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永遠の翼〜
この街で
Written by ねこ娘さん

その1
 夜になれば、すっかりその顔色を変える街だった。昼間に訪れたことはまだないが、通りのいたる所からあふれ出すエネルギーは、とても太陽の光がたちこめる真昼に精気を放つようなものではなかった。明らかに、ここは夜の街だった。目に入るネオンは全てあからさまに秘め事の匂いを漂わせ、あらゆる人を惹きつけていた。限りなく肌を露出した男女が、蛍光色のネオンサインに照らされながら蛾のように群れていた。そんな派手ばでしい彼らがまき散らす鱗粉が見えたような気がして目をそらすと、建物の陰に隠れた路上で何かをやりとりする連中が目に入る。
 あてもなくふらふらと漂っていた。見えない紫色の空気に流されるようにして、彼はここまでやってきた。もう会えるはずのない友が、今でもこんな騒がしい人混みの中で、笑い声をあげているのかもしれないと思った。
 いや……違う。彼なら……
 心の奥底に立ちこめる蜃気楼のように、ぼんやりとした友のイメージを何度も否定した。それは彼の望まない友の姿だったから。否定しても、否定しても、この街のネオンと人いきれに投影されるように、友のイメージは時には色濃く、時には色あせながら、まるで彼を無視して誰ともしれない人間に両脇を固められ、その中で笑うのだった。
 もう友は彼の好きな歌をうたわなくなっていた。全てが思い通りにはいかなくなったと言って、もの悲しい瞳でぼんやりと遠くを見つめた。
「ただ一つ、完全に思い通りになる世界は、とても狭くて、長くいるにはつまらないのさ……だから、そこでは一時の夢を見るだけさ。それだけだよ」
 別れ際にそう言って、夜の中に消えていった友の姿を彼は思いだしていた。もう一人では夜も恐れるほどになっていた、あの友の背中。
 何か声をかけてほしげに立ち去る友を、彼はいつも冗談のような言葉で軽くたしなめた。
「死に神と恋に落ちないようにね、君が全てを捧げたのは音楽の女神だけだろ」
 あの時おどけた顔をして応えた友に、彼はもう二度と会うことはない。
 こんな街。彼の友が夜な夜な彷徨った街は。すっかり時が経過していたが、昔からの潮流を至る所に残して、どこかこの気だるい空気の歪みに生じたタイムトンネルから、過去の人物が時折ふらりと紛れ込んできそうな気配があった。
「そこが僕にとって必要じゃない場所だと思えば、すぐにやめるさ……」
 彼の友はそんなことを言いながら、彼の記憶する限り、夜の街を彷徨う生活をやめたと思えることはなかった。彼の友がすっかり生活の根本から人柄までを激変させたときには、既に友が「それは天の定め」と歌った後のことだった。
 もう友は彼と同じ視線で彼と同じ物を見ようとはしなかった。彼も、友がいったい何を見つめ、何を感じ、何を思いながらその言葉を発するのか、何一つわからなくなっていた。それでも彼は友の歌を聴き続け、その後ろで奏でた。
 ある時、友は随分昔に歌った曲を久しぶりに口ずさみはじめた。今でもその声と友の後ろ姿を忘れることができなかった。その時の歌は、以前とはまったく違う形で彼の耳に飛び込み、心の奥に響いた。

 とても簡単なのに僕にはできない……
 とても危険なこと、だけど賭けてみなければ……

 そんな言葉で歌い出された友の歌。彼はその後ろで奏でることに困難を覚えながら、ひたすら演奏に集中しようとした。鼓動が高まり、息が苦しくなった。しっかり聞けと言われてるようで、耳を塞ぎたくなった。どうして、こんな歌を……。友が声を張り上げるまでは、演奏に何も支障を感じなかった。いや、昔何度も同じ歌を聞いた。同じように友の後ろに控えながら。そのときには、今のようには感じなかったことなのに……。
 友の歌う言葉の一字一句が、まるで研ぎ澄まされた針のように、一本一本彼の胸に突き刺さっていく。

 すべて神々の思し召しのまま……

 友は、そんな言葉を一緒になって声にしろというパフォーマンスを繰り広げていた。
 苦し紛れに日頃歌わない彼も声を振り絞った。わずかな時間だった。そんな曲はすぐに次のスピーディなテンポの曲へとつながっていったが。
 あの時心に刺さった針が、今でも業しているのかもしれないと彼は思う。こんな街のこんな夜の下で、抜けることのない針の痛みがわずかに増した。
 そして、「これは夢……僕は夢を見ているのか」と友が歌ってからは、時間がとても早く過ぎていって、最後の瞬間まではあっという間だった。
 唇を噛みしめて友の最後の歌を聞いていた。部屋で一人。
 「……だから、そこでは一時の夢を見るだけさ。それだけだよ」と言ったときに友が見せた表情。それは苦いものだった。苦痛に耐える顔だった。それは友が最後に歌った夢の世界とはかけ離れていた。
「これが君の夢だったのか……」
 彼はしばらく、人が闇雲に行き交うストリートで佇んだ。
 一気に街の喧噪が彼の耳に飛び込んだ。肉体と精神が原子単位の粒子になりなが、ちりぢりになって飛び散っていきそうな気がした。
 彼は今一度、ジーンズ地のゴブ・ハットを目深にかぶりなおした。ジャンパーの襟を立て、そのポケットに手を突っ込む。騒音と喧噪の中で、全ての音楽も声もシャットアウトしようと努めた。少しだけ昔の思い出が蘇った。あの緊張と興奮の中で、彼はすぐにでも目の前の世界を切り離すことができた。ずっと昔から、友に出会うずっと昔からそうしていたように。そんな彼のことを、友は「君はすぐにどこかへ行く」と言ってからかった。
 君は、どこかへ行ったまま、もう戻ってこないじゃないか。外の喧噪を受け付けなくなった自分の内側で彼は呟いた。
 僕はいつでも世界なんて他人事だと思うことができた。でも、本当に孤独であったと思ったことはない。骨身にしみるほど孤独であったことはなかったし、孤独なんて望まなかったよ。君のようには……
 彼は、今ほど孤独を味わったことがなかった。この街に、この通りに足を踏み入れてから、まるで何か訳のわからない靄に自分自身が侵略されていくような気がした。まだ一人である方がずっといい。こんな場所で誰にも出会いたくないし、誰かと一緒にいたくはなかった。呼び止められたくもないし、全てが無関心であることを望んだ。何もないままで、この夜の街を通り過ぎたかった。そのことしか救いを見いだせない気がした。目の前を行き交う無関係な人間や流れるライトを見つめているうちに、次第にどうしてこんな街を訪れたのかわからなくなってきて、友のことさえ考えることができなくなってきた。
 ――こんな中に君はいたのかい!
 訳もわからず、つい涙が出そうになって、彼は足を止めた。
 と、誰かが彼の腕に自分の腕を絡めてきた。けばけばしい化粧をしていたが、まだ年端もいかない女性だった。自身の体を彼の腰に密着させながら何かを囁き、彼を引っぱって行こうとしたが、彼はすぐに腕を振り払った。その反動で背後にいた男にぶつかり、彼はその男にジャンパーの襟を掴まれた。男は彼に顔を近づけ、彼を罵しった。彼はぼんやりとその男の顔を見つめた。何も印象に残りそうにない顔だと思いながら。彼が動じることもなく澄ましていたのが気にくわなかったのか、男は腹を立てて彼に殴りかかろうとした。男の拳が彼の鼻先に迫ったその瞬間、男と彼の間に屈強な腕が割って入った。
「よぉ〜、喧嘩はよそうぜ。楽しい夜だろ」
 彼より少し背の高い、体格の良さそうな背中が彼の視界を遮った。
彼はただ、電池の切れたアンドロイドのように、突然途切れた視界の前でぼんやりしていた。
彼を殴ろうとした男とそれを止めた男が何やら顔を近づけて言葉を交わした。話がついたのかどうか、煮えきれないという顔をしながらも、彼を殴ろうとした男は人混みの中に消えていった。
 そんな映画のワンシーン。
「よ、あんたさ……俺とどこかで会ったかな?」
 突然彼は映画の登場人物と化す。
「……」
「ぼぉ〜っとしなさんなって」
 彼は見知らぬ人物に不意に頬を軽くはたかれた。それで、再び彼の耳に喧噪と騒音が飛び込んできた。
 見ると、目の前にヒゲ面の男が立っていた。どこか古風な感じの口ヒゲを生やしているが、彼よりはずっと若く、その目を見るだけなら好青年という雰囲気の男だった。ただ、彼は黒いレザーのジャンパーとズボンという出で立ちで、左の耳たぶに空けた三つのピアス穴にそれぞれ違う大きさの金のリングを通していた。それに金属の棘がついたネックレスを首から下げ、無数の鋲を打ち込んだアームバンドを両手にはめている。
「まあいい。知ってるヤツかどうかなんて関係ねぇや。俺の名はビルってんだ。ま、覚える必要はないよ。今夜だけ有効な名さ」
 ビルと名乗った男は馴れ馴れしく彼の肩に腕を回し、その耳元で囁きかけた。
「必要とあらば、あんたの要望を可能な限り叶えられる男だと思うぜ」
「……」
 彼は口許に乾いた笑みを浮かべ、俯いた。少し考えてからぼそぼそと早口に呟いたが、聞き取れなかったビルに「何だ?」と問い返された。
 彼は顔を上げて首をひねり、今自分が歩いて来た方角をぼんやりと見つめた。そしてまた足下に視線を落とし、フッとため息をついた。
「静かな所へ行きたいね、今すぐに」
 彼の瞳は相変わらず、この街のどこにも焦点が定まっていなかった。

〈つづく〉

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