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喜びへの道 ― Deaky Chronicles ―


更新履歴:(2006.3.17)2005年の動向を追加。

1951年.....0歳
8月19日 レスター市ロンドン・ロードの聖フランシス私立病院にて、父アーサー・ヘンリーと母リリアン・モリー(旧姓パーキンス)の第1子として誕生。「果てしなき伝説」より
1956年.....5歳
妹、ジュリー誕生。『兄貴と同じくらい大人しかった』(ロン・チェスター/たまには雨も降るさ(Queen Before Queen[1]『妹にはそんなに感情は抱いていないよ』→夜の天使(音楽専科84年5月
9月 イヴィングトンのリンドン・ジュニア・スクールに入学。後列中央右寄り/OIQFCより
1958年.....7歳
8月 初めての楽器、赤いプラスチックの「トミー・スティール・ギター」を両親からプレゼントされる。『あちこち提げてまわってたけど、本当いうと音はあまり出してなかった』→たまには雨も降るさ(Speakin' with DEACON
1960年.....9歳
レスター州のオードビーに引っ越し、ラングモア・ジュニア・スクールに転校。
1962年.....11歳
9月 ガートリー・ハイ・スクールに進学。
父親が他界。『とてもショックを受けて一時はほとんど口さえきかない子供になってしまったんだ』 →夜の天使(IN Rock86年5月
1963年.....12歳
新聞配達で得た収入で、アコースティック・ギターを購入。
1965年.....14歳
最初のバンド「オポジション」に参加。初期メンバーは同級生のナイジェル・バレンにクライヴ・キャッスルディン、そして年長でパトロン的存在のリチャード・ヤング。『ジョンは初めはリズム・ギターを担当していた。彼はコード・マンだったよ、言うなればグループ内のジョン・レノンってとこかな』(ナイジェル・バレン/たまには雨も降るさ(Queen Before Queen[2]
9月25日 クライヴの自宅で開かれたパーティーで初のギグ。
12月4日 エンダービーの生協ホールで、ラピッズ・レイヴというローカル・バンドの前座としてギグ。初の収入、2ポンドを得る。
1966年.....15歳
4月2日 ベーシストへ転向。『土曜の午後、クライヴをクビにする。ディークスんちのキッチンで練習。ベースはディークス。ずいぶんマシになった』(リチャード・ヤングの日記/たまには雨も降るさ(Queen Before Queen[3]
4月29日 「オポジション」から「ニュー・オポジション」に改名。『ジョンがリズム・ギターからベースに転向した時に急に思い立ってね』(リチャード・ヤング/たまには雨も降るさ(Queen Before Queen[4]
9月 ビーカム・グラマー・スクールに進学。
9月 あるパブで演奏することになっていたが、母モリーの反対に遭い断念。『ジョンはパブなんかで演奏させません!』(モリー・ディーコン/たまには雨も降るさ(The Early Years[3]
10月23日 デイヴ・ウイリアムス、ロン・チェスターを加えた「ニュー・オポジション」、ミッドランド・ビート・コンテストにエントリー。予選を順当に勝ち進むが、1967年3月に行われるはずだったファイナルの際になって主催者が出奔、キャンセルとなる。→ たまには雨も降るさ(Queen Before Queen[4] 1967年1月31日火曜日、セミ・ファイナルで勝ち抜いた2日後
1967年.....16歳
5月20日 レスター、レスター・カジノでのギグを境に「ニュー・オポジション」から「ジ・オポジション」に改名。この頃、2人のゴー・ゴー・ダンサーが加わる。『でも彼女達は実際はショウの一部という感じではなかったよ』(デイヴ・ウィリアムス/たまには雨も降るさ(Queen Before Queen[4]
1968年.....17歳
3月16日 ガートリー・スクールでのギグを境に「ジ・オポジション」から「ジ・アート」に改名。『デイヴ(ウィリアムス)が芸術家気取り(arty)だったからさ』(ナイジェル・バレン/たまには雨も降るさ(Queen Before Queen[5]
1969年.....18歳
6月 英語・英文学・数学・自然科学・化学・生物・フランス語・高等数学の8つでOレベルを取得、ビーカム・グラマー・スクールを卒業。
8月29日 グレート・グレン・ユース・アンド・スポーツ・センター・クラブで最後のギグ。
10月 ロンドン大学の分校、チェルシー・カレッジ電子工学科に進学。
10月 ケンジントン、エステート・マネージメント・カレッジで「クイーン」という名の新バンドのギグを見る。『彼らは全員、黒い服を着て、照明もすごく暗かったので、見えたのは4つの影だけ。あまりたいした印象はなかったな』(「果てしなき伝説」より)
11月21日 学友のピーター・ストッダードらとR&Bカルテットを結成、「ディーコン」の名で、Hardin&Yorkの前座としてチェルシー・カレッジで一夜限りのギグを行う。『物静かなオードビーの青年が自らを気まぐれに宣伝してみせた稀な事例である』→たまには雨も降るさ(Queen Before Queen[6]
1971年.....20歳
1月末 マリア・アサンプタ教員養成学校内のディスコでロジャー、ブライアンに紹介される。数日後、オーディションを経てクイーンに加入。『ジョン・ディーコンは恐ろしくキレる演奏をしたよ。イマジネーションはゼロだったがね。重箱の隅をつつくような感じで、いまいましいビートを落としもしなかった。まったくタイトな奴さ』(クリス・ダメット/たまには雨も降るさ(The Early Years[7]
3月 マリア・アサンプタ・カレッジのディスコでヴェロニカ・テッツラフと知り合う。『友達に連れられて行った時、バッタリ会って…』→夜の天使(IN ROCK86年5月
7月2日 サーレーのカレッジにて、クイーンの一員として初のギグ。『その日の彼は、お気に入りのシャツでご機嫌だったが、フレディには気に入らなかったらしく、自分のTシャツを貸すから、それを着てステージに立てと言って聞かなかった。お互いに、あまり気分の良いスタートとは言えなかったが、小さなギグだったし、演奏もうまくいって、あまり深刻な問題には発展せずに済んだ』(「果てしなき伝説」より)
7月17日 コーンウォール州をツアー。『僕は入って間がなかったから、お互いを良く知ることが出来て本当に良かったよ』→たまには雨も降るさ(Speakin' with DEACON
1972年.....21歳
1月28日 ロンドン、ベッドフォード・カレッジでギグ。そこに通っていた友人に回されてジョンがアレンジしたものだったが、集まったのはたったの6人。『あれは人生最大の恥ずべき体験だったとジョンは後に述べた』(「コンサート・ドキュメンタリー」より)
6月 チェルシー・カレッジ電子工学科を、第1級名誉学位を取得して卒業。その後も音響振動工学で修士の学位を取得するため学業を続ける。
11月6日 ロンドン、フェザントリー・クラブで、大手レコード会社の関係者を招待したギグ。直前までPAシステムが作動せず、エンジニアのジョン・ハリスと共に修理に追われるが、演奏は不出来に終わる。
1973年.....22歳
7月13日 デビュー・アルバム「戦慄の王女」全英発売。『僕らは彼のことをディーコン・ジョンって呼んでいた』 (ブライアン/Disco.Deacon(戦慄の王女『デビュー・アルバムに限り、僕は"Deacon John"さ!(笑)』 →夜の天使(MUSIC LIFE 81年臨時増刊
1974年.....23歳
2月 3月から始まるトップ・アクトとして初の全英ツアーに向けてのリハーサル中、電気機材の火花が飛び、足に軽い火傷を負う。
3月1日 メイン・アクトとして初の全英ツアー開始。この時点で学業を諦め、ミュージシャン業に専念することになる。
3月8日 第2作アルバム「クイーンII」全英発売。→Disco.Deacon(クイーンII 『あまり冴えない感じがしないでもないけど、皆が納得できるタイトルが他になかったんだ』 →たまには雨も降るさ(Stand Up For Queen
3月20日 マンチェスター大学でのギグの後、カメラや小切手帳、オーストラリア・ツアーの写真などが入ったケースを盗まれる。(3月15日、グラスゴー大学でのギグの後とする資料もある)
4月16日 モット・ザ・フープルの前座として全米ツアー開始。途中、ブライアンが肝炎になり、ツアーの残りをキャンセルして帰国。『あのときはうちのめされたよ。惨めで酷い時期だったね。まるでいきなり首をもぎとられてしまったように感じた』→夜の天使(黒田史朗「クイーン」
10月30日 全英ツアー開始。『ジョン、もしあなたがステージの中央に出てきて、会場の女の子にウインクしたならば、50ドルあげるわ』(キャロル・トーマス/夜の天使(黒田史朗「クイーン」
11月8日 第3作アルバム「シアー・ハート・アタック」全英発売。初の自作『ミスファイアー』が収録されている。『ブライアンとフレディの曲があまりにいいだけに、僕なんかが曲を書いちゃいけないんじゃないかと心配したんだ』 →Disco.Deacon(シアー・ハート・アタック 『ジョンは自分の曲において素晴らしい。特にバック・トラックの音から、ほとんど全曲の効果音や核心はジョンの手になるものだ、ということを述べておかなければならない』(11月2日付「メロディ・メイカー」紙より抜粋)
11月23日 ヨーロッパ・ツアー開始。『ジョン・ディーコン、それが我々のカメラマンの名である』(12月21日付「DISC」紙/マイナー地獄へ道連れ(貴公子は超写真マニアの巻
1975年.....24歳
1月18日 ロンドン・ケンジントン・チャーチ・ストリートのカーメリテ教会にて、ヴェロニカ・アグネス・メアリー・テッツラフと挙式。花婿介添人は親友のナイジェル。『教会の後ろの扉がバンと開いたかと思うと、両腕に女の子を抱いた人物のシルエットが見えた。最初は花嫁かと思ったんだけど、フレディだったんだ!』(ナイジェル・バレン/たまには雨も降るさ(The Early Years[10]
3月29日 カリフォルニア、サンタ・モニカ・シビック・オーディトリアムでコンサート。『満員に膨れ上がった観客を前にして、なんとジョンのパンツが裂けてしまい、大急ぎで着替えねばならなくなった。その間、フレディはずっと大笑いでジョンをからかい続けた』(「果てしなき伝説」より)
4月17日 初来日。4月19日から5月1日まで7都市8公演。『日本へ初めて行った時のことは、よく覚えてるよ』→夜の天使(IN ROCK86年5月 TV出演の一コマ
7月18日 第1子 ロバート誕生。『ニックネームは "フロッグ" です』→夜の天使(音楽専科76年5月号
10月31日 シングル『ボヘミアン・ラプソディ』(フレディ作)全英発売。『長い、それも複雑な構成の曲をシングルにすることは一種の賭けだった』 →夜の天使(MUSIC LIFE 81年臨時増刊
11月21日 第4作アルバム「オペラ座の夜」全英発売。自作『マイ・ベスト・フレンド』が収録されている。『実のところすごく嬉しいんだ。ジョンがとうとう本領を発揮したんだからね』(フレディ/Disco.Deacon(オペラ座の夜
11月25日 『ボヘミアン・ラプソディ』(フレディ作)、全英1位に。『サザンプトンのホテルに到着した私は、ロビーでジョン・ディーコンとぶつかったんです。彼は「僕たちはナンバー・ワンだ!」と叫んでいました』(ロジャーの母/「果てしなき伝説」より)
1976年.....25歳
3月 2度目の来日。3月22日から4月4日まで6都市11回公演。『あなたはステージでベースを弾く時、指を舐めているんだけど、どうして?』→夜の天使(音楽専科76年5月号
6月10日 シングル『マイ・ベスト・フレンド』全米及び日本発売。全米チャート16位。(18日全英発売、チャート7位)『美しいハーモニーと、やや声高なギター、そしてフレディの堂々としたヴォーカルの完璧な組み合わせ。あっという間に1位になるだろう』(「サウンズ」誌/「果てしなき伝説」より)
12月10日 第5作アルバム「華麗なるレース」全英発売。自作『ユー・アンド・アイ』が収録されている。『彼の曲の中じゃ、今までで一番強烈だと思うよ』(フレディ/Disco.Deacon(華麗なるレース
1977年.....26歳
10月28日 第6作アルバム「世界に捧ぐ」全英発売。自作『永遠の翼』、『恋のゆくえ』が収録されている。→Disco.Deacon(世界に捧ぐ
12月16日 サン・ディエゴでのショウのアフター・パーティの後、ガラス窓に右腕を突っ込み(酔っていた模様)、19針を縫う怪我を負う。この後の4公演は包帯姿で続行。右手のテーピングに注目
1978年.....27歳
1月 「クイーン・ミュージック」および「クイーン・フィルム」の2会社を設立。『基本的には、どのくらいのお金の出入りがあるのかや、僕たちがどのくらいのポジションにいるのかをしっかり見ているのは僕だけさ』 →たまには雨も降るさ(John Deacon Talks
2月3日 第2子 マイケル誕生。
2月10日 シングル『永遠の翼』全英発売。チャート34位。『このシングルは、アルバムの雰囲気にも通ずる。推測するに、これは彼らが初めて、新しいファンを獲得することを意図したものだろう。もし、新しいファンがいれば、の話であるが』(「レコード・ミラー」誌/「果てしなき伝説」より)
11月10日 第7作アルバム「ジャズ」全英発売。自作『うちひしがれて』、『セヴン・デイズ』が収録されている。→Disco.Deacon(ジャズ
1979年.....28歳
1月-3月 ヨーロッパ・ツアー。『ロイヤル・ファミリー(注:忠誠的なファンの集団)はジョン・ディーコンがドライ・ロースト・ピーナッツが好物であることを知って、公演の前に劇場の入り口でファンにピーナッツの袋を手渡した。You Are My Best Friendが始まると、会場のあらゆる方向からピーナッツが飛んできた。バンドは最初わけがわからずショックを受けたが、その後意味が分かり笑った』(「コンサート・ドキュメンタリー」より)
4月13日 3度目の来日。4月13日から5月6日まで8都市15回公演。 『いやなことがあっても、いいことを考えて笑うように心がけているんだ』 『もし僕がいなかったら、このグループはまとまらないだろうな』→夜の天使(1979年 ミュージック・ライフ増刊号より
6月22日 第8作目にして初のライヴ・アルバム「ライヴ・キラーズ」全英発売。→Disco.Deacon(ライヴ・キラーズ 『恐ろしく手間がかかったよ…たぶん、探して来たもののオーヴァーレコーディングで終わってしまっただけだ』→たまには雨も降るさ(クイーンのジョン・ディーコン -- 役職:ベース
6月25日 第3子 ローラ誕生。『娘が一人でもいる事は良いことだね』 →夜の天使(音楽専科84年5月
6月30日 第9作アルバム「ザ・ゲーム」全英・全米同時発売。自作『地獄へ道づれ』、『夜の天使』が収録されている。→Disco.Deacon(ザ・ゲーム 『僕らはスタジオの新しいテクノロジーは何でも試してみたかった。レコーディングの合間にも、そうした新しい機能をたくさん試してみた結果、シンセサイザーがとても気に入ったんだ。初期のムーグと比較すると、単に奇妙な音の効果を狙う以上に、格段に多くの機能が備わっていた。色々な音、演奏を機械に写し取り、ボタンを押しさえすれば、その音がすぐにもシンセサイザーで再生できた。最高に面白かったよ』(「果てしなき伝説」より)
8月12日 シングル『地獄へ道づれ』全米発売。チャート1位。(22日全英発売、チャート7位。9月25日日本発売)『この曲が生まれたのは、実際、僕がディスコ系のブラック・ミュージックが好きで、そういうのをやりたいと常々思っていたからなんだ』 →たまには雨も降るさ(栄冠の中には適度な諍い
11月18日 シングル『夜の天使』全米発売。チャート44位。(25日日本発売)
12月8日 第10作目にして初のサウンドトラック・アルバム「フラッシュ・ゴードン」全英発売。自作『フラッシュの処刑』、『森林惑星アーボリア』が収録されている。→Disco.Deacon(フラッシュ・ゴードン 『僕らは最初、全員で仕事に取り掛かっていたけれど、結局、どの曲を採用して、どこに入れるのかなんかを全部決めたのはブライアンだった』→たまには雨も降るさ(栄冠の中には適度な諍い
1981年.....30歳
1月30日 『地獄へ道づれ』が第8回アメリカン・ミュージック・アウォードのポップ/ロックの「フェイバリット・シングル」部門で賞を勝ち取り、ハリウッドでの授賞式にロジャーと出席。
2月12日 4度目の来日。2月18日まで東京5回公演。『僕にはジョンの他にもうひとつ名前があるんだ。ディスコ・ディーコンさ』→夜の天使(栄光の4人クイーン ミュージック・ライフ増刊号より
9月-10月 南米ツアー。『サン・パウロに着くと、現地で彼らの警備を担当するという人間を何人か紹介されたが、ジョンの担当者は「自分は過去に212人は殺しているから、立派に警護できる」と自己紹介してくれた』(「果てしなき伝説」より) 『2度も靴が当たったよ。しかも、後で靴がバラバラになって分からなくなると困ると思ったのか、ちゃんと靴ヒモで1足の靴を結び付けてあったんだ!!』 →夜の天使(MUSIC LIFE 82年12月号 ベネズエラでTV番組出演中
11月2日 第11作目にして初のベスト・アルバム「グレイテスト・ヒッツ」全英発売。→Disco.Deacon(グレイテスト・ヒッツ
1982年.....31歳
5月21日 第12作アルバム「ホット・スペース」全英発売。自作『バック・チャット』、初のフレディとの共作『クール・キャット』が収録されている。→Disco.Deacon(ホット・スペース 『個人的には、全く気に入っていない作品なんだ』 →夜の天使(VIVA ROCK 81年12月号
8月9日 シングル『バック・チャット』全英発売。チャート40位。(10月25日日本発売)
10月19日 5度目の来日。5都市6回公演。『ジョンはオーディオ・フェアを4時間も見学』→夜の天使(クイーンをまるかじり!
1983年.....32歳
友人のテニス・プレイヤー、ジョン・マッケンローやヴィタス・ゲルレイテスとセッションを楽しむ。
スコット・ゴーハム、サイモン・カーク、マーティン・チェンバース、ミック・ラルフスらとジャム・セッションし、そのうちの1曲『Picking Up Sounds』を「マン・フライデー・アンド・ジャイブ・ジュニア」の名でシングル・カット。→Disco.Deacon(ソロ・セッション
5月 イギリスのTV番組「ポップ・クイズ」に出演。
7月中旬 『フレディと僕は、「ホテル・ニュー・ハンプシャー」という映画を撮っているトニー・リチャードソンに会いにモントリオールへ行ったよ。「ガープの世界」を書いたジョン・アーヴィングの同名小説をベースにしている映画なんだ。目下フレディが作曲中だから、多分今年の終わりにはレコーディングできるんじゃないかな』(OIQFC会報より抜粋)(*最終的には断念。クイーンのアルバム製作に力を注ぐことになる)
8月 全米の発売元エレクトラとの契約を破棄、キャピトルに変更。『ジョンはそのことで僕らが大金を浪費することを心配していたが、レコーディングの合間にジム・ビーチが代理人になってエレクトラと話し合いをした結果、約100万ドルを支払って契約を破棄することが決定した』(ブライアン/「果てしなき伝説」より)
12月13日 第4子 ジョシュア誕生。
1984年.....33歳
2月27日 第13作アルバム「ザ・ワークス」全英発売。自作『ブレイク・フリー(自由への旅立ち)』が収録されている。→Disco.Deacon(ザ・ワークス 『「ワークス」は、作り上げるのが、すごく難しかったんだ、正直言うとね…。』 →夜の天使(MUSIC LIFE 85年8月号
3月25日 ロジャーと2人で、新作のプロモーションのため来日。5日間にわたりインタビューやTV出演(「笑っていいとも!」など )をこなす。→夜の天使(1984年→たまには雨も降るさ(Rock Show84→マイナー地獄へ道連れ(Hard Work, Hard Holidayの巻 お散歩中
4月2日 シングル『ブレイク・フリー(自由への旅立ち)』全英発売。チャート3位。(13日全米発売、チャート45位。6月1日日本発売)
6月25日 ロジャーのソロ第2作アルバム「ストレンジ・フロンティアー」全英発売。クレジット表記はないが、『イッツ・アン・イリュージョン(It's An Illusion)』でベースを演奏。更に、日本未発売7インチシングル『Strange Frontier / I Cry For You』のB面のリミックスを担当している。
10月5日 南アフリカ公演開始。サンシティにて10月20日まで7回公演。『僕らはすごくノンポリなバンドなんだ。政治がらみのことには極力首を突っ込まないようにしてる。望まれてるところへならどこへだって行くさ…』 →たまには雨も降るさ(ウンザリ? ユウウツ? サビシイ? 元気出せよ!
ケヴィン・エアーズのバンドでキーボード担当だったヘンリー・クラランから、ロンドン・イースト・エンド地区にあるレコーディング・スタジオの共同経営を誘われ、承諾。翌年春から運営を開始。(現在は手を引いている)→Deaky Weekly(vol.15
1985年.....34歳
1月 ブラジルで開催された「ロック・イン・リオ」に出演、12日と19日の2日間メイン・アクトを務める。『まず初日のことなんだけれど、僕たち、ひどい目にあったんだ』 →夜の天使(MUSIC LIFE 85年8月号
フィル・コリンズのコンサートに出掛け、飲んで帰る道中、スピード違反で警官に止められる。150ポンドの罰金および1年間の免許停止処分を言い渡され、買ったばかりの白のポルシェを売り飛ばす羽目に。→たまには雨も降るさ(Did You Know?
4月29日 フレディのソロ初アルバム「Mr. バッド・ガイ」全英発売。『 "メイド・イン・ヘヴン" はいい曲だね』→夜の天使(MUSIC LIFE 85年8月号
5月7日 6度目、最後の来日。3都市5回公演。
7月13日 ロンドンのウェンブリー・スタジアムで「ライヴ・エイド」に出演。『ライブ・エイドは僕達の世界をひっくり返してしまった』 →たまには雨も降るさ(Music Major 熱演中
9月上旬 エルトン・ジョンのレコーディング・スタジオをロジャーと2人で訪れ、『トゥー・ヤング』、『アンジェリーヌ』の2曲に参加。→Disco.Deacon(ソロ・セッション
11月5日 ボブ・ゲルドフ主催のファッション・エイド(フレディがモデルとしてパフォーマンスを披露)の楽屋に出現。→Deaky Weekly(vol.15
12月5日 リマスターされたすべてのアルバムとアルバム未収録曲を集めたボックス・セット「The Complete Works」発売。『バンドの人気が定着している国に印をつけた世界地図が同封されていたが、ジョンはこのアイデアを嫌っていた。まるでクイーンがそれらの国々を支配したように見えるのが気に入らなかったのだ』(「果てしなき伝説」より)
12月31日 TV番組「世界紅白歌合戦」に出演。→Deaky Weekly(vol.33vol.34vol.48
1986年.....35歳
2月 ホット・チョコレートのシンガーだったE・ブラウンと『This Is Your Time』という曲を共作、ベースを演奏したが、2001年現在、未だリリースされていない。『ホット・チョコレートに曲を書いたんだよ。もう一度レコーディングし直すって言ってたから、発売は先になるけどね。ホット・チョコレートとして出すか、エバ・ブラウン(ホット・チョコレートの一員)+ジョン・ディーコンで出すか決まってないし』 →夜の天使(IN Rock86年5月
5月19日 映画「Biggles」のサントラ製作用に、ロバート・オーワイ、レニー・ザカテックと結成したThe Immortals名義のソロ・シングル『No Turning Back』全英発売。チャート入りせず。→Disco.Deacon(ソロ・セッション→マイナー地獄へ道連れ(ビグルス考・器用貧乏な男たち
6月2日 第14作アルバム「カインド・オブ・マジック」全英発売。自作『愛ある日々』、フレディとの共作『喜びへの道』、『心の絆』が収録されている。→Disco.Deacon(カインド・オブ・マジック 『永久に続く、という感じがしたね。本当に長い時間かかった』→夜の天使(POP GEAR 86年7月号
6月9日 シングル『心の絆』(フレディとの共作)全英発売。チャート14位。 『この曲と『喜びへの道』のクレジットは、フレディが貢献したことをはっきりさせて、皆に認めてもらいたいとジョン・ディーコンが主張したからこうなった。正直で誠実なジョンは、そうしないと気が済まなかったようだ』(ピーター・フリーストーン/たまには雨も降るさ(Mister MercuryPV撮影時の一コマ
8月20日 シングル『喜びへの道』(フレディとの共作)全米でのみ発売。チャート入りせず。
12月1日 第15作アルバム「ライヴ・マジック」全英発売。
本田美奈子のアルバム「キャンセル」発売。ソロ曲『No Turning Back』が、日本語歌詞(秋元 康)付きで、『ルーレット』として収録されている。→Disco.Deacon(ソロ・セッション
1987年.....36歳
現ブライアン夫人であるアニタ・ドブソンのアルバム「Talking Of Love」発売。『I Dream Of Christmas』に参加している。→Disco.Deacon(ソロ・セッション
パロディ・ユニット、バッド・ニューズのアルバム「バッド・ニューズ」発売。『ボヘミアン・ラプソディ』でバック・コーラスを担当している。→Disco.Deacon(ソロ・セッション
1988年.....37歳
6月6日 ロンドン・ロイヤル・アルバート・ホールで開催されたプリンス・トラスト・コンサートにブライアンと共に参加、『あの娘のレター』でベースを演奏。→Disco.Deacon(ソロ・セッション ジョー・コッカー氏の後ろで熱演中
10月10日 フレディとモンセラ・カバリエのアルバム「バルセロナ」全英発売。『ハウ・キャン・アイ・ゴー・オン』に参加している。→Disco.Deacon(ソロ・セッション
12月4日 ロンドンで行われたザ・クロスのクリスマス・コンサートにブライアンと共に飛び入り参加。→Disco.Deacon(ソロ・セッション ブライアン&ロジャー、その彼女たちと記念撮影
1989年.....38歳
オーディションで選ばれた少年少女が歌う、英国骨髄バンク推進連合設立のためのチャリティ盤『リヴ・フォーエヴァー』(プロデュースはブライアン)発売。ロジャーと共に参加している。→Disco.Deacon(ソロ・セッション OIQFCより
5月22日 第16作アルバム「ザ・ミラクル」全英発売。→Disco.Deacon(ザ・ミラクル
アメリカのラップ・ユニット、モリス・マイナー・アンド・ザ・メイジャーズのシングル曲のPVに出演。→たまには雨も降るさ(QFC magazine Autumn '89→マイナー地獄へ道連れ(青いカツラでロケンロールの巻
2月18日 英国音楽業界に対する貢献と業績を称えられ、BPI賞を受賞。(ロンドン・ドミニオン・シアターにて)『今年の"Brits"見てくれた? 登場時間は短かったけれど、イギリスの音楽界への貢献をようやく認められて嬉しかったなあ』(OIQFC会報より抜粋)
1991年.....40歳
1月30日 第17作アルバム「イニュエンドウ」日本先行発売。(2月4日全英発売)→Disco.Deacon(イニュエンドウ 『この新作のレコーディングとミキシングで、唯一問題だったのは、「ベース・プレイヤー」の不在だった。ジョンは以前よりもさらに多くの時間をビアリッツで家族と共に過ごすようになっており、スタジオにあまり姿を見せなかったのだ』(「果てしなき伝説」より)
10月28日 第18作、2枚目のベスト・アルバム「グレイテスト・ヒッツ Vol.2」全英発売。→Disco.Deacon(グレイテスト・ヒッツ Vol.2
11月24日 フレディ、ロンドン・ケンジントンの自宅で死去。享年45歳。『僕はジョンに葬儀で会えたことが嬉しくて、彼に感謝の気持ちを伝えた』(ジム・ハットン/夜の天使(フレディ・マーキュリーと私
1992年.....41歳
4月20日 追悼コンサートに参加。『僕たちはみんな、彼がいなくなって寂しい』 (パンフレット巻頭言より/たまには雨も降るさ(The Freddie Mercury Tribute)『ジョンは相当つらそうだった』(トニー・アイオミ/The Definitive Biography→Deaky Weekly(vol.3
5月26日 第19作アルバム「クイーン・ライヴ!! ウェンブリー1986」全英発売。→Disco.Deacon(クイーン・ライヴ!! ウェンブリー1986
コージー・パウエルのソロ・アルバム「ザ・ドラムス・アー・バック」発売。『サムホエア・イン・タイム』にブライアンと共に参加している。
9月21日 ブライアンのソロ・アルバム「バック・トゥ・ザ・ライト −光にむかって−」発売。『ブルーな気持ち(Nothin' But Blue)』に参加している。
10月14日 ロンドン・ドーチェスター・ホテルで開催されたBMI-PRS授賞式にブライアン、ロジャーと共に出席。 授賞式の模様
12月5日 第5子 ルーク誕生。
1993年.....42歳
9月18日 ウエスト・サセックス州ミッドハーストのカウドレイ・パークで開催されたチャリティ・コンサートにロジャーと共に参加。→Deaky Weekly(vol.4たまには雨も降るさ(Cowdray Report
11月7日 第6子 キャメロン誕生。
「メイド・イン・ヘヴン」用のレコーディングをロジャーと共に開始。
1994年.....43歳
2月 『ロンドンまで乗っていきたいと思って、モーターバイク(125cc)を練習してるんだ。… 慣れたらもう少し大きめのバイクを買うつもりさ』(OIQFC 会報より抜粋) OIQFCより(多分)
1995年.....44歳
3月 『新作(注:「メイド・イン・ヘヴン」)のレコーディングとミキシングは順調に進んでいる。今年の終わりごろにはリリースできるんじゃないかな。この最後のアルバムには、さまざまな意見や感想が出て来るだろうね。僕たち3人ですら、意見がすごく分かれてしまって、まとめるのにかなり時間をとってしまったんだ! 容易じゃなかったよ。とにかく僕たちは出来る限りベストを尽くすつもりだ。出す価値があるアルバムだと思ってもらえることを願っているよ!!』(OIQFC 会報より抜粋)
7月1日 ロンドン、シェパーズ・ブッシュ・エンパイアで行われたSASバンドのライヴに参加(息子マイケルの当時のバンド「Baker」が前座で出演した模様)。『ジョンは夕方遅くに歩いて来て、群集からの素晴らしい反応にも気づかない様子で、非クイーンのソウル・ナンバーを何曲か演奏した。不可解なことに、彼は来たときと同じ位静かにその場を去ったのだった--バンドが「愛と言う名の欲望」を演奏する前に。30余りの他のバンドの中で、彼だけが、アンコールにも戻って来なかった』(Bassist & Bass Techniques, 1996) *from Guitarist.co.uk
11月6日 第20作アルバム「メイド・イン・ヘヴン」全英発売。→Disco.Deacon(メイド・イン・ヘヴン
1996年.....45歳
3月 『家で子供たちの世話に追われている。この冬は末っ子が耳の病気に罹っちゃって、大変だった。今はもう良くなってきたけどね。イギリスの冬は灰色でうんざりするほど長いんだ。春や夏が待ち遠しいよ』(OIQFC 会報より抜粋)
1997年.....46歳
1月17日 パリで行われたベジャール・バレエのプレミアでブライアン、ロジャー、エルトン・ジョンと共に『ショウ・マスト・ゴー・オン』を演奏。フランス文化相からAIDSチャリティの功績を称えられて表彰される。
2月 スパイク・エドニーのバンドのアルバム「SASバンド」発売。『ザッツ・ザ・ウェイ・ゴッド・プランド・イット』にロジャーと共に参加している。→Disco.Deacon(ソロ・セッション
3月 『ミュージカルの企画が進行中だ。あと数年かかるみたいだけどね。ディレクターとライターが、コンセプトや脚本を練っている。また何かあれば知らせるよ』(OIQFC会報より抜粋)
11月3日 ハード・ロック・ナンバーを集めた編集盤アルバム「クイーン・ロックス」全英発売。→Disco.Deacon(クイーン・ロックス 新曲『ノー・ワン・バット・ユー(オンリー・ザ・グッド・ダイ・ヤング)』のPVが彼の「最新」映像。(2001年12月現在) PV撮影時の一コマ
1998年.....47歳
5月 『新しいコンピュータ・ゲーム(注:The eYe)がもうすぐ発売される。コピーをもらってないから、どんなものなのかまだ言えないけど。うちのジョシュアがどう思うか興味あるなあ。彼がうちで一番コンピュータ・ゲームが好きなんだ。僕もちょっとばかりオタクになってきちゃってね、暇なときにはPCや Visual Basicやインターネットなんかを学んで過ごしている。今は音楽的なことは何もやっていないよ』(OIQFC会報より抜粋)
1999年.....48歳
4月 『ゆうべVH1のKing and Queen Dayで"We Will Rock You"を見て、当時、君達に楽しんでもらえるようにといかに僕達が一生懸命働いてきたのかを思い出したよ。あれはまだキーボード奏者がいなくて、僕達4人だけで沢山の照明の力も借りてフルサウンドを生み出してた時代だった。あんなにスリムで健康そうなフレディが見られて嬉しかったなあ。それに短パン一丁になってたし!18年も前の映像だから、みんなすごく若く見えるよねえ!』(OIQFC会報より抜粋。これ以降の彼のメッセージは掲載されていない)
11月8日 ベスト・アルバム3部作の完結編「グレイテスト・ヒッツIII〜フレディ・マーキュリーに捧ぐ〜」全英発売。→Disco.Deacon(グレイテスト・ヒッツIII
6月28日 日本国内のCMや映画で使用された曲を集めた編集盤「クイーン・イン・ビジョン」日本でのみ発売。→Disco.Deacon(イン・ビジョン
7月 ハイド・パークで9日に開催されるプリンス・トラスト2000(ロジャーとブライアンは5iveと共に出演)のバック・ステージに現れるという情報があったが、結局姿を見せず。→Deaky Weekly(vol.25vol.26
11月2日 ブライアンとアニタの結婚式(ロジャーは花婿介添人を務めた)、欠席。→Deaky Weekly(vol.45
2001年.....50歳
3月19日 ロックの殿堂入り受賞式、欠席。 →Deaky Weekly(vol.61
4月 ブライアン、ロジャーとロビー・ウィリアムスが共作した件ついてのコメントが、タブロイド紙に掲載される。『関わり合いになりたくなかった。それで良かったと思っているよ』 →たまには雨も降るさ(QUEEN'S JOHN IN BLAST AT SINGER
6月 オークションに出されていたエルトン・ジョンの車のうち、一台を落札した模様。→Deaky Weekly(vol.73『見に来ただけだから、ノーコメントさ』→Deaky Weekly(vol.86
2002年.....51歳
4月15日 ミュージカル「We Will Rock You」のワールド・プレミア打ち上げパーティーで目撃される。→Deaky Weekly(vol.122vol.136-137
4月30日 オランダのQueen's Dayに開催されたポップコンサートにブライアン&ロジャーが出演、45分余りのライヴの中で『地獄へ道づれ』を演奏。 →Deaky Weekly(vol.120
6月3日 バッキンガム宮殿で行われた女王陛下在位50周年記念コンサート(Party at the Palace)、不参加。→Deaky Weekly(vol.125
7月7日 ハイド・パークで行われたパーティ・イン・ザ・パークをヴェロニカ夫人と楽しんだ模様。→Deaky Weekly(vol.132
10月28日 ウォーク・オブ・フェイムのセレモニー、欠席。→Deaky Weekly(vol.144
11月6日 「クイーン・シンフォニー」のプレミア、ロイター通信等で出席予定情報が流れるも欠席。→Deaky Weekly(vol.147
2003年.....52歳
3月 「我々にくれた手紙には、『君たちがたとえ何をしようが、全面的に支持する。後ろで心からのサポートを送るよ。けれど僕はかかわりたいとは思っていないから』ってなことが書いてあった」(ミュージカル「We Will Rock You」のオーストラリア公演に関するプレス・カンファレンスの後で行われたインタビューの中のロジャーの言葉) →Deaky Weekly(vol.165
6月18日 ミュージカル「We Will Rock You」1周年記念イベント、不参加。→Deaky Weekly(vol.179
9月 映画「Biggles」のDVD、ジョン(イモータルズ)の『No Turning Back』PVつきで発売(本国のみ)。→Deaky Weekly(vol.204, vol.206
11月29日 南アフリカ前大統領のネルソン・マンデラ氏が呼びかけたエイズ対策の基金集めコンサート「46664プロジェクト・コンサート」にロジャーとブライアンが参加、『ブレイク・フリー』などを演奏。 「しばらくの間クイーンの活動に関わりたくないというのが、ジョンが全面的に下した決断なんだ」(ジョンはこのプロジェクトに参加しているのかとの問いに対するブライアンの答え)→Deaky Weekly(vol.201:英語版, vol.202
2004年.....53歳
4月〜5月 スペイン・ランサローテにてバカンス中に目撃される。→Deaky Weekly(vol.226, vol.261, vol.269
7月 「実際のところ、ジョンは事実上引退してるんだ。・・・」(WWRY関係でラスベガス入りした際のラジオ・インタビューの中のロジャーの言葉) →Deaky Weekly(vol.233
11月 「また一緒にやってくれりゃあ願ったり叶ったりだがね。なにしろひどく控えめで内気なヤツだから、今のところは放っておいて欲しいんだろうさ」(ドイツでのインタビューの中のロジャーの言葉)
11月11日 イギリスで新設された、一般人が選ぶロックの殿堂の70年代の部で殿堂入りを果たす。セレモニーでブライアンとロジャーはポール・ロジャースらとWWRYを演奏するが、ジョンは欠席。
2005年.....54歳
1月26日 アルバム版『ブレイク・フリー』が収録された「ジュエルズII」発売。→Deaky Weekly(vol.263
2月 「(Q+Pツアーに関して)彼がもし僕らと一緒にやってくれれば、ずいぶん素晴しいことになっただろうね。だが彼は引退の道を選んだ。だからこればっかりは僕らにはどうしようもないんだよ。ジョンは音楽業界から程遠いところで人生を謳歌しているけれども、もちろん彼はいつも僕らの心の中にいるよ、フレディ同様にね!」(オーストリアの雑誌に載ったブライアンの言葉)→Deaky Weekly(vol.268
6月 海外コミュニティ・サイトに突然"出現"。 →Deaky Weekly(vol.281vol.283
7月5日 「ジョンは表に出たり、社交上の付き合いをしたりが苦手な「サイレント・パートナー」(業務を担当しない社員の意味)だから、ツアーも出たがらなかった。引退しちまったのさ。でもツアーには賛成してくれているし、まだ小切手だって受け取ってるよ」(公開ラジオ・インタビューの中でのロジャーの言葉)→Deaky Weekly(vol.287
9月 当サイトのバースディ・メッセージ・ボードにコメント寄稿(HNは「jrd」。No.119など)。 →Deaky Weekly(vol.294
9月 「僕は彼の(ツアーに参加しないという)決断を心から尊重しているよ。思うに、フレディの死がジョンにとってどんなに辛いものだったのかを理解している人はあまりいないんじゃないかな…」(フレディのアシスタントだったフィービーの言葉)→Deaky Weekly(vol.295
10月26日 Q+P日本ツアー開始。ベースはダニー・ミランダ氏。 →Deaky Weekly(vol.302

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