-
永遠の翼〜
この街で
-
Written by ねこ娘さん
その3
さきほどの店を出ると、ビルは最新のヒットチャートが流れるクラブに彼を連れて行った。さっきの店とは違い、体をじっとさせておくのが辛くなるような音楽が店内に嵐のように吹き荒れる。それに合わせて、人も常に動き、流動している。まるで、グラスに注がれた炭酸の泡のようだ。昔なら、この泡の中に自分も難なく溶け込んだことだろう。今の彼は、人が絡み合いながら原色のライトに照らされて揺れる様をただぼんやりと眺めるだけだった。ビルは彼の横にいた。面白くもなさそうに、ただじっと座っている。また酒を飲んでいた。これはジュースだよと言って、赤いカクテルをおかわりしていた。ビルはサングラスをかけていた。いったい、その目で何を見ているのかまったくわからない。
「まぶしいのかい?」
彼が訪ねると、ビルが「は?」と問い返す顔を作る。「何か?」とビルの口元が動いた。ここでは通常の声では会話できないと彼は悟って軽く手をあげて、首を振った。
彼はビルに期待しているわけじゃない。ただ連れて行かれるままになっている。派手な音楽が耳をつんざく。昔多少とも鍛えられていたリズム感もまるで歯が立たないような気がした。どこか今この騒音と光の牢獄から抜け出したいような気さえしたし、このままずっとこうしていたいような気もする。さっきの店の酒で悪酔いでもしたのかと思う。ここまで度派手なサウンドは久々に聴いたのだ。次々と曲が流れ終わって行くが、彼の心に届く声もメロディもちっとも見つからなかった。踊ることさえできない。踊ることが目的でもなかった。
ここはまるで音楽の墓場のようだった。今聞いた曲が心に残ることはない。一度聞いた曲は、二度と思い出されることもなく、次々と死んでいく。そんな残骸の中に埋もれるのもいいかもしれない。
「でも……」
彼はかき消されると知りながら、誰にともなく呟いた。
「フェニックスのように蘇るんだ……彼の音楽は。そんな音楽を聴きたいんだ」
彼はビルの耳元に口を近づけ、できるだけ大きな声で言った。「誰もいない、静かな場所へ行きたい」と。ビルは何度か大きく頷いた。ふりだしに戻ったと苦笑して。
続いて彼が連れてこられたのは、ビル自身のアパートだった。そこは画材道具で埋め尽くされていて、描きかけの絵が散乱している。バスルームに入ってタオルを首にかけて出てきたビルは、さっきより数段幼くなっていた。あまりの変化に一瞬何が起こったのか彼もわからなかったが、ビルの顔から髭がなくなっている。
「あれは付け髭だよ。俺、あの街うろつくときたいがい変装してるんだ。できるだけ本人から遠ざかるような大げさな変装をね。別にそういう趣味じゃないけど、女装だってしたこともあるよ」
リーゼントで後ろに流した前髪もすっかり下ろされている。
しばらく、彼はビルの動く方向を目で追いながら、さっきまではまったくこの青年のことを見ていなかったのではないかと気づいた。別の誰かを重ねていた。もう、決して返事は返さないであろう誰かを。
「俺、売れない画家だよ。まるっきり売れない」
どこか悲しそうにビルは笑って言った。
ビルの部屋に散乱した絵を見れば、売れない理由もよくわかるような気がする。彼はさっきの店で聴いた、まったく記憶に残らない音楽のことをふと思った。さっきの店が音楽の墓場だとするなら、ビルの部屋はさながら芸術の墓場と言ったところだ。
「全部君が描いたのか?」
「ああ。そうは見えないだろう?俺だって、自分で何を描いてるんだか、まったくわからないんだ」
至る所に立てかけられたり、放り出されている絵という絵には、まったく一貫性が感じられなかった。おまけに、どの絵のタッチも微妙に違っている。それは微妙な変化だが、大きな変化でもある。まるで人間を取り替えたような印象を受ける変化だった。着せている服は同じだが、着ている人間はさっきとは違うという感じだ。そして、そんなモデルが変わったことに描いている人間が気づいているのかどうか、まるでそんな部分はどうでもいいかのように次の絵に取りかかる。そんなことを繰り返した結果のような絵の残骸。
彼はそんな絵をじっと見つめる。彼の目に映ったビルの絵は、どれもこれも何か一番大事な部分を切り落としたような絵に見えた。どの絵もとても印象が薄い。そう、今彼が目にするその青年よりも、はるかに印象が薄かった。
ビルはまた冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲んでいた。
「気にいった絵があれば持っていってくれよ。もう金なんていらないよ。払ってくれるんならありがたいけどさ。ここまで増えちまったら、もうゴミも同然さ」
ビルは投げやりに天井に向かって吐き捨てた。
「あんた、金持ってるんだろう……なら、売れない画家に恵んでくれたって、いいじゃないか」
最前とはうって変わってビルは力無くこぼす。
彼は一通りビルの絵に目を通して、ふと隣の寝室を覗いた。ベッドの脇に青い布が掛けられたイーゼルが置いてある。彼は首を寝室の方に捻ってビルに訪ねた。
「あれは?あれも絵だろう?見ていいかい」
ビルは頭を軽く縦に振り、気のない返事を返す。
彼は寝室に入り、イーゼルの布を取った。そこにある絵をしばらく彼は眺め続けた。その間、それはビルにしては耐え難く長い時間だったようだ。ビルは缶ビールを片手に寝室の入り口にもたれ掛かって、彼の表情を不安げに見守っている。
「俺の絵は……どうだって聞いても、感想はもらえないか」
「正直に言おう。僕は最初から君には何も期待してなかった」
ビルは黒い瞳に光りを宿して彼を眇め見る。
「君の部屋にある絵だが、全てにおいて同じことが言える」
「それはご丁寧な褒め言葉で」
「でも……この絵は」
「その絵が、何か?」
「君自身だという気がした。君のことなんて、僕はさして知らないけれど」
「その絵は最低なんだよ。俺が一番最初に画商に持ち込んで、散々けなされた絵だよ」
ビルは開いた扉に腕をつき、そこに顔を埋めた。
「ガキの頃から絵を描くのが好きだった。兄貴が金出して美術系の学校にも行かせてくれたのに、俺はろくでもない友だちと遊んでばかりいたんだ。気がつけば金もなくなってて、紐みたいなことしてなんとか生きてる自分がいた。田舎に帰ろうにも、兄貴にあわす顔もない。画家にでもなっていればいいけど、画家になるには売れる絵を描かなきゃならない。昼間そうやって必死に絵を描いて、夜にバイト。でもバイトなんてもうからない。いくつもかけもつと絵を描く時間もなくなってくる。絵は少しは売れたけど、途中で画家になるのも諦めたよ。くだらなくなったんだ。そんなに必死にならなくても、金なら稼げる。田舎に帰らなくても、この街でも、俺一人でも、生きていけると思ったし。……あんたの顔見たから、つい兄貴のことを思い出しちまったけどさ」
「お兄さんはどうしてるんだい?」
「ずっと田舎暮らしさ。自分の生まれた土地で、伯父さんと一緒に農場やってるよ。でも、今もそうしているかはわからないけど」
「会いたくならないのかい?」
あきらかに聞こえたであろう彼の問いかけに、ビルは答えなかった。
「そうだ、あんたの望み叶えるよ。こんな汚い部屋だけどさ、静かな部屋で音楽だけが流れるって言ったっけ? レコード・プレイヤーはあるんだ。中古だから音の保証はできないけど、ちゃんと聞こえるぜ。レコードもけっこう名盤揃いだ」
ビルはさっきの一見強面な感じとはうってかわって柔和な笑顔を浮かべ、嬉しそうにレコードを選んでいる。もしかして、このアパートには久々誰か人が訪れたのかもしれない。彼はソファに腰掛けて、そんなビルを見つめる。ある記憶が蘇る。豊かな黒い髪をなびかせた、やせっぽちの青年の姿。ある想像がふと浮かんだ。地上に迷い込んだ妖精が自分の国に帰れなくなって、この人間界で必死に生きていこうともがいている姿だ。何もできない。でも僕は歌える。妖精は美しい声で歌った。慣れない人間のふりをして。
「何もない部屋って言ったから、俺、隣の部屋で寝てるよ。好きなだけ音楽鑑賞してくれよ。気に入らない曲なら適当に他のと交換してくれてかまわない。でも、俺はこの曲が一番好きなんだ。最近中古屋で買ったレコードなんだけど……まあ、俺のごたくなんていいよな。じゃあ、ごゆっくり。電気、暗くした方がいいと思うぜ」
「ああ、そうだね」
ビルはレコードに針を落とすと、静かに隣の部屋に入った。
電気が消されて、窓からネオンの明かりだけが仄かに差し込んでいる。
静かなメロディで始まる曲だった。
まずピアノか……
でも、その最初の音を聞いた瞬間、彼は雷に打たれたような衝撃を受けた。次のフレーズ……
予期せずして涙が溢れ、彼の膝にこぼれ落ちる。
サミーはひとりで店のショーを見ている
友の声が部屋中に響き渡った。
こんな所で思いがけず君に会うなんて……しかも、僕の曲だ。
その曲がかかっている間、彼にはがとても長く感じる。
やがて、その曲の終わりを告げる歌詞を、彼は既に知っている。
君は自由な男なんだから……
完全にその曲が終わる頃には、彼はレコードプレイヤーの前に立っていた。彼はその曲が終わると、一度レコード盤から針を上げた。
暗い部屋で、しばらくそのレコード盤に視線を落としていた。目が慣れてきて、レコードのラベルにある文字が読みとれた。彼は足下に立てかけてあるレコードのケースを取り上げた。
そこには風変わりな絵が描かれたいる。ロボットに襲われる人類だ。哀れ、大きな金属の手のひらに捕らえられた一人、そこからこぼれ落ちる三人。
知ってる。彼のよく知っているレコード。
「君がいる……君の声を……今、聴いたよ。君が探し続けていたものって、もしかしてこんなものなのかい? 本当に他愛ないけど、まるで運命みたいな、出会い……」
彼は涙をこらえながら呟いた。既に、彼は自分が関わっていたバンドからも少し距離を置き、あの頃の思い出を部屋の片隅にしまい込んでいた。それらの物を、再び開けてみようとは思わなかった。どこか、それは彼のプライドのようなものが許さなかった。時間は戻らない。どうしょうもない。友がいなくなってから、彼はもう後ろを振り返りたくなかった。彼自身も、もうあの頃には戻ることができないのだから。今の自分には人よりも十分過ぎる幸せもある。もういいんだ、何もしなくても。時間は自分を運んでいってくれる。あれからいったいどれだけ時が過ぎただろう。
彼はふとネオンが差す窓を向いた。ネオンに照らされた暗い窓に、うっすらと自分の顔が映った。随分やつれた。歳のせいだけではない。
確かに時間は彼を運んだ。でも、心までも一緒には連れて行ってくれなかった。
彼は再びレコードに針を落とした。なぜこんなにも的確にさっきの曲を再生できるのだろう。彼はフッと笑った。初めてこのレコードを手にしたとき、一人きりの部屋で何度も今と同じ部分に針を落としたのだ。
自分の書いた詞を友が歌う。あの頃、一体何を思いこの詞を書いたのだろう。
君は自由な男なんだから……
不意に寝室の灯りがついた。
「何か、感じた? その曲、いい曲だろう?」
ビルが立っていた。
「眠れない。人がいるって思うとさ」
彼は頭をかいて、大仰にベッドに腰掛けた。
彼はレコードを止めてもしばらくビルに背を向けて立っていた。まだ気持ちが落ち着かず、涙が出そうだったからだ。
「本当に……僕は君には何も期待していなかった」
「さっきも聞いたよ、その台詞なら。いっそのこと、その台詞を兄貴から聞きたいよ。そうすりゃ俺だって安心するんだ。あんたの弟は、もうダメだってな」
「投げやりになるんじゃない」
まるで親が子に言うような口調で彼が言ったので、ビルは驚いて顔を上げた。
「僕が君に期待していなかったのは、君が自分を偽っているからだ。そして、僕もその偽った君の像を君自身だと思っていたからだ」
「……」
「いいかい、僕は君には期待していなかったと言ったんだ。でも、実際の君は、そうじゃなかった」
ビルは彼のその言葉に、どこか小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「偽りの俺? 実際の俺? バカバカしいじゃないか。全ては嘘だよ。嘘に決まってる。こんな街だって嘘っぱちじゃないか。みんな自分の気持ちを偽って、楽しくもないことを大層楽しいと嘯きながら生きてる。あんただってそうだろう?だからこんな街を所在なげにうろついてる。出会えるはずのない友人を捜しているなんて、もっともらしい理由をつけてさ」
ビルはベッドの足下に転がっていたウイスキーのボトルを拾い、栓を開けるとラッパ飲みした。
彼は黙ってそんなビルの隣に腰掛けた。そして、正面にあるイーゼルに立てかけてある絵を指差した。
「この絵は、正直な絵だという気がする。さっきも言っただろう。僕はこの絵だけが、他の絵と違って、君自身だという気がしたんだ。君は最低な絵だと言うけれどね」
彼の静かな語り口調に促されたように、ビルも正面にあった自分の描いた絵を見つめた。
「僕は、今夜友人に会ったよ」
「え……? いったい、どこで」
「彼は、至る所にいるよ。僕が本気になって探せば、どこにいても見つかるのさ」
「……やっぱり、あんたの言うことは俺にはわからないよ」
ビルは頭をかいて首を捻った。
「君は、わかっているさ。この街は嘘っぱちだと言った君なら。そして、最低の絵を捨てることもせず、大事にイーゼルに掲げてる君なら」
絵を見つめるビルの瞳に、どこかさっきとは違う光が揺らめいた。
二人が見つめる絵とは、あまりにも純朴な風景画だった。大胆なタッチで描かれた空。いろんな色を重ねて表現された緑の草原。空が映り込んだ湖で釣りをする親子のような人影。遠くに続く道があり、遙かにある家の煙突から上る煙。湖の脇にある小道をいく荷馬車。単純な風景画だが、そこにはありとあらゆる色を塗り込んで表現された深みがあり、独特のタッチがあった。
「ある画廊に持ち込んだとき、こんな絵はダメだと一番最初に言われた。これは俺の一番の自信作だった。だって、いつも田舎で見てた風景だからね。実際にはあり得ないような色を使ってるけど、俺にはこう見えていたんだよ。あの頃はただ死にそうなくらい退屈な場所だったけど、この街であの場所を思い出すとき、俺にはまるで夢の世界みたいに思えるんだ」
本当に、ビルは夢を見るような目でその絵を見つめながら話す。
「この街に来て、生きるか死ぬか、ギリギリのところで描き上げた作品だったから、思い入れも強いんだ。でも、どこへ持って行っても、こんなのでは売れないって言われた。それからまた斬新な絵を描き始めたけど、ちっとも泣かず飛ばず。ドラッグまで手を出してみたけど……あんなのインチキだよ。何も自分の気持ちが反映されない。突然記憶の中の忘れていたことを思い出して、はき出したい気分になって、脈絡のない絵ばかり描いてしまう。しかも、自分の思ったのと違う色を遣い、違う画法で描いてみようと試みる。あんな絵、ただ無謀なだけさ。どんどん勝手に書き上げてしまう。朝起きてトイレで吐いた後にキャンバスを見ると、惨憺たる絵が残ってるんだ。そんなのが一枚だけ売れたことがあった。どこかの金持ちが夜な夜な開くパーティの席で、一度だけ壁を飾るのに使われたらしい。すぐに捨てられるようなオブジェとして売れたよ」
「どうして自分の才能を信じないんだ? 僕の友人は言ったよ。才能を信じろって。画商の眼がいつだって正しい訳じゃない。自分の描きたい絵を信じればいいんだ」
ビルはなんだか狐につままれたような顔をしてふんと笑う。
「さっきまで所在なげに街でふらついてた人間の表情じゃないね。何者なんだろうな、あんたは」
「ただの中年だよ。そして、ちょっとした資産家さ」
彼の言葉にビルが鼻で笑った。
「ところで、僕の願いは叶えられたよ。代金を払いたいんだが」
彼はゆっくりと立ち上がってビルに言った。
ビルはしばらく彼の顔を見つめて首を振った。
「いらない。金なんかより、あんたには二度とこんな街を訪れないでほしいって思うだけだ」
「その言葉は、そのまま君に返したいね。もう少し、君は自分自信の才能に敬意を払うべきだ。君自身の才能を生かすも殺すも君次第だが……」
彼はイーゼルの絵の前に立った。
「この絵を描いた君は、どこへ行ったんだ? 君にこの絵を描かせた衝動は、君を見捨てたのか?」
彼は振り向いてビルを見下ろした。じっと絵を見つめる瞳に、彼は友の面影を見いだした。
「本当に、好きな絵だけを描けたらな……」
誰に言うともなく、ビルが呟いた。彼は、そんなビルの表情を見て胸が熱くなった。もう、彼の周りではそんな表情を浮かべる人間を見ることはできなかった。かつてはいたのかもしれないが。
彼は椅子にかけたジャンパーから財布を取りだし、ありったけの紙幣をビルに差し出した。
「君のパトロンになろう。この金を君に投資するよ。好きに使ってくれ」
それは、きっとビルにすればどんな要望を聞いたにせよ、法外な金額だった。実際に目の前に金を見せられて、さっきはきっぱり断ったビルの心も、少なからず揺れているようだった。しばらく彼の差し出した金に釘付けになっていたビルだが、やはり俯いて首を振った。
「だめだよ……そんな簡単に人を信用しちゃ。もし、俺が今言ったこと全てが嘘だったらとか、あんた考えないのかい? こんな俺だぜ? あんたが俺に投資してくれたところで、真面目に絵だけ描いて暮らすと思うかい? 金なんて、あればあるだけ使う。この街の誘惑は底なしだよ」
「それならそれでいいさ。べつに僕は困らない」
「……」
「残念だと思うだけさ。僕の友人なら、そんなことをされたら一生分の涙を使い果たして泣くかもしれない。でも僕は違う、泣きはしないよ。株で失敗したと思うだけさ」
「株ね……。でも、あんたもきっとあんたの友人と同じだよ。あんたお人好しなんだよ。バカがつくぐらい。俺の兄貴と同じ顔してるもんな」
と笑う青年の笑顔は、街で出会ったビルという男の笑顔ではないことを彼は知っている。もう、この青年の名はビルという名ではないはずだ。そして、この青年の本当の姿には、髭も派手な衣装も、とても似合いそうになかった。
〈つづく〉
|