ドラ次郎が行く―サクラの恋 (2)
Written by MMさん
いったい何時間、こうしているんだろう?。
後ろにはうるさいガキども、目の前には無数のペンギンの群れ、周囲に漂う魚の生臭さ、
そして隣には、さっきから無言で、ずっとうっとりとペンギンを見つめるゴモク…。
確かにデートの場所は相手に任せた。
普通は男性が女性をエスコートするものだと思ったからだ。
しかし、その場所が水族館…しかもペンギン舎とは。
水族館には、他にもたくさん見るものがあるではないか?。
イルカのショーとかさ、アシカのお絵かきとかさ、ウーパールーパーとかさ、マグロとか鮭とか、鮫とかタコとか、
え?、いろいろいるんじゃないのか?。ん?。
それが、さっきから私たちは、このペンギン舎から一歩も動いてないじゃないか!。
私たちはどーなる?。まさかこれから閉館時間までこういう状態を維持するつもりか!、
だったら、私のエメラルドパンツは、いったいどーなる!。伸びたい、もっと伸びたいと皮膚に必死に張り付きながら、
無念の撤去に甘んじた私の無駄毛たちは?!。
子供たちの声で溢れるペンギン舎で、ラメシャツに羽付き帽子のサクラは、完全に浮いていた。
首に巻いた大きなリボンのせいで、サクラ自身もペンギンに見える。
彼女は、この耐えがたき時間との果てしない戦いをどう終わらせ、ムーディーなシチュエーションに持っていくか、
そのことばかりに思いを馳せた。こんなはずではなかった。
憧れの彼と二人きりで、もっと胸をときめかせていたはずだったのに…。
ふと、ゴモクが唐突に口を開いた。
「ペンギンって、いいよねぇ」。
「はぁ?」。
「陸地にいる時は、あんなに不器用だけど、一度水の中にはいると、まるで別な生き物にでもなったかのように、はつらつと泳ぎだすんだ」。
(だったら、あんたも水の中に入れば、スピーディーに動いてくれるのか?)。
「鳥って普通、みんな翼があるよね、でも同じ鳥でありながら、ペンギンの翼は自分の体を空中に浮上させるほどの力を持ってない、
不公平に思うだろう?、でも神様は彼らに、空を飛ぶ自由のかわりに、海の中での自由を与えたんだ、
他の鳥類が持ち得なかった自由を、彼らは享受したんだ、これって、とっても素敵なことだと思わない?」。
話題を子供の質問箱からどうやって大人の質問箱へ持っていくか…。
ペンギンが素晴らしい?。ああ、素晴らしいよ、あんな短い足でもちゃんと歩いてるんだから。
じゃぁ聞くけど、ペンギンって、どーやって○○○するんですか?!。おせーて、せんせー!。
…いや、この質問はダイレクトすぎて、よくないな、サクラの人格を疑われてしまう…。
サクラは、焦燥感を紛らわすために、ポケットからピーナッツの袋をそっと取り出し、一粒口の中に放り込んだ。
すると、目の前のペンギン達が、にわかに色めきたった…彼らの視線は、一斉に彼女の手に握られたピーナッツの袋に注がれていた…。
「知ってる?、恐竜ってね、爬虫類の先祖だって思ってる人が多いけど、実際は鳥類に近いんだってさ」。
(なんじゃ、おのれら、ピーナッツが食いたいんか)。
ふと、嫉妬と悪意がサクラに芽生える。彼女はピーナッツを数粒つまむと、いったん向こう側に投げるふりをして、
全部自分の口の中に入れた。もらえると思ったペンギンは、ドタキャンを食らって、全員不満の声をあげた。
ギエー、ギエー、ギエー…。
「何だ、今日はみんな、機嫌が悪いな」。
サクラは、今度は一粒だけつまんで、群れの中の一番とろそうな一羽をねらい、投げつけた。
ポコ!、命中!。痛がる様子はなかったが、自分の体に当たったピーナッツを拾おうとして、
必死に下を向こうとするペンギンの情けない格好に、息をこらして笑った。
ペンギンは、腰が曲がらないので、落としたものを拾うことはできないのである。
(ざまぁみろ!おのれらのせいで、ワタシのエメラルドパンツはお蔵入りになりそうなんじゃ!)。
「…で、鳥の先祖と思われる化石ではね、羽毛の他にウロコが残っていてね、まさに生物は、
魚から両生類、爬虫類、鳥類って、ほんとに順を追って進化していったんだ、これも一種の生命の神秘だよね」。
サクラは、今度は片方の鼻の穴にピーナッツを入れ、もう片方の鼻の穴をふさぎ、ふんっと思い切り飛ばそうと試みた。
(これでも食らえ!)。
あ、不発…頼りなく足元に、ピーナッツが落ちる。
それをそっと、つま先で押し出して、えい、えい、と、ペンギン舎の中に入れようとしているところで、ゴモクがサクラの方を向き直った。
「サクラさん、あのね、今日誘ったのは…」。
いかん…サクラの鼻がムズムズし始めた。
「ふぇーーーーーーークシュン!」。
ピーナッツにまぶしてあった塩がいけなかった。
ゴモクの顔に、べっちょりとサクラの鼻水がついた…。
「あ、あ、あ、だああああ!」。
あまりの失態に、サクラは狼狽し、ほとんど言葉を成していない声をあげ、慌ててバックからハンカチを出して、ゴモクの顔を拭く…。
「い、や、自分で拭くからいいよ…」。
辛抱強い男だ。かなり引きつってはいるが、まだ笑顔を維持してる。彼はサクラの手からハンカチを取り、顔を拭った。
そして次の瞬間、ゴモクの目は点になった…。
彼の手に握られた、ハンカチだとばかり思っていたものは…パンツ…。
そう、替えのパンツ…。それも○゙ンゼの…。
綿100パーセントのクリーム色した大ぶりの○゙ンゼパンツ…。
サクラがそっと、まさかの一夜のためにスペアとしてバックに忍ばせた、あのパンツ…。
「あ、あ、あぁぁ、えぇと、あぁん?」。
サクラは見た。どんなに失態を演じても、決して怒ることのない優しかったゴモクの瞳に、疑念の炎が湧きあがってくるのを。
以前、さくらはこんな話を聞いたことがある。
仏と言われるゴモクが怒った時は、相当に恐ろしいということを…。
そういえば、仏の顔も三度まで、と言う。少なくともサクラは、もう三度以上の失態を演じている。
もしもゴモクの、相当恐ろしいと言われる雷が落ちてきたら…。
サクラは瞬間的に、その場を走り去っていた。
今までの、胸の中で膨らんでいた期待は無残に砕け散り、その破片がサクラを責め続けている。彼女は恥ずかしさで胸が張り裂けそうだった。パンツそのものではない。これまで巡らせていた限りなくアホ臭いみだらな考えを巡らせ続けた自分が恥ずかしかったのだ。
バカ!、バカ!。サクラの大バカ!。こんなバカばっかり考えていたから、何もかもダメにしちゃったじゃない!。
これは現実?、それともただの幻?…。
ただの幻なら、早く現実に戻して。誰か言って。これはただの悪夢だと。
そのうち醒める悪い夢に過ぎないんだと…。
サクラは後ろを振り向く。彼の長い足なら追いついてもいいはずだ…しかし…
そこには誰もいなかった…。
走り疲れてよろめきながら帰路につくサクラは、それでも何とか最後の気力を振り絞り、
気持ちを日常の雑事へと向けて、崩れ落ちそうな心の平衡を保とうとした。
とにかくうちへ帰って、お風呂に入ろう、そして借りた服を洗濯しよう、エメラルドのパンツも
洗ったら、箪笥の奥にしまおう、もうしばらくは出番もなさそうだから…、
え、待てよ、パンツ、パンツ…パ、ン、ツ…。パンツう?。
突然、サクラの脳裏に、あの○゙ンゼパンツが浮かぶ。
いかん!。あれをゴモクに渡したままだった!。
げっ。それではあれは、今もゴモクの手の中にあるのか!。
ゴモクの怒りに満ちた視線に当てられているのか!。
そう思ったとたん、
(あぁ、もう、ダメ…)。
サクラは、その場に倒れた。
これは本当のこと?。それともただの幻?。
地すべりに足を取られ、逃れることの出来ない現実、悲惨な現実…。
恋は始まったばかりだったのに、もう壊れてしまった…。
―彼女はとても哀れな女、
―この惨めな運命から、救ってやろう。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆でも、もう遅すぎる☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆。
(サクラさん、サクラさん)。
…そう、わかってた、我ながら馬鹿な夢を見てたって。
みんなが私をどう見ているのかも知ってる。
今まで、無頓着過ぎたんだわ。
でも本当は、こんな小さな世界から、飛び立つことが出来ると思ってた。
まわりの人は、きっとこう言うでしょうね。
あなた、いったいどういうつもり?。
伝票めくったり、団子作りを手伝ったり、炊事洗濯をして、叔父さんの面倒を見て…
それがお似合いなんだよ。
他に何を望むの?、
それ以外にあなたの世界があるとでもいうの?。
どんなに小さな翼でも、
一生懸命羽ばたけば飛べると言う人もいる、
でも私の翼はあまりに小さすぎて、
体は少しも持ち上がらなかった…、
そう、あの無様なペンギンのように、
飾りにもならない小さな翼と短い足をつけられて
笑われるために生まれてきたペンギン…。
もうやめよう、夢を見るのは。
どんなに背伸びをしても、
所詮私は羽虫に過ぎない。
どこにでもいる、とりたてて特徴もない、ただの虫、
どんなに背伸びをしても、
華やかな蝶には、
もう、なれないんだから…。
(サクラ、サクラ)。
私はもう、蝶にはなれないんだ…。
(サクラ、サクラ)。
私は無様なペンギンなんだ…。
(サクラ!サクラ!)。
…ペンギン、ペンギン、ペンギン、ペンギン…。
「サクラ!、おい、こら!サクラ!」。
突然の耳元に聞こえた大きな声に、サクラは目を覚ました。視界一杯に、ジムじの顔が広がった。
思わず飛び起き、彼女の顔を覗き込んでいたジムじいの頭と激突し、二人は共にあお向けに倒れた。
いったいここは?。
帰り道で倒れて、それからの記憶が一切途切れているサクラは、必死に今自分が置かれている状況を把握しようとした。
しかし…ここはどう見ても、自分の部屋である。襖も障子も家具も、みんな見慣れたものだ。
それでは自分は、いったいどうやってここに辿り付いたのだろうか?。
空中を飛んできたとでもいうのか?。
階段を昇ってくる数人の足音。そして襖が開き、二人の人物が姿をあらわす。
やっと起き上がったジムじいが、額を押さえながら彼らを指差した。
「サクラ、礼を言っとけ、牧師さんとあの青年がだ、道端で倒れてるお前を見つけて連れてきてくれたんだ」。
一人は牧師だった。モエ・ド・シャンドンのシャンペンの瓶を掲げている。
そしてもう一人は…
突然、サクラの頭の中に、無数のペンギンが現れ―そして彼女は気を失った…。
これは本当のこと?、それともただの幻?。
ペンギンが一羽、ペンギンが二羽、ペンギンが三羽…。
この部屋には、サクラとゴモクの二人しかいない。
かつてこんな光景があった。あの時は、ゴモクが布団の中で、サクラがその枕元にいた。
二人の立場は、一年たって、不思議と逆転していた。
「あのね…」。
ゴモクはまず、ポケットからそっと、小さく丸めた布を取り出して、そっとサクラに渡した。
「これ、返すよ」。
サクラがそれを広げると…う、これは例のパンツではないか!。あ、眩暈が…。
「何もしてないから…」。
何もしてない?。ほんとか?。ほんとは、密かに頭に被って遊んでいたんじゃないのか?。
さぞかし面白い光景だったろうね。そのカーリーヘアーに○゙ンゼのパンツなら…。
「今度は、間違いなくハンカチをもって来ようね」。
(ははは、ハンカチとパンツを単純に間違ったと思ってるんだな、そんな間違いするやつって他にいるのかよ!)
「実はね、サクラさん」。
あぁ、ゴモクさん、もう何も言わないで、わかってるわ、あなたの言いたいこと。
きっとあなたは次の瞬間、こう言うんでしょう。「もう、会わない方が、お互いのためだ」…と。
「大事な話があったから、誘ったんだ」。
誘った?、じゃぁ、パンツ事件以前から、言いたいことがあったというのか?。
「本当のことを言うと、僕はずっと前から、君のことが気になってたんだ…」。
あ、そう、私って結構、離れた所から見てると面白いって言われるの…。
「名札を読み間違えられた頃だったかなぁ…」。
あぁ、あれは傑作だったね、下手なギャグより上等だった。
だってまさしく天然ボケだもの。計算されてない、勢いの笑いがあったってわけよ。
「あの時の君の、照れて真っ赤になった鼻の頭が、とてもチャーミングだった…」。
はぁ?。鼻の頭?。おいおい。そりゃぁないぜ、酔っ払いじゃぁないんだから…。
「あれから、君のことが、忘れられなくなった…」。
それはちょっと大げさ過ぎるんじゃぁないのぉ?。
「いつも会いたいと思うようになったよ…」。
?????。
「君には悪いと思いながら…実は…」。
なに?、なに?、なに?。
「いや…よそう、これはちょっと下品過ぎる…」。
え、何?。わたし下品な話、だぁいすき!。おせーておせーて。ひょっとしてそれって、ムフフな話?。んん?。
「…実際、毎日事務所に寄るのが、楽しみだった」。
あぁ、そういえばよく来てたね、工場の鍵ぶら下げて。
「君はいつも、一番後ろの席でうつむいてた」。
それには理由があるんだよ。
「恥ずかしがりやなのかな、と思って」。
いや、そうでもないよ。短パンからパンツがはみでてるくらいだからね。
「だから、誘うのは難しそうだなって…」。
うまいもの食わせてくれるんなら、どこへでもついてくよ。
「どうやったら、近づけるかなぁ、っていつも考えてたんだ、それで、君のいるところ、
行きそうなところ、いろいろ出かけてみたりもした…、偶然遭えればなぁ、なんて思って」。
へえ、偶然を装って近づこうとするなんてぇ、結構チープなことするじゃん〜。
え?。偶然を装って????。
突如、サクラの記憶の中に、あの八百屋の前でのビーチサンダル鼻緒切断事件が蘇る。
すると…あれは単なる偶然ではなかったということか?。
「看病してもらった時は、本当に幸せだったよ…」。
ぎっくり腰でなければ、もっと幸せだったろうさ。
「あれで、ほとんど心は決まったようなものだった、今まで結果を恐れて迷い続けた自分が、愚かしく思えた」。
その迷いに、わたしもさんざん付き合わされていた、というわけなんだな。
「休憩時間に、事務所に寄ってみたこともあるんだ、お茶っ葉をもらうふりをして、
君を見てたよ…、どうしてお弁当食べる時、「週刊新潮」を前にたてかけてたりするのかなぁと思ってさ…」。
う、う、ううう!
見られてたのかよ!。
ゴモクは親切だから、差障りのないことばかり言ってるに違いない。
しかし、彼はほとんどストーカー並に、サクラの動向を全部チェックしていたのだ。
すると、すると、ここには話題にのぼらなかった数多くのサクラのヒミツも、彼はおそらくほとんど把握しているかもしれない。
そう。10時と3時の休憩時間に、大口あけて船を漕いでいたところとか、
自分の席でうつむいていたのは、実は机の下にレディース漫画を隠して読んでいたからとか
あの、弁当の時間にたてかけた「週刊○潮」の裏には、実は「週刊ポ○ト」の綴じ込みページが隠されていたとか、
真夏の家の縁側で、股の間をうちわで扇ぎながら、アイスクリームのお徳用パッケージを一つ抱えて、
一人でむさぼり食っていたところとか…その他諸々の所業…。
全部見られてたのかよ!。
「それでもね」。
焦るサクラを無視して、ゴモクは続ける。
「君がどんな人であろうと、僕の気持ちは変わらないよ、きっと」。
あぁ、いかん…、ゴモクさんの目が、どこか遠くにイってしまっている…。
「たとえ、君が、ピーナツの食べ過ぎで、鼻血を出してしょっちゅう倒れていたとしても、
(よく知ってるな)、もらったみやげ物やお歳暮を配る時、いつも自分の取り分を密かに多くしていたとしても (ちっ、ばれてたか)、
会社のトイレットペーパーを密かに持ち帰っていたとしても(それも知ってたのか)、週刊○ストのバックナンバーの綴じ込みページを、
密かに切り取って、自分の机の中に隠していたとしても(げ、知ってたのか)、
レディース漫画を片っ端から読みあさっていたとしても、(げげ!、それも知ってたのか)
密かに男の子の格好をして、近所のレンタルビデオ屋で18禁のララビデオを借りていたとしても(そんなことまでバレてんのか)、
いつ誰かに誘われてもいいように、ムフフの一夜のためのパンツを用意しているとしても(あのパンツは本番パンツとは違うぞ!)…だ…。
きっと僕の君を思う気持ちは、変わらないと思うんだ」。
ほんとにそうか?。ゴモクさんよ。ほんとうに変わらんか?。
サクラは言葉にはしなかったが、心の中でそう叫んでした。ほんとうなのか?、と。
「ま、これはあくまでも仮定の話だけどね…」。
「………」。
「どうしたの?、脂汗なんかかいて…」。
それはね、あんたが全部真実をついてたからだよ…いかんな、これからは少し
控えなければ…、本当のことだとバレてしまう前に。Hな想像もこれ以上ボロがでないうちに抑えよう。
「とにかく、僕はこれを君に渡したかったんだ」。
ゴモクは、パンツが入っていたのとは別のポケットから、小さな箱を出した。
「受け取って欲しい」。
それは、本当に小さな箱だった。サクラは恐る恐る開いてみる。
中には…少々歪んだ、銀色の輪が一つ入っていた。
ゴモクがそれを取り出し、サクラの手を持つと、そっと薬指にはめてみる。そしてそれが
彼女の指にぴったりであることを確認すると、安堵の表情を浮かべた。
「よかった…、予算がないんで自分で作っちゃったんだ、サイズが合ってよかったよ…」。
これは本当のこと?、それともただの幻?。
この哀れな女を救ってやろう。
おお!。ジャンジャンやっとくれ、神様よ!。
いや、まてよ…。サクラは、ふとゴモクの手の中にある自分の指を見つめる。
ごつごつして、節くれ立っていて、可愛げのない指だ。まるで男みたいな…。
そうだ、ひげも生えてたんだ、今日は剃ってるからわかんないけど…。
あ、いけねぇ、胸毛もあったや。
彼女は現実に引き戻される。逃げようのない現実に。
さっきの悪夢の中で鳴り続けたもう一人の自分の声が聞こえた。
(私は蝶にはなれない)。
そうだ、夢を見る資格なんてないんだ、こんな醜くい自分が夢など見てはいけない…。
たとえ飛んでも、すぐに失速して落ちてしまうのは目に見えている。
(私はペンギンなんだ、空を飛べない、無様なペンギンなんだ…)。
彼女はかぶりを振った。
「ダメです」。
「え?」。
「ダメなんです!、これは受け取れない」。
指輪をはずして、ゴモクへ返す。
「私にはそんな資格はありません、この指をよく見て、
私はみっともない女なんです、心根も汚れているんです(そ、いつもケチることとHなことばっか考えてるからね)、
無駄毛も多いんです(ここは小さな声で)
こんな指に、あなたが丹精こめて作った指輪をはめることなんか出来ない!だからこれはお返しします」。
あぁ、こう言ってる間にも、涙が止め処もなく溢れてくる…。
これは私の本心?、いえ、違う、本心なものですか、本当はうれしいのに、
今すぐ彼の胸の中に飛び込んでいきたいのに…(飛び込んで、勢いでそのまま一気に馬乗りになり…、
あ、いけね、こういう考えは少し控えようって誓ったばっかりだった)。
「いや、この指ね…」。
ゴモクは静かに語りかける。
「僕はすごく好きだよ、いつも伝票をめくるこの指を、綺麗だなと思って眺めてた」。
そう、サクラは指を舐めながら伝票をめくっていた…。
そうか、それを彼は、そっと見ていてくれたのか…。
事務所での微笑みも、私の思い違いではなかったのか…(じゃぁ、あれを必死で否定し続けたワシの努力はいったいなんだったのじゃ!)。
「でも…やっぱり…私は…」。
こんな目の前にある幸せを、私はどうしてつかめないんだろう。
(商店街のつかみ取りでは燃えまくるくせに)。
怖い、怖いんです…今自分に起きていることが、幻のように思えて…。
(商店街のガラポンで米10kg当てたら、狂喜乱舞してたじゃないか)。
「え〜い、サクラめ、じれったいなぁ、さっさと、ありがとうございます、不撓不屈の精神で
あなたの妻を勤めさせていただきますって言えばいいんだよ」。
「いやいや、おじさん、あぁやって相手をじらしてるのかもしれませんよ、
夫婦喧嘩の時、あんたがどしても結婚したいと言ったからしてやったんだって言えれば、断然有利ですからね」。
「惚れた弱みってやつかい?」。
「意外と知能犯ですね」。
「おとなしいが、あれで、結構悪知恵がきく方だからな」。
襖の向こうで盗み聞きの最中の、ジムじいと牧師…身も蓋もない言い方である。
「ねぇ、サクラさん」。
ゴモクは優しい声で語りかける。
「さっき、ペンギンを見たでしょ?。
彼らはいつもモタモタしていて格好悪いけど、水の中では、他のどんな鳥よりも自由なんだよ、
他の鳥が持っていない世界を、彼らは持っているんだ、
それと同じことじゃないかな、誰にだって、その人にふさわしい世界がきっとある、
どんなに蔑まれていても、疎まれても、必ずその人が自由になれる世界がね、
海が、緑に囲まれた森だったり、川だったり、それはその人によっていろいろ違うんだろうけど…
少なくとも…僕は…君の…何ていうのかな…海…山…林…城…君が自由に、自分らしく居られる世界に…
なれるんじゃないかな…って、そう思うんだ…」。
「週刊○潮からごっつい指の話になって、今度はペンギンか?、なんかまどろっこしいな…」。
「ゴモクさんも、好きならひと思いに、ガバッとヤッちゃえばいいのに」。
ロマンもへったくれもない二人である…。
とにかく話が長くなりそうなので、外野は一旦引っ込むことにした。
まぁ、下に降りて、若い二人の間にいい結論が出る時まで、モエ・ド・シャンドンの
シャンパンで、一足早い祝杯でもあげるとしようか。