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永遠の翼〜夕暮れ時に思うこと
(written by ここさん)
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夢を見たのかどうなのかも分からないほどたっぷりと昼寝をしすぎて、体のけだるさと頭にもやのかかったような感じが消えない。
普段忙しいと、たまに時間ができたときが大変なんだよな……。そう思ってからジョンは苦笑した。こうやって考えること自体が普通じゃないみたいだ。
それでも外に出て風にあたっていると、だんだん体がすっきりしてくるのが分かった。せっかくの休暇なのに、ずっとホテルにこもっているのもバカバカしい。幸い、外はよく晴れていた。遠くの雪をかぶった嶺々に、明るい太陽の光が反射している。日が沈むにはまだ時間がありそうだ。湖に少しだけ足を伸ばしても、暗くなって帰れなくなることはないだろう。
しばらく歩いて、ジョンは波打ち際が見えるベンチに腰を下ろした。ここからなら、日の光に照らされる山も、夕日も、それら全てをキャンパスに描いて抱えたような湖も、とてもよく見えた。何も考えずたった一人で、ただそこにあるものをぼんやり見つめる……それだけのことが、ジョンには貴重な経験のように思えた。
遠くから聴こえる波の音。繰り返し、繰り返し。目を閉じて、その静寂の中に身を任せる。近頃こんな静けさは感じたことが無い。風はだんだんと冷たくなっていく。
世界が、遠のいていく。
「おじさん、今日は一人?」
高い澄んだ声に、ジョンは素早く首を巡らせた。5、6歳くらいの女の子が一人で立っていた。左右の耳の横で、少し濃いめの金髪を赤いゴムでくくり、同じ色のワンピースを着ている。
さて、こんな子と僕は知り合いだったかな? どうやらこの子は僕のことを知っているみたいだけど、もしかしてホテルが一緒だったりするんだろうか。まさかクイーンのベーシストをこの子が知っているとも思えなかった。
「うん、一人だよ」
とりあえず話を合わせ、ジョンは得意の笑顔を浮かべた。最近は、この笑顔というのが難しくなってきている。必要だから身に付ける仮面のようなものだ。昔はもっと単純に、自然に笑えていたのに……。
女の子は首を傾げ、ほんの少し笑ったようだった。
「前は赤ちゃんと一緒じゃなかった? あたし、あの子にハンカチをあげたの」
「ああ、あのときの!」
思わず手を叩き、何度もうなずいた。たしかおとといの昼、マイケルが散歩中にぐずって、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして泣き出した時のことだ。ちょうどベロニカは、ロバートと一緒に飲み物を買いにいくといって離れていたものだから、ジョンはほとほと困り果ててマイケルを抱いたままうろうろしていたら、この可愛い女の子が「はい」と笑いながらハンカチを渡してくれたのだった。しかも、あんまり慌てていて、お礼もまともに言っていないことまで思い出した。
「ハンカチを貸してくれてありがとうね。すごく助かったよ。洗って返そうと思ったんだけど、マイケルがあれを気に入っちゃって離さないんだ。悪いけど、貰ってもいいかな? お返しに別のハンカチを買って返すよ」
「別にいらない。あたしにも小さな弟がいるから、何かしてあげたかったの。あの子、マイケルって言うんだね」
見た目の年の割になんてしっかりした子なんだろう……内心ジョンはたじろぎそうになってしまった。
(僕なんかついこの間のことまで忘れちゃうんだから……昼間少し寝過ぎたかな? ロジャーなら会った可愛い女の子の顔なんて、絶対覚えてるんだろうけど)
もし本人に聞かせたら「俺はロリコンじゃねぇ」と怒りそうなことをジョンは思った。
「おじさん、なんでこんな所に一人でいるの?」
「ちょっと散歩をしたくてね」
「じゃあ、あたしと同じだ」
女の子ははにかんだように、また笑った。
「あたしはね、湖を見たくなってここに来たの。昨日ママとも来たのよ。夕日がすごくきれいな場所があるから、って」
「おじさんもそうなんだ」
女の子がそこで口をつぐんでしまったので、ジョンはしばらくしてからこう切り出した。
「よかったら一緒に座る? もう少ししたら夕日が見えるよ」
女の子は向日葵のような満開の笑顔でうなずいた。
「あたし、ローズって言うの。おじさんは?」
ジョンの隣で、楽しそうに足をぶらつかせながら女の子は尋ねた。こういうことを訊くのって、多分僕からの方がいいんだろうけど、なんて思いながら「ジョンだよ」と答える。
「ママがね、おじさんのこと、どこかで見たような気がするって言うのよ。もしかしておうちが近いのかなぁ?」
「そうだね、どうしてなんだろう」
そんなに僕って見られていたんだろうか。まだ完全に気付いてはいないようだが、フレディならともかく、地下鉄を普通に乗っても声をかけられることなんか無いっていうのに……。
「君のママって、音楽をよく聴いたりする?」
「うちではいつもラジオをかけてるよ。この間は一緒に歌も歌ってた。なんだったかなぁ、確か……」
Tie your mother down, tie your mother down……
思わずジョンは咳き込んだ。クイーンの曲でも、まさかこの曲がこの女の子に歌われるとは思わなかった。
「き、君、この歌好きなの?」
「よくわかんない。ママが聴くから覚えただけ。でもどうしてママを縛り付けるのかなぁ? おじさん分かる?」
「ええっとねぇ、多分まだ君には早いんだと思うよ。ママやパパはそんな風に言わなかった?」
半分しどろもどろになり、半分笑いを堪えながらローズを見ると、ジョンは今度こそ慌てふためいた。ローズは大きな青い瞳に涙をいっぱいためて、湖を見つめていた。夕日の光の中、それらは同じ輝きを発していた。
「パパは……お仕事が忙しいんだって」
「そう……」
「本当は、パパも一緒に来るはずだったのよ。パパとお出かけするなんて、久しぶりだったから、あたし凄く楽しみにしてたのに……。急にまたお仕事があるから、って」
ローズはゆっくりと言って、視線をジョンに移した。少女の顔は、夕焼けに照らされ、潤んだ瞳がきらきらと光を反射している。
「あたし……パパに会いたい」
少女の瞳の中に、ジョンの良く知っている人物が重なった。離れざるを得ない時、こうして見つめてくるのだった。
(分かってるから……)
そうして結局何も言わない。決して言葉では伝えない。ただ、悲しい笑顔を浮かべるだけだ。
--−−そんな時、僕はどんな顔をしているんだろう?
日がだいぶ傾いていた。東の空は暮色が濃い。紫の薄い絹のベールが一枚一枚そっと重ねられているようだ。小さなダイヤモンドのような星がその上に転がされ、控えめながらも輝きを強めていく。
ローズはいつの間にか、ジョンから視線をそらしていた。
二人はしばらく黙り込んで、沈む夕日を眺めていた。しかしジョンは、時々ローズの横顔に目をやった。もう涙は乾いていた。唇をきゅっと結んで、じっと湖を見つめていた。
「寒くないかい?」
ジョンは微笑みながらそっと声をかけた。
「大丈夫。今は、おじさんが隣にいるから」
ローズはジョンを見上げ、笑った。今度はジョンも、声を立てて笑った。
「でももう帰らなきゃ。ママが心配してるかもしれないもの」
ローズは意を決したように立ち上がり、両手を高く挙げて伸びをした。ふと、ジョンは口を開いた。
「パパだって、そうだと思うよ」
「え?」
ローズは戸惑ったような笑顔を浮かべた。湖が、最後の残照を受けて輝いている。
「パパもきっと、君に会いたがってるよ」
ジョンはベンチから身を乗り出して言った。そうすると、ちょうどローズと同じ目の高さになった。ローズは前で両手を組んで、うつむいて足をぶらぶらしながら歩いた。
「そうかしら?」
「そうさ。おじさんにはパパの気持ちがよーくわかるんだ」
「ふうん……」
ローズはさっと顔を上げ、いたずらっぽく笑った。
「なんだい?」
「おじさん、なんだかパパと似てる」
「そうかい?」
ジョンが笑うと、ローズは「パパの方がかっこいいけどね」と勿体ぶって付け加えた。そして、少女特有の甲高い声で笑った。その声はあたたかな夕暮れの光の中に、澄んだまま溶けていった。つられてジョンも笑った。体も心も軽くなっていた。
頭上には、もう星がいくつか瞬いている。
波の音の中に、星のささやきが、ジョンには聴こえるような気がした。
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「……それでさ、ローズがいきなり僕の首に抱きついてきてさ、ほっぺたにキスしてきたんだ。もうびっくりしちゃって、黙ってたら『またね、ジョン』だってさ! 送っていこうかと思ってたのに、走って行っちゃったんだ。あんな女の子がだよ、キスついでにいきなりファーストネームで呼んできたんだよ? ねぇ、どう思う?」
「ああ、どうだろうな」
半分いい加減に答え、ロジャーはウイスキーのロックの残りをあおった。一週間の休暇を終えたジョンを久々に飲みに誘ってこの店に入ったのだが、今夜のジョンときたら初めから酔っていたのではないかと疑ってしまうほどに、ひたすらしゃべり続けている。あまり酒は進んでいないが、とにかく楽しそうなので、ロジャーは諦めをつけて彼の話を聞き続けているのだ。酔っ払いの相手だから、特に真剣に聞いているというわけではない。それがジョンにはたいそうご不満だったようだ。
「全くもう、聞いてるのぉ?」
「聞いてるよ!聞いてるからさっさと終わってくれ」
「それでさあ、その時頭の中に『キラー・クイーン』が流れてきてさ……彼女はキラー・クイーン、火薬にゼラチン、ダイナマイトにレーザービーム、いつでも君の心を吹き飛ばせる、ってさ。でも彼女にはあんまり似合わないだろう? どんな曲が似合うかな〜なんて思って、なんだか悩んじゃった」
「俺にしてみれば、そのちっちゃい女の子にいいようにあしわれてるお前さんについて悩んじまうけどな」
なんだかんだ言いながら、ちゃんと相手をしてやっているロジャーだった。ジョンのグラスに酒の残りが少なくなっているのに気付き、バーテンに合図して軽いカクテルを作らせてやる。
まあ、たまにはこんな夜もあっていいさ……苦笑しながらロジャーは自分の分のウイスキーを注ぎ足す。
「女の子って可愛いよねえ。男の子もいいけど。一人くらいは娘も欲しいよ、ロジャー」
「俺に言ってどうすんだよ。頼むんならベロニカさんだろ」
「あはは、怒った? 眉間に皺ができてるよぉ」
「怒ってねえよ、元からだよ」
もう手が付けられなくなっている。ジョンはしばらく、一人でくすくす笑い続け、グラスを傾け、氷の音を聞いたりしていた。ロジャーは、これで何回目かのため息をついた。
「でもさ……」
一転して真面目な声になったジョンに、ロジャーは目をやった。
「家族なのに、いつでも好きな時に会えないって、悲しいよね……。僕、あの子が泣いた時、まるで自分に言われてるように思ったんだ。今は休暇中だから家族とゆっくりもできるけど、これが終わればレコーディングにツアーの繰り返しで、また家族と過ごす時間も減ってしまう……そう考えると、少しいたたまれなくなってね。家族もそうだけど、僕だって寂しいんだよ。君みたいな友達はいるけど、家族とは違うんだしさ、なんだか独りぼっちっていう気になるよ。どうにかならないものかなぁ……」
「……結婚してなくても、そりゃ一緒だけどよ……」
ロジャーは言葉を選びながら、訥々と語る。とりあえずグラスを置き、椅子ごとジョンに体を向けた。
「ずっと一緒にいないからって絆が弱いなんて、俺は思わないぜ。むしろ強い場合もあるんじゃねえの? 俺たちがそうだろ。休暇ならまた取りゃ済むんだしよ」
「……うん、その通りだね……」
ジョンは俯いたまま答えた。影がかかり、ロジャーからはジョンの表情を読むことは出来ない。だが、どんな顔をしているのかくらいは察しが付いた。
「俺は、お前を見てそう思ったんだぜ。そんなシケた面しててもしょうがねえだろ」
勢い良く言ったついでに、ジョンのグラスにウイスキーを流し込む。
「うわぁぁぁ……」
「なんだよ、これっくらい奢ってやるよ! 飲め!」
「違うよ、まだカクテルが入ってたんだよ。あぁあ、混ざっちゃった……」
「コーヒー入り紅茶と同じだと思えば飲めるだろ」
「思えるはず無いじゃないか。もう、乱暴だなあ」
「……でも飲むんだな」
ため息をつきつつグラスを手に取ったジョンを見て、ロジャーは安心したように笑った。
「飲まないよ、バーテンさんに替えてもらうんだ。それとも君が僕のとグラスを交換してくれるんなら……」
「誰が交換するか」
ケラケラ笑うロジャーをよそに、ジョンはふくれっつらでグラスを持った手を挙げた。そのグラスに何かがあたって、奇麗なガラスの音が響いた。
「カンパ〜イ♪」
「……?!」
聞き間違えようのない、魅力的な声。ふりむいたらそこにはフレディにブライアンが立っていた。フレディは既に注文したのか、片手にグラスを持っている。随分細工にこった美しいものだったから、自分のを持ち込んだのかもしれなかった。
「いよう、お二人さん、お揃いで! どうしたんだよ」
「いよう、じゃないよ! 君たちこそなんで二人だけで飲んでるんだい! 誘ってくれてもいいじゃないか!」
明らかにほっとしたような笑顔を浮かべるロジャーに対して、突如かんしゃくを爆発させたようにまくしたてたフレディだったが、ジョンに目を留めて嬉しそうに「お帰り、ダーリン」と言った。
「君たち二人が出かけたって聞いて、フレディがさんざん探しまわったんだよ。僕はそれに巻き込まれてさ、全く苦労したんだから」
その割に楽しそうなブライアンに、ロジャーは「まあ座れよ」と笑った。ジョンとは反対側の隣にブライアンは腰掛ける。
「難儀だったろう。だけど俺だって苦労したんだぜ。こちとらずっと酔っ払いの相手だからな。ジョンの奴、休暇先で随分色々あったらしくてさぁ」
「何だって?」
ジョンの隣に座り込んだフレディが顔色を変えてジョンを見つめる。しかしジョンは笑うばかりで答えなかった。
「何があったか当ててみてよ、フレディ」
「ああ、もうジョンってば、すっかり酔っちゃって……水の方がいいんじゃないの?」
「僕は大丈夫で〜す」
ロジャーは額に手をやって、天井をあおいだ。
「ずっとこんな調子で、しかもしゃべりまくるんだよ……。で、さっきは家族のことでお悩み暴露大会を開催してたのさ」
「家族ねぇ……」
ブライアンは小さくつぶやき、控えめに笑った。
「こんな仕事をしてると、普通の家族でいるのは難しいかもしれないね。時々僕も辛いと思うよ、家を出る時には特にね。簡単なことじゃない」
するとフレディは深く何度も頷いた。
「そうか、それでジョンは少しばかり沈んじゃってるってわけだね。(「いや、そうじゃないんだけどな」とロジャーが言ったが、フレディの耳には届かなかったらしい)よし、僕が慰めてあげるよ! なんでも君の作った歌を、とびっきりの声で歌うからね。君のためのエンターテイナーになってあげるよ」
「うわあ、本当に?」
「日本語でだって歌います」
「あはは、君らしいや」
笑うジョンの席に、新しいグラスがいくつも運ばれてきた。ロジャーとブライアンが頼んだらしい。
「とにかく、今日はジョンが、また明日から心置きなく活動するってことを記念してだな、ん、ちょっと理由がおかしいけど、理由なんかどうだっていいや、楽しもうぜ!」
「いいねえ、とことんやろう! 僕を止めないでくれよ」
「そんなこと出来る人間なんかいやしないさ」
グラスを片手に、ブライアンが笑う。その脇で早速ロジャーとフレディが騒ぎ出した。
ジョンは持っていたグラスをテーブルに置き、小さな息をついた。何故か今、急にローズの笑顔が胸の内に浮かんだのだった。
ベンチで別れた時を最後に、ローズと話をする機会は無かった。浜で見かけた時は母親と弟らしき人物と手をつないで、楽しそうにしていた。ジョンも大抵はロバートとマイケルと一緒にいたし、声をかけることは出来ずじまいだった。一度だけ気付いて、ローズが手を振って笑ってくれたことはあったけれど。
彼女は今頃何をしているだろう? 父親とは会えただろうか?
(それに、どうして君は僕に声をかけてなんかくれたんだろうね)
今となっては、もっとローズと話をしてみたかったな、という軽い後悔が残っている。
−−またね、ジョン。
赤いワンピースが翻り、走り去った。
少し暗くなりかけた空の下、それでも太陽は最後の光をなげかけていた。
「またね、ローズ」
ジョンは一人つぶやき、微笑んだ。脳裏に浮かんだ彼女も、ジョンを見つめて微笑んでいた。
Fin
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