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Queen before Queen
The 1960s RECORDINGS PART 5 : THE OPPOSITION

"Record Collectors"
Initial research John S. Stuart. Additional researh and text: Andy Davis.
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Land Of The Giants
ジョン・ディーコン(手前)とナイジェル・バレン。60年代中盤。
ビーカム・スクールの制服でオードビーの街並みをバックにLand Of The Giantsを演じているの図。

アート

1968年3月16日、ガートリー・スクールでのギグでオポジションは再び改名する。「今度はアートと名づけることにしたんだ」ナイジェルは言う。「デイヴが芸術家気取り(arty)だったからさ。アーティストになる為に勉強していたし。改名したのはそんな単純な理由からだった」デイヴも同意する。「僕のアイデアさ。学校で芸術を専攻していたんだよ」 ナイジェル・バレンはこの当時、同じ名前のバンドが存在することに気付いていたのだが(Spooky Toothの前身バンド)、彼らはアメリカ人だし、文句は言われないだろうと踏んだそうだ。レスターを基点とするこのアートはロンドンに行くこともなかったので、当然そんなことは有り得なかった。

「なんでも触れて・感じて・味わって・経験して・きいて・理解してみよう」というような言葉がグループのチケットに表れた以外は、アートは以前と全く同じバンドだった、とリチャードは言う。「何も変わっちゃいなかった」

「若作りの大年増って感じだったな、実際」ロン・チェスターも認めている。「何か違う名前にすればお客は珍しがって来てくれるだろうと思っていた。でもたいして違いはなかったさ。とにかく、何を演奏してようがお客は来るんだ。金曜や土曜の夜は他に行くところがないからね。誰が演奏してようが、聞いたことがある曲であろうがなかろうが、みんな踊り狂ってたもんだ」

1968年はサイケの波が田舎のブリティッシュ・バンドにも浸透してきた。変わりばえしないアートではあったが、ロンドンで昨年来起こっていることへの認識は、彼らの音よりも外見に現れていた。特にライト・ショウが思い出深かったとデイヴ・ウイリアムスは語る。「あれは素晴らしかった。学校からプロジェクターを借りて、薬ビンに水やオイルを入れて映し出すと、ラブリーな金色や琥珀色の模様ができてね。そいつが上下にゆらゆらしてる時に魔法の液体を垂らしてやると、滴にストレートに落ちていって、まるで巨大な緑のキノコ雲みたいなのが壁に現れるんだ。すごかったよ。そんなのをバックにして僕ら4人は演奏していたんだ」

デイヴの「偉業」には、ジョン・ディーコンも関わっていた。「ある日、ジョンと僕は100ワットのP.Aを買った。当時としてはかなりデカいやつをね。そしてそいつを、ビーカム・スクール(ディーコンが1966年9月から在籍していた学校)の子供達でいっぱいの講義室に入れたんだ。アーサー・ブラウンの「ファイアー」の僕らバージョンをやるためさ。出来るだけ大きな音が出るように設定しておいてからライト・ショウを始めた。実験室からパクッてきたDDTを入れた発煙弾を破裂させたら皆むせかえっちゃってさあ。ちょうどその時、理事を大勢引き連れた校長が入ってきたんだ。怒りが顔に表れていたよ。理事のひとりが何をしているのかと聞いてきたんで、僕は言ってやった。『音と光のデモンストレーションであります!』ってね。『このインクびんを使っていて滅茶苦茶にしてしまったのであります。ただ(仕掛けておいた)煙が台無しになってしまうのではないかと思うと、DDTのことが少々気がかりでして。まだ実験の最中なのであります!』やっこさん、まんまと騙されてたよ!」

影響されて

1968年の終わりにかけて、新たなグループの一団が年長の学生たちに深い影響を与え始めた。ジェスロ・タル、ザ・ナイス、テイスト、そしてディープ・パープル。ロンは言う。「皆でパープルのレコードを買っては練習していたものさ。ジョン・メイオールのブルースブレイカーズやレスターのダウンライナーズ・セクト、ザ・ナイス、キング・クリムゾンなんかも見てきた。ただ見ることで多くを学んだんだ。とても影響を受けたよ。何の曲を演奏するかって際に皆でよく議論したんだが、それが決まったら今度はどういうふうに演奏するかでかなり揉めたな。皆が一家言持ってるから」

そして、髪もようやく伸びてきた。「ジョンは結構長く伸ばしていたな」ロンは言う。「皆長くしてたが、肩までもなかった。フツーの生活をしなきゃならないから、あまりだらしない真似は出来なかったんだ。澄ました恰好なんてゴメンだと一方じゃ思ってたんだがね。大学でプレイするようになってからだな、ちょっとばかりヘヴィになっていったのは。お客は音楽を真面目に聞いてるとは到底言えなくて、バカ騒ぎしていた。あるユース・クラブで演奏した時なんか、ローラー・スケートでぐるぐる回ってる奴やバナナの皮をそこら上に撒き散らしてる奴なんかがいたくらいだもんな」

彼は続けた。「僕らはここ2年くらいでバンドを印象付けることが出来たと思っていたんだ」しかしそうではなかった。「僕らは学生だった。仕事を持ってる奴もいたけど、皆、常識の範囲でしか活動してこなかったんだ。仕事や単位を投げ出すような奴はいなかった。もしオリジナル曲を作るくらいの情熱があったら、うまくいったのかもしれないけどね。そこいらのグループと何ら変わりのないポピュラーな曲しかプレイしてなかった。そんなこと考えてもいなかったから、上手くいきっこないって訳さ」

リチャード・ヤングも同意する。「出世しようなんて思っちゃいなかったからなあ。ただプレイすること、切れずに予約を入れてもらえることだけを考えていた。実際のところ、いちばん欲がなかったのはジョンだったと思うよ。いくら楽しくても、何の足しにもならないと感じていたんだろうな。ただのホビー、通過儀礼みたいなもんだってね」

60年代のある時期、おそらく1969年かそれより少し早い時期に、アートはアセテート盤を作った。日付はどうであれ、重要なのは、ジョン・ディーコンがこのセッションに参加していることである。「頼まれたわけじゃないんだけどね」ナイジェルは語る。「ただ、レコードを作りたかったんだ。費用は5シリングくらいだったかなあ」

録音は、ノースハンプトンシャーのウェリンボロー、オードビーから30マイル北東にある、Beck's studioで行われた。「スタジオなんてそれまで一度も行ったことなかったから、むちゃくちゃ圧倒されたよ」デイヴ・ウイリアムスは言う。「アコースティック用のかなりの広さの部屋があった。上手い具合に照明が暗くなってて、スクリーンがいっぱいついていて。仕事をわきまえてる奴が一人いてね」しかしリチャード・ヤングはそれほど感慨は抱いていなかった。「僕は人生の大半をスタジオで過ごしてきたから、数あるセッションのうちの一つにすぎないな。別に目立った印象はなかった」

デイヴの言う「奴」とはエンジニアのデレク・トムキンス、バンドに3トラック録音できるぞと進言してくれた人物である。ナイジェルは言う。「僕らは『Sunny』と『Vehicle』って曲だけを録音しようと思っていたんだ。でもせっかくの機会を無駄にしたくなかったから、リチャードが急いで『Transit 3』という短いインストゥルメンタル曲をその場でこしらえたんだ。Transit 3ってのは僕らの3台目のヴァンの名前さ。僕らは純粋にカバーバンドだったけど、皆とりあえず曲は書けたんだ。でもそれをステージでやったことはなかった。『Transit 3』だけは例外で、このセッションの後で何回かやったことがあるんだよ」

「『Transit 3』は僕らの唯一のオリジナル曲さ」リチャード・ヤングは言う。(「果てしなき伝説」で記述されている『Heart Full Of Soul』は実際はGraham Gouldmanの曲である。)「最初にアイデアを出したのは僕だが、もう覚えていないな。ベーシックな曲だったよ。書くのに大して苦労しなかった」客観的に聞いてみると、『Transit 3』はモノ録音だがかなり状態が良く、Booker T&The MGsによく似た、オルガンがリードするシンプルな曲である。ナイジェルも同意する。「みんな『Green Onions』を聞いていたからね。Booker Tに影響されていると思うよ」それ以外には、デイヴ・ウイリアムスのビンビン唸るギター・プレイが目立っている。そして、これが決定的なのだが、ジョン・ディーコンの指弾きベースが曲を通じてはっきりと聞こえるのだ。これを聞く限りでは、オポジションは明らかにタイトで落ち着きのあるバンドだった。『Transit 3』は仮に、60年代のスイング映画のサントラに使われたとしても、誰も「シロウト!」と叫んだりはしないだろう。

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