The Early Years (2)

Written by Mark Hodkinson (OMUNIBUS PRESS)
Jenny
1時間考えてもジョンの逸話を思い出せなかった、
ゴーゴーダンサーのジェニーさん

Chapter 1 : Clucksville (p.15--p.17)

The Oppositionは1965年の夏、ジョンが丁度14歳になる直前に結成された。当時の彼の堅苦しい冷淡な態度は、この年頃特有の物だともいえる。この名前に決めたのは、単に憶えやすいからであったらしい。ビーカム・グラマー・スクールでは、各学年毎にバンドがあって、彼らはそのうちの一つだった。イングランドの他の土地と同様、レスターもまた、スイングしていた時代である。陽気な喫茶店風ポップ、例えばHerman's Hermits、Peter and Gordon、The Hollies、The Rockin' Berries、そして、もちろんビートルズやローリングストーンズに触発されて、街中の若者がギターを手にしていた。じゃかじゃかと何度か下手な音を鳴らして、後はチューニングし直しもせずに部屋にほったらかしにしている者がほとんどだった中で、音楽によって友情を深め、練習を続けた者もいた。The Oppositionの4人のメンバーがそうだった。

ジョン・ディーコン、または「ディークス(Deaks)」として知られている彼は、Rosemead Drive の近くに住んでいた親友のナイジェル・バレン(ドラム)や、リチャード・ヤング(ボーカル・リードギター)、クライブ・キャッスルディン(ベース)と共にバンドを作ったわけだが、バンドのメンバーとしては一風変わっていたようである。「ジョンはすごく熱心だったけどね」クライブ・キャッスルディンは言う。「彼みたいに勉強が出来る奴が音楽にハマったのが不思議だったな。学校じゃ、恐ろしく出来が良くて勉強熱心だったんだ。多分、ギターを習うのも勉強を習うのも同じだと思ってたんじゃないかな。どっちも熱心に、完璧にこなしてたよ」

ジョンはアコースティックギターを弾いていた。それは12歳から新聞配達をして貯めた金で買ったもので、最初は学友のロジャー・オグデンと共に、彼の家でレコードを聞きながら弾いていたらしい。The Oppositionがヤードバーズやアニマルズ、タムラモータウン系の曲をカバーし始めたとき、彼は既にかなりの腕前だったようである。グループの原動力は、リチャード・ヤングだった。リハーサルは彼の両親の手で行われた。裕福な家の息子だった彼は、(父親は電気製品の卸売りの会社を経営していた)他のメンバーに金を貸して、楽器を買わせもした。メンバーは初めから適当な道具を入手できたのである。ジョンのギターは60ポンドだったので、週毎にリチャードに返済するよう約束した。リチャードは、他人…特にジョンには、金を貸すことを厭わなかった。ジョンの母親が息子にギターを買い与えるなどもってのほかで、勉強の妨げになるだけだと思っているのを、知っていたからである。

グループは温かい友情に満ちていた。バスでレスターまで一緒に行き、ナイジェルのキットを分解して持ち帰り、リチャードはハンドルバーにVox AC30アンプを括り付けて、キングストリートのCox's Music Storeから自転車で家に帰ったりしたらしい。1965年9月にクライブ・キャッスルディンの家でのパーティーで友人相手に演奏した彼らは、その後すぐにガートリー・ハイ・スクールのダンスパーティーに出演する。確認できる限りでは、最初の公での演奏は、1965年12月、エンダービーの協同組合のホールだったようである。まもなく、オードビーに点在している村むらのユースクラブの常連となる。いつもネクタイとスーツを着用していた彼らのイメージはきっちりしたものだった。「クールだとか、へんちくりんだとか、そんなんじゃなかったな。昔のことだったから」クライブは言う。「みんな短髪だったしね。髪を伸ばしたりする前の時代だったんだ」

不幸なことに、たった10ヶ月続けた時点で、クライブが足を引っ張り始める。他のメンバーは上達していったにも関わらず…。「僕はちっともうまくならなかった。そんなに真剣じゃなかったんだな」彼は回想する。「みんな、僕にベースの弾き方を叩きこんでくれたよ。でも僕は上の空で、ベストをつくそうなんて気分じゃなかったんだ。女の子とか、バイクとか、他のものに興味が出て来たせいだ」リチャード・ヤングは、一生懸命クライブにベースパートを教えたらしいが、彼はステージに立つとすっかり忘れてしまい、キーを外したのだそうだ。「僕らはみんな、クライブなしでやっていこうって思うようになった」リチャードは言う。「彼はすごく良い奴だけど、どうしようもなかったよ。僕は2時間かけて一つの曲を教え込んだけれど、ステージでは元のもくあみさ。最後には、くびにするよりほかになかったんだ」 この時は誰一人想像だにできなかっただろうが、クライブの下手なベースプレイこそ、ジョン・ディーコンのクイーンへの道のりにおける触媒となったのである。今まで自分はギタリストだと思っていたジョンだったが、The Oppositionの要請に応えて、寛大にもベースに転向する。この出来事は、几帳面なリチャードが付けていたバンドのダイアリーに克明に記されていた。1966年4月2日付の日記には、こうある:
「クライブを放り出して、ディークスんちの台所で、彼にベースを練習してもらう。――ずいぶんうまくいった」

(つづく)

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