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Bio. Deacon

旧東芝EMI内の公式バイオグラフィーより

John Deacon

1951年8月19日、レスター州生まれ。
サイクリングや釣り、機関車のナンバー・プレート収集等を好む内気でおとなしいジョンが特に気に入ったのは機械いじりで、クリスマスに父親に買ってもらった無線装置を愛用していた。しかし11歳の時に父親が死亡。一時はほとんど口がきけなくなる程の深い心の穴を埋め、元気づけてくれたのが音楽だった。やがて自ら新聞配達で得た収入でアコースティック・ギターを買い、練習に身を入れ始める。

14歳で学友達と参加したバンド、The Oppositionは、メンバー・チェンジと改名(New Opposition、The Art)を繰り返しながら、ザ・キンクス、ザ・ヤードバーズやタムラ・モータウン系の60年代ヒット・チャートをレパートリーに、地方のユース・クラブやパブ、学校のダンス・ホールを基点に地道に活動を展開。当初はリズム・ギター担当だったジョンだが、初代ベーシストの腕前が原因でベースに転向することになり、18歳でロンドン大学の分校であるチェルシー・カレッジの電子工学科に進学するまでバンド活動を続けていた。

大学初年時は勉学に励んでいたが、やがてギグ通いの傍ら学友と再びプレイを楽しむようになる。そして1971年初頭、友人と出かけたディスコでブライアンとロジャーに紹介され、ベーシスト募集の件を知る。オーディションを経て、数日後クイーンに正式加入。ベースの腕前もさることながら、メンバーと軋轢を生じない穏やかな性格、更に、器材に恐ろしく強いことを買われての参加だった。実際彼はクイーン加入後も学業を滞りなく続け、電子工学の名誉学位を授かり卒業している。

新入りかつ最年少で、外見の柔和さも手伝って何事にも控えめな印象を受けるが、客観的・常識的な視点を生かした冷静な判断を下せることが持ち味であり、70年代後半にクイーン自らがマネージメントを行うようになってからはビジネス面でその手腕を発揮していた。また作曲面では、初期こそ他のメンバーに遅れをとっていたものの、1976年の『マイ・ベスト・フレンド(You're My Best Friend)』で自作2作目にして初のシングルヒットを放ち、以来、全英・全米1位に輝いた唯一のアルバム「ザ・ゲーム(The Game)」の成功の一端を担った『地獄へ道づれ(Another One Bites The Dust)』、特に非英語圏で平和の讃歌として愛唱された『ブレイク・フリー(自由への旅立ち)(I Want To Break Free)』など、寡作ながらも効率的にヒットを飛ばすことに関しては他メンバーの追随を許さない。

使用ベースは何種類かあるが、愛用していたのはフェンダーのプレシジョン。ピックはほとんど使わず、もっぱら指弾きで几帳面な体勢でプレイしているが、指を舐める・軽やかにステップを踏む等、そのベース・ラインと同様、どこか「弾んだ」姿もしばしば見られる。

ジョンはソロ活動をほとんど行なっていない。歌が歌えないからソロ・アルバムは作れない、が口癖ではあったが、クイーンの活動に専念することで一定の満足感を得ており、また「作るならシンガーを入れたい」との主義がインストゥルメンタル・アルバムの道を潔しとせず、更にはフレディ以外の声を容易に受け入れられなかったという背景もあるようだ。

気の合う友人同士でのセッションは80年代に幾つか存在し、クイーンが活動休止していた1983年、元フリーのドラマー、サイモン・カークらとプレイした『Picking Up Sounds』という曲をMan Friday and Jive Juniorのユニット名でシングル・カットしたものが最初である。その他、エルトン・ジョンの2枚のアルバム「アイス・オン・ファイアー(Ice On Fire)」「レザー・ジャケッツ(Leather Jackets)」では各1曲づつロジャーと共にリズム・セクションを担当、1988年のプリンス・トラスト・コンサートにはブライアンと参加し、ジョー・コッカーのバックで『あの娘のレター(The Letter)』を演奏している。

ソロ活動として最も有名なのは、1986年初頭、映画「Biggles」(日本未公開。ビデオ邦題「ビグルス・時空を超えた戦士」)用に作曲を依頼されて結成したThe Immortalsである。ゴンザレスのメンバーだったロバート・オーワイ、レニー・ザカテックと共に『No Turning Back』をシングル・カット(12インチ・7インチ。リミックスが2曲存在する)、曲は映画のエンドクレジットで流されている。日本ではシングル、サウンドトラック共に未発売であるが、同じ頃ブライアンが関わっていた本田美奈子に同曲を提供しており、彼女のアルバム「キャンセル」の中の『ルーレット』がこれに該当する。(歌詞・演奏は別人が担当。)

お遊び的なものでは、1987年、ブライアンがプロデュースした「バッド・ニューズ(Bad News)」の中の『ボヘミアン・ラプソディ(Bohemian Rhapsody)』においてオペラ・セクションのコーラスに加わっている(ちなみに聴いても分からない)他、1988年、Morris Minor and the Majorsというアメリカのバンドのプロモーション・ビデオ2本に出演(そのうち1本では青いカツラのギタリストに扮装)しているのが御愛敬である。

他メンバーのソロ活動にも協力しており、ロジャーの「ストレンジ・フロンティアー(Strange Frontier)」(1984年)ではクレジット表記は無いが『イッツ・アン・イリュージョン(It's An Illusion)』、ブライアンの「バック・トゥ・ザ・ライト−光に向かって−(Back To The Light)」(1992年)では『ブルーな気持ち(Nothin' But Blue)』(コージー・パウエルの「ザ・ドラムス・アー・バック(The Drums Are Back)」収録のインストゥルメンタル曲に歌詞が付いたもの)でそれぞれベースを担当している。そして他メンバーのソロ作品中、ジョン自ら「最も好きなアルバム」に挙げるフレディとモンセラ・カバリエの「バルセロナ(Barcelona)」(1988年)での1曲、『ハウ・キャン・アイ・ゴー・オン(How Can I Go On)』では、2人の卓越したボーカルに優しく絡むベース・ラインを奏でている。

クイーン加入直後から付き合い始め、75年1月に式を挙げた妻ヴェロニカの良き夫として、またフレディの死後授かった2人の男子を含む5男1女の良き父親として、現在も円満な家庭生活を営んでいる。

ジョンのディスコグラフィ

No Turning Back / No Turning Back (The Chocks-Away Mix)
(The Immortals) [7 inch single]

THE IMMORTALS : Robert Ahwai, John Deacon, Lenny Zakatek

映画「Biggles」(日本未公開)のエンドクレジット曲。1986年発表。SFアドベンチャー映画の余韻をうまく引き出している、明るく軽快なナンバー。ジョンとロバート・オーワイでプロデュースしている。12インチ盤はSide Aに同曲のThe Joy-Stick Mix、Side Bにオリジナル・ヴァージョンとThe Chocks-Away Mixを収録。

ジョンのセッション参加

1983年
Man Friday and Jive Junior
シン・リジィのスコット・ゴーハム、プリテンダーズのマーティン・チェンバース、フリーのサイモン・カーク、バッド・カンパニーのミック・ラルフスと結成したユニットで、自作『地獄へ道づれ(Another One Bites The Dust)』よりも更にシック寄りのナンバー、『Picking Up Sounds』を演奏、シングル・カット。プロデュースはジョンとロバート・オーワイ。

1984年
Roger Taylor
ソロ・アルバム「ストレンジ・フロンティアー(Strange Frontier)」の中の1曲『イッツ・アン・イリュージョン(It's An Illusion)』でベースを演奏。更に、日本未発売7インチ・シングル『Strange Frontier / I Cry For You』のB面のリミックスを担当。

1985年
Elton John
アルバム「アイス・オン・ファイアー(Ice On Fire)」の中の1曲『トゥー・ヤング(Too Young)』にロジャーと共に参加、ベースを演奏。

1986年
Elton John
アルバム「レザー・ジャケッツ(Leather Jackets)」の中の1曲『アンジェリーヌ(Angeline)』にロジャーと共に参加、ベースを演奏。1985年のセッションと同時期のものである。
本田美奈子
アルバム「キャンセル」に『No Turning Back』を提供。日本語歌詞(秋元 康)付きで、タイトルも『ルーレット』として収録されている。
Errol Brown
ホット・チョコレートのシンガーだったエロール・ブラウンと『This Is Your Time』という曲を共作、ベースを演奏したが未だリリースされていない。

1987年
Anita Dobson
現ブライアン夫人であるイギリス女優アニタ・ドブソンのアルバム「Talking Of Love」の中の1曲『I Dream Of Christmas』でベースを演奏。アルバムのプロデュースはブライアン。
Bad News
ブライアンがプロデュースしたパロディ・ユニットのアルバム「バッド・ニューズ(Bad News)」でカヴァーされた『ボヘミアン・ラプソディ(Bohemian Rhapsody)』でバック・コーラス担当。

1988年
Freddie Mercury
フレディとモンセラ・カバリエのコラボレート・アルバム「バルセロナ(Barcelona)」の中の1曲『ハウ・キャン・アイ・ゴー・オン(How Can I Go On)』でベースを演奏。
Joe Cocker
プリンス・トラスト・コンサートでのセッションにブライアンと共に参加。『あの娘のレター(The Letter)』でベースを演奏。

1989年
Belinda Gillett and Ian Meeson
少年少女が歌う、英国骨髄バンク推進連合設立のためのチャリティ盤『リヴ・フォーエヴァー(Who Wants To Live Forever)』で、原曲にはないベース・ラインを演奏。ブライアンがプロデュース。

1992年
Cozy Powell
ソロ・アルバム「ザ・ドラムス・アー・バック(The Drums Are Back)」収録のインストゥルメンタル曲『サムホエア・イン・タイム(Somewhere In Time)』にブライアンと共に参加、ベースを演奏。
Brian May
ソロ・アルバム「バック・トゥ・ザ・ライト −光にむかって−(Back To The Light)」に、前述の『サムホエア・イン・タイム(Somewhere In Time)』にブライアンが歌詞をつけた『ブルーな気持ち(Nothin' But Blue)』が収録されている。

1997年
The SAS Band
クイーンのサポート・メンバーだったスパイク・エドニーのバンドのアルバム「SASバンド(The SAS Band)」の中の1曲『ザッツ・ザ・ウェイ・ゴッド・プランド・イット(That's The Way God Planned It)』にロジャーと共に参加、ベースを演奏。

    2001年の秋、当時の所属会社である東芝EMIのサイト内に、日本初のクイーン・オフィシャル・サイトがオープンしました。その時に僭越ながらジョンのバイオグラフィーを担当させてもらったのがこれです。実はこの当時、ご本人とのメール交換が頻繁だったこともあって(なんでそんなことに、という話はこのあたりに書いています)下書き時に英訳して校正をお願いするという厚かましい行動に出たところ、実に気さくに応じてくれました。ただ細かすぎて(マニアックすぎて)全部反映することが出来なかったのですが、その時のメールの文面をこちらにこっそり載せておきます。

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