ドラ次郎が行く―サクラの恋 (1)
Written by MMさん
下町の老舗だんご屋、「どら屋」では、今日もジムじいが、額に汗して、上新粉を練っている。
時々仕事の手を休め、外の様子を見ては、ため息を一つ、二つ。
店先では、よれたTシャツに短パン、エメラルド色のエプロン、古ぼけたビーチサンダル、
ひっつめ髪の姪、サクラが、じいと同じように、通りを行き交う人に時々上目遣いでガンを飛ばし…ではなく、目を凝らしていた。
まるで、何かを待っているような雰囲気である。
そう、先ほどから、この二人、全く根拠のない、嫌な予感に苛まれている。
ドラ次郎とサクラの兄妹は、幼い頃に両親を失い、親戚の団子屋を営むジムじいの元に引き取られた。
おとなしいサクラとは対照的に、ドラ次郎は、やがて、他校の番長の彼女に手を出しただの、
結構美人な女教師に手を出しただの、先生の女房に手を出しただの、殿方が一度は夢見るような(?)
数々の悪戯の限りをし尽くして、とうとうジムじいの手にも余り、勘当同然で家を追い出された。
それ以後、ドラ次郎はどこかにあてのない旅に出ては、ひょっこり帰ってきたりを繰り返していたが、
ドラ次郎の御帰還は、ジムじいにとってあまり有難いことではない。
帰ってくると、必ずよからぬことが起こることになっているので。
彼らは、何となく胸騒ぎがする度、いつもこうして、不安げに外を眺める癖がついているのである。
悪い予感ほどよく当たる。その日の夕方、店の前が急に騒がしくなった。
リオのカーニバルのような賑々しいドラムが炸裂していた。
ジムじいとサクラが慌てて玄関に飛び出してくると、あぁ、やっぱり。
そこには、首から太鼓をぶらさげ、過激なコスチューム姿のおねえちゃんを両肩にはべらせた
サングラス姿のパツキン兄ちゃん。いきなりハイトーンなハスキーボイスで一言。
「よっ、ジジイ!。けぇってきてやったぜ!」。
唖然とする二人を尻目に、パツキン兄ちゃん―ドラ次郎は、おねえちゃん達を抱きかかえ、
「遠慮すんねぇ、自分ちだと思ってくつろいでくれぃ!」と、どかどかと茶の間に上がりこんだ。
右手には、ウォッカの瓶がしっかり握られている。
しばらくはしゃいでいたドラ次郎だったが、真っ赤な顔のジムじいの隣に座るサクラに気が付き、顔を覗き込んで、にんまり笑いながら言った。
「よぉ、サクラぁ、おめェ、少しはキレイにしてっか?、ん?、ちゃんとひげ剃ってるか」?
隣のデハデハおねえちゃんがそれを聞いて大笑いする。冗談だと思っているのだ。
とても性質の悪い、冗談だと…。
でもそれは、本当は全然冗談ではない。悲しいかな、サクラにとって非常に忌々しきことだが、あまりにも歴然とした事実なのである。
しかも、それだけではない。もっと深刻な問題が彼女にはある。
確かにそうでス。サクラはひげ生えてまス。それだけじゃないの。
本当は胸毛も、は、え、て、るんだよぉん。指も腕も筋張ってますゥだ。
でもいいじゃん、日々の生活に追われて、手入れする暇なんかないんだもん。
毎日忙しくて、鏡で自分の顔をじっと見つめる時間なんかないんだもん。
毎日、おうちでお母さん代わりしてるから、腕も指も鍛えられちゃって、
こんなにスジスジになっちゃったんだもん。
でも私だって、好きでこんな風に生まれたんじゃないわ、生まれた星が悪かっただけ…。
そう、ほんとに私は本当に不幸な女。でも情けなんかいらないわ。
どんなに頑張ってみても、この現実からは逃れられない。
どの道風は吹くけど、風では無駄毛は飛んでいかない…。
目を見開いて天を仰げば、サクラの頬に、一筋の涙…(ついでに鼻水も)。
この涙がいけなかった。この涙が、先ほどからドラ次郎のはちゃめちゃな態度に悶絶していたジムじいの怒りのツボを刺激したのだ。
「ブチッ」
今なんか音がしたよ、何だ?、何だ?。そう、堪忍袋の緒と下駄の鼻緒は、切れるためにある。
突然、上新粉がその場にいた者たちの頭上から降り注いだ。
「あ、こら、ジジイ!。何しやがる!ゴホゴホ」。
ドラ次郎がむせながら叫んだ。粉っぽいモヤの中から、仁王立ちしたジムじいの、やたら勇ましいシルエットが浮かび上がった。
「おめェなんぞ、一族の面汚しだ、ゲホゲホ」。
シルエットは、憎悪のこもった声でそう言った。
「可愛そうに、おめェのせいでサクラはいつまでたっても嫁に行けねェ!ゲホゲホ」。
ドラ次郎は口を押さえながら、俊敏に立ち上がり、ジムじいに向かって叫んだ。
「あぁーそーかいそーかい!、何でもかんでもオレが悪いってわけかい、
あぁ、わーたよ!、上等じゃねェか、出てってやるよ、今すぐ出てってやるからな!ゴホゴホ!」。
ドラ次郎は、一度外したサングラスを再びかけ、玄関へ飛び出した。
あとから、派手なおねェちゃん達もそれについて外に出た。
「ばかやろー!、二度と戻ってくんなぁ!ふえっくしゅん!」。
ドラ次郎の背中に、ジムじいの罵声が吐きかけられた。
サクラがじいの手を振り解いて追いかけたが、すぐにドラ次郎の姿は、おねェちゃんごと闇に消えた。
サクラの頬には、先ほど流した涙の痕に吸い付くように、上新粉の筋がくっきり浮き出ていた。
威勢良く飛び出してきたはいいが、実は行くあてのないドラ次郎は、翌日、とある教会へと向かう。
♪ばぁ〜らが咲いた〜、ばぁ〜らが咲いた〜、真っ赤なばぁ〜ら〜が〜〜♪。
石段を途中まで登ったところで、「薔薇が咲いた」の熱唱が聞こえてきた。
思わずつられて、ドラ次郎も勝手にコーラスを入れる。
♪さ〜みしかったぁ、ぼぉ〜くのに〜わに、ば〜らがさぁ〜い〜たぁ〜♪。
庭では、まだ若い牧師が、薔薇の手入れに余念がない。
「ね、新作の薔薇だよ、きれいでしょ?」。
牧師は、満足そうに薔薇の花びらを触っている。
「相変わらず、いい声だねェ」。
ドラ次郎が誉めると、牧師は少し長めの髪を手でかきあげ、ゆっくり振り向いた。
いやぁ、実に立派な前歯である。だから歌もうまいんだ。
ドラ次郎は何も言わなかったが、牧師にはすべてお見通しのようだった。
「せっかく帰ってきたのに、また喧嘩したね?、顔にそう書いてあるよ、だありん」。
「さんざんしぼられてきたよ」。
(、その割には、あまり痩せてまへんな)。
ドラ次郎は、庭石の一つに腰掛けて、ふっとため息をもらす。
「ジジイの言うにはね、サクラが嫁に行けないのは、オレが悪いからだって言うんだ、
ま、一理あるけどさ、いわばオレって、ふーてんじゃん?(ふうせん?)。
でもほんとにそうかな、オレ、最近あいつを見て思うんだけど…」。
「思うんだけど?」。
二人はしばし、お互いの顔をじっと見合わせていた。
それは、もはや言葉で会い交わす必要もない、あまりにも明確な事実を共有していたことの証でもあった…。つまり、それは…。
いや、よそう。あまりしつこく言うと、サクラが不憫だ。
実を言うと、サクラには心の秘密がある。
平日、サクラは近くの印刷工場の事務をしている。ここに入った当初、右も左もわからぬ彼女に、親切にしてくれた若い工員がいた。
仰ぐほど背が高く、物腰もやわらかく、それでいて組合の集まりでは雄弁な(ただし話は長い)、なかなかの好青年だった。
サクラは、彼の名札に書かれていた「五月」を読み間違い、周囲からさんざん失笑を買うという大失態を犯したことがある。
そう、彼女は自信たっぷりに、こう呼んだのだ。
「ゴモクさん」。
しかし、当の青年の方は、周りのサクラに対する「アッホでねぇか!」の罵倒を無視し、
ただにっこり微笑んでこう言っただけだった。
「いいよ、ゴモクで」。
この瞬間、エロスの金の矢が、サクラの胸に打ち込まれたのである。
(たぶんこの分でいくと、サクラは麻婆豆腐のことも、あさばば豆腐と読むのだろう)。
彼を目の前にすると、いつも目が潤んでしまう。破裂してしまいそうな狂おしい気持ちになる。
(本当に破裂して、小さいサクラが一杯出てきたら、どうします?)。
彼が、事務所に立ち寄り、彼女に微笑みを投げかける時、ふいにサクラは、突飛な妄想に駆られ、すぐさまそれを打ち消す。
そんなこと、あるわけない、あるわけない、あるわけ、な、い、じゃぁ〜ん!、と。
そうよ、サクラのオバカさん、自分がどんな姿だか、よくよく鏡で見てごらん…。
彼は誰にでも優しい人のようだった。サクラにとっては目障りなお局様にも、不快極まるセクハラ上司にも、
理解出来ない若者言葉を駆使する、生足の若い事務員にも、誰にでも…。
あの笑顔はね、私に向けられたものじゃないのよ…、サクラは何度もそう自分に言い聞かせた。
私なんて、ゴモクさんの世界の中にいる、とりたてて何の特徴もない羽虫の一匹に過ぎないのよ、
決して、誰の目をも奪ってしまう華やかな蝶にはなれないのよ…と。
とある休日のことである。サクラはまさに彼女の仕事着である、よれよれTシャツに短パン姿で、近くの八百屋に買出しに出かけた。
しかしそういう時に限って、会ってはならない人に会う。それが人生というものかもしれない。
いったいどういう悪い偶然なのか、ゴモクが黒いジャンパーのポケットに両手を突っ込んで、ぶらぶらと歩いていたのである。
サクラは、自分の身なりを確認して、狼狽した。
(こんな格好!、見せられない!!!)。
どーしよー、どーしよー!。思わずサクラは、この場から退散しようとしてきびすを返し、一目散に駆け出そうとした。
しかし人生はやはり皮肉だ、その時…さらに悪い偶然の重なりなのか、ブチっと鈍い音とともに、サクラの体が前のめりになった。
ビーチサンダルの“鼻緒”が切れた。そう、堪忍袋と下駄の鼻緒は、切れるためにある。
おそらくビーチサンダルも、また然りだろう。サクラはあられもない姿で、歩道に転がった。
(あぁ、短パンからパンツが見えちゃう…、こんな時に限って、○゙ンゼなのに)。
一瞬にして、サクラの周りには人垣が出来た。
サクラは顔から火が出る思いだった。きっと鼻も相当に真っ赤になってるんだろな…。
せめてこの場に、彼がいなければいいのに…。
「私、大丈夫です、大丈夫です!、大丈夫なんです!!!」。
数多くの救いの手を振り払って、立ち上がろうとしたサクラの目の前に、細くて青白い顔がぬっと現れた。
そして、大きな手が、サクラの筋張った手にそっと触れた。
見られた、見られてしまった…この格好、みんなサクラは身なりに無頓着だと責める。でもそんなこと知ってる。
ただ私はいつも忙しくて、そこまで気持ちがいかないだけ…。とてもみっともないことは、十分自覚してる。
でも、これを見られるのは、非常にはずかしいことなのだ…それを見られた、しかも○゙ンゼパンツ付きで…。
私って結構不幸な女(こんな姿見られちゃって)。でも情けなんかいらないわ…。
どの道風は吹くんだから。風が吹けばスカートめくれてパンツを見られることもある…。
サクラの頬をつたう一筋の涙…、
その時だ、サクラはすべてを疑った。永遠と思われる太陽や星の存在さえも。
彼女の涙をそっとぬぐう繊細な長い指先を頬に感じたその瞬間に…。
「大丈夫かい?、一人で立てる?」。
耳元で囁かれた、テープのはためきのような声、ずわい蟹のような腕が、サクラのがっちりした肩に置かれた。
…そう、それはサクラが長い間、夢見続けていたこと…。
これは真実の出来事?。それとも幻?。(あぁ、頭の中で重厚なコーラスが鳴ってる…)。
「○△□♂♀ 」。
声が出なかった。わざと口パクしてるのではない。本当に声が出ない。やっとしぼり出すようにして出たのは
「何でもないんですゥ!」。
というアヒル声の一言だった。そしてもう一度立ち上がろうとしたが足首に力が入らない。
再び無様にゴロンと地面に転がるサクラを、ゴモクが抱き起こした。
「大丈夫、ボクが送っていくから、安心して、いいかい?」。
いいかい?だなんてそんな。サクラ、まだ心の準備ができてましぇ〜〜ん。
それに今日は○゙ンゼのパンツだしぃ。
うちにいる口うるさい団子ジジイを、まず戸棚の中に押し込めなくちゃ…。
妄想驀進中になっているサクラの頭の中など、ゴモクが知る由もない。知ればひょっとすると、ここから逃げ出しているかもしれない。
ゴモクは優しい。困っている人を見捨ててはおけない性格である。それが時と場合によっては、ただのお節介にもなる。
口うるさいこともある、解って欲しいという気持ちが強すぎて、やたら話が長くなることもある。
どうしたら最良の結果を得られるのかを熟考しすぎて、決めるのにやたら時間がかかることもある…。
いや、この際そんなことはどうでもいいや…
とにかく、実際、サクラは、ゴモクの腕の中にいた。
これは真実?それともただの幻?。
まるでレッド・バトラーに抱きかかえられるスカーレットのように、サクラが鉛筆と下敷きがワンセットになったような
極めて二次元に近い体と、ほんの一瞬、密着していたのは、確かに真実だった…そう、ほんの一瞬。
なぜならその直後、鈍い音と同時にサクラは空中に放り出され、二人とも八百屋のバンに乗せられて、
そのまま病院に連行されたからである。…ゴモクは…ぎっくり腰になっていた。
でもいいんだ、サクラは幸せ。だって、だって、八百屋さんの車の中で、ゴモクさんとずっと一緒だったんだもん。
後ろの座席で、べったり二人でひっついてたもん。額の脂汗とか、じゃんじゃん拭いてあげたし、
手もぎっちり握っちゃったもんね、おっきくてゴツゴツした手だったなぁん。もう、足首の痛みなんか、全然忘れちゃったよんだ。
もう今日は幸せ一杯なんだ。さ、明日からしばらく、彼の身の回りの世話に勤しもうっと。
もうサクラは何でもするわ。ごはんも作るし、お風呂も入れてあげるし、パンツだってじゃんじゃん洗っちゃうし、
ララだって○○だって、彼が望めば、何だってやるわよ、わ、た、し、は。
あたしって、何て健気な女の子なんだろう!!。
サクラは、我ながらよく頑張ったと思う。さすがに、密かに期待していた、ララとか○○はなかったが、
彼女の献身的な行動は、心根の優しさが災いして、いつも煮え切らなかったゴモクの心を動かすには十分過ぎた。
親元から離れて一人で慣れない場所で暮らす寂しがりやの青年が、だ。
ぎっくり腰で日常生活もままならぬ心細い状況に置かれた時、ここに笑顔で尽くしてくれる人が傍にいれば、
それはもう、何らかの心の変化があったって、不思議なことではあるまい?。
しかもちょっと虚弱体質だったりすればなおさらではないだろうか?。
たとえ、こうなった原因の一端が彼女にあろうとも。
…と、いうわけで、彼氏が欲しい方、ぜひ、弱ってる男を狙って下さい。常に弱ってる男だと苦労します。
出来れば、臨時に弱ってる男を狙いましょう。
二人の距離は急速に接近し、今までどう考えても、あまりにも突飛だったサクラの妄想も、あながち実現不可能なことではなくなってきたようだ。
サクラは、家に戻ると部屋にこもり、箪笥の中をゴソゴソあさった。
確かあったはずだ、ジムじいには内緒でこっそり通販で買った、人にはとても言葉で説明できない仕様のエメラルド色の下着が…。
まさしくそれは、いつか来るまさかのために用意した「勝負パンツ」。
ふんだ。みんなサクラにはそんなことは起こりえないと思ってるに違いない。
でも、そんなこと、わっかんないもんねェ〜だ!。だって世の中、ミラクルなっんだからね〜〜っ。
♪誘いの言葉、塀の向こうの淫靡な光…それは奇跡♪。
♪小さなフロントの窓、暗い廊下…それは奇跡♪。
♪窓に映るネオンの灯、天井にぶら下がる小さなミラーボール…それは奇跡♪。
♪小雨のようなシャワーの音、意味ありげなベッドの脇のごみ箱…それも軌跡♪。
(さも、見てきたようなことを書いてますけど、これはあくまでも想像です)。
さっ、お風呂で無駄毛剃ろうっと。いつかくるかもしれない、まさかのその日のために…。
今までにも、二人きりの空間はあった。しかし、あれは看病であって、デートではない。
しかも肝心のゴモクが、ぎっくり腰で棒っきれ状態では、どうにもならない(サクラよ、何を期待していたのだ?)。
彼がようやく自らの親切心から招いた悲劇から立ち直る頃、サクラはやっと、ロマンティックな期待に胸を馳せることを許された。
ここまで来るのに、ずいぶんと時間がかかったものだ。季節はもう一巡している。
何を着ようか…迷うほど持っていないのが実情だった。
折角とりつけたデートだというのに、これといってお洒落なものは何一つない。
自分で一番だと思っているコーディネートは、ディズニーのトレーナーと白いサロペットなんだが…。
(しかしこれでは、トイレの時困るな…それに、肝心な時に、てこずりそうだ…)。
姿見の前で唇をひん曲げながらサクラは悩む。不動のラインアップは、エメラルドパンツだけだ。
(だいいち、白ではその肝心のエメラルドのパンツが写りそうだし…)。
いっそのこと、ドラ次郎が昔置いていったきりのジーンズにするかな…
試しに履いたが、腰まわりがでかくてずり落ちてくる。とりあえずベルトでごまかしてみた。
しかし何となくしっくりこない。
あぁでもない、こぉでもない…と悩んだ末、サクラは着飾ることを断念した。面倒くさくなったのだ。
ただ、バックの中には、着替えのパンツくらいは用意しておこうと思う。もし、もし、本当にもしも外泊なんてことになったら、
やはりスペアがないと心もとない。
(しかし、これがあとで命取りになることを、サクラは知る由もなかった)。
結局ドラ次郎のジーンズを拝借した格好で、階下に降りていくと、店から、聞きなれた美声が聞こえる。
「そ〜ね〜、うぐいす団子にするかなぁ〜」。
牧師だった。黒ずくめの格好だが、何故か頭には派手な羽付き帽子を被っている。
サクラは軽く会釈して、その場をやり過ごそうとした。大人びた期待に胸が一杯の状態では、大人の顔もまともに見られない。
しかし…さすが牧師、サクラの紅潮した鼻を見て、すぐ様事情を察ししたようだ。
もちろん、鈍チンのジムじいには分かろうはずもないことだが…。
牧師は、サクラの袖をつかまえて、店の隅に行き、耳元で囁いた。
「ひょっとして、だありん、その何か浮ついた表情は…、デートだったりするんじゃないの?」。
「え?、え?、え?、何のことですかぁ?」。
サクラは周囲を見回しながら、しらばっくれた。しかし、狼狽した様子を隠せるわけがない。
結構彼女は、顔に出るタイプなのである。
牧師も、周りを見回した。ジムじいは、客と話をしていてこちらの様子には気がつかない。
「その格好は、まずいんじゃないの?」。
「え?、え〜、どこがかなぁ」。
人様の幸せは私の幸せ…これが牧師のモットーである。このモットーを胸に、常に彼は行動をしてきたつもりだ。
かつて、一度帰還しながらあえなく玉砕し、教会に来たドラ次郎の思案顔が、牧師の脳裏に浮かぶ。
さんざん悪態をついた彼でも、たった一人の血を分けた妹のことを、不器用ながら気遣っているのだ。
そしてサクラも、言葉にはっきり出さねど、やはり人並みの幸福を願っている…。
そうです、そうですよ、そうですとも。
こんな時、私が一肌脱がんで、誰が脱ぐ????。だありん!。
まがりなりにも、わたしは神に仕える身ですよ。しょっちゅう破戒はしてますけど。
でもやる時にはやるさ。ええ、やりますとも。
ベストを尽くして、人様に尽くしますよ、私は。はい。
サクラはすぐに教会へ連れていかれ、そこでパリコレ並の着替え合戦が行われた。
なかなか決まらないサクラのベストモードにいらつきながら、牧師は取っ替え引っかえ、ワードローブから衣装を出してきた。
どれもこれも、サクラが今までに見たことのないような、派手なものだ。
しかし、何で牧師がこういう服を持ってるのだろうか?。
実際着る機会なんかあるのだろうか?。ひょっとしてこの人は…いや、今はよそう。
今は自分のことで精一杯だから…。
やっと、牧師がこれだと思ったものが決まると、今度はすぐさまメイクに取り掛かる。
サクラは、無駄毛の処理でほとんど力を使い果たしていたので、メイクにまで心が行き届かなかった。
そして最後、いつもワンパターンのひっつめ髪を解いた。
大きくカールした明るい栗色の髪が、ゆったりとサクラの輪郭を覆った。
「ほら、見てごらんなさいな」。
牧師に言われるままに、鏡の中の自分を覗き込む。そこには、いつも地味に机に向かっている自分でも、
休日に粉だらけになって、叔父を手伝っている自分でもない、全く新しい自分がいた。
ラメ入りの黒い、肩が大きく開いたフリル付きのシャツ、首には大きなリボン。
裾に真っ赤な薔薇の刺繍がほどこされた黒いベルボトム。
そして、何より、くっきりと強調された目元と、真っ赤な口紅が塗られた、まさにそそるような唇…。
「………」。
サクラは声を失っていた。これは誰なんだ、と自問自答していた。
これが私か?。ほんとか?。
これは真実?、それともただの幻?。
ほんの一瞬かもしれない、でもその瞬間、自分は華やかな蝶になることを許された。
そう、今日はどこにでもいる羽虫ではない、誰の目にもとまる蝶でいよう。
「さ、仕上げ」。
最後に牧師は、自分が被っていた羽付き帽子をサクラの頭にのせた。
「出来たよ、ほら、行ってらっしゃい、だありん」。
その数時間後…サクラとゴモクは、水族館のペンギン舎の前にいた。