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永遠の翼〜ピーナッツはブランデーの香り(written by ねこ娘さん)

夕飯を外で軽く済ませたジョンは、早くから部屋に戻ってボーっとしていた。
べつにする事がなかったし、約束もなかった。
ここのところ、ずっと4人集まって曲作りをしていたので、とうとうアイデアが
煮詰まってしまった。昨日など詞中の一語を決めるだけの作業で、
フレディとブライアンは一触即発の状態だった。当分はそれぞれの場所で曲作りに
励もうということになって、やっとジョンのアパートが開放されたのだ。
そしてジョンは昼間、フレディと次のギグで着る服を買いに出かけた。
でも、どれもこれもジョンの好みとはキレイに反対のものばかりを選んでしまう
フレディに閉口して、さっさと帰ってきてしまった。
フレディはあの後人に会うとか言ってたような気がする。
一緒に行こうと誘われたけど、疲れたと言って断ったのだ。

一人になれることは、今のジョンには珍しい。
一つの部屋にいて、人の声がしないなんて……
ジョンは、ソファにふんぞり返って、テーブルに両足を投げ出してみる。
ロジャーがよくするカッコウを真似てみたのだ。
そして、奇声を発してばか笑いをしてみる。フレディのように。
かと思えば、ソファの端っこに前屈みに坐りなおし、顎に手をやり
「紅茶がいいかな……あ、やっぱり今日はコーヒー……いやぁ、でも」
などと、一点を見つめながら呟いてみる。
そして最終的に、ジョンはソファに横になった。
胸の上に両手をのせて、いろんなことを考えながら天井を見つめていた。
どうして、今自分はこんな所にいるのだろう? そんなことなどをだ。
低い天井が落ちてきそうな気がする。
また、考え出したら止まらない、あの考え事をしてしまう。

僕じゃないくてもいいような気がする……
クイーンのベースは別に自分じゃなくてもいいような気がしていた。
時々、隙ができたらついこんなことを考えてしまう。どうしてだろうと考えたとき、
さしてのっていない自分に気づいた。好きじゃないのかもしれないと思う。
音楽を仕事にすることが。そして、クイーンというバンドがどこか他人事のような
気がしてならなかった。アルバイトと何ら変わらない。
ずっと、ここにいていいのだろうか? 居心地は決して悪くなかった。
でも、世界が違う気がした。まるで夢を見ているみたいだった。
そのうち、背中から羽が生えて、空へ飛んでいってしまうんじゃないか……。
地面に立っているつもりなのに、もう地面からははるか遠のいて……。
普通の生活に戻れないような気さえする。
そんなことを考えながら、ゆっくりとジョンはまどろみかける。

ドンドンドン! ドンドンドン!
突然、激しく扉をたたく音が部屋中に響き、ジョンは飛び上がった。
慌てて入り口のドアを開けると、血相を変えたフレディが立っていた。
昼間わかれた時の服装だったが、ぴっちりと足にフィットした白いズボンの
膝の辺りが汚れている。転んだのかもしれない。
「どうしたの?」
「どうもこうもないよ!」
フレディは訳がわからないというように、半ば混乱して激しく頭を振った。
ジョンは、めずらしくアルコールの匂いがしないなと思い、ソファに坐り込んで
頭を抱えるフレディに視線を落とした。
たいがい、夜彼に出くわすときはアルコール臭いというのが定番なのだ。
――空気が重い。
何を言っていいのかわからない。
今までのように、何も言う必要も、聞く必要もないように思われた。
ジョンは黙ってフレディに水を持っていった。
フレディはそんなジョンに鋭い視線をやった。
曲を作ってる中で何度か見る眼差しだったけど、今日のフレディは少なくとも
曲がらみではなさそうだ。
ジョンはフレディの視線から逃れるようにすぐに背を向けた。
「あの……何か、あったの?」
フレディとは目を合わさないように、壁に向かって呟くように言ってみた。
「……何もないよ」
チラリと下に視線をやると、フレディも同じように虚空に向かって話している。
何もないわけないじゃないか……と思ったが、それ以上は何も言わなかった。

フレディが落ち着いたのかどうかわからなかったが、ジョンはキッチンで紅茶を
入れて来て、フレディの正面に腰掛けた。テーブルの上の雑誌に手を伸ばし、
何げに読み始めたりする。何の記事かなんて、まったく頭に入ってこない。
フレディは組んだ指の上に顎を置いて、物思いに耽っている。
「ジョン……君のいけないところだと前々から思っていたんだ」
不意にフレディが口を開いた。
「え?」
「僕らが三人よって何かをしていても、君はそうやって澄ました顔をしている。
まるで他人事のようにね」
「そんなこと、ないよ。ただ、邪魔しちゃいけないって思ってるんだ」
ジョンは紅茶を一口飲んだ。
「……邪魔だって?」
フレディが眉をしかめた。
「だって……僕に何かを決める権利はないし、べつにそんなこと求められてる
わけでもないだろう? 僕はベースを弾くだけだよ」
その言葉を聞いて、フレディは悲しげな表情を浮かべた。
「ベースを弾くだけなら、どこのバンドに入っても同じじゃないか……」
フレディは何度か首を横に振って、俯いてしまう。
「クイーンじゃなくても、どこへいってもベースは弾けるよ。
僕は、君がクイーンであることを満足してくれてると思ってたんだ……
他のバンドにはないものを感じてくれて、そして一緒にやっていきたいと
思ってくれてる、そう信じてたんだ……なのに」
まるで涙混じりのようにか細い声だった。
ジョンは雑誌をテーブルに放り出して勢いよく立ち上がった。
「違うよフレディ! 僕はね! 僕はっ!」
立ち上がったはいいが、何を言うべきか考えていなかった。
ただ、今フレディが言ったことは違うと強く否定したい気持ちが先走ってしまった。
こんなに大声を出してまで、何を言いたかったのか……
本当は、とても簡単なことのような気がする。
「……君たちに出会えて嬉しいんだ」
ジョンは早口でボソボソと呟き、また腰を下ろす。体中が熱くなった。
とても恥ずかしい。大勢の観客を前にするより恥ずかしい気がした。
明らかに、自分に視線が集中しているということは、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。
それで、あんな大きな声を張り上げるなんて、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。
フレディ……よくやるな。
膝に置いた手のひらをに視線を落としながら、ジョンは自分の顔がみるみる
赤くなる気配を感じている。

――フッと、笑い声がした。
ハハハハハッ! と、ソファの背をバンバン叩きながら、フレディが恥ずかしげもなく
白い歯を見せて笑い出した。
「なんだ……そんな大きな声出るんじゃないか」
さっきとはうってかわって、愉快そうにフレディが笑っていた。
「………!?」
「いつもお行儀良く坐ってて、絶対に取り乱したりしないのかと思ってたよ!
初めて見たな、あんな顔!」
ジョンは、少し腹立たしいようなホッとしたような、自分の気持ちも図りかねて、
ぼんやりとひたすら笑い続けるフレディを見ていた。
これがクイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーなんだと言い聞かせながら。
「紅茶が、冷めるよ……フレディ」
ジョンは自分の前の紅茶をフレディの方に押しやった。
「なんだ、もう元に戻ったのか? つまらないなぁ」
フレディは本当につまらなそうな顔をしてカップを口に運ぶ。
ジョンにすれば、百面相マシーンが目の前にいるような気分だ。

やれやれと思ってふと視線を下ろしたジョンだったが、フレディのズボンを見てハッとした。
「フレディ! 血が出てるよ!」
「え……あ、ほんとだ」
フレディは随分あっけらかんと答えた。
「早く消毒しなくちゃ! 救急箱取ってくるよ……ズボン上げてみて、傷はどんな具合なの?」
血を見ると、ついつい焦ってしまう。転んで泣いている妹を思い出す。
こういうときに限って、家には誰もいなかった。
「救急箱はベッドの下になるからちゃんと覚えておくのよ」
母親の言いつけ通り、今でも救急箱はベッドの下にある。
「大したことないよ。さっき、ゴミ箱蹴飛ばそうとしてさぁ……」
「蹴飛ばそうとして……それで?」
ジョンは、脱脂綿に消毒薬をしみ込ませてフレディの膝を消毒しながら話を促した。
「え〜、ゴミ箱から猫が飛び出してきて……」
「うん……」
「びっくりして道路に飛び退いて……」
「………」
「車に跳ねられそうになって……間一髪で車よけたら、人にぶつかって……で、道に転んだ」
「………」
フレディは、一旦そこでニンマリと不適に笑ってみせた。
「するとね、あら、大丈夫ですか? ……ってさ、目も艶やかなべっぴんさんが
僕に手を貸してくれて、起こしてくれたんだよ」
「……うん」
「見た感じ、高級コールガールってところかなぁ。かなりハイセンスな装いさ。
勿論、紳士な僕としては、そんな美人を黙って帰すわけには行かない。
これも何かの縁、一緒にお酒でも? と申し出た訳さ。
――だって、彼女ったら、けっこう大胆でさ、僕のズボンについた泥を払いながら
体にやたらと触れてくるんだ。気を遣ってくれるのはありがたいけど、
ここは公共の道路だろ……」
いわゆるナンパというやつだな、と声にはせずジョンは相づちをうった。
「あわよくば、今夜は彼女と……なんて思ったらさ、お誘いありがとう、でも、
遠慮しときますわ、ハンサムなお兄さん……だってさぁ。
これで今夜のアバンチュールは終わり。でもね、去り際に高貴な香りを漂わせ、
そのくせ清楚でさ。あんな娘なかなかいないなぁって見とれてて――と、
そこまではいい気分だったんだ。それから、いつものバーに行ったんだよ……」

いつものことのような気もするが、ジョンはいつのまにかフレディの話に引き込まれていた。
ロジャーやブライアンに話しているのを端で観察していて、密かに楽しんでいる
自分がいるのを知ってはいる。でも、そんなとき、楽しむと同時に、
どこか「みんな子供だな」という思いもあった。
でも、今初めてわかった。
どうしてロジャーやブライアンがあんなくだらない会話を熱心に聞き、
相づちを打っていたのか。
フレディは、本当に人を楽しませるのがうまいんだ!
まるで……魔法でも使うかのように……。
「いいかい? ジョン。ここからが世の中の恐ろしい仕組みなのさ」
フレディがジョンの方に身を乗り出して神妙な顔をつくった。
ジョンはまるで自分が催眠術か何かにかけられているような気分で、こくりと頷いた。
「僕はね、今日はバーのお客さんに盛大に振る舞おうと思ったんだよ。
こんなハイテンションな夜だったし……それで、アルバム出してから初めてもらった
給料もあることだし……みんなにもこの大金を見せてやろうと思ったんだ」
「……う、うん」
「でも、その時、初めて気がついたんだ」
ジョンはゴクッと息を呑んだ。
「財布がないんだ……」
「さ、財布が?」
「スリだよ! スリ! さっきの彼女だよぉ! あんなかわいい顔してさッ!
積極的にアプローチするわりに誘ってるわけでもないなんて、
ちょっと変だと思ったけど……まさかスリなんて思わないよ! 信じられるかい?
世も末だよ。あぁぁー……」
その台詞を高い声でまくしたてる際に見せたフレディの表情を、
ジョンは一生忘れないだろうなぁと思う。
驚きと怒りと、悲しみと絶望と嘆きだ。それらの感情をその瞬時に変化させる。
しかも、不自然さを全く感じさせない。
ジョンは小さくため息を吐いている。感心したためだった。
フレディはそのまま頭を抱えてテーブルにうずくまってしまう。
そして、バンバンとテーブルを叩き始める。
「言ってくれればいいじゃないか! お金に困ってるなら困ってるって
言えばいいじゃないか! そしたらこんな金いつでもくれてやるのに!
彼女が何もしてくれなくたって、彼女の口からそう言ってくれさえすれば、
僕は喜んでいつでも金を差し出すよ!!」
一気に怒りを爆発させ、ふとテーブルから顔を上げて見せたフレディの目は、
どこまでも黒く澄んでもの悲しく濡れている。
「……でも、そうはいかないんだな、ジョン。
こうやって、いっつもお調子者は出鼻をくじかれるのが世の常だよ」

ジョンは冷静になろうと、ゆっくりと深呼吸をした。
今初めて自分の色を見つけたような気がした。この混沌とした一人の人間の前で、
いかにこの混沌に呑み込まれないようにするか。
そして、どこかフレディもそれを望んでいるような気さえした。
せめて、燃え上がる炎を鎮めることができたなら、それだけでもいる価値はあるな……と
思い始める。たとえ、どんな理由でその火が燃えているのかわからないにしても。

「はい、消毒終わったよ」
その言葉は、感情を抑えすぎるほど抑えた事務的なものだった。
「すまないね、ジョン。なんだか今日は一段と君の優しさが身に染みるよ」
フレディは一向に気にしていないように、また脳天気さを取り戻している。
「冗談はそれくらいにして……フレディも、少しは気をつけるべきだよ。
そんなに世の中善人ばかりじゃないんだし。かわいい顔した悪魔だっているんだから。
先の尖った尻尾がついてたら、どんなに小さな悪魔だってわるさができるんだよ。
それに、ボーカルに怪我でもされたら、バンドなんてすぐに終わっちゃうんだから。
もしそんなことになったら、僕は君を悪魔のようなヤツだって一生恨むね」
フレディはそのジョンのいやみっぽい言葉を聞いて、大きな目を何度かパチパチさせた。
「ジョン、それはすごく思いやりがあって暖かい言葉だね。僕はこの胸に刻んでおくよ」
「肝に銘じておいてほしいよ」
ジョンはフレディに釘をさして救急箱の蓋を閉じた。
そして、しばらく考えてから、
「フレディ、僕はクイーンを愛しているんだ」
と力強く言った。
「は?」
「クイーンを愛してるんだ!!」
「……ジョン?」
「だからだよ! だから僕はここにいるんだ! 君たちといたいんだ!!」
胸の前で拳を作って勢いよくジョンは立ち上がった。
どこか、すっきりした。
恥ずかしさもあるけど、もうどうだっていいような気分になってきた。
やっとわかったからいろんなことが一気に。

フレディはズボンの裾を下ろしながら呆気にとられている様子だった。
「ジョン、アルコール入ってるかい?」
フレディが心配気な眼差しを送っていた。
「え? いや、まだ飲んでないよ」
「じゃあ、とりあえずアルコールを入れよう」
「でも、もう夜も遅いし、酔っぱらうとフレディ帰れなくなるだろ?」
「帰るつもりはないね。今日は心おきなく泊めてもらうよ、ダーリン」
フレディはジョンに向かってウインクを飛ばした。
ジョンはじわっと額に汗の粒がわいたような気がした。
「……それぞれの家で、曲、作るんじゃなかったの?」
「だって、どうせ一文無しだし……部屋に戻ってもさして面白いものがあるわけでもない。
それに、今日はジョン・デューコン氏が激し過ぎていけないね。クラクラきちゃうよ。
こんな面白いものを放っておくわけにはいかないよ。火をつけて遊びたくなる」
何がおかしくてしかたないのかジョンには知れないが、
フレディは言葉半ばにもう笑い始めている。
ああ……と、思う。否応なしに夢の世界へ引っ張られる自分を感じる。
そして、それに抗う意味も、術も、何もないような気がする。この人物の前では。
突然混乱してやってきてドアを叩き、急に沈んだり笑ったり怒ったり……
かと思えばメソメソしたり。
スリに遭ったと言っていた……
そんな話を頼みもしないのに聞かせてはまた怒りだし……そして、今は笑う。
全てはスリに遭ったことだからとでも言いたいように。
それだけではないのかもしれないと、ジョンはどこかで思うが、すぐにどうでもよくなった。
目の前の百面相が今はアルコールを入れたいというのなら、それに従うまでだと思う。
焦るのはやめだ。自分のできることを精一杯する。ずっと昔からそうしてたように、
何も変える必要も、変わる必要もなかった。そう思うと、肩の力が一気に抜けて、
ひどい脱力感に襲われた。
「何て顔だ、ジョン! 不満があるなら言いなよ!
僕はブライアンと違って心は海より広いんだ! いや、宇宙よりね」
「ええ、ええ、何も不満はございません、ご主人様。おおせのままに……」
ジョンは少し調子に乗ってウエイター気取りで頭を下げてみた。
「ねぇ、ジョン。そこでさっきの台詞を言わなくちゃさ。
愛すべきクイーンのボーカル様って」
「そんなこと言っちゃいないよ。僕はクイーンを愛してるって言ったの!」
「あれ〜? そうだったっけ? ふ〜ん、クイーンってヤツは幸せ者だね」
「まったく……今日は、こっちが飲みたい気分だ!」
ジョンは冷蔵庫に冷やしていたありったけのビールを抱えた。

五缶あったビールのうち、軽く三缶を開けたフレディはそのまま寝息を立てて眠ってしまった。
五缶の内訳、二缶はロジャー、もう二缶はジョンの冷蔵庫に常備されている分。
あと一本はいつかブライアンが飲みたくなったときの為だ。
ジョンの冷蔵庫には、いろいろメンバーの嗜好品が入っていた。
それぞれに名前を書いているわけではないけど。
フレディはだいたい飲みたいときは持参するタイプだった。
こんな夜更けにビールを飲んだジョンは、逆に目が冴えてきてしまった。
「何でだよ! どうしていっつもこうなるんだよ!」
受け皿のないところに愚痴をこぼし、日頃は一粒づつ食べるピーナツを豪快に掴んで頬張った。
テーブルをおもいっきり一叩き……相当痛かったのか手を引っ込めてさすったりする。
「だいたい、どうして僕のアパートで曲づくりするんだ?
自分たちの家ですればいいじゃないか? よってたかってさ、
三人寄るから意見が合わないんだ。ちゃんと曲ができてから持ち寄ればいいのに……
僕みたいに、一人でいるときにコツコツやればさ……」
そうだ! ずっと忘れていたけど、作りかけの曲があったんだ!
ジョンは酒の勢いでそのことを思い出した。
ベッドの横にあるサイドテーブルの引き出しにしまっておいたのだ。
ジョンはベッドルームに飛んでいった。
「これだ……」
まだ詞もできてなかった。
「よし、一晩でかき上げてやるぞ!」
なんだか、とてもやる気が出てきた。叫び出したくなる気分だ。
フレディを起こさないようにそっとリビングの明かりを消して、
ジョンはベッドルームのテーブルに向かった。

ガタリ……
目を開けると、窮屈な服を脱ぎ捨てた下着姿のフレディがすぐ横に立っていた。
「ごめん、ジョン。起こしちゃったね」
「……え? ああ、僕寝ちゃったのか」
見ると、フレディがジョンの書きかけの曲を手にしている。
「あ! そ、それ……」
すぐに取り戻そうとしたが、フレディが軽く手をあげてジョンを止めた。
「ちょっと……書いてみただけだよ。曲になんてしないよ」
「……まだ歌詞ができてないね」
「べつに大した曲じゃないから……完成させる気なんてないし」
「完成させなよ! ちゃんと曲にしてさ。じゃなきゃ、この曲がかわいそうだよ?
ここまでできてるんだし。音符が音になりたくてうずうずしてるよ。
僕に歌わせてくれよ。いいだろう? ジョン」
ジョンは、何度かまばたきをした。
これは、やっぱり夢だと思う。
まだ、体が熱かった。全ては、フレディが中心だと思っていた。
クイーンに何か軸があるとすればフレディだと思っていた。
ボーカルが歌いにくいと言えば、全てはチャラになると思っていた。
そんなものだろうと、思いこんでいた。
そんなものだろうと思っていたことが、崩れたような音がした……今。
「フレディが唄うの? その曲を?」
あきらかに聞こえたことを確認するなんてばかげてると思いながら、
繰り返さずにはいられない。
「ああ、歌いたいよ! だからちゃんと僕が歌えるようにしてくれよ」
フレディのくっきりと黒と白に分かれた目がいつもより鮮やかに見える。
ジョンはある風景を思い出していた。
――ジョン、ほら、ジョン。そんな顔してるとかわいくないでしょう?
いつもの顔してちょうだい?
はい、こっち見て……そうそう、笑って、笑って、かわいい顔見せてちょうだい――
おだてに弱いのかもしれない。全部わかってるくせに。いい写真を撮りたかっただけだって。
あの頃から、いつも笑ってる。誰かに呼ばれると、いつも……。
気がついたら、写真を撮られるより、撮る側の方が好きになっていた。
その方が、カメラに向かって微笑むよりずっと楽だった。
本当は、苦手なんだ、この顔。辛いときも、笑わなきゃいけないようで。
本当に嬉しいときは、どうしたらいいかわからなくなるから……
こんなに、はっきり表情を表に出すフレディが羨ましいと思う、
すぐに俯いてしまうジョンには。
「うん……じゃあ、頑張ってみるよ」
そう言いながらも、また俯いてる。
「そうかい! ヤッホー! 楽しみにしてるよ、ジョン」
フレディはポンとジョンの肩を軽く叩いて、リビングに行ってしまう。
フレディの翼は変幻自在、空も飛べるし道も歩ける。高く飛んだと思ったら突然急降下。

……僕にはできないよ、そんな器用なこと、一度地面を離れたら、きっと離れたきりさ。

窓の外では、白々と明かりがさし始めている。
ジョンは、今窓から見える光景をぼんやりと見つめていた。
静かな朝だった。
いつか、このアパートの窓から見える景色もすっかり忘れてしまう日が来そうな気がする。
そんなとき、まだ自分はクイーンにいるのだろうか?
近くに、あの百面相はがいて、やっぱり笑ったり怒ったりしているのだろうか?
いったい、これから先、どんな人たちに出会うんだろう?
どんな異国の地に向かうんだろう?
自分はフレディのためにどんな曲を生み出せるんだろう。
まだ見ない未来の夢を見ながら、ジョンは一方でどんどん離れていくものを感じている。
どんどん、遠くなる……地面が、遠くなる。
ジョンの頭の中では、ふと結婚という二文字がちらつき始めている。


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