予想をはるかに超えるものだったことが、現存する映像や写真の中の、純粋な喜びと戸惑いが入り混じった表情からも伺えます。

ジョンの日本でのパブリック・イメージは、「黙々と基盤を支えるベーシスト」「地味で控えめ」といったおとなしいものがほとんどですが、特に来日前、海外のレポートを参考にしたと見られる記事では、「一番女の子にキャーキャー騒がれている」だの「ミステリアスなレディ・キラー」だのといった文字が躍っているという点、さらにバイオグラフィーの回答に代表される、とても地味で控えめとは思えないブラック・ユーモア加減なども、見逃してはなりません。既婚であることを伏せてまで築いたいわゆる「貴公子像」は、日本のメディアの舵取りも手伝って、いまだにファンを取り込む格好のスタイルとして定着しています。ただ、既にその当時から、「いつも物静かな笑みをたたえてひっそりと隅にいる」というイメージのすぐ隣りで「マイペース」と書かれていたことは、注目に値すべき点です。

日本から帰った彼らを待っていたのは、以前と変わらぬマネージメント会社との確執でした。ですが彼らはその不満やストレスを見事に曲作りに昇華させることに成功します。1975年夏、第4作目「オペラ座の夜」が生まれようとしていました。『ボヘミアン・ラプソディ』然り。そして勿論、自作第2弾『マイ・ベスト・フレンド』然り。

「今まで僕等がやってきたような音じゃなかった」とブライアンを驚かせただけでなく「実のところすごく嬉しいんだ。ジョンがとうとう本領を発揮したんだからね」とフレディに言わしめ、後にシングル化され全英チャート7位にまで登りつめる『マイ・ベスト・フレンド』は、フレディが嫌がるエレクトリック・ピアノの練習を自宅で始めるに至った過程で生まれたそうです。家で曲作りをするのが習慣という彼の今回の曲には、とても身近なテーマである、妻や子、新しく出来た家庭への愛おしさが満ち溢れています。

うまくいかないときだって 僕は独りぼっちじゃない――。 トライデントとの問題はまだ変化ありません。家も狭いままです。ですが心の拠り所を得たことで、ジョンの創作意欲とバンドへの貢献度は今後ますますアップしていくのです。(2003年5月16日)

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