The Early Years (5)

Written by Mark Hodkinson (OMUNIBUS PRESS)
The Opposition
リハーサル風景。ボーカルは派手好き世話好きの
ピーターさんか? 左端で睨んでるのがディーコン少年

Chapter 1 : Clucksville (p.22--p.24)

1967年11月、グループに8ヶ月在籍した後、ピーター・バーソロミューはThe Oppositionを去る。これにはいろいろ確執があったらしい。「ペドロは見せびらかせ屋だ。あんなの恥ずかしいよ! 出ていってくれるように彼に頼んだ」リチャード・ヤングの日記の書き込みにはこうある。The Oppositionにとって余りにも大袈裟なパフォーマンスが行われた直後である。「俺はいつでもケバかったよ」ピーターは認めている。「笑いをとるのが好きだったし、ちょっとばかり馬鹿騒ぎしすぎたんだな。リチャードのオルガンの下にフラッシュガンを仕組んだりするのは、すごくイカしたことだと思っていた」ピーターは弟のバンド、The Rivalsに入ることになる。より多忙でリズム&ブルースに秀でていたグループだった。The Oppositionにも何度か戻って演奏したが、1年か2年後には、サキソフォン吹きの3ヶ月限定の仕事を見つけた。

ピーター・バーソロミューは、グループ活動から遠ざかった後、牛乳配達員や道路工事夫に従事し、自ら電話取り付け会社を設立した。一度フランスの会社に売りに出し、今は再び同じ仕事を起していて、顧客の多さに誇りを持っている。彼は未だにオルガンやギターを所有しており、友人達と外に出掛けたときはカラオケで歌ったりもするが、音楽業界から離れたことを全く後悔していない。「パブなんかで上手いバンドを見たりすると、ウズウズするときはあるよ。でも、終わってから、寒空の中で駐車場のバンに荷物を詰めてるのを見ると、俺はここにいて良かったと思うんだ。俺にとって、今の生活ほど幸せなものはないんだ。これ以上なんてありはしないさ」

彼はクイーンのファンになったのだが、元の音楽仲間がその一員だと気づくまでにしばらくかかった。「俺はかなりのクイーンファンだったが、彼にはまったく気づかなかった。夜通しアルバムを聴いたりしていたんだがな」ジョン・ディーコンが髪を昔のように短くしたときに初めて、ピーターは気づいたらしい。「俺達はテレビを見ていたんだ。トップ・オブ・ザ・ポップスか何かに、彼が出ていた。カミさんに言ったよ。『あれが誰だか見てみろよ、ジョン・ディーコンだぜ』ってね。『だから何よ?』と言うから俺は言ってやった。『ほら、あのジョン・ディーコンじゃないか。オードビーの、The Oppositionのさ…』彼女は言った。『まあ、なんてこと!』」初めの衝撃が去ってみると、ジョンの成功はさほど驚くことではないとピーターは思ったらしい。 「The Oppositionの中じゃピカ一の腕前だったからな。まるでベースを持って生まれてきたみたいだったよ。いつだってサイコーだった。成功して当然だよな。演奏してるときはすごくリラックスして、いつでも落ち着いてたし」

リチャード・フリューという人物が一ヶ月ほどギターを担当したが、すぐにロナルド・チェスターという器用な人物が取って代わった。ロナルドは完璧なメンバーで、バンド経営に関してリチャード・ヤングの手助けをしていた。1,2ヶ月の間、カールというシンガーを配したことがあったが、名字は記録がないので皆忘れてしまったらしい。彼は1967年初頭に姿を消す。ラインアップがどうであれ、The Oppositionは和やかな関係を保ちながら、レスター州のでこぼこ道を、次の演奏地を求めて移動していた。話し合いは希だったが、並外れた信頼関係があったということだ。ときどき、バンが故障したり、ダブルブッキングされていたり、アンプが爆発したりもした。言い争いをしたり、誰かがエフェクトペダルを忘れたり、セットリストが3曲も変わってしまったりもした。これがジョン・ディーコンの音楽見習いの時代であり、ずっとこんな調子だったのである。

別のバンドがThe Oppositionを名乗っているという噂が流れたせいで、オードビーのOppositionは1966年4月にThe New Oppositionと名前を変えた。が、1967年1月には元に戻している。数ヶ月たって、気まぐれから彼らはThe Artと改名する。リチャード・ヤングによると、「デイブ・ウイリアムスがarty(芸術家気取り)だったから」らしい。彼らは皆非常に若かった。1969年の夏に最終的に去った時でさえ、ジョン・ディーコンは18歳の誕生日をまだ迎えていなかったのである。

ジョン・ディーコンのThe Artによる最後のコンサートは、1969年8月にGreat Glen青少年スポーツセンターで行われた。彼のパートは地方のミュージシャン、ジョン・サベージによって直ちに交代される。ジョンはロンドン大学の支部であるチェルシーカレッジで電子工学を学ぶことになっていた。彼は4年間バンドに在籍し、各週に平均一回の割合で演奏してきたことになる。ポップグループの暮らしぶりとしてはかなり貴重な経験ではあるが、ちっぽけな街での冒険に過ぎなかったことはまぬがれない。典型的に平凡でコミカルなエピソードを、切り口上の日記をつける男、リチャード・ヤングの文章で紹介しておこう。「1966年9月26日--Blackbird Motorsのダンスパーティー。藁の包みがすごく埃っぽい」「1966年10月15日--突然ディークスの胃の調子が悪くなる。吐きそうだから、ステージ脇の開いた窓の近くで演奏しなければならなくなった」

(つづく)

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