-
永遠の翼〜A Winter's Tale
-
<それは初冬のこと …天高くカモメが舞い 白鳥は水面をたゆたう>
「お兄ちゃん、ねえ、待ってよ。あんまり遠くへ行ったら、パパに怒られちゃうよ」
「いやならついてくるなよ。僕ひとりで行くから」
弟がべそをかきながらも懸命についてくるのを見て見ぬふりして、少年は足を早めた。
(パパがどう言おうが、構うもんか……)
いつも怖い顔して、あれをしちゃいけない、これをしちゃいけないと口うるさく言う父は、
冬休みにスイスへ来てから、小言の量がますます増えた。
(そう、あの「湖」のせいだ)
『ねえパパ、あそこ、みんなボートに乗って面白そうだよ。一緒に行ってよ』
本当は、ボート遊びなんてどうでもよかった。
甘えたかっただけなのに、湖のことになると父はにべもなく拒絶した。
『湖には絶対近づくんじゃない!』
その言い方があまりにも頑なで冷淡に聞こえて、そのまま外へ飛び出してきたのだ。
弟のしゃくりあげる声が胸にこたえる。
気弱で臆病な一つ年下の弟は、正反対の性格の兄を慕っていつも側にいたがった。
少年も、そんな弟を憎からず思っている。
「もう、泣くなよ!」
側へ寄って弟の手をとってやりながら、本当は自分も泣きたい気分だった。
どうしていつもこうなのだろう。父が大好きなのに、素直になれない。
<音もなく 安らかに …あたりに不思議な力が満ちる>
湖の船着き場にはもう人影はなく、静けさが辺りを支配していた。
「お兄ちゃん、ボート、乗るの?」
無言でボートに乗り込もうとする少年だったが、弟の不安気な言葉を聞くまでもなく、
後悔の念が心をよぎっている。
幼い自分の手に負えるものではないことは目にみえていた。
(でも、後戻りはできないよ……)
そのとき、半ばやけになった少年の気持ちに呼応するように、声が聞こえた。
「そんなことないったら。第一、ボート乗りなんて面白くないだろ?
ゆれるし、ぬれるし。それよりほら、こっちに座ってみない? 何か話そうよ」
いつのまにか、一人の男が船着き場の端に腰掛けていた。
びっくりする2人に、彼はひどく嬉しそうな笑顔を見せた。
「やあ」
弟はそっと兄の後ろに隠れた。男はそれを見て楽しそうに笑った。
その場の空気が一斉に和らぐような、爽やかな笑い声だった。
「あっはっは、恥ずかしがりやさんだね、君の弟は」
そしてくるくると大きな目を回す。
「実は僕もさ」
男の親しげな口調につられて、少年は自然に口を開いていた。
「……こいつは違うんだ。知らない人の前じゃこうだけど、家ではうるさいんだよ」
「へえ、それじゃ、君たちのパパにそっくりって訳だ」
急に父の話が出て、少年の顔が少し強張った。
「おじさん、……パパを知ってるの?」
おそるおそるたずねたのは弟だった。
「もちろんさ。友達だよ。ほら、これがパパだろ?」
男はさっと上着のポケットから一枚の写真を取り出した。
そこには、まだ若い長髪の人物が笑顔で写っている。
覗き込んだ兄弟は、眉を寄せた。
「……これ、だあれ?」
「姉さんにちょっと似てるけど……」
カメラに向かって、少し恥ずかしそうに、穏やかに微笑んでいる写真の人物と、
自分たちの父親のイメージを重ね合せるのは、幼い2人には難しいことだった。
「うーん、ちょっと古すぎたかなあ。でも、君たちのパパは、
いつもこんな風ににこにこ笑ってるだろう?」
「パパは笑ったりしないよ!いつも怒ってる」
少年の口調は、苦々しい。
「小言ばっかりさ! 湖に行こうって言っても、絶対きてくれないんだ。
……ここ、とっても奇麗だから、パパにも見せてあげたいって思ってたのに……」
終わりのほうは半分涙声になってしまった。
なぜ見ず知らずの人間にこんなことまで打ち明けてしまったのか、
自分でもよく分からなかった。でも、思いきって胸の中のもやもやした気持ちを
ぶちまけたら、ほんの少し気分が良くなった気がした。
目の前の男は澄んだ瞳で黙って彼の言葉を聞いていた。
それから湖を眺め、何かを懐かしむように微笑んだ。
「君たちのパパも、ここは大好きなんだよ。ただ、いろいろあったからね……」
(いろいろ、って、何があったの……?)
少年は口を挟みかけたが、そのまま黙っていた。
何故か、それは聞いてはいけないことなのだ、と思ったからだ。
男はまっすぐ少年を見つめた。心の奥まで浸み込んでいくような視線だった。
「君は、パパが好きなんだろ? 好きだから、わがまま言ったり、
いたずらしたりして、なんとか気を引きたいと思ってしまうんだ。
分かるなあ、その気持ち。……それに、ニブイんだよな、君のパパは。
こっちの想いなんて、そうでもしないとちっとも気付いてくれないんだ。だろ?」
「う、うん……」
「でも、好きなら素直にそう言った方が、ずっと気分が良くなるよ。
……もっとも、おじさんだって偉そうに言えたもんじゃないけどね」
そう言いながら少し赤面して口に手を当てる仕草がまるで子供みたいで、
少年はこの不思議な男にますます親近感を抱いた。
「知ってる? 君らのパパ、実はとっても面白い奴なんだよ。
以前、こういうことがあったのさ……」
急に話題を変えた男は、今度は楽しそうに昔の話を始めた。
それは2人には初耳で、内容もさることながら、彼の話術の巧みさに、
時の経つのをすっかり忘れてしまった。
…ルーク、キャメロン…
どこからか、父の声が聞こえてきて、2人はびくっとした。
「ああ、迎えに来てくれたみたいだね」
耳をすませた男の表情はとても優しく、柔らかだった。
「おじさんもパパに会ってくれない?友達でしょ?でないと怒られちゃうよ、僕たち」
この男と父親がどんな「友達」だったのか、とても興味があった。
「……おじさんは、もうパパには会えないんだ」
しかし男は、 物悲しい口調で答えた。
が、すぐに向き直ると、ウインクしてこう打ち明けた。
「実は、おじさんは魔法使いだから、大人には見えないのさ」
幼い兄弟はくすくす笑った。
「うそばっか」
「ほんとうさあ。じゃ、魔法の言葉を教えてあげるよ。
パパに会ったら、2人で抱き着いてこう言ってごらん。絶対怒られないから」
「……ぜったい?」
「ああ、魔法使いはウソは言わないよ。さあ、行っておあげ。
でないとパパが迷子になっちゃうよ」
「また会えるの、おじさん?」
少年の言葉に、男はまぶしい笑顔で頷いた。
「いつでも会えるよ」
あちこち探し回って息を切らせた父は2人の姿を認めると、とたんに厳しい顔をした。
「どうして言うことが聞けないんだ!あれほど湖へは近づくなと……」
しかし文句をみなまで言わせず、兄弟は意を決してその胸に飛び込んだ。
『おまじない』の言葉をささやくと、父が息を呑むのが感じられた。
「……なんだって?」
そっと顔を盗み見ると、さっきまでの怒りが戸惑いの表情にとってかわっている。
「やっぱり魔法使いだったんだ、あのおじさん」
弟がつぶやいた。
「あのおじさんって、誰だい?」
父は兄の方を向いてたずねた。目には単純に問いかけの色しかない。
「……湖で出会ったんだ。パパの友達って言ってた。いろんなことを教えてくれたよ」
そういえば名前を聞かなかった、と今になって思った。
「!……まだいるのかい?」
聞くや否や急に湖に向かって走り出した父に、慌てて2人はしたがった。
船着き場は静まりかえっていた。夕焼けの空にカモメが色を添えている。
「フレディ!……君なのか、フレディ? どこにいるんだい?」
いつも冷静な父が取り乱した風にその名を呼び、あたりを捜しまわる姿を
2人はじっと見詰めていた。
しかし、男は現れなかった。今にもあの独特の笑い声が聞こえそうなのに、
大袈裟な身振りで出てきて、動揺している父をからかってくれそうなのに、
男の姿はもうどこにも見当たらない。
やがて父は崩れるように腰を下ろした。
その位置は偶然にもさっきの男が座っていた場所と同じだった。
「パパ……」
彼はそこに座ってたよ、そう告げようと思った少年は、しかし、
父の頬に光る涙を見て、言葉を無くした。
湖を見ながら、父は静かに泣いていた。
幼い兄弟にはその涙の意味が理解できなかったけれど、
美しく楽しい場所であったはずの湖の風景がこれほど悲しく見えたのは初めてだった。
胸が苦しかった。
少年は思わず、父の背中にすがり付いた。
そうでもしないと、今にも父が消えていなくなってしまうような気がした。
弟も同じようにしっかり父を抱いて放さないでいる。
辺りの景色と溶け合った親子の目前で、夕日がひっそりと湖に落ちていった。
「……"I STILL LOVE YOU"、パパ」
少年はそっと先刻の「魔法の言葉」をつぶやいてみた。
(このおまじないはまだ効くのだろうか)
『大丈夫さ、効き目バツグンだよ』男の楽しげな声を聞いたような気がした。
やがて大きく息を吐くと、父は2人の手をとって立ち上がった。
「さあ、帰ろうか」
そう言って、はにかんだような笑みを浮かべた父の表情は、あの写真と同じだった。
「ごめんね、パパ」
帰り道、少年は素直な気持ちで父の手をぎゅっと握り締めた。
聞きたいことが山ほどあった。自分たちが生まれる前のこと。
そして、『フレディ』のこと。
握り返してくれた父の手は、大きくて温かかった。
「……あした、みんなでボートに乗ろうか」
<…それは至福の時>
あとがき
|