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その3へ

永遠の翼〜
この街で
Written by ねこ娘さん

その4
 今夜あの街で出会った青年の本当の名前は何だったのだろうと、車を運転しながら彼はぼんやりと考えた。あの後、道路脇に停めた車内で少し眠ったが、完全に酔いは冷めていなかった。真夜中のハイウェイは車も少なく、知らずにスピードを出してしまう。車窓の両脇をまばらなオレンジの光が流れていく。最後まで金を受け取ろうとしなかった青年の顔がしばらく頭から離れなかった。出会った時の顔と、最後には別人だったあの青年。別れ際に彼は言った。「本当の兄さんに……会いたくなっちまった」と。
 信じられないくらいの人間が、さまざまな思いを抱えて夜を過ごしている。彼は、そんな夜に自分も溶け込んでいくのを感じた。そして、それがいつになく心地よく感じるのだった。

 彼は久しぶりにその部屋に入った。リラックスチェアが部屋の中央に置いてある。部屋をぐるりと見渡せば、こだわり深く配置されたオーディオ装置や大きなスピーカーが目に付いた。天井まで届くかという棚にずらっと並んでいるのはレコードのコレクションだ。膨大な量だ。彼はそんな棚から比べると、比較的小さくこぢんまりした棚の前に立った。その両開きの扉を開け、一枚のレコードを取り出した。ケースから慎重にレコードを取り出し、回転板にのせ、そっと針を下ろした。
「僕は部屋にいて、その部屋にはただ音楽が流れてる……」
 彼はリラックスチェアに身を横たえて目を閉じた。灯りを消した部屋に、月の光が差し込んだ。音楽も同時に流れ出す。昨夜、あの青年の部屋で聞いた曲と同じ曲が流れ出す。
「……その音楽がとっても素晴らしいんだ。今も、そう思うよ」
 彼は月の光が近づくのを感じる。穏やかな息づかいのようなもの感じる。空気の揺らめきを感じる。とても静かな空間は若々しい友の歌う声だけで満たされている。彼自身が奏でるベースの音も聞こえた。
「あの頃……僕も若かったね」
 彼は呟いた。
「もう半世紀生きたよ。君に出会う以前の時間。君に出会ってからの時間。君がいなくなってからの時間。そして今、この瞬間」
 部屋の壁が取り払われて、彼の周囲が永遠の果てしない宇宙になったようだった。星のきらめきが小さな白い点として彼の周囲を浮遊している。宇宙には存在したありとあらゆる生命体の記憶が残されているのだと聞いた。そんな誰かの記憶の断片に触れることとは、まるで、レコードを取り出して聴くような操作なんだろうか。
 君の名前の秘密を、ずっと昔に聞いたような気がする。こっそりと教えてくれた。重大な秘密を打ち明けるように、友はないしょだよと声をひそめて彼に耳打ちした。もうすっかり大人になってたのに、そんな二人の時間だけ、時計が巻き戻されたようだった。変な感じだった。友とはもう大人になってから出会ったのに、少年時代の記憶を共有しているかのように感じる。ずっと昔の君を知っているような気がするんだ。
 絶対に秘密だから。彼は今でもその秘密を胸の奥にしまっている。彼はそんな友が託した秘密をこのまま最後まで持っていこうと思っている。友が託した秘密とは、彼にすれば口にした瞬間なくなる宝石のようなものだった。彼はこの宝石だけは、最後まで失うことなく持っていくだろうと思う。天下の大泥棒でも容易には盗み出せない場所にあるのだ。
 彼はこれからの一生をかけて、あの時友が口にした秘密についてもっとたくさんのことを知っていくだろう。どれもこれも、他人にはどうでもいいようなことかもしれない。本当に意味のないことかもしれない。かつて友がしていたことについて、彼がそう思ったのと同じように。そして、そんな秘密を知ったときには、あの時友の瞳の奥に見えた輝きの秘密もわかるのかもしれない。
「君の秘密をさぐるには、僕の一生分では足りないのかもしれないな」
 両手がほのかに温かくなってきた。レコードがフェードアウトして停止した。
 「心がぐらついているときにこそ、おそらく運命的な出会いが起こるんだ」
 そんなことを君は言ったことがあったろうか?
 どうしてそんな言葉を今思い出しているんだろう?
 自分の意志を強く持ち、あらゆる障壁を乗り越え、孤独の中で思索し続けた結果だって? 
 孤独の中で……
 耐えられなかった。あの頃の僕には……。いや、昨日までの僕には。君だってそうじゃないのかい? だから……
 闇に問いかけて、彼は思う。いつもならそれ以降のイメージは浮かばず、暗い闇に途切れてしまうだけなのに、今日の彼は、その闇の向こうに昨日の青年の面影を見いだした。それは、記憶を遡り、友のイメージに重なる。
「だから? だから何だっていうんだい? 退屈な考えはよせよ」
 笑い声が聞こえる。笑い声の主が見える。その笑顔が見えた。
 彼もつられて笑っていた。
「そんなこと考える暇があれば、新しい曲でも作ってほしいね」
 そんな声までも聞こえてくるようだった。彼は思わず声に出して笑い、いつしか目尻には涙が溢れた。
 耐えたんじゃない。君は、そんな孤独でさえ、受け入れたんだな。
 そんな言葉が彼の中で弾けたとき、冷たい闇でさえ、彼には優しく暖かく感じた。何があったというのだろう。まるで魔法のようだ。
 なんだい?この感じは。僕はいい歳をした大人なんだよ。でも、君の言葉を思い出して、今再びレコードを聴き、こんなにドキドキしている。それに、あの頃には感じなかった、とても満たされた気分になる。あの街へ、僕は最初何を求めて立ち入ったんだと思う? 君だった。君の魂だった。でも、僕が見つけたのは……僕自身だったよ。こうやって、好きなレコードを聴きながら気をよくしてる、そんな僕自身。
 忘れたつもりはなかったけど、忘れそうになってた。僕自身を失ったら、君を感じられなくなるんだったね。

 彼は久しぶりに虚と現実との境界をたゆたいながら、自然とまどろみについた。

【おわり】

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