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十二夜 (3)

Written by MMさん

セザーリオ、もとい、ヴァイオラは、一人何事かをぶつぶつとつぶやきながら、街を歩いていた。
「今夜はあなたの愛が欲しい、今夜はあなたの…、
いや、こういうストレートな言いまわしは、またあらぬ誤解を生んでしまいそう、
今夜はダメ、明日にしましょう…、これもちょっとなぁ、何で今夜がダメで明日ならいいのかしら、
アレだからかな、それとも体温でも測って受胎のタイミングでも狙ってるとか…、
オリヴィア様って、子供は好きなのかしらね?、でもこんなこと聞くと、また迫られてしまう、
いいわよ、いくらでも生んであげるわ、とか言われて…、
この前の“不発”は、失敗したわ。過激な言葉を使えばいいってもんじゃないわね、
う〜ん、難しい、公爵様の熱情を、うまく伝える言葉って、なかなかないものだわ、
あまりオリヴィア様を変に刺激すると、今に私一人の手に負えなくなってしまう、
なんとしてでも、オリヴィア様には公爵様と結ばれていただかないと…、
本当は辛いけれど…でも仕方がない、これがみんなにとって一番いい結末だものね、
さて、そんなわけで、今日は雰囲気を変えるわ、こんな感じのはどうかしら

月曜日、さあ、給食だ
これから一週間の給食が始まる
お楽しみはデザートだ

火曜日にはプリンが登場
プリンはこっちを見てにっこり微笑む

水曜日、あ、プリンじゃない、ババロアだ、
明日は会えるといいね、プリンちゃん

木曜日には運命の出会い
あなた誰?、初めてお会いするわね
カップに入ったチーズケーキ
まあ、わたし、どうしちゃったのかしら
チーズケーキが世界を変える

ずっとずっと、チーズケーキが続けばいい
毎日毎日、チーズケーキが食べられればいい…

我ながら可愛いではないか、と、一人微笑んだヴァイオラの前に、突然二人の人間の影が立ちはだかった。
「さ、セザーリオ、見つけたぞ!」。
オリヴィアの所にいる歯科衛生士、ドミニックとデビだ。
「あんたを探していたんだよ」。
「まあ、そうでしたか、それはいいタイミングでしたね、
実はわたくしも、これから先生のところへお伺いするところだったんですよ」。
「ふん!、そうはさせない」。
ドミニックはそう言うやいなや、後ろにいたデビの袖を引っ張って自分の前に引きずりだした。
「デビちゃん、ひとおもいにやってしまいな」。
デビは最初、戸惑っていたが、やがて声をひっくり返してこう言った。
「決闘だ、セザーリオ!、さあ、剣を取れ!」。
ドミニックが剣をヴァイオラに投げ渡した。
ヴァイオラは、全く突然のことで狼狽した。しかし反射的に剣を受け取ってしまったので、もう逃れられなかった。
「剣を取ったということは、応じるということだな、よし、では始めるぞ、このドミニックを立会人として、
これから決闘を始める」。
「ちょ、ちょっと待ってください、これ、どういうことなんでしょうか?」。
「おだまり!、こだまり!、水たまり!」。
ドミニックが叫んだ。
「セザーリオ!、私たちがこよなく愛するオリヴィア先生の心を惑わした罪で、先生の忠実なしもべである我々は、
今ここであんたに決闘を申し込んだのだ、さあ、わかったか!、わかったらおとなしく、正々堂々と勝負をしろ!、
いけ!、デビちゃん!」。
「おお!、合点だ、ドミちゃん!」。
デビの剣先がヴァイオラの脇をすり抜けた。ほとんど反射神経のみでかわすヴァイオラだったが、
何せ剣など握ったことも振りまわしたこともない、包丁すら持ったことがないのだ。
ひたすら後ろに下がり、電信柱にかくれ、店のショーウィンドーの下にもぐりこみ、人々の失笑を買いながら
逃げ惑い、そのうち、剣を取り落として無防備になった時だった。

突然、野次馬の中から一人の長身の青年が現れ、ヴァイオラをかばうように、彼女の前に立った。
「剣を退きたまえ」。
あまりのかぼそい声にずっこけそうになりながらも、デビはかろうじてこらえた。
「いったい誰?、あんた?」。
ドミニックの問いかけに、青年は二人を見据えて言った。
「この人のためなら命も顧みないという心づもりの男だ、
彼がどういう無礼を働いたのかはわからんが、いかなる理由があろうとも、
この染み一つない体に、わずかの傷でもつけるようなことがあれば、この僕が許さない」。
「染み一つない…?」。
デビが聞き返した。
「そんなこと…なんであんた知ってるのさ、見たのかい?」。
「もちろん」。
ヴァイオラは、青年の後ろで頬を赤らめた。
(そんな、私、今まで誰にも肌なんか見せたことないわ)。
「僕たちは今まで数ヶ月、一緒に船旅をして片時も離れたことがなかった、トイレ以外はね、
だから知らないことなんかないのさ」。
ドミニックとデビは、嫌悪感丸出しで、二人で囁きあった。
「聞いた?、ドミちゃん」。
「ああ、聞いた、デビちゃん」。
「気色の悪い二人だねぇ、全くセザーリオときたら、先生をたぶらかすだけじゃ足りなくて、
こんな不健康そうな男にまで手を出してたんだ、いや、全く許せん奴だ」。
「これはやっぱり、とっちめてやらなくちゃならん」。
「そうだ、そうだ」。
デビは向き直って、剣先を青年の鼻先に突きつけた。
「まあ、そのとんだ好きものをかばうのはあんたの勝手だけど、こっちはいい加減、腹の虫がおさまらないんだ、
こうでもしないとさ、悪いことは言わないから、あんたもここから早く退散しな、怪我しないうちにね、
でないと、泣きを見ることになるよ」。
すると青年は表情を変えることなく、剣先を手の甲で払いのけた。一瞬デビはたじろいだ。
「あ、何をする!」。
「どうしてもやると言うのなら、仕方が無い、この決闘、このアントー二オが替わりに受けて立とう」。
男はそう言うと、腰に下げていた剣を素早く抜いて構えた。日の光が剣に反射して、鋭い光彩を放った。
デビは、後ろのドミ二ックに視線を投げかけた。いかにも助けを求めるかのように…。
(うう、まずいかもね、まずいかもね…)。
ドミニックも、しばらく考えていた。セザーリオだから軽く考えていたのだが、相手が急遽かわり、
さすがの自信も揺らいだ。果たしてこの痩せっぽちの男が、どれだけの実力者なのか、まったくわからない。
やるべきか、やらざるべきか…。
そうこうしているうちに、アントー二オはずんずんと、剣をかざしてデビに迫ってくる。後ずさりするデビ。
(ドミちゃん、こいつ、デカイよ…)。
デビも小さくはないが、さらにそれを上回る長身の迫力に、二人が逃亡を考えた時だった。
突然周囲が騒がしくなった。

「デビちゃん!、まずい!、役人だ!」。
騒ぎを聞きつけたのか、数人の役人がこちらへ走って近づいてくる。
デビは慌てて剣をしまい、ドミニックも、ヴァイオラが落とした剣を拾い上げ、
二人とも、すたこらさっさと人ごみの中に姿を消した。
「あ、逃げるのか?、卑怯だぞ」。
急いで追いかけようとしたアントー二オの腕を、一人の役人が掴んだ。
「見つけたぞ!、アントー二オ!、お前をバルサラ公爵様の命により、謀反罪で逮捕する!」。
「あ、放せ!、こら!」。
激しく抵抗するアントー二オに向かって、他の役人たちが次々と襲い掛かった。
あっという間にアントー二オは、役人の団子の下敷きになり、あえなく御用となった。
「放せ!、公爵の命というのなら、奴の署名入りの逮捕状を見せろ!、
見せないとお前たちを不当逮捕でみんな訴えてやるぞ!」。
クモのような長い手足をばたばたさせて暴れるアントー二オを押さえ込んだ役人は、
「往生際の悪い男だ、黙って神妙にお縄を頂戴しやがれ、さんざんてこずらせやがって」。
と言い、彼が握っていた剣を取り上げた。
「まずは別件逮捕といこうか、銃刀法違反だ」。
「さっき逃げたあいつらだって、剣を持ってたじゃないか!」。
「黙れ、黙れ黙れ黙れ!」。
縄でぐるぐる巻きにされ、膝の後ろを蹴られながら、アントー二オは、傍らで一部始終を
呆気にとられた表情で見ているヴァイオラに話し掛けた。
「すまない、君の力になるつもりだったが、かえって厄介なことになってしまった、
しかしこうなった以上は、僕一人の力ではどうにもならない、とにかく公爵に会って何とか話をつけたい、
もしも僕が君とこれ以上旅が続けられなくなったとしても、悲しまないで欲しい、僕のことは心配するな、
君は君の道を行け、歯を大切にね、それじゃ、幸運を祈る…」。
ヴァイオラは、状況がよく飲み込めていなかったが、自分を救うためにとんだ貧乏くじをひかされた
この青年を、気の毒に思った。
「ああ、謝らなければならないのはこちらの方です、わたくしのために、何だかとんでもないことになってしまって、
もとはと言えば、わたくしのせいなのですから、何か手助けをさせてください、それにあなたは命の恩人、
先ほど、公爵様のお名前が出たようでございますけど、わたくし、一応公爵様とある程度近しい身分のものでございます、
ひょっとしたらお力になれるかもしれません、何なりとお申しつけくださいませ」。
「何だい?、みずくさいな、急に改まったりなんかして、君はいつからあの数字アレルギーと親しくなったんだ?、
まあ、いいや、目の前で剣なんか抜かれたから、びっくりして記憶が混乱してるんだろう、
特に力添えなんて必要ないよ、君を巻き込みたくないし、そうだね、唯一頼みがあるとしたら、さっき貸した財布、
あれ返してくれる?」。
「財布???」。
ヴァイオラは、頭を抱えた。いったい財布って何のことだろう?。
いくら思い出そうとしても、この青年から財布を借りたという記憶が蘇ってこない。
何か変だ、何かおかしい。

「申し訳ございませんが…」。
ヴァイオラは、自信のなさそうな声で言った。
「果たして…何の事やら…、さっぱり…」。
急にアントー二オの顔から血の気が失せた。
「何だって?、この後に及んで、知らばっくれるつもりか?、君は」。
「あの、本当にわたくしの記憶の中には、そういう事実がございませんので…」。
「なんて薄情なやつなんだ!、君ってやつは!、僕はこの数ヶ月、君のつまんない株式と為替と眉唾ものの儲け話と
ほとんど自慢話の猥談にずっと、ずっと付き合ってきたけど、それを我慢してきたのは、
きっと根はいいやつなんだと信じてきたからなんだぞ、本当は体の中に暖かい血が流れ、
人と共に笑い涙することのできる奴だと信じていたから、君のために危ない橋も渡ってきたんだ、
それを、それを…利用するだけ利用して、価値がなくなったら平気で捨てるのか!
財布まで奪い取って!、全くとんでもない悪魔だ!、鬼!、守銭奴!、ああ、信じた僕がバカだったよ!、くそ!、
こんな裏切りにあうんだったら、さっさとつかまって死刑にしてもらえばよかった、
だが忘れるな!、たとえ僕の首が切り落とされても、この屈辱は決して忘れない!、
僕の体を離れた魂は、君を呪い続けることだろうよ!、そして君は永遠に歯痛からは逃れられないんだ!、
わかったか!、セバスチャン!、一生苦しむんだよ!、さあ!役人ども、僕をさっさと公爵の所へ連れて行け!」。
悪態をつきながら引きずられていくアントー二オの姿を見送りながら、
ヴァイオラはしばらく狐につままれたような顔で立ち尽くしていた。
何ゆえ、こんなに罵倒されるのか、さっぱりわからない。
財布、数ヶ月間の船旅、株式、為替、儲け話に猥談…。まったく覚えのない話…。
ヴァイオラは、アントー二オの言葉を何度か心の中で復誦してみた。
そして、ふと思い出した。
彼が最後に漏らした言葉―セバスチャン―。

ヴァイオラは、口を押さえて小さな悲鳴をあげた。
セバスチャン―間違いない―アントー二オはとんでもない人違いをしている。その人違いの相手こそ…。
「待って!、待ってちょうだい!、その人を死刑にしないで!」。
ヴァイオラは、役人たちがアントー二オを連れて行った方向に向かって、慌てて走り出した。

* * * * * * *

鏡の前でオリヴィアは乱れたおさげを直し、セバスチャンが横たわっているソファーの端に腰掛けた。
セバスチャンはまだ少し、夢見心地のようだった。鼻の頭が紅潮し、すっかりにやけている。
「オリヴィアちゃん、最高でしたぁ」。
オリヴィアは伏し目がちに微笑んだ。
「オリヴィアちゃん、チューしていい?」。
オリヴィアは、そっと手の甲を差し出した。セバスチャンは面食らった。
てっきり唇を押し付けてくると思ったのに。
オリヴィアは、今までの押せ押せムードが影を潜め、別人のようにしおらしい。
セバスチャンは、阿呆丸出しの態度でおどけていたのが、だんだん恥ずかしくなってきた。
(気にいらなかったんだろうか?)。
不安に駆られた。天の声に従い(ただ欲求不満だっただけだろ)オリヴィアの誘いにのったものの…。
何なんだ、この彼女の変貌ぶりは。あの大胆さはどこへ行った?、いったい何の不都合があったというのだ?。
それとも、これは、スパークしてすぐ消滅する打上げ花火のような、ただの火遊びだったというのか?。

セバスチャンは奇妙な気持ちになっていた。
そもそも、自分はここに歯の治療のために訪れた流れ者に過ぎない。
快楽主義でせっかちで、銭儲けのことしか考えない、無責任で身勝手で、いい加減な男。

一時の快楽を求めただけだった。
なのに、今彼女に素気なくされることに、セバスチャンは戸惑いと不安を感じている。
どうしてだろう?。オリヴィアの横顔を見ながら、彼は自分がときめきを覚えていることに気が付いた。
髪に触れ、片方がずり落ちたソックスを引き上げ、唇を軽く噛む、その一挙一動に高鳴る動悸…。

ひよっとして、自分は恋に落ちたのだろうか?。

セバスチャンはソファーから身を起こして、文字通り襟を正し、オリヴィアの隣に坐り直した。
もう、チューしてなんていうおふざけは終り。
「オリヴィア」。
そう、真面目に語りかけたセバスチャンと同時に、オリヴィアもセバスチャンの名前を呼んだ。
二人は互いの瞳をじっと見つめた。
「実はオリヴィア、僕は…」。
「ああ、何もおっしゃらないで、セザー…じゃなくて、セバスチャン」。
オリヴィアはセバスチャンの口に指を軽く当てた。
「私、本当は怖かったわ、こんな風になったあとで、実は私の心が冷めてしまうじゃないかって、
でもそんなことはなかった、この想いはやっぱり本当だったの、私の心は変わらない、あなたを愛しているわ…」。
うっとりとした表情でそう言うオリヴィアに、セバスチャンも応えた。
「それは僕も同じだ、正直白状すると、最初は遊びのつもりだった、
今までまわりは野郎ばかりで、しばらく御無沙汰だったし…、
でも今わかったよ、僕は君を愛してる、本気なんだ、マジなんだ、
生まれて初めての恋さ、君が好きでたまらないんだよ」。
「まあ、それならずっと私の側にいて下さる?」。
首に腕を巻き付けられ、キスの雨を浴びるセバスチャン。ブチュッ、ブチュッ、ブチュッ…。
いたるところに押印される口紅…。
「僕もそうしたいよ、ずっとこの部屋のソファーに張り付いていたい」。
「何言ってんの!、ソファーじゃなくて、私に張り付いて」。
「ああ、そうだった、でも君と一緒に居られるなら、ソファーだろうが、治療用の椅子だろうが、構わないや」。
まだおさまりがつかないのか、再びセバスチャンがオリヴィアに覆い被さろうとした時、どこからか鈴の音が聞こえた。
セバスチャンはあわてて飛びのき、はっと気がついたように腿に手を置いた。
ペンギンの首にぶら下がった小さな鈴が、ズボンのポケットからはみ出して揺れている。
そう、それはアントーニオから預かった財布のキーホルダーである。

夢の世界から、セバスチャンは現実へと引き戻された。そうだ、こうはしていられないのだった。
「こめん、オリヴィア」。
セバスチャンは突然立ちあがった。オリヴィアは、ひどく驚いた。
「どうしたの?、突然」。
「僕にはやらなくちゃならないことがあったんだ」。
青ざめるオリヴィア。
「僕は旅の途中なんだ」。
「へ?、旅?、いつから?」。
「ずっと前からさ、大切なものを捜している旅の途中なんだ、それが見つかるまで続く、あてのない旅…」。
「そんなこと、今初めて聞いたわよ、すると…何?、あなた、ここを出て行くっていうの?」。
セバスチャンは物憂げな表情で答えた。
「それがここになければね、見つからなければ、いつまでも一つ所に腰を落ちつけられないんだ…、
どのみち、僕の腰はいつも落ち着きがないんだけどさ、今もちょっと余韻が残っちゃってね…、
まあ、そんなことはどうでもいいや、今の一言は聞かなかったことにしてよ、
アントー二オにばれると、ぶん殴られるからな、あいつに殴られたってどうってことないんだろうけどね…、
でもオリヴィア、これだけは信じて欲しい、僕の君への愛は本物だ、
これには嘘偽りがないということを、ここで明言しておくよ、いかなる運命のもとにあろうと、僕のこの愛は真実であると…」。
「だったら迷うことなんかないわ、ずっとここにいて頂戴、今の私には、あなたと離れるなんて辛すぎるもの、
あんまりだわ、私の心に完全に火をつけておいて、置き去りにするなんて…、
何て残酷な人なの?…ところで、アントなんとかって、誰?」。
「ああ、だからそれは聞かなかったことにしてってば、僕にもいろいろ複雑な事情があるんだ、
とにかく…残酷な男だなんて呼ばないで、僕だって離れたくないんだよ、許されるものなら、
君のパンティーかブラジャーになって、ずっと君にくっついていたい気持ちだよ、
でも、この旅を途中で投げ出すわけにはいかないんだ」。
オリヴィアの大きな瞳から、大粒の涙が頬を伝って落ちた。それはマスカラが落ちて、黒く染まった涙だった。

「私はクールな女だったわ、男なんかはいて捨てるほどいたわ、みんなちぎっては投げちぎっては投げて、
うち捨ててきたわ、誰も私を本当にモノには出来ないと思っていたわ、この世は私の天国だと…、
でもあなたと出会って、私は変わってしまった…私はもうあなた無しでは生きていけない、
あなたの責任は重大よ、どうしてくれるのよ!、…だから、一人にしないで、お願いよ」。
セバスチャンは、ゆっくり首を振った。
オリヴィアは、化粧が剥げ落ちるのも構わず、おいおい泣いて訴え始めた。
「ああ、連れていって、私、今ここで歯医者をたたんで、あなたに着いて行きたいわ」。
「でも、君を巻き込むわけにはいかないよ、本当にどこが終着点かもわからない旅なんだ」。
セバスチャンがそう言ってオリヴィアに背を向けると、オリヴィアは突然泣くのを止め、冷静な口調で言った。
「でも…あなたの歯の治療は、まだ終わってないのよ」。
一瞬、セバスチャンの動きが止まった。
「あ、そうだったっけ?」。
振り返るセバスチャン。
「そうよ、今あなたの歯に入っているのは、仮の詰め物、
ガムとかキャラメルとか、そういうものをうっかり食べれば、スポンと抜けてしまう、もろいものなのよ」。
「あの…ピーナッツもダメ?」。
「う〜、いいんじゃない?、でも歯と歯の間に挟まってきっと痛い思いをするわ、いずれにしろ、
あなたの歯は完全じゃないの、型を取ったでしょ?、あれは本格的な冠を作るためよ、
その冠が出来るまで一週間かかるわ、つまり私には、まだ一週間の猶予があるということよ」。
セバスチャンは、空を仰いでつぶやいた。一週間…。
その一週間で、果たしてケリがつくのだろうか?。まったくあてもないのに…。
しかし、彼もオリヴィアと一緒に居たいのである。
彼女とずっと一緒に人生を歩んでいいけたら、どんなに素晴らしいことだろう?。
僕は恋をしてる…マジな恋…。
妹に賭けるのか、恋人に賭けるのか?。
ふと、セバスチャンの耳元に、再び天の声が響いた。
(人生は冒険だ、博打だ、セバスチャン、男やろ?、いちかばちかの大勝負をかけてみい)。

「ねえ、オリヴィア…、もしもその一週間で、探し物が見つかったら」。
「びづがっだら?」。
オリヴィアが、傍らにあったティッシュボックスから紙を一枚取り出し、鼻をかみながら聞き返した。
セバスチャンは、意を決したように言う。
「…僕、今定職ないんだけどさ」。
「はあ」。
「…結婚してくれる?…」。
呆然と立ち尽くすオリヴィアの肩に、セバスチャンは手を置いた。
その手に自分の手を重ねたオリヴィアは、我に返って、大きく頷いて言った。
「定職が何よ、あなた一人くらいなら、この私が食わせてやるわ、心配しないで…でも、
一週間以内に、探し物が見つからなかったら?」。
セバスチャンは、窓の向こうを指差した。そこには大きな海原が広がっている。
おもちゃみたいに小さく見える船が、白い煙を吐いて沖へ向かっていた。
「僕の旅は続く、それだけだよ」。
そして、素早く後ずさりして、くるりと踵を返すと、タタタと小走りにドアの方へと向かった。
「楽しいひと時をありがとう、オリヴィア、きっと僕は今日の事は永遠に忘れないだろう、
愛してるよ、僕の心にリボンをつけて、君にプレゼントする、
さあ、今日はもう戻らなくちゃ、友人を待たせてるんでね、借りたものは返さないと、
また守銭奴呼ばわりされちゃあ、かなわない、じゃあ、さよなら、感謝するよ」。
セバスチャンは、風のように去って行った…。オリヴィアの体と心に、暖かな種火を残して…。
オリヴィアは、彼が消えたドアを見つめながら、独りつぶやいた。
「ああ、神様、一週間で、彼の探し物が見つかりますように…」。

* * * * * * *

オリヴィアは自分をクールな女だと言っていたが、それはセバスチャンだって同じ事だった。
普通の状態なら、こんなくさい芝居も賭けもしない。もっと現実的に行動する。
しかし今のセバスチャンには、一週間という期限を設けたことさえも、無謀なことだとは思えなかった。
何の根拠もないにもかかわらず、である。
これが恋の力なのだろうか?。
セバスチャンは自信満々で、どんなサイコロの目も出せるような気がしていた。
あらゆる奇跡が、自分の手の中に握られているのだ、と。

それでもやっぱり、ちょっとわざとらしかったかな?。
格好つけ過ぎたかもね…たいした男じゃないのに…。
小心者でいい加減な奴なのにさ。

少し反省しながら、セバスチャンはポケットの中に手を入れて、キーホルダーの鈴をもてあそんだ。
早くアントーニオと約束した旅館に戻らないと。友人を心配させちゃいけない。
ずいぶん長居していたようだ。日がすっかり傾いている。
セバスチャンが歩みを速めた時だった。
突然目の前に二人の人間が立ちはだかった。ドミ二ックとデビのコンビである。
もちろんセバスチャンは彼らを知らない。しかし向こうはまるで先程まで会っていたかのような口ぶりである。
「あ、こんなところに居たぞ!」。
「こっちの目をうまくごまかして、また先生の所に入りびたっていたんだな」。
「先生って…この先の歯医者さんのこと?」。
セバスチャンが、今来た方向を指差したとたん、デビが剣を抜いてセバスチャンにその先を向けた。
「あれだけ怖い目に遭っていながら、それでも先生に会いにいくとは、全く性懲りのない奴だ、
しかも何だ?、あちこちに口紅の痕なんかつけちゃって、こりゃぁ、相当お楽しみだったな!、
まあいい、その度胸は買ってやろう、ついでに、決闘の続きをさせてもらおうじゃないか」。
「決闘?、僕が?、何で?」。
「問答無用!、先程は変な男が割り込んできて、うやむやになってしまったが、
今度はしっかりと決着をつけようじゃないか、さぁ、これを受け取れ!」。
ドミ二ックがそう言うと、自分が持っていた剣をセバスチャンに向かって投げた。
セバスチャンは反射的にそれを受け取った。
「よし、剣を持ったらもう逃れられないぞ、いけ!、デビちゃん!」。
「おお!、ドミちゃん!」。
いきなり、剣がセバスチャンに向かって振り下ろされた。
危うくよけたが、空中に、耳にかかっていた髪がわずかに散った。

それを見たセバスチャンの中に、突然闘争心がわき上がった。
体の中に微量に残っていたくすぶりに、怒りと言う名のガソリンが注がれたのだ。
要は―セバスチャンは―まだ燃焼し切っていなかったのである。全く目出度くお盛んな奴である。
彼はしっかりと剣を握りなおして構えた。そして叫んだ。
「何で君たちが僕を狙うのかは知らんけどね、君たちがそういうつもりなら、こっちだって黙ってないぞ、
いい加減、ムラムラしてきた…じゃなくて、ムカムカしてきた!、僕をナメるなよ!」。
(やや、今度は随分威勢がいいな…)。
デビはたじろいだが、しかしもう遅い、後にはひけない。
「おお!、望むところだ!、来い!」。
「しっかりね〜!、デビちゃん!」。
「お〜!、ドミちゃん」。
金属音が激しく炸裂した。
セバスチャンは、目にもとまらぬ剣さばきで、襲いかかる剣先を払いのけた。
刺客は思わず声をあげた。
「ドミちゃん、こいつ強いよ」。
「大丈夫だ、デビちゃん、怖がらないで責めるんだ、さあ、前へ前へ!」。
しかしセバスチャンの動きは速い。彼はノリノリだった。自分がすっかりダルタニアンにでもなった気でいる。
「何だ、口ほどにもないな、最初の勢いはどうした?」。
セバスチャンが、思いきり剣を突いた。その鋭利な先端は、デビの袖口を裂いた。
驚いてデビが剣を落とすと、セバスチャンはすかさず、相手の喉下に剣を突きつけた。
そして、しばらくして、その剣を放り投げた。
「勝負はついたな、これで終わり、さ、僕は急いでいるんでね、こんな茶番には付き合っていられないんだよ、
さあ、どけてくれ、そこを通してくれ」。
ドミニックが、腕を広げて行手を遮った。
「何だよ、まだやるのかよ」。
セバスチャンがうんざりした顔で言うと、ドミニックはシューティングゲームに登場するエイリアンのように、
しゅっ、しゅっと、奇妙な動きをしながら言い返した。
「相棒がやられたんだから、復讐するのは当たり前だろ?、こっちは武道の心得が多少あるんだ、
黒帯じゃないけど、さ、かかってこい、今度はさっきのようにはいかんからな」。
ああ、この動きは、武道の構えのつもりだったのか…、それにしちゃあ、なんか変だ。
どう見たって、欽ちゃん走りの変形にしか見えない。
「だけど、あんた、立会人だろ?、普通立会人は、こういうことはしないんじゃないのかい?」。
「おだまり!、こだまり!、水たまり!、黙って勝負をするんだ!」。
セバスチャンは天を仰いで、
「わかった、わかったよ…、相手をすればいいんだろう?、ほら、かかってこいよ」。
と言って、構えた。ドミニックは叫んだ。
「よし!、いくぞ!、覚悟!」。
「いけ!、ドミちゃん!」。

数秒後、ドミニックの体は宙に舞っていた―。

* * * * * *

院長室の窓から、オリヴィアはぼんやりと、沈み行く太陽を眺めている。
想いは遂げたというのに、この寂しさはなんだろう?。
一週間という期限つきの愛に、不安を感じているからだろうか?。
あまりにも酷な話だ。彼を深く知り、さらに想いが募っているというのに…。
こんなことだったら、誘わなければよかったのだろうか?。
情熱に駆られて、勇み足をしてしまったのだろうか?。
小さな後悔に胸を痛めていると、急に背後が騒がしくなった。
我に返って振り返ると、荒い息を吐きながら、ドミニックとデビが転がり込んできた。
「あんたたち!、ここに入る時はノックをしろって言ったじゃない!、
だいいち今まで何処にいたの?、ま、今日はいなくてかえって助かったけど…、
何?、どうしたの?、その格好?」。
二人は埃にまみれ、顔のあちこちに小さな傷を負っていた。
ドミニックが叫んだ。
「先生!、あのセザーリオって奴は、とんでもない奴です!」。
「何?、何のこと?、わかるように説明してよ」。
ドミニックは、首を押さえながら話しはじめた。
「あいつは、虫も殺さぬような顔をして、実はとんでもない乱暴者でした、
デビは剣で突かれ、私はぶん投げられました、見てください、これ、ね、これ!、
しかも、それだけじゃぁないんです、あいつは男とも関係してるんです、
まるで楊枝のように細い男、私たちは先ほど、その男と会い、はっきりとこの耳で確かめました、
何と、トイレ以外はずっと一緒に居たと言うんです、肌のことまで知り尽くしてます、
これはもう、ただならぬ関係間違いなし!」。
「はあ?」。
「先生!、目を覚ましてくださいまし!、あの小姓とこれ以上深い仲になれば、先生が傷つくことになります」。
オリヴィアは、自分の耳を疑った。何か悪い幻聴でも聞いているのではないかと思っていた。
大、中、小、ありとあらゆるサイズの疑問符が、頭の中で踊っていた。
「ゼバスチャンが…乱暴者で…両刀使い…?」。
見ると、確かにドミニックは背中が埃だらけで、デビの袖は切られている。
(でも、そんな、彼に限って、そんな…)。
オリヴィアの瞼に、セバスチャンが去り際に浮かべた、まるで理工系大学生のような爽やかな笑顔が浮かんだ。
あの笑顔に偽りなんかあるのだろうか…?。
これは自分の目で、耳で確かめなければ…。
オリヴィアは、居てもたってもいられず、どすどすどすと大股で歩き出すと、ドミニックとデビを押しのけて
院長室を出た。
「先生!、どこへ行かれるんですか?」。
デビが叫ぶ。オリヴィアは何も答えず、階段を降りて行った。

その後姿を目で追いながら、ドミニックはため息を一つついた。
その傍らで切られた袖を気にしながら、デビが言う。
「でも、一応決闘の決着はついたわけなんだよね、僕たちの負け…と」。
「ふん!、あんな呆気ない勝負があってたまるもんか」。
そして、両手を強く組み合わせながら、つぶやいた。
「どうにもこうにも、腹の虫がおさまらない、
瞬きほどの一瞬で勝負がついてしまっただなんて、恥ずかしくて人に言えないじゃないか、
このままじゃ、外を出歩けなくなる、何とか名誉挽回と行きたいんだけどなぁ、
セザーリオとは決着がついてしまったし、かといって新たに決闘の相手を探すのは面倒だし
さて、どうしたらいいもんかなぁ…」。

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