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Eternal Wings
Under Pressure
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Written by Anja Geenen (translated by mami)
Chapter Five
ジョンは家路を目指す機上の人となっていた。ようやく思考力が戻った気がしていた。この数週間、何も考えられなかったのだ。家族や友人、仕事を捨てて家を出た時は頭の中が真っ白だった。自分も混乱していたが、周囲のものすべてが混迷を極めているかにみえた。考えること、感じることが出来なかった数週間。気が狂ってしまうのではないかとさえ思った数週間。纏わりつく惨めさから逃げねばならなかった。何一つまともにこなせないという思いから逃げねばならなかった。愛する人たちとひどく言い争った。すべて自分の過ちで起こした諍い。分かっていた、僕のせいだって。気が短くなっていた。ごく些細な不具合にも苛立った。何より最悪なのは、多かれ少なかれ、それらはすべて彼自身に問題があったことだった。ああ、短気だったさ。でも、どうしようもなかったんだ。途方もないプレッシャーで、何百マイルも急降下しているような気分になった。掴もうとしたものすべてがすり抜けていく。今まで手にしていたものもすべて。何もかも失ってしまいそうだった。親しい人々、大切なものすべてを。
思い出しながら、ジョンはため息を吐いた。恥ずかしいことだ。誰も傷つけるつもりはなかったのに。
* * *
家を出た時、ジョンの心は真っ白で、足だけが勝手に動いていた。誰とも話す気になれず、どこかへ行ってしまいたかった。空港へ向かった彼は、最初に目に付いた飛行機に飛び乗った。身の周りに構わなかったせいで、持ち物といえば、出て来る時に提げていた衣服などが入った小さなバッグだけである。あまりに唐突に家を出たせいで、中に何が入っているかすら確かめずに掴んできてしまった、クイーンのツアーの時のままのバッグ。飛行機がどこへ向かっているのかも分からず、彼は機内にいた。怒りと恐れで体が震え、目の前の空間に向けた瞳には、何も映し出されてはいない。世界がぐるぐる回り出し、気分が悪くなった。もうくたくただ。泣きたくなった。小さな子供のように。母の胸に抱かれ、何もかもまたうまくいくわとあやされながら、泣きたかった。だが未だに、怒りの感情が涙を妨げていた。なぜこんなに腹が立つんだろう? 人に言われたことが原因? それとも、自分自身に対する、あるいは今の状況全部に対する怒りなのか? 彼の人生は失望と混沌に満ち満ちているようだった。ただのひとつも解決できていない。あまりにも難しすぎて、解決の努力さえ萎えてしまいそうな気がした。体中の筋肉が強張り、頭脳ではあらゆる思考が混乱し、乱れた感情が駆け巡るせいで体の緊張がさらに増す。弱り混迷し、誰とも話したくなかった。気付かれることすら怖れた。何も考えないように、何も感じないでいられるように、彼は席に身を潜めた。思考が脳裏を渦巻き、情緒が不安定さを増し、すべての感覚が失われていく中、彼は眠りに落ちた。フライト中、ずっと眠っていた。
* * *
目が覚めると異国だった。周りの客たちは荷物をまとめて機内から出ようとしている。ジョンは体のそこかしこに痛みを覚え、しばらくは立つことも歩くことも出来ないでいた。頭の中は完全に空白だった。何も思わず、何も感じず、少ない荷物を手にして彼は飛行機を降りた。次にどうするか考えもなく歩き、何を言っているのか、何を言われているのか分からないまま人と会い、言葉を交わした。まるで夢の中にいるような気がした。太陽に彩られた、赤紫色の空。甘く柔らかで暖かい風。人々は彼を案内し、話し掛け、彼が何をしたいのか、どこへ行きたいのかを見つけ出そうとしてくれた。クイーンのベーシストだと気付く者は誰もなく、彼がどこから来てどこへ行くのかが知りたいだけの人々だった。ついに皆は彼をタクシーに乗せ、ホテルまで連れていってくれた。部屋に入るなりジョンは荷物を床に投げ出してベッドに倒れこんだ。再び目を閉じると、そのまま眠った。
* * *
次に目覚めると、にこやかに微笑む少女が側にいて、思考が甦った。なんとか少女に部屋から出てもらった。時間と休息が必要だった。独りで考えたかった。
長い間、ベッドに腰掛けていた。時間がどんどん経っているのも気付かずに。自分がまったくの愚か者に思えてきて、この数週間の出来事を思い返そうとしてみた。突然、彼は気付いた。僕は誰にも行き先を告げず、いつ帰るかも言わずに出てきてしまった。誰も僕がどこにいるのか知らない。ヴェロニカはどんなにか心配してるだろう。また彼は、自分が出て行くところを子ども達に見られていたことも思い出した。事態がますます悪くなっていくように感じた。どうして僕はこんなに愚かなんだ? 電話しなくては。ヴェロニカに、僕は無事だと伝えなくては。だが電話を掴んだ途端に気力が萎えてきて、そのまま元に戻した。彼は再び腰を下ろした。僕には家に電話する勇気もない。真実に向き合う勇気もない。何が起きるか、知るのが怖いんだ。独りになること、家から遠く離れることを選んだにも関わらず、彼の心は傷つき、孤独感でいっぱいだった。身体はズキズキ痛み、筋肉はまだ強張っていて、頭の中はぐちゃぐちゃ。それでも、次にどうすべきか考えようとした。ヴェロニカに電話しなければ。でも、どう言えばいい? 皆を捨てて出て行ったことを、どう伝えれば? 僕がいなくなったことにたぶん彼女はもう気付いているだろうな。ひどく怒っているに違いない。そんなことを考えていると彼の勇気は完全に消え去ってしまった。僕は馬鹿だ。脆くて独りぼっちだ。涙が込み上げてくる。ああ神様、いったいどうすれば? 涙そして怖れと闘いながら、再び彼は受話器を掴んだが、しばらくして元に戻した。ためらいがふたつあった。駄目だ、先に考えなくては。ヴェロニカに電話する前に、なぜ出て行ったのか、何を思い、何を彼女に伝えるべきか、考えておかなければ。ベッドの上に座って両足を引き寄せ、ジョンは目の前の壁を見つめた。彼には、この状況をどこから打開すればよいのか見当もつかなかった。頭がまた混乱してきた。しばらく経つとまともな思考が出来なくなり、諦めた。彼は再び目を閉じた。まだひどく疲れていて、夢の中を漂っているような気がした…。
* * *
「アタマ使えよ、ったく!」
ブライアンが怒鳴っている。何か言い返したいのに、怖くて喉が張り付いている。口を開けて、助けてと叫ぼうとした。声がでない。恐怖が極限に達した。どうすることも出来ず、ブライアンを見た。ジョンの目に浮かぶ恐れに気付くことなく、ブライアンは怒鳴り続けていた。逃げ出そうとしたが、脚が床にくっついて離れない。胸が締め付けられる。ようやく罵り終えたブライアンと目が合った。彼はヒステリックに笑い声を上げ、言った。
この能無し。
涙が込み上げてきた。動けない。息が出来ない。独りぼっち。自由になりたい、逃げ出したい。身悶えしているうちに、動くことができた。振り返ると、ヴェロニカがいた。涙と怒りに溢れた目で、彼女は詰っている。声は聞えなかったが、自分に対して叫んでいるのは分かった。ブライアンと同様、ヴェロニカもまた、彼が能無しだと罵っていた。聞えなくてもその言葉は彼に冷たく突き刺さった。
次の瞬間、外にいた。世界がぐるぐる回っている。耳鳴りがする。眩暈がした彼は、同時に恐れを感じた。すべてのものが彼の手から消え去ろうとしている。迷子になってしまった。どこへ行けばいいのだろう。至るところで人々が自分に向かって怒鳴っている。まるで空港の騒音のように。
『お前は能無しだ!!!』
助けを叫ぼうにもうまくいかず、目から涙がとめどなく溢れた。ああ、いったい何が起きているんだ? やがて視界がフェイド・アウトし、ジョンは宇宙に投げ出された。完全なる暗闇の宇宙。恐怖を感じるほどの完全なる沈黙の宇宙。誰も助けてはくれない。まったくの独りぼっち。まるで何年もの間、暗闇と沈黙の世界を漂ってきたような気がした。誰にも会えず。何も聞こえず。寒い。寒さと恐れでジョンは震えていた。彼らは正しい。僕は能無しさ。何もかも悪くしているのは僕。愛する人々を傷つけ、失おうとしているのは僕。どんなものも、どんなひとも失いたくないのに。現実が彼を打ちのめし、気力を吸い取ってしまった。宇宙と罪の意識に次から次へと振り回される。やがて彼は落下した。際限なく落ちてゆく。果てがないかのように。何かしっかりしたものに掴まろうとしてもすべてが手からすり抜けてゆき、ただ空を掴むのみ。
落下が終わりを迎え、ジョンはショックで現実に引き戻された。寒さに震え、汗びっしょりになっていた。身体を起こして部屋を見回した。真っ暗だった。再び孤独感に襲われ、覚えのある恐怖が甦ってきた。部屋の冷たい静寂が、彼の孤独を強調しているかのようだ。夢の中のように、すべてを失ってしまうとしたら…。そんなの嫌だ。あんな思いはもうご免だ。再び電話を探したジョンだったが、見つけるなり脇に追いやってしまった。彼は自分自身に毒づいた。この大馬鹿野郎。愚かな臆病者。絶望的になってため息が出た。体全体に力が入らず、重かった。まだ世界がぐるぐる回っている。また横にならざるを得ない状態だったが、眠りを怖れた。夢に責められ、傷つけられたばかりだったから。光を求めて、彼はもがいた。
* * *
数日後、ジョンはようやくベッドから抜け出せた。といっても、思案することしか出来ないでいる。彼は先日来の出来事ですっかりバランスを失っていた。ストレートに考えることも、すべきことをすることも、未だ無理な相談だった。弱りきっていて、意味を為すものは何一つないような気がした。時がさらさらと流れていき、ジョンは今なお独りきりで、何があったのか、今後どうあるべきなのかをただ思案していた。昔は本当に何もなかったのに。もはや何一つ理解できなくなってしまった。すべてを忘れたい。ただ平穏に生きてゆきたい。さもなければ…。それ以上は考えられなかった。幼い頃に戻りたいと思った。何もかもがシンプルで幸せだった頃に。彼は混乱と闘わねばならなかった。今の僕ほど孤独に感じている人間が他にいるんだろうか。独りになんかなりたくない。今まで手にしていたものを全部取り返したければ、闘いもする。でももう力を出せない。取り返そうという気持ちすらない。僕には休息と平穏が必要なんだ、考えるために。今彼はその両方を得ていたが、頭は働いていなかった。心からの休息ではないから。もうずっと長い間そうだったが、生来のものではない。彼は元々話し手ではなく思索家だった。それが今や考えることすら困難になっていた。クイーンが彼を落ち着きのない男に変えてしまった。あるいは、今の状況そのものが。ストレートに考えようとすると、すべての思考が混乱し始め、彼を打ちのめす。すっかり疲れ果ててしまった。何もかも、変えなくては。しかしジョンにはどう変えるのかも、どこから変え始めれば良いのかも分からない。すべてが非常に困難に見えた。
* * *
ショウのリハーサルのときのこと。ジョンはブライアンやロジャーとうまくいっておらず、そのことがフレディの神経を逆撫でしていた。フレディはとても苛立ってきていた。演奏しなければと分かっているのに、まるで弾いている気がしない。大切なリハーサルだというのに。ジョンはステージに背を向け、怒り苛立つフレディと顔を合わせないようにした。演奏しているというよりは、ただ手を動かしているだけだった。ロジャーがカウントを始めた。3…4…! 沈黙。どの曲を始めるのか、どこで入らなければならないのか、ジョンには分からなかった。やがて曲が判明した。失敗だ。
「ジョン、一体何やってるんだよ!?」
ステージの向こう側からフレディが怒鳴っている。振り返って見たフレディの顔は怒りで真っ赤になっていた。良くない兆候。
「アンダー・プレッシャーだろ、ジョン」
助け船を出してくれたブライアンに目をやりながら、ジョンはひとりごちた。ああもちろん、プレッシャーだらけさ。彼は皆に背を向けて、いつもの位置に戻った。彼に見えるのは、ステージの色んな場所でサポートしているスパイクだけだった。スパイクはピアノに腰掛け、ジョンと向き合っていた。彼は、ジョンがベースを弾くのに四苦八苦していることに気づいた。まるでジョンらしくない。ジョンはしっかりした熟練ベースプレイヤーで、いつでも頼りにできたはずなのに。今日はどうしたんだろう。いつもの堅実さはまるでなく、ロジャーのビートに引きずられている。ロジャーがビートを予期せぬふうに変えると、たちまちジョンは支えを失って崩れてしまい、曲はまた途絶えた。フレディは憤慨し、いつもはかなり忍耐強いブライアンまでもが怒りを露わにした。ブライアンは、ジョンのこんな集中不足な様子に慣れてはいなかった。ジョンが再び曲を台無しにした後、こんな間抜け達と仕事したくないと言ってフレディはステージを駆け下りてしまった。
「ありがとうよジョン」ブライアンが言った。
「ここで集中力を取り戻してはどうだい? そんなに難しいことではないだろう? それとも君は本当に下手くそプレイヤーなのか?」
かちんときたジョンはブライアンに怒鳴り返した。何を言ったのかは覚えていない。何か意地の悪い言葉をブライアンに投げかけたことだけは確かだった。それでブライアンは激怒して出て行った。また他のメンバーと向かいあうのなら先に落ち着いた方がいいとジョンは誰かに諭された。
再びこのことを思い出して、ジョンはため息を吐いた。あの日の僕は集中力の欠片もなくて、怒りっぽかった。今は後悔している。あの日怒鳴り散らしてしまった人たちに謝らなくては。これ以上思案ばかりしていたくないと思ったジョンは、ホテルの外に出てみようと決心した。この数日間、部屋の中しか眺めていなかったからだ。人生が再び始まろうとしていた。ゆっくりと、だが確実に。生気を取り戻したジョンは、自分自身を省み始めていた。
* * *
ようやく家に電話する決心がついたのは、数週間後のことだった。今ならヴェロニカに電話して現実と向き合う勇気がある、そう思った。
電話の後、彼は座り込んでしまった。考えていた以上に辛かった。ヴェロニカは気も狂わんばかりだった。故無きことではなかったのだが、ジョンはかなり驚いた。君を失いたくないんだ、本当だよ。目に溢れた涙を抑えるすべは無かった。ヴェロニカと子ども達が恋しい。電話できたことはよかった。言いたかったこと、言わなければならなかったことはすべて口にしたつもりだ。だが言って悔やんだこともいろいろある。なぜ自分が出て行ったのかを、ヴェロニカにはもう少し理解していて欲しかった。だが彼女は質問をぶつけて来た。クイーンを辞めるつもりはあるのかと。そんなこと考えもしなかった。クイーンを辞めたくはない、彼はそう言った。ベッドに横たわりながら、ジョンは自分の言ったこと、どう言えばよかったのかを考えた。決心しなければ…あるいは、解決方法を見つけなければ。だが初めに何が起きたのかをはっきりさせなければならないと彼は思った。何が原因で、どこがすべての始まりだったのかを。解決と決意はその後だ。考えることはたくさんありそうだったが、彼はついに着手した。
* * *
ジョンはテラスに座り、人の流れを眺めていた。ようやく日の光を拝むことができた。あらゆることを分析した結果、彼は完全に平静さを取り戻した。すべてを書き留め、問題リストを作り、解決法を加えた。分析結果は予想通り。過度のプレッシャー。ジョンは家族と共に生きようと決意したが、クイーンを辞める気にはなれなかった。家族が一番、バンドが二番。それでいいではないか。次の決意は、二度とマスコミに捕まるまい、家族をマスコミから護るためにはなんでもするということだった。最後に彼は、もし再びプレッシャーに捕えられてしまったら、必要なだけ身体を休めて平穏に暮らそうと決めた。家族と一緒に国を出て、バンドを無視することになっても。難しいことだろうけれど、そうするべきなんだ。彼は近くにいた一組の家族に注目した。座って飲み物を摂りながら語り合い、子ども達との平穏な時間を楽しんでいる両親。大声ではしゃぎながら走り回っている子ども達。だが僕の部屋はあまりにも静かで、あまりにも寒い。もう一度、家族の温かさに触れたかった。子ども達が立てる騒音さえ懐かしかった。もう、家に帰ろう。
* * *
今彼は機内でこの数週間のことを思い返している。家族もバンドもいなかった時間、孤独と混乱の時間のことを。最良とは到底いいがたい数週間。家族や友人達が懐かしかった。会えなくて寂しかった。帰宅を半ば夢に見つつ、彼は流れゆく雲を眺めた。雲の中に、近しい人々の顔が浮かんだ。思わず手を伸ばし、そっと呻いた。手はガラスに触れただけだ。まだ、彼らに触れることはできないんだ。今はまだ。
ジョンは皆への弁解の言葉を考えた。まずはバンドへの、演奏中何度も中断させたことへの弁解。次にマネージメントへの、どこへ行くのか、いつ帰るのか報告せず出て行ったことへの弁解。そして最後は妻と子ども達への、どこへ行くとも言わずに置き去りにし、無事かどうかも知らせなかったことへの弁解。それから、なぜ家を出たのかも皆に説明しなければ。僕の解決法を聞いてもらおう。そして、もう二度とこんなことはしないと皆に約束しよう。絶対に忘れてはならないのはただひとつ、家族に言うべき言葉。どれだけ愛していて、どれだけ失いたくないと思っているのか。彼らなしでは生きていけないのだと、はっきり言わなければ。それらはすべて、彼の今後の実りある人生のために非常に大切なことだった。もう二度と深みに嵌りたくない。
ジョンは現実に帰りついた。
* * *
飛行機はロンドン・ヒースロー空港に到着した。着陸し、ドアが開いて乗客が降り始めるの時がジョンには待ち遠しくてたまらなかった。家族に触れたい。この両腕で彼らを感じたい。シートベルトで座席に縛られながらも、ジョンは地面が近づいてくるのをじっと見つめていた。
ディーコン家の一行は、夫であり父親である男が飛行機から降りてくるのを待っていた。飛行機が近づいてきた。家族たちは息を詰めた。ドアが開いて人々が機内から降りてくる。子ども達は父親に会いたくてたまらない。別れがあまりにも長すぎたのだ。後ろで母親は微笑んでいる。夫が帰ってくるのが嬉しいのだ。
かなりの時間が過ぎた。機内はほぼ空になったようだが、肝心の男がまだいない。…いなかったのだろうか?
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