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永遠の翼〜The Way We Were

1981年10月
メキシコ

秋だというのに、ここでは朝から燃えるような日差しが照りつけている。
ジョンはホテルの窓から外を眺め、まぶしげに目を細めながら伸びをした。
昨夜の公演場所、プエブロのスタジアムでは散々な目にあった。
ステージに上がるなり、客席からごみの山が雨あられと飛んでくるのだ。
それは自分たちを歓迎してのことらしかったが、
あれほど身の危険を感じながら演奏するのは初めてだ、とジョンは思った。
そして今日も、同じ場所で公演がある。
観客の行為への対策を練るため、スタッフは早朝から忙しそうに走り回っていた。
その雰囲気に気圧されてか、いつもより早く目が覚めてしまった彼である。

なにか手助けは出来ないかとミーティングルームに入ったジョンの耳に飛び込んできたのは、
「なんだって?プロモーターからギャラが降りない!?」
電話に出ているジム・ビーチの大声だった。なにやら唯事ではないらしい。
咄嗟にジョンは側に寄った。
ジムは眉を寄せながら、「ああ」とか「いや」とか相槌をうち、
「考えてみる」と言って受話器をおいた。

「どうしたんだい?」
尋ねるジョンに気付いた彼は、深いため息をついてこう言った。
「ここのプロモーターが、ギャラを出すのをごねてるんだ。
すべての公演が終わってから出すって。よくある手らしい」
つまり、難癖をつけてギャラを支払わない、ということだ。
ジョンの口調もきつくなる。
「冗談じゃないよ。ただでさえ余分な出費がかさんでいるのに!」
「ああ、まったくだ。…そこで相談なんだが、今夜の分が終わり次第NYへ経つ、
というのはどうだろう?飛行機の用意は頼めばなんとかなるらしい。
これ以上ツアーを続けても無駄な気がするんだ」
思いもしなかった解決法をジムは提案した。
「…うーん、そうだね…」
マネージャーのジムの立場からすれば、ギャラの支払もないツアーは
時間と労力の浪費でしかない。
しかし、ミュージシャンとして、自分はどう考えれば良いのだろう。
クイーンの音楽を愛し、過剰な歓迎ながらも公演を楽しみにしている聴衆を、
見捨てることにはならないか。
他の3人はなんと言うだろう。ジョンはすぐには答えかねた。
「なるべくなら、君が先に同意しておいてくれる方が話は早いんだがね。
急を要することだし」
こういった財政上の問題がからむ際には、最終的にジョンの意見が通ることを
ジム・ビーチは知っている。
ジムに答えを急かされて、ジョンの中の経済観念が勝った。
「分かった。じゃあ、僕から皆に言っておくから、後の手配は任せるよ」
(朝はみんな機嫌が悪いんだけどな)
ジムは安心して頷いた。
「よし。それからこのことはなるべく内密に頼む。外部に漏れたら大変だ」

幸いなことに、今までの体験から、もう沢山だという思いがそれぞれあったせいか、
あとの3人も難色は示さなかった。
「歓迎」の被害が少ないロジャーと、一番スリルを楽しんでいたフレディは
物足りない様子だったが、大切なレッドスペシャルを庇うように弾いていたブライアンは、
明らかにほっとした表情をみせた。
「それじゃあ、今夜の公演が終わったらすぐにNYに出発する訳だね」
「そう。表向きは次の公演地へ向かう、ということにしてね」
「こんなに早くNYの街に再会できると思えば、喜ばしいことだな」
NYが好きなフレディはすぐに機嫌が良くなった。
秘密裏に「脱出劇」を図るというアイデアも気に入ったらしい。

この「脱出」を聞いたスタッフの動きは一層慌ただしいものになった。
出来る範囲で彼等をサポートしていたジョンのもとに、鼻に絆創膏を張り付けた
ポール・プレンターがのそっと近づいてきた。
昨日の騒動で表立った怪我をしたのは彼一人であり、そのせいで無愛想な物言いが
一層顕著になっている。
「あんたの知り合いだとかいう女が来てるぜ、下に」
「女…?」
「ああ。今忙しいからって言ってやったんだが、どうしてもあんたに会いたいとさ。
断わっても良かったが、あんまり真剣に頼むもんでな。なかなかいい女だったし」
「…名前は聞いた?」
「忘れた。行ってみりゃ分かるだろうが。しかし、あんたもやり手だな」
皮肉を放ち、肩をすくめて去って行ったポールの後ろ姿に目をやりながら、
ジョンは昨夜の公演中のある出来事を思い出していた。

投げ込まれるごみを避けながらふと客席を見ると、熱狂し騒ぎたてる人々の中で、
ただ一人、大きな瞳に涙をためてこちらを見つめている女性がいたのだ。
ほんの一瞬のことだったが、その顔に見覚えがあるような気がしてならなかった。
もっとも、他のメンバーに尋ねても、そんな女性がいたことすら信じてもらえなかったのだが。
(おおいジョン、しっかりしてくれよ。ヴェロニカに言いつけてやるぞ)
(ここはメキシコだよ。知り合いなんているわけないだろ?)
しかし、幻を見たとは思えない。

ロビーに行くと、小柄な黒髪の女性の後ろ姿が目に入った。
「ジョン・ディーコンですが…僕に何か用でしょうか?」
彼の声にびくっと身を震わせて振り向いた、憂いを含む黒い瞳。
昨夜の彼女だった。
「ジョン? やっぱりジョンなのね。…私、スーザンよ、スーザン・スミス」
スーザン・スミス。
(忘れないわ、あなたのこと。いつまでも)
ジョンの心の中に、遠い日の記憶が一気に溢れ出した。


1963年12月
イギリス

午前5時。
まだ太陽の光はなく、しんとした夜の冷気がレスター州オードビーの閑静な街を覆っていた。
その静寂をほんの少し破ったのは、とある一軒の家から飛び出した自転車だ。
寒さに顔をこわばらせながら急ぐ12歳の少年を、明け方の月が優しく見守っている。

両親は、音を立てないようそっとドアを閉めて出て行った息子にいつも通り気付いていたが、
その素振りはみせなかった。
彼等を起こしてしまうと知れば、遠慮して自分の部屋の窓からでも出ていきかねない息子だ。
「よく続くね。ギターはもう買えたのに」
アコースティックギターを買うために新聞配達をしたい、と自分で言い出し、
その願いが叶った今でも配達を続けている息子の勤勉さを、父親は好ましく思っていた。
「ええ。でも毎朝心配だわ。途中で事故に遭ったりしないかどうか」
母親はいつでも、さほど丈夫ではない華奢な息子の身を案じていた。
そんな心配症の彼女を笑顔とキスで励まし、父親は出勤の準備を始める。
「あら、もうお出かけ? 夕べも遅かったし、…あまり無理なさらないでね、アーサー」
最近ハードワークが続いている夫も、彼女にとっては心配の種だ。
「大丈夫さ、それにジョンに負けちゃいられないよ」
ジョンが配達から帰ってきて、彼の5才下の妹が目を覚ます頃には、
父はもう出かけた後である。

「今日の『コンテスト』、ディーキーは誰が優勝すると思う?」
ガートリー・ハイ・スクールの昼休み、ロジャー・オグデンが
ジョンの前の席にどかっと腰を下ろした。
『コンテスト』というのは、学期に1度、音楽教師のミス・プラマーが授業中に開催する、
いわば歌のテストである。
入学した当初、このイベントはジョンにとって苦痛以外の何物でもなかったのだが、
最近ではギターの伴奏をかって出ることで、歌はうまく免除してもらっている。
悪友のロジャーに言わせれば、
「ミス・プラマーはお前の歌を聴くと頭痛がするんだぜ、きっと」ということなのだが。
「…さあ、分からないな。僕はギターを弾くのが精一杯だからね」
「俺の予想じゃあ、パティだと思うな。是非優勝してほしいよ」
「パティは君のお気に入りだからだろ。でもちょっと無理じゃない?」
「お前に言われたくないね! いいかディーキー、彼女が歌うときは
うまくギターを合わせてくれよ」
「難しいこと言わないでよ…」

その日の午後に行われた『コンテスト』は、いつも通り熱気に溢れて進んでいき、
残りはあと2、3人というところまできた。
「では次、スーザン・スミス、前へ出て」
ミス・プラマーの声と共に、軽くウエーブのかかった黒髪を持つ少女が立ち上がり、
舞台の中央へ向かおうとする。
が、どういう訳か、ちょうどジョンのいる舞台の隅で立ち止まってしまった。
彼が目を上げると、スーザンはぎゅっと目を閉じ、足はがくがく震えていた。
緊張のあまり、立ち往生してしまったらしい。
(そうか、彼女は初めてなんだ)

スーザンが転校してきたのは今から1ヵ月ほど前のことである。
スミスという名字は典型的なイギリス人を思わせるが、彼女の黒い瞳を縁どる
同色の髪は異国のものにみえた。
そして、ロジャー・オグデンと違って異性にはおよそ興味のないジョンでさえ
印象が深かったのは、彼女の内気さだった。
彼も負けず劣らず内気な性格ではあるのだが、スーザンのそれは度を越しており、
授業中に指名されると真っ赤な顔でうつむいてしまう彼女を見ていると
ジョンは自分までハラハラした。
そんな彼女にとって、この『コンテスト』は辛すぎることは痛いほど分かった。

生徒がざわつき始め、その雰囲気で余計にスーザンは身を硬くさせている。
ジョンはそっと彼女にささやいた。
「ねえスーザン、大丈夫だよ。落ち着いて」
彼女はびくっとして目を開け、大きな瞳で彼を食い入るように見つめた。
「…」
(父さんはいつもこう言ってるな。『いつだって笑顔が大切だよ』って)
心を和ませる父の笑顔にはかなわないが、ジョンも精一杯、言葉を失っている
彼女に微笑みかけて、励ますように大きく頷いた。
「怖くなんかないさ。一緒に頑張ろうよ」
それでようやく緊張がほぐれたように、スーザンは深呼吸して舞台中央へと進み出ていった。

「それでね父さん、優勝したのは誰だと思う? そのスーザンなんだ!
あんなきれいな声、聴いたことなかったよ!」
夜遅く、父が帰宅してからのジョンの話はコンテストで持ち切りだった。
「なんだか僕まで嬉しくなっちゃった。ああ、あんな風に歌えたらなあ!」
父は興奮している息子の顔を愛しげに見つめ、時折相槌をうちながら、
気の済むまで話をさせた。
母はそんな彼等を笑顔で眺めながら、クリスマス用の編物に精を出していた。
外では、このあたたかな家庭を囲むように、雪がやわらかに降っている。

翌朝、配達を終えたジョンが自宅近くの橋までさしかかった時、小さな人影が見えた。
会釈して通りすぎようとした瞬間、それがスーザンであることに気付き、
慌てて彼はブレーキをかけた。
「や、やあ。どうしたの、こんな朝早くに」
髪を際立たせる白いコートを着て静かにジョンを見る彼女の顔は幾分青白く、
いつもより大人びてみえる。彼女が口を開いた。
「…言いたかったの。とても嬉しかった、って。
あなたのお陰で素晴しい思い出ができた、って」
ジョンは少し照れながら頭をかいた。
「そんなことないよ…あれは君の力さ。僕もびっくりしたよ。歌うまいんだねえ」
「あなたのギターも上手だったわ、ジョン。心があったかくなったもの」
「僕なんかまだまださ」

少しの沈黙。どこかで鳥の鳴き声が聞こえてきた。
朝日が昨晩の雪を金色に染めてゆくのを、2人はじっと見つめた。
「…奇麗ね」
「うん、この時間が一番好きだ」
「…ジョン?」
「何?」
視線を戻した途端、彼女が胸に飛び込んできた。
「!」
「…忘れないわ、あなたのこと。いつまでも」
胸元で聞こえる彼女のつぶやきが心の奥深くまで浸み込んでくるのを感じながらも、
ジョンはどうしていいか分からぬまま、ガラス細工を扱うような慎重さで、
両手を彼女の背中に優しく回した。
やがてスーザンはうるんだ瞳をあげて、そっと彼の唇にキスをすると、
振り返ることなく走り去った。
初めての柔らかな唇の感触に呆然としているジョンを残して。

スーザン・スミスが家庭の事情で急にイギリスを離れることになった、と知ったのは、
登校してからのことだった。


1981年10月
メキシコ

とにかく座って話そう、とロビーの隅に腰をおろしながら、
ジョンは彼女の左手に光る指輪を見た。
ふと顔をあげると、同じように彼女も彼の指輪を見ている。
2人はくすっと笑いあった。あれからもう18年も経つのだ。
「君がここにいるなんて、まだ信じられないよ」
「父の仕事の関係で、いろんな国を転々としたわ。12年前にメキシコに来て、
結婚したの」
「…そうなんだ。でも、よく訪ねて来てくれたね」
「娘がファンなのよ、クイーンの。それでメキシコ公演があるというから、
昨夜一緒に観に行ったら、…あなたがいた。驚いたわ。それまで、
メンバーの名前なんて知らなかったし、写真をみても、まさかあなただとは
夢にも思わなかったから。
…でも、演奏するあなたを見た途端、ああ、あれはジョンに違いないわ、って思ったの。
あの、皆を後ろから励ますような、あたたかい音は彼のものだ、って。
そう思ったらなんだか涙が溢れてきて、止まらなかった」
(僕にも見えたんだ、そんな君が)
だがそれは口には出さず、ジョンはただ微笑んで、彼女の話を聞いていた。
スーザンは自分を見る彼の視線に気付き、急に真っ赤になった。
「ご、ごめんなさい、変なことしゃべってばかりで」
「い、いや、そんなことないよ」
謝られたジョンの方も、思わず顔に朱を走らせた。話題をかえよう、と思った。
「僕にも子供がいるんだけど、…娘さんは幾つ?」

あの冬の朝の出来事に触れるにはあまりにも内気過ぎる2人であった。
が、お互いの胸中には、朝日を受けて金色に染まる雪景色が、燦然と輝いていた。

「誰か、ジョンを見なかったか? サウンドチェックの時間なんだけど」
ブライアンの声がロビーに聞こえてきた。
腰を浮かしかけるジョンを見て、慌ててスーザンが立ち上がった。
「お邪魔して本当にごめんなさい。私はこれで失礼します」
去りかける彼女に、ジョンは急いで声をかけた。
「スーザン、今夜の公演は観ないの?」
「ええ。チケットが取れなかったのよ…でも明日の分はなんとか取れたから、
また娘と来るつもり」
ジョンの胸は痛んだ。明日は、もうメキシコにはいない。
それを今彼女に告げる訳にはいかないが、なんらかの形で自分の誠意を示したかった。
「ね、今夜も来てくれない? チケットはこっちで手配できると思うから」
(僕たちの最後の演奏を、君に聴いてもらいたいんだ)
言葉に出来ない想いを込めて、ジョンは彼女を見つめた。
「…ありがとう、ジョン」
スーザンはこくんと頷いた。


ジョンはその夜、NY行きの機内で物思いに耽っていた。
眼下に広がるメキシコの荒涼とした風景がみるみる内に遠ざかってゆく。
(彼女は、ここでどんな生活を送っているんだろう)
立ち入った事は聞かなかった。別れ際、歌は歌っているのかと尋ねた彼に、
スーザンは伏し目がちに微笑んだ。
「人前で歌ったのは、あれが最初で最後よ」
もしあの時、彼女が転校していなければ、どうなっていただろう。
(…よそう。過去を変えることは出来ないんだから)
それは、父がまだ生きていてくれたら、と考えるのと同じだ。

突然、首筋に冷たいタオルが当てられて、ジョンはびっくりした。
「!…なんだ、フレディか」
「なんだ、じゃないだろ。せっかく人がサービスしてやってるのに」
フレディは空いていたジョンの隣に腰を下ろした。
「そいつで首や肩を冷やしておけよ。何なら、マッサージしてやろうか?」
「い、いいったら!」
「しかしジョン、今夜はなんだってあんなにステージの前に来て弾いてたんだい?
客席からビンやらゴミやらが投げ込まれてくるってのに。結構ぶち当たってたろ?
見てたら危なっかしくて歌に集中出来なかったよ」
「…僕だって、目立ちたい時もあるんだ」
「そういや、ポールから聞いたんだけどさ、君を訪ねて来た女性がいたんだって?
誰だい一体?」
「疲れたから、もう寝るよ。タオルありがとう」
好奇心旺盛なフレディを遮ると、ジョンはシートを倒して目を閉じた。

フレディはそんな彼を眺めて、静かにつぶやいた。
「…きっと喜んでると思うよ、彼女」
「…えっ?」
驚いて目を開けたジョンの顔に、もう一つの手持ちのタオルをバサッと被せると、
フレディは自分の席に戻っていった。

あとがき

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