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ジョン・ディーコンの半世紀


(9)クイーン・プロダクション設立とジョンの役割

アルバム「オペラ座の夜」の大ヒットにより、バンドの運気は一気に上昇します。「オペラ座の夜」がクイーンの代表傑作として今なお語り継がれているのは、『ボヘミアン・ラプソディ』の存在の大きさに加えて、全曲を通して全開で感じられる4人の意気込みのせいではないかという気がします。徐々に共同作業が減り、「この曲はあいつのだから、あいつがなんとかするだろう」という風潮になっていった中後期のアルバムに比べると、「オペラ座」における全員の熱意は顕著です。『ボヘミアン・ラプソディ』にしても、「最初フレディが持ってきた音はてんでメロディになっていなかった。でも実はそれこそが彼の意図で、みんなのインスピレーションを刺激したんだ」とのジョンの言葉(「栄光の軌跡」より。この辺りの台詞が先のGH1のDVDに入らなかったのは非常に残念です)にあるように、4人がそれぞれの特色をしっかり出し切っているからこそ、あれだけの名曲が生まれたのだと考えることが出来るのではないでしょうか。

アルバムを発表する少し前の1975年8月、バンドはエルトン・ジョンのマネージメントを担当しているジョン・リードの協力を得て、長年の足枷となっていたトライデント社と決別し、自分たちがレコード会社と直接交渉するための組織、クイーン・プロダクションを誕生させました。マネージメントやプロモーション・フィルムの権利の掌握、国内外別のプロダクションの設立まではあと3年ほど待たねばなりませんが、他人任せで悲惨な目に遭ってきた彼らは、やり手のリード氏から様々な手法を学び、完全な独立に向けて地盤を固めてゆきます。そして、レコード会社との交渉やリード氏との相談の際、バンド内で中心的な役割を果たすようになったのが、ジョンでした。

彼がこのような役割を積極的に担い始めたのは、これ以上他人にとやかく干渉されたくないというバンド全体の強い意思に後押しされたと共に、トライデント社に新居の手付け金の前借りをにべもなく断られたことが大きく影響しているのではないでしょうか。お金が無ければ無いでそれなりにやっていけたという、どちらかというとのんびりした青年だったジョンが、業界の厳しさや矛盾をまともに感じた一件だったに違いありません。おまけに音楽面では頼りになる他のメンバーも、それぞれ不自由なく育ってきているせいか、金銭感覚は怪しいものです。真っ先に扶養家族を作ってしまった彼には、このまま他人任せには出来ないという危機感が人一倍あったのではないかと思われます。

また、バンドに対する客観的な目を持ち合わせていた点も、橋渡しの役目に最適だったのかもしれません。全員が自分たちの音楽に固執しているようなバンドなら、レコード会社との折衝は非常に困難なものになっていたことでしょう。また、音楽を理解しない部外者が何を言っても、聞き入れるようなバンドではなかったはずです。実際、ジョンは「シアー・ハート・アタック」まではミュージシャンとして生計を立てることに半信半疑で、他のメンバーに比べるとある程度は距離を置いてバンドを見ていたでしょうが、少年時代から、たとえ内心がどうであろうと、必死になっている姿を表に出さないのが彼の「イージー・ディーコン」たる所以です。その余裕のある態度、「他のメンバーほど音楽のみに傾倒していない」と外部の人間に言わしめる構えが、バンドの内外をうまく繋いでいたように思えます。

さらにジョンが適任だったのは、ベーシストとしての立場。派手な自己主張を控え、全体から曲を把握するという彼のスタンスは「まとめ役」に充分でした。そしてもうひとつ、ただ一人コーラスに参加していないことも、もしかしたら関係しているのかもしれません。メイン・ボーカルもコーラスも担当していないせいで他のメンバーより自由な時間があったから、自動的に割り当てられたのかも?と思ったりもするのですが…とにかく、誰にとっても無駄のない選択だったのは間違いありません。 (2003年8月29日)

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