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永遠の翼〜At the Emerald Bar〈翼を広げて〉
(written by ここさん)
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すえた酒と煙草のにおいが充満した店の中、少年は浮かない顔でカウンターを片付けていた。
外に出れば清々しい朝の風と光を浴びることもできようが、半分地下に潜った酒場ではそうもいかない。
最後の客、ずいぶん長いことねばってやがったな、と少年は思った。
やけに深刻そうな顔をして話し込んでいた。
でもあいつらがいくら議論を交わしたって、変わることなんかありゃしない。
別にあの話をちゃんと聞いていたわけじゃないし、興味も全く無いけれど……。
酔っ払いがこぼした酒や食べ残しがこびりついたカウンターテーブルは、湯で湿らせた布で拭かないと
なかなか汚れが落ちない。しかし少年のボスは、湯を沸かすのがもったいないと言って取り合ってくれなかった。
少年はそのがりがりの腕で、懸命になってカウンターをこすり続けている。
「おいサミー!テーブルはまだ終わらねぇのか?とっとと床をはいちまえよ」
「へーい」
いつもながら不機嫌そうなボスの声だった。彼は厨房を片付けている。料理の腕は一流なのに、
この汚い店で大して味の分からない客相手に、毎日毎日安酒をふるまい続けているボスのことが、
少年には時々哀れに思えた。
カラン……
来客を知らせる鐘の音と、開いた扉の隙間からもれ出てくる日の光に、少年はますます顔をしかめた。
「お客さん、悪いけど、今は店はやってないんだよ」
背の高さと体格から判断すると男だろうが、逆光のせいで顔はよく見えない。
しかしその肩は、何故かあまりに頼りなく揺れていた。
「あんた……?」
「水を……くれないか……」
低い声――男か――少年はそう判断したかしないかのうちに裏口へと走った。
「座って待ってな、持ってくるから」
男の声はかすかにかすれており、彼を井戸に向かわせるのに十分な同情を誘ったのだった。
少年が戻ってくると、男はテーブル席の一つに腰掛けていた。祈っているのか、
単に疲れているだけなのか、男は組んだ手を額につけて俯いている。
今は入り口の扉も閉められており、薄暗い店内でそうしている男の姿は、少年の目には異様に映った。
「ああ、持ってきてくれたんだね、ありがとう。……もらえるかな?」
男は不意に顔を上げ、コップを手にしたまま離れて立っていた少年に微笑みかけた。
「あ、ああ、勿論……。そら、飲みなよ」
少年はいささかうろたえばがら、コップ(実は洗ってあるかどうかは確信が持てない)を手渡した。
意外に若い。10代ではなさそうだが、それでも20代半ばといったところだろう。さっき目が合った瞬間、
鋭い目つきに身がすくむ思いだったが、その次の笑顔は別人のように優しいもので、二重に驚いた。
「……ああ、おいしかった。生き返った気分だよ。ありがとう」
男は笑顔でコップを返した。少年は曖昧に返事をして、またカウンターに向かう。
すぐに店を出る気はないらしい。男は座ったまま暗い店内を見渡している。少年は多少の居心地の悪さを
感じながらも、気にしないことにした。
「君は一人でこの店をやってるの?」
男は低い声で尋ねた。
「まさか。奥にここのボスがいるよ。
俺みたいなガキが、一人でこんな酒場をやってけるはず無いだろ?」
背中に強い視線を感じながら、少年は答える。
「でも片づけは一人でやるのかい?」
「今はね。人手がないんだ。この間まではいたんだぜ、俺の他にもう一人……。
美人でさ、こんな店なのに下品なとこは全然なくて、人気もあったんだけど」
「今はいないの?」
「わからないのさ。連絡もなしにいきなり来なくなっちゃったんだ。
おかげでボスの機嫌は悪くなるし、イヤんなるよ。
彼女に限ってそんな無責任なことはしないだろうから、きっと理由があるんだろうさ」
いつになく饒舌になっている自分に、少年は気付いていた。どうしてかは分からないが、
この男を前にしていると、普段はっきりとは自覚していなかったことまでスラスラと言葉になる。
「彼女、歌もやってたんだ。隅にピアノが見えるだろ?」
少年に言われる前から、男はそれに気付いていた。
古びた小さなピアノが、暗がりの中にひっそりと溶け込んでいる。
「たまにピアノを弾ける奴が来て伴奏してくれてたんだ。それで彼女は歌った。
そこらの歌手なんかよりよっぽど巧いって評判だったよ。俺も、すごく好きだった」
最後に歌っていた彼女の姿を少年は思い出していた。凛とした、強い眼差し。
少しだけ悲しそうな横顔。歌っていたのは、愛と自由を謳った典型的なバラードだった。
歌う彼女は華やかだったが、時々ふっと遠くを見ているように見えた。
彼女は何を見ていたのだろう。何を求めていたのだろう。
「サミー!こら小僧!もう床は済んだんだろうな?!」
店長の怒号に、少年は軽く肩をすくめた。男との会話が聞かれていたのかもしれなかった。
「今やりますから」
少年は投げやりに答え、持っていた布巾をしばらく見つめてから放り出した。
ふと、肩にやわらかな重みを感じた。いつの間にか男が立ち上がり、少年を見下ろしている。
口元には笑みがたたえられていたが、本心から笑っているのかどうかは少年には分からなかった。
肩に置かれた手は、どこかひんやりしている。
「辛いかい?」
男の目に強い光が宿っていた。灰と緑が混じりあったような、その不思議な瞳の色を、
少年はずっと昔から知っているような気がした。
「精いっぱいやるしかないんだよ……」
少年は笑おうとしたが、その顔は奇妙に歪む。
「やりたいことをやればいい。自分の意志で」
男は目を逸らさずに言った。穏やかな口調だった。
他の人間に言われたのなら、勝手なことを言うなと反発したかもしれない。
しかし不思議と腹は立たなかった。
男が、自分を見ていないことに、少年は気付いた。本当にその言葉を聞きたがっているのは
彼自身であり、そのためにこの店に入ってきた――そう思えてならなかった。
「そろそろ行くよ。水をありがとう」
男は背を向け、扉へと向かう。
「ねぇ、あんたさ」
少年は男の後ろ姿に声をかけた。
「これから先、あんた一体どうするつもりだい?」
別に深い意味があって訊いたわけではない。なんとなく口から出てきたのだ。
唐突な質問に、男は歩みを止めた。しかし振り返りはしない。
「先のことなんか、わからないよ。でも、今は進もうと思ってる。何があっても」
「……どこに進むってんだい、ダーリン?」
めっぽう明るい声で目が覚めた。気付けばそこは、見慣れたスタジオの休憩室。
ソファに横になっていたはずだが、どうやら本格的に寝入ってしまっていたらしい。
いたずらっぽい表情で自分をのぞきこんでいるのはフレディだった。
彼は、ジョンの頭のわきの空いたスペースで、優雅に足を組んで座っている。
「夢だったのか……」
それにしては妙にリアルな夢だった。店のあの匂いがまだ体に染み付いている気がする。
――ふと目をやると、フレディの片手にはシャンパングラス、ソファの前に置かれたテーブルには、
吸い殻が山と積まれた灰皿があった。
「ジョン?」
不意に、体を折ってくすくす笑い出したジョンを、フレディは不思議そうに眺めている。
「いや、なんでもない」
ようやく笑いをおさめ、ジョンは体を起こした。胸にかけてあったフレディの上着がずれ落ちる。
ラメやビーズがふんだんに使われた、彼お気に入りのものだった。
「おい二人とも、いい加減サボってんじゃねーぞ!」
「僕達も休みにきたよ。あとでコーラスに手を加えないといけないけど。
あ、ジョン、もう具合はいいの?」
扉が開き、甲高い陽気なハスキーボイスと、わりと低めのやわらかな声が連れ立ってやってきた。
「顔色はマシになったよねぇ、ジョン?」
「なんでフレディが答えるんだよ」言いながら、ロジャーは向かいのソファにどっかりと腰を下ろす。
「だって、ずっと看てたからね!」
「そうなの?」とフレディを見ると、おどけたようにウインクしてみせる。
「本当に、ただ単に『見てた』だけだろ!なぁジョン、あんまりキツかったら帰っていいんだぜ。
今日はブライアン先生が頑張るって言ってるからな」
「うん、でももう平気だよ。だいぶすっきりした。心配かけてごめんね」
「なに謝ってんだよ!」
ニッと笑って、ロジャーは空になったマルボロの箱を投げ付けた。
「いいけど、あんまり無理しないでくれよ、ジョン。今日だけじゃなく、
最近ふさいでるみたいだったじゃないか。スランプかい?あ、君も飲む?」
何やらグラスを持ってきたブライアンがロジャーの隣に腰掛けた。
「――たしかにスランプだったかもしれない。でももう大丈夫。
飲み物なら……今は足りてるよ」
「何だよ、ブライアン。ジョンにだけ訊いて、俺には何も無しか?」ロジャーはふくれっつらで
ブライアンのグラスに手を伸ばすが、いかんせん腕のリーチが違い過ぎた。
「君は元気じゃないか」
「ずりー」
二人のふざけあった会話は、ジョンにはどこか遠く聞こえていた。
目をつぶると、まだ夢の情景がはっきりと浮かぶ。
……あの少年は、もう一人の僕だった。
暗い部屋の中、彼が何を求めていたのか、僕は知っている。
それは彼女が手に入れたものと同じだった。
そう、かごの中の小鳥は、より自由にさえずろうと、翼を広げて飛んでいった……
“背中を見てごらん”
“君にも翼があるじゃないか”
“君だけの、素敵な翼が”
残された一羽には、そんな声が聞こえてくる。
僕だけじゃ、きっと飛べない。
だけど……
「……ずいぶん、いい夢だったみたいだね」
フレディが優しく微笑む。
「うん」
ジョンも微笑み返した。
僕には一緒に飛んでくれる仲間がいる。大きさも色も形も違うけど、みんなすごい翼を持っている。
先のことなんて誰にも分からないんだ。考えるのはもうやめた。今はとにかく飛んでみたいんだ。
「ところでジョン、ひとつ訊きたいことがあるんだけど……」
身を屈めて自分の上着を拾い上げたフレディの顔が、かすかに赤くなっている。
「なに、フレディ」
にっこり笑って問い返すと、フレディはますます顔を赤らめた。
そして、照れたときや笑おうとした時によくやるように、口元を手で覆う。
「どうしたのさ?」
「うん、あのね……。サミーって、誰?」
〜おわり〜
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