不思議の魔法の国のアリス(1)
Written by MMさん
いったい何が起こったというのだろうか?。
大きな力で無理やり飛ばされた、という感じだった。
アリスは全身のだるさと頭痛をおぼえていた。
仰向けの状態で、周囲に視線を巡らす。
そこはとても静かで、何事もなかったかのようだ。
アリスは必死になって、今までのことを思い出そうとした。
確か土手で、図面のようなものを見ていたのだ。そこへ突然大きな物音がし、
体が浮き上がり…しかしその後のことは、よく覚えていない。
何とか体を起こすが、強烈なめまいに襲われる。
突然、どこからともなく、声がした。
「いや、実にうまくやったもんだ」。
「だれ?」。
アリスは声の主を探した。それは彼女の頭の上にいた。
大きな前歯をした猫の…頭、である。
「あなた、体はどこ?」。
「あるよ」。
猫の頭は不思議な笑いを歯の間から漏らした。
「気がむけば見せるよ、そのうち」。
何だか妙だ。不安が頭をもたげた。
今の今まで、しゃべる、しかも笑う、顔だけの猫なんて、見たことがない。
こんなものを見るということは、相当強く頭を打っているか、それとももう自分は…。
「大丈夫、君は死んじゃいないよ」。
猫はアリスの心配を察したかのように、笑って言った。
「死んじゃいないかわりに、すごいことをしでかしたけどね」。
「すごいこと?、それってなに?」。
アリスは怪訝そうに聞いた。
「体の下にあるものを見てごらん、ダーリン」。
地面だと思っていた場所に手を置いてみると、何か布のようなものに触れた。かなり派手な彩りだった。
「それは“女王”だよ」。
猫の頭は言った。
「君が突然どこからか飛んできて、女王の上に落ちたんだ、
それで彼女は君の下敷きになって、ぺちゃんこになったのさ」。
アリスはよく確かめようと思い、立ち上がってそれをまじまじと見た。確かに猫の頭の言った通りだった。
「申し訳ないことをしたわ、かわいそう」。
「いや、ちっともかわいそうじゃない、彼女はしょうもない女王だった、
何の考えもなく、気に入らない連中の首を、はねろはねろと命令していたんだからね、
それに、ぺちゃんこになったことも気にしなくていいんだよ、
そうせ、最初から紙みたいな存在なんだから」。
アリスはようやくめまいから開放された。そして今一度、まわりを見回した。
ぺちゃんこになった女王様を気にしなくていいのなら、早く家に帰らなくちゃ。
しかし、ここはどう見ても、さっきまでいた所とは違っている。
土手もないし、家もない。
それにさっき、猫の頭はとても気になることを言った。
わたしがどこからか飛んできた、と。
アリスは、恐る恐る聞いた。
「ねぇ、ここはどこなの?」。
猫頭はちょっと上を向いてから、まるで歌うように言った。
「ここはどこ…か、あえて言うなら、どこというところでもあるし、
ここ、というところでも、ある、あるいは」。
「あるいは?」。
「どこでもない、どこか」。
「ふざけないで!」。
アリスは苛立った。
「それじゃ、わたしはどこでもないどこかに突然おくりこまれたってわけ?、
それでどうやって家に帰れというの?、ここがどこか分からなきゃ、
どういう道を辿って帰ればいいか分からないじゃない!」。
突然、猫頭の姿が薄くなり始めた。そしてふいに消えた。
「待って!、待ってよ!」。
アリスは慌てた。
「怒ったの?、ねぇ!、戻ってきてよ、一人にしないでよ!」。
彼女はあたりを見回しながら、猫頭を呼んだ。すると今度はアリスの足元にます尻尾が現れ、
お尻が現れ、どんどん体が現れ、最後に例の大きな前歯の猫の顔が現れた。
「気が向いたら、姿を見せるって言っただろう?」。
「勝手に消えたりしないで」。
猫は悪戯っぽく笑った。
「まぁ、そう怒りなさんな、気楽にしなよ、
じゃあ聞くけど、ここに来る前はどこにいて、何をしていたんだい?」。
「家の近くの土手で図面を見てたわ」。
「へぇ、図面だって?、変わってるね、アリスなら本来、土手で本を読んでるもんだと思うけどね」。
「大切な図面だったのよ、だって…」。
…図面…。図面か!。
アリスの記憶が、一気に逆回転を始める。
そう、彼女はアンプを作っている最中だったのだ。ベースギターにつなげるためのアンプを。
得意の電子工学の知識を駆使して、ちまちま作っていたのだ。
数日後には、友達に紹介された新しいバンドのオーディションが控えている。
見ていた図面は、このアンプの設計図ではなかっただろうか?。
アリスの頭の中に、一つの渦巻き模様が浮かぶ…コイル、コイルのマーク。
コイルは次第に大きくなり、こちらに迫ってくる。
もの凄い勢いですべてのものを巻き上げていく。
そうだ…竜巻だ。竜巻が襲ってきて自分も巻き上げられて、
ここ…しゃべる猫や、紙みたいなしょぼい女王のいる、奇妙キテレツな世界に放り出された…というわけなのか…。
ここはつまり、点の世界だった…、今まで自分がいた世界とはまったくつながりのない、
点の世界…はて、つながりのない所からどうやって家に帰れというのだろうか?。
「まあ、がっかりしないで、お鼻の大きなお嬢さん」。
落ち込むアリスに、猫は相変わらずにしゃにしゃ笑いで話し掛ける。
「鼻のことは言わないでよ!」。
猫がふっと消え、再び場所を変えて現れる。
「いいことを教えてあげよう、女王がいなくなったので、ここのリーダーは魔法使いになるだろうさ、
ジムの魔法使いだ、魔法使いは今まで女王ににらまれていて、勝手な真似ができなかった、
でも目の上のたんこぶがいなくなったのを知れば、すごく上機嫌になるかもしれない、
頼みごとをするなら今のうちだよ、
彼はこの後、クロッケー大会に参加する予定だ、そこをつかまえて、家に帰してくれと頼むのさ、
君は女王を消した張本人だから、向こうも嫌だとは言えないはずだよ、
うまく恩を売って、取り入るんだね」。
「待って、でもそのクロッケー会場っていうのは、どこにあるの?
わたし、ここに来たばかりで、何がどこにあるのかも全然わからないのに」。
おろおろするアリスの足に、猫は尻尾を軽く巻きつけた。
「たくさんの人が参加する大きなイベントなんだ、すぐに分かるよ、
とにかくそこに着けば、どうにでもなるさ、気楽に行こう、ダーリン、
それと、女王にくっついてるQの文字を持っていけよ、あとで役に立つかもしれないから」。
そこまで言うと、猫は湯気のように忽然と消えた。そして、もう現れなかった。
アリスは完全に一人になってしまった。でも落ち込んでる暇はない。
彼女は、猫が言った通り、女王の亡骸からQの文字を剥ぎ取り、自分のエプロンの胸当てに貼り付けた。
そして謎のクロッケー大会の会場を探すため、歩き始めた。
アリスは空腹だった。
クロッケー会場を探す前に、腹ごしらえをしたかったが、どこにもピザ屋は見当たらない。
「そもそも、こんなヘンな所にあるピザ屋なんか、ろくでもない店よ、
タコやイカがまるごとトッピングされてるような奇怪な代物に違いないわ、
ひょっとすると、靴が乗っかてるかもしれない、それがサボだったりしたら、もう最悪中の最悪よね!、
そんな店を探すなんて時間の無駄使いだわ、
なんといっても、Time is moneyだもの、時間は有効に使わなくちゃ」。
ピザでなくても、トーストだって構わない、紅茶があれば、なおよろし。
突然、アリスの嗅覚に訴えかける香りが、どこからか漂ってきた。紅茶だ。
見回すと、あったあった。兎の耳の形をした煙突が突き出た家が。香りはまさしくこの家から流れてきていた。
無礼かもしれないけど、まぁよいわ。気楽に行こうって言われたばかりだし。
ここで食事にありつき、クロッケー大会の場所を聞き出せれば、万々歳。
アリスは迷わず、不思議な家に向かった。
中に入ると、大きなテーブルが部屋の真ん中にどっかり置かれ、
青い目をした体格のいい兎と、シルクハットを被った、痩せた巻き毛の男が並んで座っていた。
二人に挟まれて、ペンギンが一羽、いびきをかいて眠っている。
「こんにちわ」。
アリスはそう声をかけて、二人の向い側に座ろうとした。
突然帽子の男が不機嫌な口ぶりで言った。
「君の席はないよ」。
「どうして?、椅子はまだあるわよ」。
アリスは強引に、一番座り心地のよさそうなのを選んで腰掛けた。
「ウォッカはいかが?」。
兎が聞く。しかしどこを見回しても、それらしきものはない。
「そんなものないじゃない、ないものをすすめるなんて、失礼ね」。
「そっちだって、招待もしてないのに勝手にオレの家へ入ってくるなんて、もっと失礼じゃないか」。
兎は眉間にしわを寄せて言った。
「じゃあ、ここはあなたの家なのね、それにしてもずいぶんたくさんの茶碗が並んでるわ、
他にもお客さんがいたのかしら?」。
「ふん、そんな人はどこにもいないよ」。
帽子の男は、やはり不機嫌そうに言った。
広いテーブルの上には、山ほどのお茶の道具がひしめきあっていた。
ソーサーは重なり合い、スコーンは皿から溢れ、茶碗のいくつかは傾き、
あちらこちらにお茶の水溜りを作っている。
食事は期待できないな、と、アリスは思った。
それならば、早くクロッケー会場の場所を聞いて、ここから退散したほうがよさそうだ、
そう思って、質問を口にしようとした時、一足早く帽子の男が、こう切り出した。
「選択肢が二つの時、選ぶのに30分悩む人は、選択肢が三つあった場合、
何分間悩むだろうか?」。
これって算数?。それともなぞなぞ?。まぁいいわ。まあまあ面白そうじゃない?。
アリスが45分と答えると、兎が驚きの声をあげた。
「この問題に、答えなんかあったのかよ!」。
ペンギンが一瞬目を開き、そしてまたすぐ、眠ってしまった。
「この30分悩む奴って、帽子屋!、お前のことだろ?、
お前はいつだって悩んでばっかりなんだ!、お前なら、45分どころじゃない、一生悩んでるさ!、
だからこの問題に答えなんてないんだよ、答えなし!、これが答え」。
「ばっかみたい!」。
アリスはあきれ果てた。
「答えのない問題なんて、時間の無駄使いだわ、もっとましなことに時間を使ったら?、
こんなの、時間つぶし(Kill)よ」。
アリスがふてくされてそう言うと、帽子屋は悲嘆に暮れた顔で、頭を抱えた。
「時間(Time)をつぶす(Kill)なんて言い方はしないでくれよ、
君は時間を知ってるのか?、話したことがあるのか?、時間をよく知ってる人は
つぶす(Kill)なんてひどい言い方はできないんだよ」。
「時間は時間よ、それとも時間(Time)は石灰(Lime)とでも言うの?
それともしなの木(Lime)?、それとも道化師(Mime)?
わたしに言わせれば、TimeはMoneyだわ!」。
「時間は人(Him)だよ」。
帽子屋はぽつりと答えた。
「つまり、友達なんだ、うまくいってる時は、こちらの思うように動いてくれるけど、
一度仲たがいしてしまうと、すっかりヘソを曲げてしまうんだ」。
そして、帽子屋は遠くを見るようなまなざしで、語り始めた。
「去年の三月、ここにいる三月兎がおかしくなる直前のことだった…、
女王主催の大宴会が開かれて、僕は手製の『過激な特派員』を持参して、会場へ馳せ参じた」。
「『過激(Red)な特派員(Special)』って、何?」。
アリスが聞いた。
「赤字(Red)の号外(Special)のことさ」。
兎が答えると、帽子屋はテーブルを拳で叩いて真っ青な顔をし、兎を睨みつけた。
茶碗が一つ、床に落ちて粉々に砕けた。
「違うよ!。ギターだよ、特製なんだよ!」。
「すごい!。あなたギターが弾けるの?」。
アリスは、頬を紅潮させた。
「ああ、それで三月兎にタンバリンを叩かせて、僕は弾き語りで一曲、自作の歌を披露した…」。
「どんな歌?」。
アリスは興味深そうに、身を乗り出した。
そこへ、兎が横槍を入れた。
「ひっでぇ歌さ、このいかれた(Mad)じゃない、ぼやけた(Muddy)帽子屋野郎は、
売り飛ばしてしまえ、しなびた妹
海の向こうへ売り飛ばせ
誰かいい客が見つかるだろう
オレの二倍はこきつかえる奴が
って歌ったんだ」。
「違う!、それは女王の聞き間違いだよ、そんな下品な歌じゃない!」。
「ああ、実際はこういう歌じゃなかった、…でもそもそも、お前が、か細い声で自信なさそうに歌うから、
こういうとんでもない聞き間違いが起こったんじゃないか!、
おかげで女王は、かんかんに怒りまくり、こう言ったんだ
「その者たちは時間をつぶして(Kill)いる!、首をはねよ!」ってね。
それ以来、オレたちの時間は止まったきりで、オレは年から年中発情期の三月兎になり、
帽子屋はこうやって、延々お茶会を繰り返しているのさ」。
ああ、それでなのか…。アリスはテーブルの上の惨状の原因を知った。
帽子屋はうなずいた。
「そうなんだ、ずっとお茶の時間が続いてるのでね、茶碗を片付ける暇がない、
道具はすべて使ってしまったし…」。
そう言って、顔をあげた帽子屋の目に、アリスのエプロンの胸元に燦然と輝くQの字が飛び込んできた。
「君!、このQの文字は…」。
三月兎も驚いた。
「いったいどこでこれを!」。
二人の異常なまでの驚き様に、アリスはしばし困惑した…。
「自分でもはっきり覚えてないわ、竜巻に飛ばされて、
気が付くと女王は、私の下敷きになっていたの」。
「すると、君が女王(Queen)を殺した(Kill)ってわけかい?」。
兎は嬉しそうに言った。
「Queen Killerだ」。逆立ちすれば、Killer Queenになる。
もちろん、アリスはスカートがめくれるのは嫌なので、逆立ちはしなかったが…。
「その下敷きになった女王こそ、僕らから時間を奪った張本人だ」。
帽子屋は、ようやく瞳に輝きを取り戻したようだった。
「君はそれで、戦利品として、女王の証であったQ文字を手に入れたんだね」。
「オレたちは、これで無罪放免になったんだな」。
アリスはうなずきながら続けた。
「だからあなたたちも自由になったのよ、
もう時間をつぶす(Kill)ことで、心を悩ませることもないわね、
まぁ、それはいいけど、そこへ不思議な猫が現れて、このQ文字を持って、
クロッケー会場に行けと言ったの、そこには魔法使いがいて、
わたしを家に帰す手助けをしてくれるだろうって」。
「ああ、その猫なら知ってるぜ、前歯のやたらでかい奴だろ?、神出鬼没の」。
兎は一つスコーンを口に放り込みながら言った。
「もう食うなよ、三月兎、また膨らむぞ、…で、その魔法使いとやらは、どんな奴なんだい?」。
帽子屋は、ペンギンの喉もとを優しく撫でながら聞いた。
「さあ、わからないわ、とにかくクロッケー会場に行って彼に会わなくちゃ、
何も始まらないってことよ、
それで聞きたかったんだけど、そのクロッケー会場がどこにあるか知ってる?、
私、急いで家に戻らなくちゃならないの、
アンプがまだ作りかけだし、ベースの練習もしなきゃ、
急がないと、バンドのオーディションに間に合わないわ」。
「え?、作りかけのランプの台(Base)がベルトとくっついて、土台(Foundation)になったって?」。
兎が眉をひそめた。
「違うよ、三月兎、そのランプ(Lump=まぬけ)はとても卑しい身分(Base)なんだ、
だから再教育(Orientation)が必要なんだよ、頭突き(Bunt)でもしてさ」。
「それを言うなら、ランプ(Rump=尻、または残り物)じゃないのか?」。
「それとも、ランプ(Ramp=坂道)の底面(Base)ってことかな」。
「ねえ、お願い、話をややこしくしないでくれる?、わたしの言ってるのは
アンプリファイア(Amplifier=音声電波増幅器)と、ベース(Bass=低音楽器)、
バンド(Band=楽団)、オーディション(Audition=登用検査)のことよ」。
帽子屋はとても納得した顔でうなずいた。
「今の説明でよくわかったよ、それならそうだともっと早くに言ってくれればよかったのに、
君は早口だから、よく聞き取れなかったんだ、つまり、こういうことだね、
君は傘(Umbrella)を作っている最中で、歩調(Pace)を合わせる練習をしている、
早く帰らないと、手(Hand)の分類(Ordination)に間に合わない…」。
「それで、魔法使いってのは、どんな奴なんだい?」。
三月兎は改めて聞いた。
「全然知らないわ、名前だけは聞いたけど」。
「じゃ、その名前は?」。
アリスは答えようとして、突然口篭もった。とても短い名前だったのに…忘れている。
さっきからの、帽子屋と三月兎の聞き違いに付き合っていたせいだろうか?。
出てこないのだ。あんな短い名前が…。確か最後に、「ム」がつくはすだが…。
帽子屋は、次々と最後が「ム」になる単語を繰り出した。
バム(Bam=欺瞞)、ボム(Bomb=爆弾)、ダム、ヘム(Hem=縁)、
ジャム、リム(Limb=手足)、ラム(Rum=ラム酒)…。
「ああ!、こんなの時間の無駄だよ、くだらない時間つぶし(Kill)さ!」。
三月兎が匙を投げた。帽子屋はとたんに不機嫌になってしまった。
「時間をつぶす(Kill)っていう言い方はやめろって言ったじゃないか!」。
「だって実際そうじゃないか!、こんなことを続けていたら、いつ終わるかわかんないんだぜ!
全くの無駄だよ、どうしていつもお前は、そう要領が悪いんだよ!」。
「そんなことないよ!思いつきで挙げていくより、ずっと確実じゃないか!、
迷った時は消去法が一番いいんだよ、それに僕たちはもう時間と再び友好関係を結んだんだから、
時間をつぶす(KILL)なんて言い方は、絶対しちゃいけないんだ、だって時間は人(Him)なんだからね」。
ふいに、アリスが顔を上げた。ヒム、ヒム、ヒム…そう、ジム、ジムだ。
「思い出したわ!」。
アリスは立ち上がって叫んだ。
「ジムよ、ジムの魔法使い!」。
「何だって?」。
三月兎が天を仰いだ。
「そりゃぁ、手ごわそうだ、だって体育館(Gym)なんだろう?、
ジムの魔法使いってやつは…」。
幸いなことに、三月兎と帽子屋は、このクロッケー大会に参加できるようになっていた。
女王がいなくなって、お茶会から解放されたからである。
会場は、三月兎の家からはそれほど遠くなかったが、とても奇妙な所であり、
地面はチェス盤、クロッケーに使う木槌とボールも、フラミンゴとハリネズミだった。
帽子屋の足元には、寝ぼけたペンギンがうろうろしており、彼は時々、ハリネズミと間違って、
ペンギンを吹っ飛ばしていた。
「バカだな、とろいんだよ、お前は!」。
そう言って帽子屋をからかう三月兎も、ハリネズミとけんかばかりして、一向にすすまない。
アリスも試しにやってみたが、なかなかうまくいかなかった。
ボールを打とうとすると、フラミンゴは首を上に向けてアリスを睨みつけ、
ハリネズミも、叩く寸前で逃げ出してしまう。
しかも、参加者がみんな自分勝手にボールを打ち出すものだから、チェス盤の上をハリネズミが
勝手気ままに転がり回って、とてもゲームはまともに成立しそうもなかった。
途方に暮れていると、空中にうっすらと影が現れ始めた。
大きな前歯が浮き上がり、大きな切れ長の目が浮き上がり、そして聞いたことのある不思議な笑い声。
「調子はどうだい?、ダーリン」。
猫である。アリスは旧友に会ったような安堵感を覚えた。
「ご覧の通りよ、みんな勝手なことばかりやって、もう、めちゃくちゃだわ」。
「魔法使いは見つかったかい?」。
「残念ながらまだよ、何だか難しそうだわ、だって私、その人の顔も知らないんだもの」。
猫は次第に全身を現しながら、飄々として言った。
「大丈夫さ、あんたのエプロンにはQの文字がついている、
こっちがわざわざ探さなくたって、じきに向こうが気づくよ」。
猫は、白い毛をしていたが、胸のあたりには黒い毛が混じっていた。
「実を言うと、もうこの毛色には飽きてしまったよ、この地面の柄はいいねぇ、、最高だ」。
「チェス柄の猫なんて、ヘンよ」。
アリスが言うと、猫は首を横に振りながらこう言い返した。
「いや、チェス柄じゃない、ダイヤ柄さ、見る方向を変えればいいんだよ、そうすればダイヤになる」。
「ダイヤ柄でもヘンだわ」。
アリスは、気の乗らない風に、フラミンゴを振った。すると、何と、ハリネズミに当たった。
「やったわ!」。
しかし、ハリネズミは、彼女の狙った方向とは違う所へ飛んでいき、そこにいた髪の薄い男の後頭部を直撃した。
「う!」。
男が恨めしそうに振り返った。見知らぬ男だ。
ヘンな生き物がひしめくこの世界の住人にしては、全くまともな風貌ではあったが。
しかしちょっと強面である…。アリスは一応謝ってみたが、相手は何と、こちらに向かってくるではないか。
(困ったな、謝っただけじゃ許してもらえないのかしら、お説教は嫌だわ、時間がないのに…)。
アリスは助けを求めようと、空中を仰いだが、猫はすでに姿を消していた。
兎も帽子屋も、自分からはかなり離れた所にいる。
やがて男はアリスにかなり近づいてきた。
アリスは、彼の視線がある一点に注がれていることに気がついた。
彼女のエプロンの胸…あのQ文字に、である。
(向こうが気づく…)。
アリスの脳裏に、猫の言葉が蘇る。すると…この男が…。
「君、ちょっと聞くが、そのエプロンの…」。
男は、アリスが一瞬予想した通りの言葉を口にした。
やはりそうなのか…これが…。
「Qの文字は、どこで手に入れたのかね?」。
男がそう言うと同時に、アリスの口からもある言葉が飛び出していた。
「あなたが、ジムの魔法使いなの?」。
男はひどく慌てた様子で周りを見回すと、アリスの肩をつかんで、小声で言った。
「確かに私はジムだが…」。
「じゃあ、やっぱりそうなのね!、頼みがあるの、私を家に帰してくれる?、急いで…」。
ジムは、アリスの口を手でふさいで、人気のない場所へと移動した。
「待ってくれ、いったい何の話なんだ?」。
ジムの額には汗が浮かんでいた。目は泳いでいる。
「あなた魔法使いなんでしょ?、出来ないことはないはずよ、
願いごとはただ一つ、私を家に帰してくれればいいのよ」。
「本当に待ってくれ、魔法使いと言われても、出来ないことはないと言われても、
それは無理な話だよ、お嬢さん」。
「アリスよ」。
「そうか、じゃあアリス、いったいどういう行き違いで私が魔法使いにされているのかはわからんが、
それは君の大きな勘違いだ、私は魔法使いでも何でもない、ただのジム・ビーチなんだよ」。
アリスは腕を組み、仁王立ちでジムをにらみつけた、世にも恐ろしい三白眼で。
「でも、あなた、このエプロンのQ文字に反応したじゃない、
知ってるわ、あなたは女王を快く思っていなくて、目の上のたんこぶ扱いしていた、
だからこのQ文字を見て驚いたのよ、どうしてこんな小娘のわたしが、これを身に付けているか、
気になったんでしょう?」。
「アリス、ここの住人なら、誰だってそういう反応をするよ、別に私に限った話じゃあない、
何故なら、女王というのは絶対的存在なんだ、絶対君主(An absolute)だよ。
当然それを象徴するアルファベットのQも、特別のものだ、
それを間近で見て、驚かない人間なんて、いないんじゃないのかね?」。
アリスは鼻でせせ笑った。
「絶対君主ですって?、じゃあ聞くけど、首をはねろっていう命令で、実際に死んだ人は何人?、
あそこにいる三月兎と帽子屋はね、去年の三月、女王主催の宴会で時間殺しの罪を着せられて、
死刑宣告を受けたのよ、帽子屋が『Sell Away Sear Sister』って歌ったがためにね、
でも二人とも、ちゃんと生きていて、ここでクロッケーを楽しんでるわ、
これって、どういうことか分かる?、所詮女王は、無意味な存在だったわけ、
ついでにQ文字のことも教えてあげるわ、知りたいんでしょ?、
わたしは竜巻に飛ばされてここに来たの、そして女王の上に落っこちたのよ、
女王はぺちゃんこになって息絶えた、
もっとも女王は最初から紙切れみたいなものだったから、これはたいした問題じゃないわね、
ただの電気マニアの尻の下に敷かれて、簡単にくたばるような女王なんて、
まるっきりのオバカよ(An Absolute Fool)。
そして、わたしは女王にくっついていたQの文字を頂いたわ、
女王がもういないことを証明するためにね、
つまり…ジムの魔法使いさん、わたしが空から降ってきたおかげで、この世界はもうあなたの思うがままなのよ、
だから、あなたはわたしに逆らえないんだわ、さあ、おとなしくさっさと魔法を使って、
私を家に帰して頂戴、こんなこと、あなたなら朝飯前なんでしょう?」。
アリスは鼻にかかった声で、早口でまくしたてた。
いつのまにか、アリスの後ろには、三月兎と帽子屋が陣取っている。
「あんたが噂の、“体育館の魔法使い”かい?」。
兎は、ジムの頭のてっぺんからつま先までをジロジロ眺めて言った。
「いや、違う、私はほんとにただのジム・ビーチなんだ、魔法使いなんかじゃない」。
帽子屋が首を傾げた。
「体育館の桃ですって?」。
「ピーチじゃない、ビーチだ」。
「ああ、砂浜仕様の体育館か、それじゃ“七つの輝ける海”が必要だ」。
「別に七つでなくたっていいじゃないか?、体育館なら一つで十分だろう?」。
三月兎が文句を言うと、帽子屋は、自分の言葉に酔いしれるようにつぶやいた。
「なあに、ラッキーセブンだよ」。
そして、足にまとわりついていたタンコブだらけのペンギンを抱き上げて、
アリスと兎とジムを交互に見ながら、こう言ったのだ。
「ラッキーついでに、もし彼が本当に万能の魔法使いなら、僕たちの願いも
叶えてもらおうじゃないか」。
ジムは手を三人の前で大きく振り、声を荒げた。
「違う違う!、違うんだよ、私は魔法使いではないと言ってるんだ!」。
「あなたは否定しているが、あなたが魔法使いではないという証拠も、
魔法使いであるという証拠もここには示されていない…ということは、
結果的に、あなたは魔法使いかもしれないし、魔法使いでないかもしれない…ということなんですよ」。
「何だかややこしいな…」。
兎が頭を抱えた。
「つまりどっちでもないということです」。
帽子屋は瞬きもせず言った。
「どっちでもない、ということは、すなわち…」。
「どっちでもあるってことね」。
アリスが、ひらめいたように声をあげた。
「そう、その通り、今の時点で、あなたは自分が万能の魔法使いだと我々に指摘されても、
完全否定はできない、ということなんですよ、みんなが納得できるような証拠を出さない限りね」。
ジムは顎に手を当てて悩んだ。
「だったら、私がここで、魔法使いではないという証拠を出さない限り、
私がただのジム・ビーチであることを君たちには信じてもらえない、ということなんだな」。
三人は頷いた。もちろん、兎はよくわかっていなかったので、つられてそうしただけだった。
「だったら簡単だ、そうだな、ではまず、君たちの希望を聞こうじゃないか、
アリスは家に帰ることだったね、それじゃ兎さんはなんだい?」。
三月兎は反射的に、こう答えた。
「オレはとびきりカワイ子ちゃんとデートがしたい…と言いたいところだけど、
真面目な希望にするよ、もっとヘビーな音の出るタンバリンが欲しい、今使ってるやつはイマイチなんだ」。
「そうか、じゃあ、帽子屋さんはがお望みだい?」。
帽子屋はかなり迷った。あまりにも迷っていたので、他の三人は自分たちが何をしていたのかを
忘れるほどだった。ペンギンは再び眠ってしまったようだ。やっと帽子屋は口を開いた。
「そう、足りないものがあるんだ、僕の『過激な特派員』には…、
だから、真珠のボタンが欲しい、なるべく大きいのが、ギターの指版に埋め込むマークにしたいんだ、
これをつければ、『過激な特派員』は完璧になると思う」。
「よし、わかったよ」。
ジムは彼らの願いを一通り聞くと、大きく深呼吸をして、人差し指を空へ向けた。
そして、空中に大きく、ある一文字を書いたのである。
「Q」、と。
誰もが固唾を飲んだ。いよいよ、魔法使いの術が炸裂する…。
数分後、自転車に乗った素っ裸のカワイ子ちゃんが、ベルをチリンチリン鳴らして、
彼らの傍らを横切っていった…それだけだった…。
タンバリンも真珠のボタンも現れない、アリスは兎と帽子屋の間に突っ立ったまま。
ジムは大きくため息をついた。
「だから言っただろ?、私は魔法使いでも何でもない、ただのジム・ビーチなんだって
どうだい、これで分かったろ?、これが証拠だよ、私は魔法なんか使えないんだ」。
その場を立ち去ろうとするジムの腕を、アリスは思わず掴んだ。
「待って、出来るのに出来ないふりをしてるかもしれないわ、彼は嘘をついてるかもしれないのよ、
彼が出来ないっていう証拠は、出来るっていう証拠と同じように、どこにもないんだもの」。
ジムは頭を抱えながら声を荒げた。
「しつこいなあ!、私はさっきから、魔法使いじゃないって言ってるだろう?、
出来る証拠よりも出来ない証拠の方が明らかじゃないか、出来ないのに出来る振りなんか出来るかい!、
さあ、もう放してくれ!、私は帰るよ!」。
その時である。突然彼らの頭上に、不思議な声が響いた。
「いい加減、しらを切るのはやめなよ、ジム」。
アリスが声のする方を向くと、そこにうっすらとした影が現れ、やがて大きな前歯が現れ、
大きな切れ長の目が現れ…白い毛色の猫の顔が現れた。
「僕はすっかり、お見通しなんだぜ、ダーリン」。