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永遠の翼〜僕は君の友達だから

家族が寝静まった深夜、書斎に一人篭った。
数週間ぶりの部屋の空気はひんやりと肌を刺し、人の侵入を拒んでいた。

僕だって、好きでここにいたいわけじゃない。

本来の彼は、外の世界が好きだった。
人が多く集まる場所が好きで、人と語らうのが好きだった。
この国の金持ちのステイタスとも言える田舎暮らしをせずにきたのも、
子供たちの教育環境を考えたせいばかりではない。
ある種の閉塞感が伴う田舎よりは、大きな街で、誰の気に留められることもなく
自由に歩きまわりたいというのが彼の願望だったからだ。
そして自分にはそれが可能だと、彼は密かに自負してもいた。
あのきらびやかな世界に浸っていた時代でさえ、「普通」であることを心がけ、成功してきた。
まだバンドが現役だった頃でさえ、変装することなく地下鉄に乗れたではないか。

だが近頃の彼にとっての誤算は、業界から遠ざかってずいぶん経つというのに、
世間が彼の存在を忘れてはくれなかったことだ。
普通でありたいと願えば願うほど、普通の社会から浮いてしまう。
いや、「浮かされて」しまう。
バーで知人と酒を酌み交わし、他愛のない愚痴をこぼし、女性をちょっとからかってみる。
そういった、世の男性なら多少なりとも経験していても不思議ではない行為を、
タブロイドに代表される口さがない世間は大仰に取り沙汰し始めた。
それが彼だから、という理由だけで。
バンドの新たな伝説作りに守護天使よろしく精を出す、僚友たちと比較されて。

ここ数年のマスコミの手酷い仕打ちに、彼は、もはや自分は世間でいう「普通の」人間ではなく、
おそらくこの先一生そうはなれないのだと、あれほど戻りたかった普通の社会に舞い戻って以来、
初めて痛切に感じるようになった。
傷が癒えぬまま時間だけが非情ともいえる精確さで過ぎてゆき、彼はいつしか
外の世界へ出ることが億劫になっていた。友達然として近づいてくる者たちを恐れた。

また、騙されるのではないか。
自分、そして家族が、また、傷つけられるのではないか。

雑然としている机の上に積もった微かな埃をぬぐい、ラジオのスイッチを入れる。
深夜番組調の落ち着いたDJの声をBGMに、手近の雑誌をめくる。
だが目も耳も上の空だ。
まぶたが重くなるまでの、いつもの暇潰しでしかない。

家族だけで過ごした異国でのからりとした夏の日々は、彼の凍てついた心を幾分ほぐしてくれた。
だがここは、もうまもなく灰色の冬だ。
まだ外は色とりどりの落ち葉が舞い、秋のやわらかな空気に包まれているが、すべてが
暗い色に染まるまで、幾日とかかるまい。

僕の心も同じだろう。


「次にお送りする曲は、……」

ふいに、記憶の扉が開かれた。
それが何であるのかを逡巡する間に、ラジオから静かなメロディが溢れ出す。

    When you're down and troubled
    and you need a helping hand
    and nothing, nothing is going right...

聞こえてきたのは、ジェイムズ・テイラーの穏やかな歌声だった。
『You've Got A Friend』。
だが彼の脳裏には、別の歌声、別の情景が広がっていた。
忘れようとしても忘れられない、あの日の思い出。

    落ち込んでたり 悩んでたり 救いの手が必要だったり
    なにもかもが すべて うまくいかないときは 
    眸を閉じて 僕のことを考えてごらん
    すぐに 僕が 現れるから
    真っ暗な夜だって 明るく照らしてあげるから

ああ、聞いていたさ。
君の好きな、アレサのソウルフルな声。
母親のような包容力と力強さを持つ彼女の歌声で、この曲が
あの日、あの悲しい場所で響いていたね。
五感は重く塞がれていたけれど、
心の中では、ちゃんと、聞いていたんだよ。

    ただ僕の名前を呼ぶだけでいい
    どこにいたって そう 君のためなら
    僕は駆けつけてあげるよ
    冬も 春も 夏も そして秋も
    ただ名前を呼びさえすればいいんだ
    僕は 現われるから
    だって僕は 君の友達だから…

ひとり遠くへ旅立ってしまう、寂しがりやの君のために、
この歌が捧げられたのだと僕は思っていた。
そして僕は、…君の呼びかけにいつだって遅れてしまう僕は、
アレサの声に無力だった自分を責められている気がしたんだ。
駆けつけてあげられなかった自分を。

その僕の聞き方は間違っていたと、君は言うのかい?
それを今、伝えにきてくれたというのかい?

    だって 君の友達だから
    素敵なことだとおもわないかい
    君には友達がいる
    僕は 君の友達だから…

(「君」っていうのはね…君のことなんだよ…)

「…相変わらず、世話好きなんだな、君は」

ラジオから別の歌が流れ出してしばらくしてから、彼はほっとため息を吐いた。
気がつけば、ほのかに心地よい眠気が体を包んでいる。
朝までの僅かな時間、久しぶりにゆっくり眠れるかもしれないと思った。

でも僕は、まだ、君の名は呼ばないでおくよ。
いつまでも頼ってばかりいるなんて、思われたくないからね。
まだ、大丈夫。
ひとりで乗り切れると思う。
だって、僕には、友がいる。
どんな時にも駆けつけてくれるという、友達がいるのだから。

あとがき

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