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永遠の翼〜銀色の川


    少年は待っている

    様々な風景が彼に微笑みかける
    白い雲の間から覗く陽の光
    天高く響く小鳥のさえずり
    野原を駆け抜ける風の囁き
    誰かが忘れた季節外れの麦わら帽子

    でも瞳は揺らがない
    見つめるものは ただひとつ
    足元でせせらぐ 穏やかで清い川

    少年は待っている


「悪いけど…この曲は使えない」
自分のフラットだというのにひどく居心地の悪そうな青年が、
背中を丸めながら途切れ途切れの言葉を継ぐ。
「フレディやロジャーとも相談したんだけどね…その、なんていうか、
僕らの書いたものとあまりにも違ってるし…こんなこと言って気分を害さないで
欲しいんだけど…どこかフォークの匂いがするしね。…いや、そんなつもりで
書いたんじゃないのは分かるけど、でも…」
『ジョン、君も何か書いてみなよ。大丈夫、出来るって』
渋る彼に無理に書かせたのは自分達だが、誰もその結果を予想していなかった。
寡黙な彼の背景に想像以上に異なる何かを感じて、青年は驚いてもいる。

「別に構わないよ。それじゃ、また週末のリハーサルで」
茶色の髪の青年は、来た時と全く表情を変えることなく、静かに出て行く。


    少年は待っている

    必ず戻って来ると
    ルビーのような「生きた証」で体をいっぱいにして
    彼女たちは帰って来ると
    川一面が銀色のざわめきに包まれるんだと
    そう言っていたあのひと

    ようやく釣ったちっぽけな魚
    放してやろうな まだほんの子供だから
    優しい手に諭された 一年前のあの日

    少年は待っている


「『Silver Salmon』なんて、タイトルも今ひとつなんだよな。俗っぽい響きで。
メロディはまとまってはいるけど、遊びがないね」
「まだ慣れてないんだよ。でも、きっと上達する。彼にはそれだけの
才能があると僕は思う」
黒髪と金髪の、対照的な青年が街を並んで歩いている。
側を流れる運河には、休日の釣り客が目立っている。

「ねえロジャー、君は釣りしたことある?」
「え? ああ、親父が好きでさ、よく連れられて近所の川に行ったよ。
じーっと座ってるのが嫌で、川に入ってバシャバシャやってよく怒られたっけ。
フレディは?」
「僕の育った所じゃ、魚は網で捕まえるものだったからね」

父親と並んで糸を垂れていた少年の竿が、くんっと沈んだ。
慌てて竿を握り締めて両足に力を込める少年を、後ろから父親の腕が支える。
やがて、飛抹と共に水中から魚が姿を見せる。
喜びに頬を紅潮させて、父親を笑顔で見やる少年。
その瞳の輝きに応えるように、肩を抱き締めて頷く父親。

あの物静かな青年にもこんな時代があったのだろうかと、二人はふと考える。
釣りについて尋ねた彼らに、
『よく覚えていないんだ』
そう言ってかすかな笑みを浮かべて目を伏せた青年にも、
大声ではしゃいだ時代があったのだろうか。


    少年は待っている

    どこにいても どんなことをしても
    生まれた川に帰るという 銀色の魚たち

    戻って来るのだろうか
    塗装途中の二人乗りのボートも
    母が作ってくれたバスケットの昼食も
    二つ並んで風に揺れる釣り竿も

    戻って来るのだろうか
    あのときの大きくて暖かな手も
    振り返る度に感じた優しい視線も
    しっかりと包んでくれた広い胸も

    少年は待っている


「僕の曲だけどね、没になっちゃったよ」
「あら、残念ね。『もっと頑張りましょう』のスタンプを押してあげるわ」
「君の生徒と一緒にしないでほしいな。で、今度いつ会える?」
「いつからそんなにせっかちになったの? …かなりショックだった?」
「違うよ…。あれはもういいんだ。僕にも書けるって分かっただけで十分だから。
それに、他の皆の曲が凄いからね。たとえばフレディの…」
電話の向こうから、銀の鈴を転がしたような音。
饒舌になる理由も、せっかちになる理由も何もかも見抜いて、受け止めてくれる。
そんな彼女の笑い声が、たまらなく好きだと思う。
「今度は不発で終わらせないようにしなくちゃね」
電話が切れた後もなお響く、心地よい鈴の音の余韻を味わう。


    『いつ? いつあの魚は帰って来るの? 僕の誕生日のころ?』
    『もうすこし先だよ。その時になったら、また一緒に来ような』
    『本当? 楽しみだなあ。たくさん釣って、母さん達をびっくりさせようね』
    …約束だよ、父さん…


銀鮭の群れは毎年やって来るが、彼は一度もそれを目にしたことはない。
自分が釣りをしていたという事実すらぼんやりとした霧に覆われていて、
思い出をたどる行為はいまだ心に鈍い痛みを伴う。
鮭は必ず帰って来るが、逆にそれは、二度と帰らぬものへの郷愁をももたらす。
時は戻らないのだと。失ったものは取り返せないのだと。

それでも時折、夢を見る。
秋の日の川岸にたたずむ少年の夢。
彼方から銀の奔流が押し寄せて来て、川を覆い尽くす。
みなぎる生命の力に声もなく立ちすくむ彼の肩に、
懐かしい手が優しく触れる、切ない夢。

今夜も川は銀色に染まっている。

あとがき

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