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永遠の翼〜If I Could Only Reach You

Scene 1

夜遅く、玄関のドアが静かに開き、遠慮がちな足音が階下で響いた。
それが夫のものである事に彼女はすぐ気づいた。
間違えるはずがない。もう何箇月も待ち望んでいたのだから。
しかし彼女は降りていかなかった。
寝室で息を潜めている。
脚が竦んで動けなかった。

――怖かったのだ。
本当に彼女が必要としている、愛して止まない以前の彼なのかを確かめるのが。
そして、また取り返しのつかない事を口走ってしまいそうな自分の反応が。

貞淑な妻であること。それは彼女の宗教の大事な教えであったが、
心がけるのに一度も無理をしたことはない。
彼女の夫――ジョンは、申し分のないパートナーだったから。
ツアーやスタジオ詰めで長期間家を空け、職業柄そこでどんな派手な生活を
送っていたとしても、家ではごく普通の夫であり、ごく普通の父親であることを
彼は望んでいたし、彼女もまた、そんな彼に深く満足していた。
苦労もしたが、現実を知らない少女の頃に夢見た生活が、そのまま目の前に広がっていた。
小奇麗な一軒家。可愛い子供たち。そして優しい夫。

だが、どこかで、幸福の歯車が軋み始めた。
バンドの人気が上昇するにつれて膨大な量の仕事が肩にのしかかり、彼は
家にいても虚ろな返事をかえすか、どこかへせわしなく電話しているようになり、
あれほど愛し慈しんでいた子供たちと遊ぶことさえも希になっていった。
話し掛けることも躊躇してしまうようなひどい鬱の状態だったかと思うと、
浴びるように飲んで朝まで上機嫌なときもあった。
帰る度に、人間が変わっていく。夫が見知らぬ他人に見える。
それは恐怖でしかなかった。
出会った頃から、何を考えているのか計り知れない面があったのは確かだが、
今にも糸が切れそうな精神状態を見ているとたまらない気持ちになった。
出来ることなら何か手助けがしたい…そうは思っても、彼女にも自分の
悩み、家族の悩みがあり、情緒が不安定になりつつあった。
ちょうど、夫が自らをコントロール出来なくなっていったのと同様に。
誰にも止められなかった。

そんなある日、彼が中途半端な酔い方で不機嫌に帰宅し、些細な事で
二人はひどく言い争った。

口論の後ふいと出ていった彼は、それ以来戻っていない。

この世で一番大切なのは子供たちだと自分に言い聞かせながら、荒れる心を押さえ付けた。
彼らさえいれば、どんなことにも耐えられる。そう呪文のように繰り返して。
子供たちは彼女に従順だった。(パパは家にいないもの)だと思っていたから、
いつも側にいる母親を慕うのは当然といえた。
だが、満たされない思いが始終彼女を苦しめた。
子供たちの手前、表面上は平静に過ごしていたが、夜はほとんど眠れなかった。
少しの物音で飛び起き、階下へ降りていくことも度々だった。

『外に女性がいるらしいんですって』
『そりゃ、若くて小奇麗なグルーピーがたくさんいるでしょうしねえ』
『でも慰謝料がたくさん貰えていいじゃない。子供一人につき幾ら、でしょ?』
街を歩く度に飛び交う、聞こえよがしな中傷を受け流すには辛すぎた。

何度思い返しただろう。
口にしてはいけない言葉から先に溢れてしまったあの夜のことを。
家族の事を想うあまりに彼が両方の矛盾した世界に引き裂かれていることは、
一番良く分かっていたのに。
でもそれをぶつけて欲しかった。悩みがあるなら言って欲しかった。
それなら苦しいのは貴方だけじゃないと叫ぶことができた。
共に痛みを分かち合うことだってできたのだ。
(私は…貴方の何? 私や子供たちは、貴方の重荷でしかないの?)


――足音が二階までたどり着いた。もう寝室の前まで来ている。
そこでぱたりと止んだ。

気の遠くなるような沈黙。

また足音が遠のいていくのではないか。
そのまま二度と戻ってこないのではないか。

(ジョン…お願い…!)
たまらなくなってヴェロニカはドアに駆け寄り、激しく扉を開く。
外で立ち尽くしていた夫の表情には少なからず驚きの色があった。
「…ハーイ」
彼は囁いた。幾分青ざめた中で、瞳だけが淡い光を放っている。
冷酷に相手を見透かす灰色の左目。
穏やかな木漏れ日を思わせる緑の右目。
自分にとって誰よりも特別なその潤んだ瞳を見詰めながら、彼女も囁く。
「…ハーイ」
二人の体はどちらからともなく自然に触れ合った。
言葉は何もいらない。
ただ、互いの鼓動を感じるだけで充分だった。

――二人の時間が合流し、緩やかに時を刻み始める。


Scene 2

爽やかな5月のある夜、夫に夕食に誘われた。
メンバーと食事に行くから来ないかとのことだった。

今彼はスタジオで新作のレコーディングに取り掛かっているが、
どんなに遅くなろうと、毎日帰宅した。
休日はほとんどないのだが、子供たちの為に丸一日費やしてしまうことも多かった。
かといって仕事がはかどっていない訳ではないらしく、皆が寝静まってから、
昔のような熱のこもった表情でベースを弾く姿も見られた。
――まるで何かに衝かれたように。
それでも自分を保っていたから、彼女は少しだけ安心してもいた。
だが、彼をそうさせるものは一体何なのか、知りたい気がした。
彼の瞳は何を想って時折切なく揺らぐのだろう…。

メンバーとその同伴者たちが集ったその席で、突然、体の具合が良くないことを
打ち明けたフレディに、ヴェロニカは驚きの色を隠せなかった。
(噂は本当だったんだわ…)
彼の体調に関するさまざまな憶測がマスコミをにぎわせている事は知っていた。
だが夫が何も言わない以上、彼女もその真偽を問いただすつもりはなかった。
それを本人から告げられるとは…。

「…大丈夫さフレディ。ちょっと疲れがたまっているだけだよ」
「そりゃあ、どこかしこ悪いところが出てくるさ、トシだもんな」
軽口をたたくブライアンとロジャーの表情は、どこか堅い。
彼らも面と向かって打ち明けられたのは初めてなのかもしれなかった。
ドミニクとアニタも落ち着かない様子で、会話がすっと途切れた。
フレディの友人のジムは、悲しそうな顔でうつむいている。
おそらく彼が一番良く分かっているのだろう。

(…ジョンはどうなのかしら)
ヴェロニカは、傍らの夫にそっと目をやり、そして悟った。

彼は知っていたのだ、と。
彼には分かっていたのだ、おそらくずっと前から…。

…ジョンはかすかに微笑んでいる。その瞳に、ただ静かに、
無限に深い色をたたえて、彼は透明な笑みを浮かべている。
何が彼を突き動かしていたのか、ようやく分かった気がした。

『過去は変えられないし、どうなるか分からない未来のことをとやかく
考えるのは無意味だよ』
そう口では言いながら、後悔と反省を繰り返し、将来を思って人一倍悩む夫を、
彼女はずっと見てきた。公の場で見せる彼の笑顔の裏に数知れぬ苦労があることを、
一番よく理解しているのも彼女だった。
友人であり、兄とも師とも慕っていたフレディの命と共に、人生そのものといっても良い
クイーンが「終わり」を告げる。その悲劇的な未来のヴィジョンは、
耐え切れない程の喪失感と絶望を与えたに違いない。
なのに彼は黙ってひとりで耐えている。

「…ところでフレディ、「ブレイクスルー」のビデオクリップの件なんだけど」
ジョンが唐突に口火を切った。彼が会話の先鞭をつけるのは珍しいことだった。
「うん?何かいい案があるのかい?」
話題が変わったことで、フレディはほっとした様である。
周りの空気が平常に戻る。
「ベースのリフがね、こう、乗り物に乗ってるような感じがしない?
だから何かそういうものを使えないかな…列車とか」
「列車ねえ…そうだ、クイーン専用の特急なんてどうかな。
名付けて「ミラクル・エキスプレス」ってのは? そこで演奏するんだ」
「いいね、なんなら屋外で演奏したほうが楽しそうだね」
「うんうん、スピード感があって、面白そうだな」

ジョンとフレディのアイデアは残りの二人にも受け入れられて、
すぐに構想がまとまった。いつもの4人だった。
彼の笑顔は崩れなかった。

「ねえ…ジョン」
帰り道、ヴェロニカはそっと夫に話し掛けた。
「何?」
彼は向き直ってくれたが、何を言うか決めていたわけではなかった。

何故今まで黙っていたの? いつから知っていたの?
私に出来ることはないの?
…貴方は今、何を考えているの?

心の中で言葉が溢れすぎて、何も聞けなくなった。

「撮影の日…お天気だといいわね」
夫はふっと笑った。
「大丈夫だよ…フレディは晴れ男だからね」

(私がいま何を言っても、慰めにはならないのだわ)
ただ、いつものように、見守るしかない。彼女は思う。
彼は戻ってきてくれた。だから今度も、待つしかないのだと。


Scene 3

「ママ、早く来て! パパが映ってるよ!」
撮影日は汗ばむような陽気だった。
キッチンにいる彼女を、子供たちが急かしてテレビの前に連れて行く。
どこから聞いたのか、撮影現場には大勢のマスコミやファンが訪れ、
生放送で様子が伝えられていた。

『ミラクル・エキスプレスのアイデアは僕とフレディが考えたものなんだ』
『僕たちの活動の大半はエンターテイメントさ。皆に喜んでもらえるような
アルバムを作っていきたいね』
夫がいつになく饒舌に記者たちに語っている。
家を出た時は子供とお揃いのラフなTシャツにボクサーショーツだったので、
服装に無頓着な彼女でも少しは気にしていたのだが、現場で白いシャツと
明るいベストに着替えていて、一応「有名人」に見えた。
(でも、サングラスは似合ってないわよ…)
カメラに映る夫に向かって彼女は微笑を浮かべる。

短い合間だったが、彼女には現場の雰囲気が手に取るように分かった。
「この車両、ちゃんと繋いであるんだろうね」
愛器を抱えたブライアンは心配そうにスタッフに尋ねているに違いない。
サンバイザーといつものサングラスで決めたロジャーは、
線路に横たわる女性――デビーだったかしら――と歓談しているのだろう。
先に列車に乗り込んだフレディは、そんな彼等を優しく見つめているのかも
しれない。
「今日も、いい一日になりそうだな」
そう言って爽やかに微笑みながら。

君に近づくことさえできれば
微笑ませることができればいいんだ
そう、君に手を差し伸べることができれば
それは大きな突破口になるのさ

彼らの行き着く先はどこなのだろう。
彼女には分からない。おそらく彼ら自身にも分からないのかもしれない。
しかしこれだけは確信できた。
人々に夢を与え続ける彼らの絆に、終わりはない。

あとがき

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