「新聞なんか見て、どうなるっていうのさ」。
イリリスの街中で、一人の若者が頬を押さえながら、苦痛に顔を歪めている。
その隣にいる長身の男は、さっきから新聞とにらめっこだ。
「今日のニュースなんか意味ないよ、こんな風になってからは、株式市況も為替相場も見てない、
今僕に必要なのは医者さ、歯医者だよ、魔法をかけたみたく一瞬にしてこの痛みを取ってくれる名医なんだよ」。
「少し黙っていてくれない?、セバスチャン、僕は君のために歯医者を探してるんだよ」。
「新聞で?」。
「そうさ」。
長身の男はそう言うと、新聞をセバスチャンの目の前に広げた。
「新聞にはね、広告が載ってるんだ、きっと歯医者だって載ってるさ」。
しかしセバスチャンはため息をついて、失望感をあらわにした。
「そんなの、タウンページ見たほうが早いじゃないか、ねえ、アントーニオ、どうして君はそういつも
要領が悪いのかなぁ、僕いつも思うんだけどさぁ、君なら床にねじなんか落としたら、そこに敷いてる
カーペットの目を一つ一つほじくりながら探すんだろうねぇ、ああ、もう、一生かかっちゃうよ、
あきれて声も出ない、ブ〜フ〜ウ〜、だ」。
「失礼な言い方するなよ」。
アントーニオは、新聞から目をそらすことなく、言い返した。
「君のためを思ってやってるのに…、命の恩人に対する言葉じゃないね、それは、
大海原を木っ端につかまって漂流して、あやうく鯨に吸い込まれそうになるところを
救ってやったのはいったい誰なんだ?、あの時僕の船が通りかからなかったら、今ごろ君は
鯨の腹の中で、タコとイカ相手にポーカーをやってたかもしれないんだぞ」。
「ああ、その方がよかったかもね、一財産こさえて有意義だったかもしれないよ」。
アントーニオのひょろりと長い腕が、セバスチャンの後頭部を襲った。
アタックされた振動が虫歯に伝導したセバスチャンは、身悶えしてうずくまった。
「口のききかたには気を付けろよ、セバスチャン、タウンページは探したけど、ここには電話ボックスがなかっただろ?
最近○TTは、経費節減のために、公衆電話は撤去、支店も出張所もどんどん閉鎖してるんだよ、
だから情報は新聞の方が入手しやすいんだ、株式市況と為替相場を見るくらいだったら、もっと世事に目を向けろよ、
銭のことばっかり考えないで」。
「僕を守銭奴呼ばわりする気だな」。
「的はずれじゃないだろ?、だいたい君はせっかちなんだよ、思い通りにいかないと、すぐ癇癪を起こす、
たまには、腰を落ち着けて、じっくり物事を考えてみな」。
セバスチャンは不満を露にして言い返した。
「でも君みたいに、石のように動かない性格もどうかと思うね、君は蹴り飛ばしても動かない、
人生は冒険さ、博打なんだよ、それに腰を落ち着けろって言ってもね、
僕は君と違って旺盛な方だから、腰の方が黙ってないのさ、勝手にどんどん突っ走ってしまうんだ」。
アントーニオの鉄拳が再びセバスチャンを襲う。
「下品な口のききかたは慎めよ、セバスチャン、今回シモねたは禁止だ、いいか?
またシモねたを口にしたら、今度はエルボーじゃすまないからな」。
アントーニオはそう言うと、再び新聞を読み始める。
セバスチャンは、頬を押さえたまま、しかめっ面をしていた。
「アントーニオ、君、昔ここに住んでたんだろ?、歯医者くらいわかんないのかい?」。
「僕が住んでたのは昔だ、街の風景も変わってる」。
「ちぇっ、全然役立たずの案内係りだなぁ、あっちのほうも役立たずなんだろ」。
アントーニオが腕を振り上げたのを見て、セバスチャンはすかさず身をかがめた。
「悪かったよ、今のはほんの冗談さ、でも街の中が全然わかんなくなるくらい昔の話なのかい?
少しくらいは覚えてるもんだぜ、普通のおむつ…じゃない、おつむならさ」。
アントーニオは、一度新聞をたたみ脇にはさむと、大きなため息をついた。
「わけありだよ、僕はあまりおおっぴらにこの街を歩けない」。
「なんだい?、お尋ね者かい?」。
「まあ、そんなところだ」。
セバスチャンは、ちょっと目を輝かせた。
「懸賞金もついてるのかい?」。
「君…」。
どうやら見透かされたようだ。
「僕を突き出して、金をせしめようと考えてたんだろ?、残念だけど、懸賞金はついてないんでね
おあいにく様、ま、たいした罪じゃないさ、隠密に行動していればやり過ごせる程度の…」。
「何の罪だい?、不純異性交遊?、猥褻物陳列?」。
アントーニオは、セバスチャンを睨みつけながら答えた。
「謀反罪だ」。
「は?」。
「むほん罪」。
「何?、それ?」。
つまりこういうことだった。
アントーニオはバルサラ公爵の学友で、理系科目については天才的才能を持っていた。
ところがある日、うっかりバルサラ公に、公爵曰く、「数学のとんだ難題」をふっかけた。
とたんに公爵は病気になった。
公爵は重症の数字アレルギー体質だったのである。
公爵の怒りを買ったアントーニオは、謀反罪で訴えられ、危うくつかまって絞首刑になるところを危機一髪で逃れ、
その後どういうわけか船長となり、どんぶらこっこと大海を航海している途中、
乗っていた船が難破して漂流していたセバスチャンを助け、すると今度はセバスチャンが歯が痛いと
言い出したので、イリリスで陸にあがり、身の危険を冒してまで、歯医者探しに奔走をしている…
「というわけなんだ」。
「つまり、僕が君の身を危うくしてるってわけなんだな」。
セバスチャンは、初めてまともな表情でまともなことを口にした。
「ああ、アントーニオ、悪かったよ、君がここで
ごほん罪に問われてるなんて知らなかったし、
とにかく歯が痛くて、僕は気が立っていたんだ、それでつい、あんな可愛くない口を聞いてしまった、
ああ、そっちの方はまだ立ってないよ、あ、殴らないで、悪かった、もう言わない、言わないよシモねたは、
君がそこまで僕のために尽くしてくれてるのに、僕ときたら毎日株と為替とシモねたばっかりの話題で
君を相当悩ませたんだろうね、それは心の底から謝らせてくれ、
でも僕は困ったことに、実はとてもそういう方面の話が大好きでね、
アントー二オは、お尻とおっぱいとどっちが好きなんだい?、あ、ごめん、わかった、もう言わない、
で、もし、君がこれ以上の危険にさらされたくないんだったら、今すぐここで僕と離れよう、
それで僕らの友情にひびが入るわけじゃないだろう?、僕だって、君が僕のせいで捕まるのは見たくない、
それに僕の旅は、歯が治ってもまだまだ続くことになってるんだ、あまり君を振り回すわけにはいかないんだよ」。
アントーニオは、突然セバスチャンの額に手を置き、もう一方の手を自分の額に置いた。
「何やってるの?」。
「ああ、熱はないようだ」。
「熱なんかないよ!、病気じゃないもの」。
セバスチャンは、アントー二オの手を振り払った。
「いや、いつになくマジだったから、どこか壊れたのかなと思って…」。
「失礼な言い方するなよ、僕だって真面目な時は真面目なんだ」。
「真面目モードになると目がさめて、恩人に背を向けるってわけかい?」。
アントーニオが少し寂しそうに言うと、セバスチャンは大きく首を振った。
「そんなつもりじゃないよ、でも実際、僕の旅はどこで終わるかわかんないんだ、
正直言うと、君に助けられた時から、旅が始まってるんだよ、行き先もわからない旅が」。
アントーニオは、腕を組んでセバスチャンの方に耳を傾けた。
「結局、どういうことなんだい?、君は船旅の途中で難破したんだろ?、
それじゃ行き先は決まってるじゃないか、難破した船が行くはずだったところだ」。
「本来ならそうだ。でも違うんだ、急遽変わったんだ」。
「なんで?」。
セバスチャンは、遠くを見るような眼をして言った。
「あの難破した船には、妹が乗っていたんだよ」。
「何だ、家族がいたのか、そりゃ初耳だ」。
「ああ、たった一人の妹だ、僕たちにはもう親もいない、だから彼女は唯一の肉親だった、
僕たちは、遠い親戚がいる南半球の島に向かっていたんだ、そこで新しい生活をするために、
でも途中の嵐で船がまっ二つに折れ、僕たちは離れ離れになってしまった、
何とか離れないでいようとしたんだけど、波があまりにも高すぎてダメだった、
妹がいたもう一方の船体は、どんどん僕とは逆の方向に流されていってしまった、
一度は、もう妹は死んでしまったんだと諦めようと思ったんだが、どうしても彼女が死んでいるという気がしない、
僕はそれで、妹を探そうと決めた、
いったいどこにいるかはわからないけど、彼女は絶対にどこかで生きているっていう自信があるんだ、
僕の旅というのはね、アントーニオ、そういうことなんだよ、あてもない、終わりも見えない、
だから、君を巻き込むわけにはいかないんだ、君には君の仕事があるし、邪魔したくないんだ」。
しばらくアントーニオは考え込んでいたが、やがて大きくうなずいてセバスチャンの肩に手を置いて言った。
「僕は君の株式と為替とシモねたの話題に、ずっと耐えてきた、
時には本当に海に投げ落としてやりたくなる時もあった、鮫にでも食われろと思う時も…、
それでも僕は、結局は君とこうして一緒に行動をともにしてきたんだ、
今更、急に離れてくれと言われても、それじゃ僕の気がおさまらない、
ここまでくれば、毒を食らわば、皿までも…、ちょっとたとえが違うな、まあいいや、
とにかくそんな君でも何ヶ月か一緒にいたら、情が湧いてきたよ、
僕は全然構わない、いや、君が嫌だと言っても、きっとついていく、
セバスチャン、僕は君の本当の友人になりたいんだ、なれそうな気がするんだ、
幸いな事に、君は数字アレルギーではなさそうだしね」。
「数字は得意だけど、僕の専門は電子工学なんでね」。
アントーニオは、セバスチャンの笑顔を確かめると、彼を思いきり抱きしめた。
「何だ、人生は博打だと言うわりには、ずいぶん実用的な学問を専攻してるんだな、
まあ、そんなところが君らしいんだ、そういうところが気に入ってるんだ、さあ、セバスチャン、
今しばらく僕は君の旅につき合わせていただくよ!」。
「ああ、アントーニオ、そんなにきつく締め付けないで…む、む、虫歯に響く…」。
* * * * * * *
「ああ、せつない」。
月をあおいでセザーリオはつぶやいた。
「人の心って、本当にままらならいもの、
わたくしはただ、あの方の側に居たい、ただそれだけの気持ちでお仕えしているだけなのに、
ただあの方のお姿を見て、あの方のピアノと歌声を聞いていたいだけなのに、
それさえ許して頂けるのなら、他のどのような現実も耐えていけると思っていたのに、
たとえあの方の心の玉座.に、どのような人が座ろうとも…、
なのに、ああ、神様、なんて残酷な運命をこのわたくしに課すのですか?
こともあろうに、公爵様の想い人が、このわたくしに好意を寄せるなどと…、
もしもこの事実を公爵様が知ったら、どんなに苦しまれることか、どんなにお怒りになることか、
そんなことにでもなれば、もうわたくしはあの方にお仕え出来なくなってしまう、
それに、どのようなことがあっても、わたくしはオリヴィア様の愛には、こたえられないのです」。
セザーリオは、頭を覆っていた大きな帽子を取った。
栗色の長い柔らかな髪が、色白の顔を包み込んだ。
セザーリオ−それは仮の名前−。
バルサラ公爵の寵愛を受けているこの小姓の正体は、ヴァイオラ−れっきとした女性だ。
ヴァイオラは船旅の途中だった。南半球.の遠い親戚のもとに向かっていた。兄とともに。
しかし嵐によって船は難破し、イリリスの海岸に打ち上げられた。その時傍らに兄はいなかった。
可哀想に、ヴァイオラは一人ぽっちになってしまったのである。
孤独と不安に苛まれるヴァイオラの心に灯りをともしたのが、バルサラ公爵だった。
街をさまよい歩くヴァイオラの耳に、この男の噂が飛び込んた時、そして彼女が実際に、
公爵の領地で行われた彼の文字通りワンマンショーを見た時、ヴァイオラの心は決まった。
「私はこの方の側にいたい、一生添い遂げたい」。
しかし…バルサラ公爵は、あまりにも眩しすぎる。
ヴァイオラは、自分の美貌が決して他の身分の高い女性たちにひけをとらないと思ってはいたが、
あの公爵の圧倒的な存在感の前では、おじけづいてしまった。とても自分が妻の座におさまるとは考えられなかった。
あまりにもおこがましい…だが、彼を想う気持ちは、日に日に募っていった。そして彼女は、こんな作戦に打って出た。
男の子を装い、自分を小姓として雇うように懇願するのである。
歌は苦手だった。しかし楽器なら弾ける、音楽の素養もある、詩を朗じることができる。
きっと公爵に認められる。そう信じて、何度も何度も心無い守衛から門前払いを食らいながら、
それでもひたすら公爵の屋敷へ通いつづけた。そしてとうとう、公爵の心を掴んだのである。
あなたは私の最高の友達…公爵の心とヴァイオラの心が呼応した瞬間だった…。
一言で言えば、ヴァイオラは恋に落ちたのである。
公爵がオリヴィアを一目見て恋に落ちたのと同じように、そして彼がかなわぬ恋に苦しんでいるのと同じように、
ヴァイオラもまた、苦しんでいるのである。
どうりで彼の心情を的確に表すことが出来るはずだ。
オリヴィアの一件は、二人の絆をさらに強めるはずだった…。
しかし、ヴァイオラは、オリヴィアの心までは操作できなかった。本当に人の心はままならないのだ。
そして今、ヴァイオラは最大の危機に見舞われているのである。
このままでは、彼女は何もかも失ってしまう。
なんとしてでも、オリヴィアには公爵の方を向いてもらわなければならない。
それがヴァイオラにとって、本当の望みではなくとも…。
* * * * * * *
巷では、昼下がりのお茶の時間。
セバスチャンは、とある歯医者の椅子に座って治療を待っていた。
アントー二オがピックアップしてくれた数多くの歯医者の中から、ここを選んだのは、院長が女性だったからである。
どうせ穴をあけられるか、最悪の場合抜かれるのであれば、オヤジの指を突っ込まれるよりも、女性の指の方がいい。
最初、恐る恐る入ると、受付嬢がやたら愛想がよく、これは幸先のよいスタートだと思った。
部屋の中は小奇麗で、棚には観葉植物が飾られている。なかなかいい雰囲気だ。
有線だろうか?。壁にぶら下がったスピーカーから、ノリのいい音楽が聞こえてくる。
しかしよくよく聞くと、こういう内容だ。
また一人、ぶっ倒れる
また一人、ぶっ倒れる
また一人、ぶっ倒れる…
おいおい、縁起でもねぇなぁ…。
思わず身震いをするセバスチャン…いくつになっても、歯医者だけは苦手なものだ。
しばらくして、足音が聞こえてきた。振り向くと、さっきの受付嬢。なかなか美脚である。
彼女は、なにやら独り言を言っていた。
「もう、ドミニックもデビも、昼休みが終わったっていうのに、ちっとも帰ってこないじゃない、
何やってんのかしら、ふん、いいわ、別に今日のところは困んないし、それに…」。
それに…?。
彼女はセバスチャンの傍らにある丸椅子に腰掛けて、マスクをしながら、弾むような声で言った。
「まあ、セザーリオ、嬉しいわ、いよいよもって前歯の隙を埋めにいらしたの?」。
「は?」。
どうしてこの人は、自分の歯の特徴を知ってるんだろう?、セバスチャンは訝しく思った。
それともプロには、口を開けて見なくてもわかるものなのだろうか?。
「い、いえ、僕は今日、奥歯の痛いのをなんとかしてもらおうと思ったんですけど…、
あなたが治療するんですか、先生は…?」。
目の前の美女は、青い瞳を疑問符で一杯にして、セバスチャンを見つめた。
「あら、いやだ、セザーリオ、何寝ぼけたことを言ってるの、先生は私じゃない?、
もう、歯が痛くて頭までどうかしちゃったのかしら?、でもいいわ、そんなところも素敵、
奥歯が痛いですって?、そうね、虫歯って突然痛み始めるのよね、痛いときには何も手につかないものだわ、
この苦しみは、人類共通の苦しみ、私が歯科医になったのは、この耐えがたい苦痛から人類を解放するためなのよ、
さあ、セザーリオ、あ〜んして、このオリヴィアが、あなたを苦しめる痛みを退治して差し上げるわ」。
「すみません、えぇと、オリヴィアさん?、僕…セザーリオじゃなくって、セバスチャンなんですけど…」。
「え?、何ですって?」。
「おく、えあーいおああうえ、えあうあんあううえう…」。
「は?あとで聞くわ、さ、始めるわよ」。
ガガガガガガガガガガガガ、キーーーーーーーーン!。
「今日のところは、これでOKだわ、どう?、痛みは治まったでしょ?
あとは取った型に合わせて冠を作って、それが出来たら完了よ」。
オリヴィアは、マスクを取りながら満足そうに言った。
セバスチャンは、ハンカチで口の周りを軽く拭き、半身を起こしてポケットに手を突っ込んだ。
アントー二オが貸してくれた財布を出そうとしたのだ。しかしその手をすかさず、オリヴィアが止めた。
「ね、セザーリオ、治療費なんか要らないわ…私とあなたの仲だもの…」。
「え?、私とあなたって…」。
ここ数ヶ月の記憶を辿っても、四六時中顔をつき合わせていたのは、むさくるしい頭のアントー二オだけ。
果たして、女性歯科医と懇意になったことがあったかどうか…、セバスチャンは困惑気味に言った。
「すみません、僕とあなた、どこでお会いしましたか…?」。
オリヴィアは、一瞬表情を凍らせて、セバスチャンに疑惑の目を向けた。
「どうしたの?、セザーリオ、今日のあなたは何か変、ひょっとして治療の最中に、
おつむの病気が発生したのかしら?、だとしたら、おお、セザーリオ、医者の名誉にかけて私は誓うわ、
私は一生、あなたの面倒を見るわ、だってこうなったのは私のせいだもの、可哀想なセザーリオ」。
「すみません、僕、セバスチャンなんですけど…」。
「ああ、セバスチャン…それがあなたの本当の名前なのね、やっと私に心を開いてくれた、
うれしいわ、セザー…じゃなくてセバスチャン…、でね、今日はこの通り、ドミもデビもいないの、
どういうわけか、二人とも昼休みが終わっても戻ってこないのよ、いつもなら携帯電話で呼び出して、
どこほっつき歩いてんだこのヤローって怒鳴りつけるところなんだけど…今日はいいの、
せっかくの機会だもの…、わ、た、し、と、あ、な、た、二人っきり…、
誰も私たちの邪魔をする者なんかいないわ…」。
そう言って、オリヴィアは、小走りにドアの方へと向かうと、表側に休診の札をぶら下げ、内側から鍵をかけた。
そして、セバスチャンの方に歩み寄りながら、背中にぶら下がっている麦わら帽子を取り、ネクタイをはずし、
白いブラウスのボタンを、一つ一つ、ゆっくりゆっくりはずし始めた。
「さ、セバスチャン…楽しみましょう?」。
セバスチャンは周囲を見回した。これは何かの冗談ではなかろうか?、かいかぶられているんじゃなかろうか?。
だって、この女性とは、今日始めて出会ったのだ。いきなりこういう展開になるものだろうか?。
(いくら僕が、好きものだとはいえ…)。
慌てて立ち上がろうとすると、オリヴィアがすかさず、椅子の下にあったペダルを踏んだ。
椅子の背もたれが勢いよく倒れ、セバスチャンもその場に完全に仰向けになった。
「いやよ、セバスチャン…もう、おあずけは懲り懲り…、そろそろ私の体に灯ったこの炎を、
消し止めてくださらない?」。
バランスを崩して、セバスチャンは治療用の椅子から転がり落ちた。
いくらなんでも、これはまずい、まずいよ、セバスチャン、こんな都合のいい話があるもんか、
これは罠だ、いい鴨にされてるんだ、きっとここで彼女に触れれば、突然明らかにそれとわかるような
怪しげな男たちがドヤドヤ入ってきて、僕の襟首つかまえてきっとこう言うだろう。
「さあ、にいちゃん、先生をどうする気だ?、落とし前つけてもらおうか」ってね。
いやだ、いやだ、僕にはまだ未来があるんだ、妹も探さなきゃならんのだ、
もっといっぱいエッチだってしたいのだ、こんなところでコンクリート詰めにされるなんて、まっぴらごめんだ…。
そう思いながら、ふと視線を上に向けると…オリヴィアのスカートの中の、堂々とした太腿が目に入ってくる。
もうちょっと視線をずらすと、これまた堂々とした胸の谷間が見える…。
セバスチャンの耳に、天の声が響いた。
(いてまえ!)。
セバスチャンは、それでも躊躇した。すると、もう一度。
(いてまえ!、セバスチャン!男やろ!)。
頭を振って、打ち消そうとするセバスチャンに、最後の一撃。
(ここまで誘われて、御婦人に恥をかかせちゃあきまへん!、それが男っちゅうもんですわ!)
「ああ、オリヴィア…」。
セバスチャンは半身を起こして、今さっき知ったばかりの女性の名前をつぶやいた。
「この椅子は危ない…、もっと安定したところがいいんだけど」。
オリヴィアは、うっとりとした表情で答えた。
「それなら、院長室のソファーにする?」。
セバスチャンがうなずくと、オリヴィアは彼の腕を掴んで立ち上がらせた。
二人は、互いにしなだれるようにして、院長室へと消えた。
誰もいなくなった治療室に、ただ有線の音楽だけが流れていた。
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