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永遠の翼〜ピーナッツはブランデーの香り (2)―ジョンの告白―(written by ねこ娘さん)

「大切な話があるんだ……」
彼はとうとう意を決して、電話の向こうの相手にそう切り出した。
まだ、朝の早い時間だったので、受話器の向こうからは少し機嫌の悪い返事が返ってきた。
ずっと、悩んでいた。だいぶ前から、ずっと。昨日は、ほとんど一睡もできなかった。
「君に、伝えたいことがあるんだよ」
ぼやけた目をこすりながら壁にもたれて体をひねると、
そこからはいつもと同じように街の景色が見えている。

――その日、次のアルバムに収録する曲のリハーサルがあった。
「おい! ジョン! ったく、何だよ! まただぜ!」
ロジャーが声を上げた。
「もう何回もやってるのに、まだ一度も合わないじゃないか!!」
その日、特にロジャーはいつになくカリカリしていた。
そのせいもあるが、ジョンもいつになく同じカ所でつまづいていた。
とりあえず音合わせということで、それぞれのパートを一緒に演奏していたのだが、
まだ一度もうまくいっていな。それで、ロジャーはとうとう怒りだした。
「自分のパートもろくに演奏できなくてレコーディングなんかできるかよ!」
とうとう彼はスティックを投げ出してスタジオを出ていってしまう。
「まぁ……ジョン。ロジャーは別に君だけのせいでああやって怒ってる訳じゃないと
思うから、あんまり気にしないほうがいいよ。瞬間湯沸かし器みたいなヤツだからさ、
ああやって電源切っちゃえば時期冷めてくるから」
ブライアンがそう言ってジョンの肩を叩いた。
ブライアンはどこか嬉しそうだった。
きっとまだ曲をいじる気でいるんだな、とジョンがぼんやり思っていた。
そういや、そのせいで数日前もロジャーともめていたっけ……
「ごめん……あんまり練習して来なかったから、僕が悪いんだ」
精気のない声でジョンが言ったが、ブライアンには聞こえてなかったようだ。
彼もそそくさとギターを置いてスタジオの外に出ていった。
案の定、フレディに楽譜を見せて何か話している。
ジョンは、その光景をどこか遠い世界のように見ていた。
まるで、抜け殻のように体がだるかった。とにかく眠たくてしかたがなかった。
このまま、ここでぶっ倒れたら、どんなにか気持ちがいいだろうと思う。
ベースを下げたまま。本当に、このままフッと倒れそうになった。
あ、いけない!
睡魔に負けそうになった瞼が自然と落ちる瞬間に、ジョンはなんとか自制心で踏みとどまる。
こんなことじゃいけないんだ! もう僕は、決めたんだ……
ジョンは自分の顔を両手で思いっきり叩いた。
ふとコントロール・ルームの窓を向くと、フレディが手を振っていた。
「ジョン、昼食にしよう」
フレディが声を張り上げている。
ジョンは首を横に振った。
「もう少し練習させてくれないかな」
フレディが少し困ったように肩をすくめてみせたが、すぐにオーケーと言ってくれた。
ジョンは、昨日練習できなかった分もめいっぱい一人で練習した。
「Stone Cold Crazy」この曲にはピックを使った方がいいというブライアンの
アドバイスも含めて、自分なりにいろいろ試してみた。
でも使い慣れてないものを使ったせいで、ピックの先端が欠けてしまい、
そこでジョンの練習は一段落する。

昼食を終えたスタッフやメンバーが戻ってきた。
ジョンは昼食そっちのけでスタジオ横のブースで熟睡していたが、
やがてブース内も騒がしくなったので目を覚ました。
「けっ! 昼寝してるぜ!」
とロジャーが吐き捨てた。
「いいじゃないか、ロジャー。ジョンはさっきまでずっと練習してたんだから。
それに午後からは僕のボーカル録りだろう。……だからさ、まだ寝てていいよ」
フレディがジョンに向かってウインクをした。
「ああ……」
ジョンは言って大きなあくびをしたが、ロジャーに睨まれたので途中までしかできなかった。
「あれ? ジョン……いつもピック使ってたっけ?」
フレディが、テーブルに置いてたあった先の欠けたピックを手にして眺めている。
「うん……ブライアンがさ、さっきのカ所はピックを使った方が、
スピーディで自然な感じで進められるんじゃないかって言うからさ……僕も、
この曲には普段の重い感じより弾む音の方が聴きやすいかもしれないって思ってね、
試してみたんだけど……慣れてないせいかな、あんまり好きじゃないよ」
「先が欠けてるじゃないか」
「使ったことないから、力加減とかよくわからなくて」
「ふ〜ん……これどうするんだい?」
「どうするって……使い物にならないから捨てるよ」
それを聞いてフレディがまた面白いことを思いついたときの顔をしたので、
内心ジョンは焦った。
「じゃ、これ僕にくれよ。いいこと思いついたから」
その顔見れば言う前にわかるとジョンは言いたかった。
「僕の部屋の鍵につけるよ。この色なら目立つから」
そのピックは鮮やかなオレンジ色をしていた。
ジョンが学生時代に友人にもらったものだ。
ベースのケースにいつも入れていたのだが、まず使うことはなかった。
「べつに、かまわないけど……」
もっとビックリすることを言われるかと思ってジョンは内心ヒヤッとしたのだ。
でも……
「おい、フレディ、準備ができたよ! そっちはどうだい、いけるかい?」
スタッフの一人がフレディを呼んだ。
「オーケーだよ! いつでもいいよ!……じゃあジョン、僕が歌入れしてる間に、
これにつけといてくれるね」
そう言って、フレディは部屋のキーを置いてさっさと行ってしまう。
ジョンは、ロジャーには悪いがもう一眠りするつもりだったのだ。
まだ少し睡魔はジョンの体に残っていて、彼の精神にいたずらしているようだった。
そのせいか、段々ジョンはハイになっていく自分を感じていた。
「オーケー、オーケー、しっかり歌ってきておくれよ!
僕はね……僕はこういうのが得意なんだ!
昔からこういうことをさせたら右に出る相手はいないのさ!
工作ならまかせてくれよ! 手先が器用だっていつも先生に褒められたんだ!!」
なんて、半ばやけくそでフレディに負けないくらい早口で、
リズムにのせて言ってみたけど、どうもうまくいかなかった。
コントロール・ルームから「外、うるさいぞ」という声が聞こえたくらいだった。

フレディの声が聴こえてくる。
そういえば、フレディには言っておかなくちゃ、とジョンはピックに
穴をあけながら考えていた。
でもまず、その前に腹ごなしと安らかな睡眠時間がほしいと思うのだった。

この日、レコーディングは思いがけず早く終わった。
まず、ブライアンがまた胃腸の具合がよくないと訴えて、午後から病院へ出かけたことと、
せっかくマスターしたロジャーのパートをブライアンが少し変えたいと言い出して、
ロジャーが完全につむじを曲げてしまったせいだ。
フレディだけはひたすら機嫌がよかった。
険悪になりかける二人の間でつまらないジョークを連発していた。
そんなフレディの様子に、ジョンは少しホッとして胸をなで下ろす。
この分なら、すんなり打ち明けられそうだ。

「ジョンが僕を誘ってくれるなんて、とっても嬉しいよ。雪でも降らなきゃいいけどね」
フレディはこれ以上ないような笑顔で、そのバーの一番奥の席についた。
フレディはカウンターで飲もうとしたが、ジョンが奧の席へと促したのだ。
あんなに開けっぴろげに人に囲まれる場所は、とてもじゃないが落ち着いて話せない。
「でも、今日のジョンは少しおかしかったよ。あんな簡単なカ所を何度も間違えてさ。
君らしくないね。自分のパートがあるときはちゃんと練習してくるのに……
ロジャーだって怒るよ。ただでさ機嫌悪かったし……」
「……うん。ちょっと、寝不足なんだよ。迷惑かけてごめんよ」
「いいんだ、そんなこと。どうせブライアンだって病み上がりだし、
急にペース上げたって彼も体がついてこないだろうし。
大体の曲は完成してるんだから、あとは音を入れるだけさ。楽譜は逃げやしないよ」
フレディはそう言うと席を立ってカウンターに向かった。
そこで少し店のマスターと会話をして、ボトルキープしているウイスキー、
それにグラスとアイスポットを下げて戻ってきた。
フレディはこの店の常連らしく、ここに戻る途中にも数人の客と挨拶を交わしていた。
ジョンは、振り返ってフレディのその様子を見ながら、やはりスタジオの横にあった
喫茶店にすればよかったと思っていた。
「話があるから、ちょっと付き合ってほしい……」と申し出たところ、
近所にいい店を知ってるからそこに行こう、とフレディの言われるままついて来てしまった。
途中、あやしげな裏道などに入って行くから、いったいどこに連れて行かれるのかと
気が気ではなかった。
「さ、今日は僕のおごりだから、どんどん飲んおくれよ」
「僕はコーラーか何かでいいよ。お酒はいいよ」
「何だよ、ジョン! つき合いが悪いなぁ。君から誘ったくせに」
と言いながらも、フレディは近くに来たウエイトレスを呼び寄せた。
「ねぇ、ミルクはある? こちらの甘いマスクのお兄さんがお酒はイヤだと
だだをこねるんだよ、もう大きいのにね。え? ……ないの?
そりゃ残念、うんと甘いのがほしかったのになぁ……じゃあ、コーラーでいいよ。
ブランデーで割ったやつね……」
「余計なことはしなくていいよ! ただのコーラーでいいからね!」
ジョンが声を荒げると、フレディがチラリと目を細めてこちらを睨んだ。
「面白くないなぁ〜」
「僕だって面白くないよ! こんな気分じゃ……」
ジョンは膝の上で握りしめた自分の手を見つめた。
どうしてフレディって人は、自分の真剣な気持ちを挫こうとするのだろう。
そんなことが少し苛立たしかったし、そんなことにむきになる自分も子供っぽくてイヤだった。
「へぇ〜どんな気分なんだい?」
下を向いたジョンの視界にフレディが入ってきたので、
ジョンはビックリして身を引いてしまった。
その動作がおかしかったのか、フレディは椅子の背を抱いて声を殺して吹き出している。
フレディが急にヘソを曲げるのにも困るが、ひたすら上機嫌なのも困る。
次にヘソを曲げたときとのギャップがかなり大きいような気がしてならないからだ。
そんな想像をすると、少し恐ろしい。
とりあえず、ジョンは水を飲んだ。
「ごめんよ、ジョン。からかって悪かったよ。さ、話って何だい? 何でも聞くよ」
長いまつげをパチパチさせながら、フレディは慣れた手つきで水割りを作る。
見た感じ、かなりウイスキーが濃い。
「あの……」
フレディに改めて話を聞く体勢を作られるのもなんだか落ち着かない。
それに、どういうふうに切り出せばいいのかわからない。
だいたい、本人にどう告げるかさえまだ考えていないんだ。
「あの……」
「何?」
豪快にフレディはウイスキーを飲み干す。
ほとんどストレートに近いそれを見て、ジョンは何だか焦ってきた。
意を決して、ジョンは口を開いた。
「フレディ……今度のアルバムはきっとすごい物になると思うよ、僕ね」
「え! ジョンもそう思うかい?」
「あ……う、うん」
まずい。本題に入る前置きのつもりだったのに、フレディの目の色を変えてしまった。
この後はもう……
「よかった! ジョンって自分からアルバムや曲の感想なんて滅多に言わないからさ、
時々すごく心配になったんだよ。でも、今回のは僕も我ながらすごいと思うよ!
このアルバムに賭けてると言ってもいいね。これでダメなら、いよいよ僕は人間不信になるよ。
もう何も信じないね。音楽もやめさ! 今までの生き方だって見直すね。
ファースト以上に全てを出し切ったって感じだよ。
僕なんて、もうこの後がないくらいって意気込みで今日は歌ってみたんだけどさ?
どうだった? そういうのわかるかい? 聴いた人もそういうの感じてくれれば嬉しいけど。
……それに、ブライアンが凄いよ。病院では地獄を見たって言ってただけに、
あの気合いの入れよう……見たかい? 以前より体重も落ちたみたいで
すっかりやつれちゃってるのに、全身からオーラが出てるよ。
今日もあの通りに、まだ曲をいじりたいって言ってきたし。
あれ以上どういじるのかわからないけどさ。僕は今よりずっと良くなるなら、
何でもOKさって言ったけどね」
熱っぽく、手や瞳をせわしなく動かしながら、機関銃のような勢いで吐き出される
フレディの言葉にジョンは圧倒された。
確かに、ジョンも今手がけてるアルバムはただ事ではないと思う。
なんせ、初めて自分の曲が起用される記念すべきアルバムだった。
「……そ、そうだね。キラー・クイーンなんか、楽譜を見てるだけで
ワクワクしてくるし、とても即興で仕上げたなんて思えないよ」
「僕だって、急にあんなの思いついた訳じゃないよ。
アイデアはずっと頭の中にあったのさ。それがね、いろんな偶然が重なって
ああやって突然閃くわけさ。僕の場合、いつだって音楽は即興なんだ。
いいものも悪いものも、常に頭の中に湧き出てるんだ。
だから、もし僕がこの音を外に書き出す方法を知らなかったら、
頭の中はパンパンになって、もう大変なことになってるね。
……あ、おじさんもそう思う?」
そう言って、声高にフレディが笑う。
まったく関係ないが、その横で立って飲んでいた中年の男も笑っていた。
ジョンは少しだけ笑った。
「あ、あのさ……フレディ、それでね」
フレディがまたウイスキーをグラスに注いだ。
「うん? ああ、そうだ。まだ本題じゃなかったね。何だったっけ?」
「うん……あの……」
言わなきゃ……絶対に、今日言わなきゃ!
「あ、あのさッ! ぼ、僕!」
「……ジョン」
フレディが悲しそうな目をしてじっとジョンを見つめている。
「……な、なに」
「どうしたんだい? そんな汗までかいて」
知らないうちに汗をかいていたらしい。フレディに言われて額に手をやると、
たしかにビッショリと濡れていた。
「ホラ、僕が拭いてあげる」
フレディが手前にあったおしぼりでジョンの汗を拭おうとしたが、
ジョンはキッとした顔をしてフレディの手を払った。
「フレディ! 僕、結婚するよ!」
別に立ち上がる必要はなかったが、ジョンはテーブルに両手をついて立ち上がっていた。
フレディはおしぼりを持ったまま、ジョンの勢いに呆気にとられてポカンと口を開けている。
次第に、黒目がちなその目に、白い部分が増え、フレディは大きく目を見開いて
ジョンを見つめた。
ジョンは、フレディから目が離せず、きつい顔をやめられない。
フレディの次の表情を見るまで、まるで蛇に睨まれたカエルのように動けない。
その時間がとても長く感じた。
今の声は聞こえたはずなのに……フレディ……
その時、
「アハハ、おめでとう、若いの!」
と言って、さっきの中年男がジョンに向きながら手を叩いた。
そこにかたまってた数人が、一緒になって拍手を送ってくれる。
そして、フレディもつられたように一つ手を打った。
それを期に、やっと時間が流れ出したように、フレディの金縛りにあったような
表情も解けていった。
「おめでとう、ジョン」
「あ、ありがとう」
急に立ち上がってる自分が恥ずかしくなってきた。またドッと汗がわき出た。
ジョンは慌てて椅子に坐ると、フレディの前のグラスを手にしてグイッと一気に飲み干した。
「……っう」
思った以上のアルコール度数に、吐きそうになって口を覆う。
「大丈夫かい」
そう言って、フレディがジョンの前におしぼりを差し出してくれた。
「ありがとう」
ジョンはフレディからおしぼりを受け取って口に当てた。
フレディは黙ってまた別のグラスで自分用の水割りをこしらえている。
ジョンはさっきの中年男のかたまりが別の興味に向いたのを確認して、もう一度小声でフレディに言う。
「結婚……する、僕」
フレディはグラスを口に当てたまま、その目でジョンを目上げ軽く頷いた。
「聞こえたよ」
「……ヴェロニカなんだ」
「……うん」
フレディは横を向いてタバコを吸い始めた。
ジョンは暫く黙って下を向いた。靴先に視線をやりながら、冷静になろうと努めた。
ゆっくりと考えながらポツリ、ポツリと口を開く。
「……まだ、誰にも言ってないんだよ。ブライアンも、ロジャーも、知らない。
最初にフレディに言いたかったんだ。まだ、ヴェロニカにもプロポーズだって
してないんだ……僕だけの考えだよ。……でもフレディがダメだって言うなら、やめるよ。
僕だって、今がバンドにとっても大事なときだって知ってるし……」
知ってるけど……どうして今なんだ? っとフレディに言われれば、
昨日徹夜で考えていた答えがゆるぎそうで不安になった。
「ダメだなんて……君の自由じゃないか、そんなの」
そのフレディの言い方は、どこか突き放すようで冷たく感じた。
「………」
フレディは、まだ一本目の煙草を吸い終わっていないのに、苛立たしくそれを
灰皿の上で揉み消し、二本目に火をつけた。いつものフレディらしくなかった。
だいたい、煙草すら普段はあまり吸わないのだ。
それ以後、フレディは少しもジョンと目を合わそうとしなかった。
ジョンは大きなため息をついた。もう、ダメだと思った。
無理なことを言い出してるのは自分だということもわかっている。
「フレディ……もういいよ。ごめん、こんな忙しいときに」
ジョンは下を向いたまま小さな声でそう言った。
聞こえたのかどうか、フレディは煙草を灰皿に置いて立ち上がった。
そのまま立ち去ろうとするので、ジョンは思わずフレディの手を引っ張った。
「……トイレだよ」
そう言って、フレディは軽くウインクをして見せた。
「そう……」
ジョンも笑った。
なんだか、一瞬とても気まずい空気が漂ったので、正直、
フレディが席を外してくれてジョンも少しホッとした。
ふー、と大きく肩で息をしてから、コーラーを飲み、小皿に積まれたチーズをかじった。
まだ早かったのかもしれない。
フレディだけじゃない、ブライアンもロジャーも、みんな今度のアルバムに賭けてるんだ。
それに、バンドだって独立できるかできないかの瀬戸際で、まだ決着もついてない。
なのに、自分だけ呑気に結婚したいなんて、ふざけてる!
ジョンはぶんぶんと首を振った。
いや、違うんだ。僕だって精一杯頑張ってる!
と、また前者の意見をうち消そうとする。
昨日も、これで延々考えた。その結果、これからは、今以上に頑張るためにも、
やはりヴェロニカが自分にとって必要だと決めたんだ。
でも、フレディのあの様子を見ていると、どうしても気持ちが揺れる。
まるで、バンドをとるのか、彼女をとるのか? と、無言の内に
問いただされてるようで苦しい。でも、もし自分がフレディの立場なら、
そんなことは絶対に許さないような気もする。
もっと取り乱して怒りだしそうな気がする。こんなにも、こんなにも一丸になって
頑張ろうとしている時に!……と。
今し方、トイレに向かったフレディの後ろ姿が頭に焼き付いて離れなかった。
ライブの最中とは随分違って、小さくて淋しく見えた。
もしかして、あれがフレディという人の本当の姿かもしれない。そう思った。
「僕は……」
ジョンは、テーブルに肘をついて頭をかかえた。
全ては、今度のアルバムのせいだった。このアルバムはまだ完成こそしていないが、
本当に目を見張るものがある。今までとひと味もふた味も違う。
フレディが言ったように、本当に全てを賭けたというだけあると思う。
うまく言えないが、初めて世界がグンと近づいたような気がしたのだ。
そして、それと同時に、もう戻れない地点に来ていると思った。
キラー・クイーンを歌うフレディを見たとき、ジョンの中の迷いが一気に吹き飛んだのだ。
もう、戻れない……。広げた翼は、この先果てしなく大きく拡がっていく……
そういうイメージが見える。
……でも、ずっと翼を羽ばたかすことなんて僕にはできない。
いつか力つきてそのまま墜落してしまうよ。そうなれば、もう僕は終わりだ。
他のみんなのように、器用に立ち回れないんだから。
根っからのバンドマンではない。どこかで、普通でいたいし、
それが幸せなことだというのもわかる。
そんなことを思うとき、ヴェロニカの存在は貴重だった。
何より自分を理解してくれているし、この仕事に対する理解もある。
それに、愛している! 
唯一、ジョンが安心して舞い降りていける、止まり木のような存在。
唯一、地上との接点があるとするなら、それはヴェロニカ以外には考えられなかった。
やっぱり……今度のツアーに出る前には、はっきりさせなきゃ!
僕自身の気持ちが定まらないと、仕事にも影響が出てくる!
ジョンが自分の中でそう決意して顔を上げたとき、その肩にそっとフレディの手がのせられる。
「ジョン……」
ポタッと、テーブルに数滴のしずくが落ちた。
「……?」
見上げると、前髪をびしょびしょに濡らしたフレディが立っていた。
「ど、どうしたの」
「何でもない。雨が降ったのさ」
フレディは髪をかき上げた。
「雨って……トイレだろう? 外にあるの?」
「どうだっていいよ……それより、飲み直しだ。乾杯しようよ、ジョン」
「え?」
「景気づけさ! これからヴェロニカにプロポーズするんだろう?」
「フレディ! じゃ、じゃあ、歓迎してくれるの?」
「当たり前だろう? クイーンがネックで結婚もできない、
な〜んて言われちゃ僕だって困るよ。みんなが一番いい状態でなきゃイイ曲も作れないしね。
それに、何よりも恋愛は自由さ! ジョンの意志だよ」
「ありがとう……フレディ。本当に、ありがとう」
ジョンは嬉しくて目に涙を浮かべた。さっきのお酒のせいもあるのかもしれないけど。
「よしてくれよ、ダーリン! こんな席でさぁ。僕だって泣けちゃうじゃないか……」
 そう言って、フレディはごく自然な動作でジョンの涙を指で拭うと、自分も席についた。
「よかったね、ジョン。本当におめでとう。今日は一段と男前に見えるよ。
メンバーにもじきうち明けるんだろう? せめてちゃんとプロポーズしてからにしろよ。
万が一ふられる可能性だってあるんだからさ」
「うん」
その後は、あまり言葉にならなかった。
「ほら、もう飲めよ。言いたいことは言ったんだから」
「そうしたいんだけど、フレディ、今日はもう僕行くよ」
「この後何か用でもあるのかい?」
「うん。とっても大事な用事があるんだ。ヴェロニカが部屋で待ってるはずなんだ」
「………」
「いつでもプロポーズできるように指輪も買ってあったんだけど……
フレディの意見聞いて決めたかったんだ……だから」
「そう……。そうだね、それなら、今すぐ行ってあげたほうがいい」
フレディは優しく笑った。
「フレディ……この後どうするの?」
「僕はもう少し飲んでから、じき帰るよ。ご心配なく、酔いつぶれたりしない」
「そう……。本当に、飲み過ぎたりしないでよ。……それじゃあ行くよ。
また明日スタジオでね」
ジョンは席を立とうとした。
「あ、ちょっと待って!」
「なに?」
しばらく、フレディはジョンの顔を見つめて、困った表情で視線を泳がせた。
「その……今夜張り切りすぎて、明日遅刻するなよ……て、ことだけさ」
「え!?」
ジョンはまた体の内側からドッと汗の出る気配を感じた。
顔色にも出てたのか、フレディが「あ〜あ、ジョンったら」と言って口を押さえて笑った。
「とにかく、頑張れよ。ヴェロニカはいい娘なんだからさ」
「あ、ああ!」
元気な返事を返して、ジョンは店を訪れた時とは正反対の、明るい笑顔で帰途につく。
日中の憂鬱がすっかり晴れたような気がした。
フレディ・マーキュリー、不思議な魅力を持った男だと思う。
これからも、その男の背中を見ながら大好きな音楽を仕事にできる喜びを実感した。
ジョンの中で益々やる気が出てくる。
ありがとう……フレディ!
何度も心の中でそう言った。でも、ジョンは決めている。
プロポーズもして、結婚もするだろうけど、だけど、それを公式に発表することはしない。
まだ、そんな段階じゃない。今はただ、ヴェロニカとクリスマスを一緒に過ごしたいと、
そんなささやかな願いを叶えたいだけなのだ。
とりあえず、部屋で待ってるヴェロニカに電話をかけようと、ジョンは公衆電話を探した。
コートのポケットに入れてるコインを出そうとしたとき、何かが地面に落ちた。
ふと見ると、ジョンの先の欠けたピックだった。
それにフレディの部屋の鍵が付いている。
「ああ、そうか、フレディに昼間頼まれて……わたすの忘れてたんだ」
と単純に思ったが、
「いけない! フレディ、どうやって部屋に入るんだろう!」
慌ててジョンは店に引き返した。勢いよく店の扉を開けて中に入る。
「フレディ!」
さっき飲んでいた奧の席に行く。
「あ、あれ……おかしいなぁ」
さっきのままの状態だ。灰皿には吸いかけの煙草も置いてある。
さして時間はたっていないから、てっきりまだここで飲んでいると思った。
「お、さっきの若いのじゃないか……そこの兄ちゃんなら、今店出ていったぜ。
ここにいた連中と一緒になぁ。別の店で飲み直しだとさ」
「そ、そうですか」
……もう少し、ここで飲むって言ったくせに。
ジョンは唇を噛みしめる。また、不安になる。
フレディ、今夜はどうするんだろう? 鍵のこと、気づいてるだろうか。
ジョンはフレディの事を思いながら店を出た。
慌てて引き返してきて、たくさん汗をかいたせいか、一段と外の空気が冷たく感じる。
ジョンは身震いしてコートの襟を立てた。
とりあえず、道路を渡ってすぐの場所にあった電話ボックスに入る。
ダイヤルを押した。
「……あ、ヴェロニカかい? ごめん、少し遅くなった。もうすぐ帰るよ……
あ、いや、もう少し、もう少しかかるかもしれない。……え? ああ、そうじゃない。
……うん大丈夫。……いや、いいんだ、今日はね、大事なことを君に言わなきゃいけないんだ。
……うん、わかってるよ。……今夜は、一緒に夕飯を食べようね」
ジョンは静かに受話器を置いて電話ボックスを出る。
手に息を吹きかけながら何気なく空を見上げると、すっかり漆黒の夜空に、
白いものが円を描きながら落ちてくるのが見えた。
それは、しだいにたくさん降り注ぐ。ジョンの手にも……
「雪……もう?」
冷えるはずだ。
フレディ……こんな寒い夜に、いったいどこにいるんだろう……
街灯の薄明かりの中を人が行き交う。
ジョンは店のショーウインドウから漏れる暖かそうな光に目をやった。
後ろも振り向いてみた。街は冬の寒さの中でめいっぱいの暖かさを演出している。
それに、この音楽……。自分たちのじゃない音楽。いつか、自分たちの音楽が、
フレディの歌声がこの景色の中に混じるのかもしれないとふと思った。
大人も子供も老人も、柔らかい明かりの中で笑っていた。
その中にフレディがいれば、気配だけでわかるような気がする。
きっと、あの後ろ姿ならすぐに見つけられると思う。
ジョンは腕時計を見て、すっかり冷たくなった鼻の頭に手をやった。
……君がどこかへ行っても、きっと僕ならすぐに見つけられるからね。
いつだって『僕を探し出してほしい』って、君の背中は言ってるんだ。
あのライブの時ですらね……僕には、ちゃんとわかるよ。
ジョンは、フレディの部屋の鍵をポケットの中で強く握りしめて、
通りの人混みの中へと走り出した。


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